タイム・アフター・タイムⅡ
収集したデータはひとまず自宅で取りまとめ、くわしい検証を翌日以降に持ちこす予定なので今回は研究所にもどる必要がない、というヒカリちゃんのそばで調査が終わるのを待ち、そのまま食事に出かけたのが、たしかはじめの一回だったはずだ。
それからおなじような機会をかさねるうちに、こちらにも仕事があるので頻繁にというのでもなかったが、あたしがヒカリちゃんの実地調査についていくこと自体は、ふたりのあいだでさほどめずらしくもなくなった。
畑ちがいとはいえフィールドワークそのものにはそれなりになれているから、じゃまにならない立ちふるまいは心えている。べつに待つのも苦ではなかったのだけれど、彼女はただ待たせるのに気がとがめたのだろう、しだいに観察用の目印にピンを刺す手伝いや気象状況の記録なんかの、だれがやるのでもさしさわりない、ごくかんたんな作業をたのんでくるようになった。あたしが「共同研究ね」などととぼけると、「そうですね、リーグとナナカマド研究所の」とうそぶいた言葉をかえして笑った。
その日もそんなふうに、ソノオタウンの花畑をおとずれたヒカリちゃんのとなりに、あたしはいた。
数日間をまたいでおこなっていた調査の最終日なのだという。なれた口ぶりで、「データを取りおわったら自由にしていいと言われているので、いつもみたいにそのままお茶でもしに行きませんか」とさそわれ、一も二もなくうなずいてしまってからあわててスケジュールを確認し、さいわい空いていたのでひそかに胸をなでおろした。ちかごろ『共同研究』のさそいがあるときは、毎回こうだった。
ヒカリちゃんが花畑に足を踏みいれ、バインダーだけを取りだしたバッグを手近な木陰に置いてすぐ、それを見とめたらしい一匹のチェリンボが、咲きみだれる花々のなかを一目散に駆けよってくる。むかえるようにひざをつき、バインダーをわきにはさんで葉をなでてやるようすがずいぶん親密そうだったので訊ねてみると、この期間にあくまでも調査対象として出会ったのだが、接するあいだにすっかり親交をふかめたということだった。
結果につながるとも知れない調査や実験にも、根をあげず打ちこむねばりづよさ。瞬時に的確な状況認識をおこなう判断力——研究者、そしてトレーナーにもとめられる各種の素養を彼女はいずれも、もちろん恋人としてのひいき目を抜きにして、たかい水準で持ちあわせている、とあたしは思う。
そのなかでも抜きんでて感じられるのが、ポケモンとしたしくなる能力だった。調査についていくようになり、それにともないパートナーではないポケモンと接する彼女を見る機会がふえて、つよく実感したことだ。彼女が初対面のポケモンの警戒心をほどき、心をひらかせ打ちとけるはやさは特筆に値し、能力や技能とあらわすよりむしろ、才能と呼ぶべきではないかと思われた。
いつのまにかバインダーも放りだしてチェリンボとたわむれていたヒカリちゃんが、ふいに唇に指をそえてうつむき、思案顔をする。
「どうかした?」
「うーん。この調査では、木に塗った蜜に呼びよせられるポケモンの種類と、蜜の生産地の因果関係を調べていて」
「好み、っていう理解で合ってるかしら」
「ばっちりです。好み。そう、好みを調べてる、のですけど。最近お天気のいい日がつづいてたからかな、この子のここ」
ヒカリちゃんは言いながら、チェリンボの背後でゆれているまるい実のような部分を指さした。進化にそなえて栄養をたくわえるのだというその部分は、顔なじみではないあたしの目からも、よく熟れて張りつめているのがうかがえた。
「ここもそうだし、全体的に体格もおおきくなっていて、どうやらもうすぐ進化しそうなのです。進化直前の体長をはかれる機会は貴重ですし、できるだけのがしたくないのですが」
「計測機器、持ってきてないわけね」
「そうなんです。あーあ、失敗しちゃったな」
一瞬考えこみ、ここしかない、と判断した。
チェリンボをひとなでして心底残念そうにふかいため息をつく彼女へ、提案を口にする。はやすぎずおそすぎない、さもいましがた思いついたようなさりげない語勢を意識しながら。
「一時的にボールにはいってもらって、図鑑に登録したらどう? だいぶ信頼関係もできてるみたいだし、わかってもらえるんじゃない」
ヒカリちゃんが顔をあげて瞳をまたたかせ、そのまま沈黙したので、胸のうちにどこからかひややかなものがさしこまれるのを感じた。
説得力を持たせようとしすぎて、話はこびにぎこちない部分があっただろうか。調査の一環でポケモンを捕獲することはめずらしくないが、基本的に自分のパートナーとはしない。ただ人間のにおいがしっかりとついたポケモンは野生へなじむのもむずかしいため、トレーナースクールや旅に出る初心者のために提供するのだと、そう聞いていた。そんな話もふまえてむりのない理由を考えたつもりだったが、やはり唐突にすぎただろうか。
「ほら」
うしろめたい部分がおおきいだけに、これもまた言いつくろうように聞こえるのかもしれない、と不安をおぼえながらつけくわえる。「すこしのあいだなら、においもあまりつかないでしょ」
するとヒカリちゃんは、まっすぐあたしを見あげたまま「その手がありました」と言い、握った片手でもう片方の手のひらをぽんと打った。どうやらあたしが冷や汗をかいた沈黙は、提案を頭のなかで噛みくだくためのプロセスだったらしい。
うまくいったということはつまり、退路が完全に断たれたという意味でもある。あとはもう、やるしかない。
それでどうやって意思の疎通がとれるのかよくわからないが、とにかく身ぶり手ぶりをまじえ、人間と会話するようにチェリンボに語りかけはじめたヒカリちゃんの背後へ、そっとまわりこむ。
ハンドバッグの留め具をはずしてなかに手をいれると、球形の金属が爪先にふれた。表面をなでて、数ミリ突起したボタンが指にかかる位置と角度までころがす。球体を握ってバッグの底から浮かせたところで、話をつけたらしい彼女がにこにこと振りかえった。
「よかったです、協力してくれるみたい」
無言でうなずくあたしの表情はいささかこわばっていたはずだが、見たものを不審がらせるほどあからさまでもなかったようで、彼女はそれだけ言うとチェリンボへ向きなおった。おそらく木陰に置いたままの荷物のもとへボールを取りにいこうとしたのだろう、わずかに持ちあがった肩をバッグにいれていないほうの手で制して、「ボールならあるから使って」とつげる。
「わあ、いたれりつくせり。ありがとうございます」
ふくむものを感じさせない、すなおにうれしそうな声音とともに、ヒカリちゃんはあたしの足に背中をあずけてもたれかかった。
ふたりだけでいるからこそ見せる気やすいしぐさが、おもたいともいえないはずのささやかな体重が、のしかかるような圧力を感じさせ、喉から水分までもうばっていく気がした。自分がこういうことに向いていないのをひしひしと実感する。けれど一度やると決めてしまったこと、話して理解を得られないとも感じないこと、それから最後に彼女のことを考えると、踏みとどまってきびすをかえす気持ちはおきなかった。
指をかけていたボタンを押しこむ。『球体』から捕獲機能の開放された『ボール』に変じたもので、彼女の利き手とは反対側の肩をこづいて合図する。ヒカリちゃんは利き手を肩にまわしてボールを受けとり、自分の足のうえへのせながら、姿勢をひくくしてチェリンボに目線をちかづけた。
「ありがとう。それじゃあちょっとのあいだだけ、おねがいします」
彼女がチェリンボと目を合わせたままななめ上方にかるくほうったボールは、放物線をいくらもたどらないうちにかがやきだしてはじけた。拡散した青白い光帯がチェリンボに向かってのびていき、桃色のからだを飲みこむようにしておなじ色に発光させる。光は草のうえで、チェリンボの体躯よりさらにひとまわりちいさな球形に収束すると、一度だけ横にゆれてからぴたりと静止した。
一秒経ち、二秒が経ち、発光がすこしずつよわまっていく。
「……え、え?」
ヒカリちゃんが気の抜けた声を発し、ボールを持ちあげようとのばした手を中空でとどめる。ぱっと振りむいた顔に浮かぶ表情は、驚愕よりも困惑がまさっていた。
「……あとで、説明させて」
安心なのか気づかれなのか、出どころのあいまいなため息にのせて言葉を吐きだす。言いおえるのと同時に、ボールが一度光をはなった。ボタンの円周や継ぎ目、つややかに日差しをはねかえす表面へ青白い光をはしらせ、一瞬だけ緻密な回路を浮かびあがらせたそれは、ボールがみずからの役目をまっとうしてほこらしく眠りにつく前の、最後のきらめきのようにも見えた。
——意外とふつう。
このタイミングでそんな言いようを思いだして、スズナに同意する。まったくそのとおりだ。ボタンの感触、機能が作用するまでの工程。なにもかもふつうだった。かわったところはひとつもない。
紫の塗装に濃い桃色のパーツを持ったボールは、そうしてその身にあたえられた最高峰の機能をあっけなくつかいはたし、沈黙したのだった。
*
すこし距離をおいたところでチェリンボが一度振りかえり、やわらかい調子の鳴き声をあげる。彼女のように語りかけて意思の疎通をとるのはむずかしそうでも、それがふかいしたしみのこもったわかれのあいさつだということはよくわかった。
ヒカリちゃんは緑の絨毯のうえを駆けてちいさくなっていく影に向け、手を振りながら何歩か前に出た。生いしげる草花のなかに落ちてうずもれたものへ目を落とし、そのままひろいあげるかと思ったものの、かがみこまずに振りむいた。
唇をぎゅっと引きむすんだ表情に気おされて、おずおずと言う。
「ええと。たいへん申しわけないとは、思ってます」
「シロナさん」
「……はい」
「『申しわけなく思ってる』って、つまり実質あやまってないということですけど。まさかそれだけで終わらせるつもりじゃあ、ありませんよね」
「う」
「なんちゃって。べつに怒ってはいません。でもびっくりしたから、そのぶんだけ、しかえしです」
数秒前までの迫真の表情がうそのようにあっけらかんとおどけて、ひらひらと指を振ってみせる恋人に、あたしはというと白旗でも振りたい気分だった。あいにくこの場にそんなものはないので、かわりに両脇で持ちあげた手のひらを彼女に向けて、降参のポーズをとる。
「まったくもって言うとおりだと思うわ。まずは、ごめん。ごめんなさい、勝手に持ちだして。それから」
「怒ってませんってばあ。それから?」
「……だますみたいに。むりやりつかわせて」
「そんなの」
ちょうど言葉の切れ目だ。だからタイミングとしてどうというのではなく、やりとりとしてもさほどの不自然さはなかった。けれどおだやかながらどことなく硬質な声音は、あたしにうっすらと、言葉をさえぎられたのだという印象をあたえた。
「……ずっとつかわないでおくほうがおかしいし、もったいないのだから、かえってよかったのです」
ひと呼吸をおいて言いおえるころには、そんな印象も影をひそめる。ヒカリちゃんは眉をさげてこまったように笑うと、あたしに背を向け、こんどこそ腰をかがめて草花のなかからひろいあげた。ただ一度きりの百パーセントのために精緻な調整をくわえられながらも、いまはその機能をとこしえにうしない、ただのがらんどうな金属になったマスターボールを。
あたしは腕と視線をおろし、淡々とつづく彼女の声をうつむき加減に聞いた。
「でもそれはそれとして、どうしてなにも言わないで、わたしにこれをつかわせようとしたのですか」
ああ、彼女は知らないのだ。
あたしが三分前までボールだったもののたどった、数奇な道すじにおぼえのあること。
たったひとつだけゆくえの知れなかったマスターボールと彼女がつながった瞬間、あたしの胸のなかにわきおこった感情。
彼女はそれを知らない。
だからあたしの行動は、さぞかし奇異なものに見えただろう。
顔をあげると、射角をかえた日差しが彼女の肩ごしにまっすぐ飛びこんで視界を白く染めた。暴力的なまぶしさは視覚を遮断してやりすごすまでもなく、一瞬で引いていく。
そうしてあらわれる光景をいつか、どこかで目にした。
すこしずつ色を取りもどしていく世界。
なににも寄りかからず、天から定規で線を引いたようにまっすぐ立つ、彼女の背中。
あたしはそれを知っている。
思いながら、目をとじた。
ふせたまぶたの裏側に、まぼろしか、あるいは白昼夢を見る。
草花の香りがとおのき、潮の香りを濃くふくんだなまぬるい風に頬をなでられて、こどものニューラが別荘にやってきた日の砂浜に立っている。バケツをつかって造設し、シャベルで装飾をほどこした砂の城が、たまにあたしたちの足元まで到達する波にあらわれてくずれ、城なのだか山なのだかよくわからないかたまりになりはてていた。
「ほんと、よかったな」
砂のかたまりのそばにしゃがみこんだスズナが、寄せてくる波から逃げ、かえす波を追いかけてしめった砂のうえを駆けまわっているニューラに向けて、おだやかに目をほそめる。
「ここにつれてきたのはね、ふたりにあそんでほしかったのも、もちろんあるんだけど。いちばんは、この子に海を見せてあげたかったんだよね。……まあキッサキにも海はあるけどさ、あそこは海っていうか」
「港ね」
「港、ですねえ」
「でしょー? だからこの子に最初に見せるのは、砂浜がひろくてきれいで、あそべる海がよかったんだ。そういうたのしいところが海なんだよって、おしえたかった。知ってもらいたかったの」
スズナはそこで数秒押しだまってから、照れたように笑って頬を指でかいた。
「なんて。ちょっとかっこつけすぎた?」
首を横に振り、「すごくすてきです」とほほえむヒカリちゃんのかたわらで、つかれはしないのだろうか、かたときも静止しないうごきによって瞬間ごとに全身の色を藍鉄や青緑へかえるニューラを、あたしは見つめている。
光をはじくゆたかな毛づやとすこやかな精神を持ったこどもはふいにあたしたちのほうを見て、深呼吸のしぐさで胸をそらせた。口をすぼめて吹いた息の先端で空気にうすく張った膜が、紙をまるめるようにくしゃりと結晶化する。
こおり、とヒカリちゃんが、わあ、とスズナが声をあげた。しかしニューラの生みだした綿菓子のようにあわい氷は、いくらのあいだもかたちを保っていられず、あ、と思ったときには溶けるよりもはやく、砂が風に舞いちらされるようにほどけてしまう。
「はじめて出せた!」
ほとんど飛びはねるように立ちあがり、そのいきおいのままニューラに駆けよって抱きあげるスズナは、きっと自分のパートナーがはじめてバトルに勝ったときも、そうしてよろこびをあらわしたのだろう。そんな想像があたしをほほえましい気分にさせた。
「まだまだ特訓が必要だけど、まずは第一歩!」
スズナが寄せる波を気にもとめず、ちいさなポケモンを頭よりもたかくかかげたまま波うちぎわでくるくると回るので、腰に巻いたカーディガンの袖がそれに沿ってやわらかなベージュの弧をえがき、足元では水しぶきがおおぶりのミルク・クラウンのようにはじけては消えた。彼女がよろこんでいるようすに触発されて、ニューラも明るい鳴き声をあげながらまた何度か氷をつくりだす。氷は生まれるたびやはりすぐにほどけて、ときおり空気中に色のない粒子を振りまいた。
あたしが歩みよろうとするのに一瞬だけ先んじて、ヒカリちゃんの背中が前へ出る。何歩もない距離をすぐにつめると、スズナの胸元にいだかれたちいさな頭部をなでて「よかったね」と笑いかけた。ニューラはこたえるようにみゃあと鳴いた。
この先も抱きしめられ頬を寄せられなでられ、ときには傷ついたり傷つけたりしながら、それでも広大でうつくしい海をおしえたいと言ったスズナの手によって、すこやかにはぐくまれていくのだろういきもののあげる柔和な鳴き声は、幸福や希望をよりあわせたようなかがやかしい波長で、あたしの鼓膜をゆらす。
たぶんその瞬間だった。
一度はウォークイン・クローゼットのてきとうな場所へしまいこんだ、スズナの言うところの『意外とふつう』なボールのイメージをもう一度、心のなかで握りしめたのは。
あれをどうにか彼女につかわせよう、つかわせなければならないと、ほとんど義務感じみて身勝手なつよさで決意し、手段を逆算しはじめたのは。
防風林におおいかくされて屋根しか見えない別荘を見やってから、あたしはなにかそれらしい理由をつげて砂浜をはなれるために、波うちぎわのふたりと一匹へ向きなおる。
そのとき、そうしたときにはすでに、白昼夢は景色を一変させている。白い砂浜を、凪いだホライズン・ブルーの海を、くずれた砂の城をあとかたもなく呑んでどろりと立ちこめる影の先に、ひとりの男がいる。顔かたちは影のせいもあってかあいまいなのに、面倒くささとひややかな怒りのないまぜになった表情をしていることだけ、はっきりと理解できるのが奇妙だった。
面と向かって会話する機会は一度しかなかった、そんな相手の顔を仔細に思いかえすには、あまりにも年月が経ちすぎている。それはまぎれもなく事実のいち側面をとらえた理由であるものの、しかしあたしはたとえ当時まで時間を巻きもどしたところで、そもそもこの場面の細部を思いだすことはできないのだ。男の顔どころか、過去のあたしがなにかを言い男がそれにこたえる、ほとんど母音と抑揚程度しか聞きとれないとおさですすんでいくやりとりが、はたしてどんな文脈でおこなわれたものだったのかさえ、どうにも判然としない。
たしかな点があるとすれば。
考えて、あたしは追憶のなか、数歩と距離をおかず立っているだろうヒカリちゃんへ目を向ける。
いまより数年ぶん線のほそくたよりない肩が正面を向いているから、まっすぐ前を見ているのだとどうにかつかめるだけで、数年ぶんおさないはずの顔にかかった影が、その細部をとらえさせなかった。
当時のあたしたちはおそらくおたがいに、自分たちが恋人になるとは予想さえしておらず、この時点であたしのなかにある感情もまた、なにがしかの萌芽と自覚できないほどささやかなものでしかない。それでも彼女と正面の男と、条件がおなじであるはずがなかった。
けれど現に、当時ここにいた彼女の顔を、表情を、あたしは思いだせない。
このとき見ていないものを、かすかにでも思いだしようがないからだ。
ぶあついガラスごしに聞くような応酬はなおもとおくつづいていたが、やがて男がうんざりしたように、くたびれたように、焦れたように、あらゆる拒絶のこもったしぐさで腕を振った。
終わりだった。
きびすをかえした背中が影のなかへ去る、それで白昼夢は、決定的な終わりのきざしを見せる。くらい世界にかろうじて浮かんでいたいくつかの色がにじみ、溶けだし、どろりとよどんだひとつの奔流になって、なにもかもがかたちをなくしていく。
あたしはくずれていくまぼろしのなか、腕を持ちあげて前へのばす。
きっともう、二度と手のとどかない背中へ。
永遠につづくような夢を見ていた感覚で、けれどそれは一瞬の、実際、時間にすればまばたきのあいだのことでしかない。
そうしなければならないのを思いだし、怠惰に息を吸った。
「質問を質問でかえしてわるいけど。どうしていままでつかわなかったの?」
「……わたしのパートナーはもう、あの子たちだけです。あたらしい子をつかまえる必要、ありませんから」
「ならどうしてずっと、しまったままにしておいたの」
ヒカリちゃんは「それは」とだけ言って言葉を切った。
だれかにゆずりわたしてもよかったはずだという含意を内包して、どこか詰問じみたものいいになったのを反省しながら、あとにつづく理由を想像する。マスターボールをつかわない理由。つかわないままとっておく理由。あげつらねたものはどれも暗闇へ消えた男の背中につながり、あたしに鮮明なにがにがしさを噛みしめさせる。
まぶたの裏に追想したあの日、テンガン山の頂上に門戸をひらいた世界のもういち側面へ足を踏みいれ、男を追ったこと自体に悔いはない。そうすべきことをそうすべきように実行しただけでしかないから、ヒカリちゃんに頭をなでられてこどものニューラがあげた鳴き声を——あの男をとめなければその先でうしなわれ、耳にすることのなかっただろう愛くるしい鳴き声を聞いても、未来を守ったなどというおごった感慨はわきおこらなかった。
ただ、彼女のなかであの日のできごとがどう処理されたのかを、あたしは知らない。あたしたちがあの日見たものを話題にしたことは、一度もない。あの日からずいぶんかたちをかえた関係とすぎていく日々に押しながされ、ほとんどかえりみることさえなかった。先日、彼女のクローゼットへ足を踏みいれるまでは。
あのころ、大人にまもられているだけでもいい立場だったはずの彼女が、みずからテンガン山をのぼったのは。ジムをめぐる旅の最中、かれらによってそこなわれたものを数おおく目のあたりにしたはずの少女のなかに、あの男へ、ギンガ団の喉元へ、つきつけたいものがあったためではなかったか。
あたしは彼女を飛びこえてあの男と応酬をかわし、拒絶と決裂のすえに影のむこうへ去らせたことによって、彼女がたずさえたものを消化する機会を、永久にうしなわせたのではないか。
過去を引きつれてすがたをあらわしたマスターボールは、ながれる日々にかまけて目をそむけていたのかもしれないものをつぎつぎに掘りおこし、そして知らしめた。とうに終わったのだと考えていたあの日は、あくまでもあたしのなかで処理されただけにすぎないことを。二度と戻れない場所にひとつだけ置きさられ、年月を経てわずかに色あせはしてもけっして消えずにのこりつづける未消化の感情が、あの男からゆずりうけたはずのボールとともに、いまだ彼女のもとにある可能性を。
ニューラの鳴き声を聞いた瞬間。あたしに過去への感慨をなんらいだかせなかった愛くるしい声を、彼女は消化できないものをどこかにかかえたまま聞くのだろうか、そう考え、喉元をひややかなものが落ちていった瞬間。
いまとなりにいる恋人としてのあたしか、あのころ彼女を見ていた大人としてのあたしか、どちらがのぞむのか判断をつけるだけの材料は、もう思いだせない男の顔と同様、あまりにもとおくにある。だが、どちらにせよ彼女にそんなものを持ったままでいてほしくないと、つよく願った。
だから身勝手でも、唐突でも、むりやりにでも、彼女にマスターボールをつかわせてしまいたかったのだ。あの日あたしが飲みこませてしまった言葉を、彼女の口から聞けるのではないかと——かつてあたしが彼女をかえりみなかった事実はとりかえしようがなくとも、いまのあたしたちに、たとえばそれを吐露したところでやぶれてほころぶようなもろさはないはずだと、考えたから。
「つかいたく、なかったのです。でもだれかにあげるわけにも、捨ててしまうわけにもいかない」
「もらったものだから」
「そうです。だからずっと、持ったままにしていました。ごめんなさい、気をわるくしますよね。せっかくくれたのに」
「……くれた?」
「変な言いかたでした? ああ、シロナさんからというより、リーグでもらったものだからですか。わたしが殿堂いりしたときに」
「え」
「え?」
あからさまに虚をつかれた声をあげるあたしを、彼女がおなじ音にちがうイントネーションをのせて振りかえる。しばらくおたがい「え」のかたちに口をひらいたまま見つめあっていたが、ふとわれにかえり、指のはらでこめかみを何度かかるくたたいた。
実はあたしがみずからヒカリちゃんにわたした、ないし彼女の言うとおりにリーグから彼女へ殿堂いりの賞品として贈呈されたのを、忘れている。もちろんそんなわけはない。
彼女がなにかをかくそうという意図から、事実とはことなることを口にしている。これは仮説として成立すらしない前述の可能性よりもよほど現実的だが、あたし自身がリーグの当事者である以上、それを引きあいに出してしまってはたちまち前者同様になりたたなくなってしまう。
もうひとつがにわかに浮上したかと思うと、またたく間に可能性から事実へ転身をとげる。
彼女がいたって真剣に、そうかんちがいしている。そんなもうひとつが。
「マスターボールはシリアルナンバーを振ってリーグで管理してるけど、それだけ。あたしが知ってるかぎり、リーグから直接賞品として出すようなことはないし、いままでもなかったはず」
「え、あれ、でも。それじゃあわたし、どこからこれをもらって」
「あの。ほんとうにおぼえてなかったの? 冗談とかじゃなくて?」
ヒカリちゃんはおよがせた視線を最終的に足元へ落として、頬を赤らめながら「そんな冗談、言いません」ともごもごつぶやいた。
「シロナさん、いろいろあったしおぼえてなくてもしょうがないって言うから。きっとリーグからもらったんだ、って。それをクローゼットなんかにしまいっぱなしにしていたせいで気にしたんだって、思って」
笑っていいのかどうかまようあたしの唇から、笑いになりきれなかった息がかすかな声になってこぼれる。ヒカリちゃんが恥じいるのと拗ねるのとが半分ずつまざったような表情を浮かべたのでそれも引っこめると、いくぶん気持ちがかるくなり、あらためて訊ねた。
「じゃあ、どうしてつかわなかったの」
「シロナさんこそ。リーグからもらったものじゃないのなら、どうしてそんなに気にしたのか、ますますわかりません。それに、そもそもこれは、どこから……」
「あたしは」
こたえかけたのをとどめ、視線を落とす。彼女の手のひらにのせられた、マスターボールだったものへ。
「それは」と言いなおした。「ギンガ団の手元にあって、ひとつだけ、ゆくえのわからなくなっていたものなの」
「……ギンガ団?」
「うん、ギンガ団」
「ゆくえが、わからなかった?」
「わからなかった。このあいだまでは」
いつだったかもマスターボールに関して、こんなふうに相手からわたされた言葉をゆるやかに投げかえすだけの、間の抜けたやりとりがあった気がする。あたしは大筋を把握しているかもしれないけれど、この話がどこへつづいていくのか核心を知らないので、あのときのゴヨウくんの立場にはなれそうもない。
「しまいっぱなしだったのを気にしてたっていうなら、たしかにそうね。てっきり心のこりがあって、ずっと持ってたんだと思ったから」
顔をあげたあたしを、ヒカリちゃんはまっすぐ見つめかえす。
「ギンガ団と……かれと、話したときのことに」
名前をつけたそうとして、やめた。
あたしの言わんとするところが、おそらく正確に汲みとられたこと。彼女の胸のうちにそれへの予想は存在していなかったが、かといってあたしの想像は、真実をさぐりあてたのでもないこと。驚愕と得心のあいだでグラデーションをえがく瞳が、そういうものをひとつひとつ伝えるので、はっきりと思いいたることができる。
きっと笑いを飲みこんだとき、すでに気がつきはじめていた。かたちのあるなしを問わず、さまざまなものを置きざりにすがたを消した男に対し、すくなくとも現在の彼女はほんとうに、ひとかけらの遺恨も残していない。
恋人は、やわらかなものごしのわりに、存外マイペースなのだ。あの日の彼女にテンガン山をのぼらせた動機は、あたしが先ごろようやく目を向けた後悔や懸念をかるがると飛びこえるかたちで、とうに消化されていたのにちがいなかった。となりにいてさえときおり追いつきかねる、独自の思考プロセスをもって。
「……言ってくれれば」
「……そうね、言えばよかった。すごくまわりくどいことしちゃった」
「そうですよ。言ってくれたら、すぐにこたえたのに。つかいたくなかったからつかいませんでした、って」
「ほんとうにそれだけだったの?」
彼女は「それだけですよお。だめですか?」と冗談めかして唇をとがらせた。それからふっと表情をゆるめ、
「つかいたくなかった。それだけです。お話も、バトルもなしでつかまえられるの、とっても便利ですよね。でもわたしは、不自然だなと思ったのです。不自然で、変で……洗脳するみたいだと、思いました。
だからつかいたくなくて、しまいこんだ。しまいこんで、たまに掃除をするときひょこっと出てくるから、またしまうのです。
何年もそんなことをつづけているうちに、旅をしているあいだにもらったこと、つかいたくないと思ったことはなんとなくおぼえているのに、だれからもらったのかはすっかり忘れちゃいました。いま、シロナさんから聞いても、ちっともぴんときません」
手のひらのなかの金属へ、視線が落とされる。
「これは、盗まれたものだったのですか」
あたしは端的に「いえ」と言う。「IDくじで当てたの。ギンガ団が」
「ただのラッキー、というのじゃないですよね」
事実がどうあれ、万が一にも彼女が気に病んだり、責任を感じる必要のあることではない。それでもこたえあぐねて、結局横道にそれたあいまいな言いかたをえらぶ。
「……みんなパートナーのところに戻ったそうよ。アジトで発見されたポケモンについては」
「そうですか、それは」
よかったともなんともつづけなかったヒカリちゃんの、ふせられたまつげの影のしたに、一瞬冷淡な色がのぞく。あの日の最後の残火だったのかもしれないそれを振りはらうようにかすかに笑うと、彼女はチェリンボの去っていった方向にくるりと向きなおった。
「わたしたち、これを見て、おたがいにぜんぜんちがうことを思いだしたみたいですね」
「思いだした?」
「はい。思いだして、気にしてたみたいです。この際だから言ってしまいますけど」
ヒカリちゃんがマスターボールの譲渡元を思いださなかったゆえに、あたしのはやとちりや思いこみは、先ほどまでただされないままだったのではないか。くわえて、気にしていたとは。
「旅のあいだにもらったことはおぼえてたって、言ったでしょう? それをシロナさんが持っていたので、ひとつ思いだしたのです。あの日、ギラティナもあのひともいなくなってしまってから、ふたりで歩いて、もとの世界にかえりましたよね」
「……ええ」
おずおずと肯定する。忘れているわけはないが、かといっていったいどこへどう向かっていく話なのかもわからない。
「外に、泉に出たら、朝になってた。太陽がまぶしかったのと、きちんといっしょに出られたかどうか不安だったのとで、うしろを振りかえろうとしました。そうしたら、シロナさんが」
つい漏れそうになる声を飲みくだすと、あたしの意識は今日何度目かの、そしてもっともやすらいだ気分をつれた旅に出て、あの日の、彼女の言葉のうえに滔々とながれる時間へ立ちかえる。一歩先どころか、過去の記憶や五感さえあいまいになる世界を歩いた当時のイメージが、彼女の背中にうすくかさなった。
あの場所ですごす時間は、知ったものと根底から概念がちがっていた。のろのろと引きのばされたり、そうかと思えばひどくちぢこまって飛んでいく体感。それをたよりにするのは、足を踏みいれて早々にやめてしまった。
彼女の語るとおり、もとの表層へたどりつくと朝になっていた。何日も、何年も歩いた気がして、その実あたしたちは一夜をこえた翌朝にたどりついただけにすぎなかったのだ。朝焼けらしいつよい光に視界が白んでそれを知り、いびつにつながった朝のなかで、情報が散乱していた。
そこで、見た。
——しだいに色を取りもどす世界と、まっすぐな姿勢で立つ彼女の背中を、見た。
あたしが鮮烈に思いかえす光景をおなじく幻視し、その先をそっと引きとるようななめらかさで、言葉はつづいた。
「わたしのこと、ヒカリって。呼びすてにした。びっくりして……それから、うれしかったのです。だれかから名前を呼ばれるのが、とてもひさしぶりな気がしたのもそうだし、なによりシロナさんにそう呼んでもらえたのが、うれしかった。子どもじゃなくて、後輩のトレーナーでもなくて、ひとりの人間としてみとめられたような気が、したのかも。……うーん、うまく言えません」
あの男と向かいあったとき、かたわらの彼女がどんな表情をしていたのかは、永久にわからないままだ。けれどいま見えないはずの顔にどんな表情が浮かんでいるのかは、見もしないのにふしぎとわかってしまうのだった。
笑っている。
眉尻をさげ、こまったようにも照れたようにもとれる顔でほほえんでいるはずの彼女は、「うれしかった」とくりかえす。
そのころにはあたしにも、彼女がマスターボールを見て思いだし、気にかけはじめたという話がどこへ向かうのか、ゆく先がたしかに見えている。
「マスターボールとおなじです。うれしいと思ったことがなくなったわけでも、完璧に忘れてしまったわけでもなくて、しまいこんでふだんはとりださなかっただけ。だからこのまえ、シロナさんが持ってきたボールを見たら、旅のあいだのこととまざったせいなのかな、久しぶりにあのときの気持ちを思いだしました。でも、それと一緒に」
「……あの一回きりだったことも?」
うなずきや言葉での肯定のかわりに、吐息をふくんだような笑い声がかえった。
「そういえばほかの女の子たちのことはずっと呼びすてだ、ってふと気がついたら、気になってしかたなくなって。スズナさんが言いだしたときは、心を読まれたみたいでびっくりしちゃいました」
「そうね。あたしもあれはびっくりした。……強引すぎて」
「ああ、おかしかった、あのとき!」
「もう。笑わないで」
拗ねるようにそう言ってとがらせた唇をうすくひらき、「言ってくれれば」とつぶやく。彼女は思いだし笑いのおさまりきらない声のまま、「おたがいさまです」とこたえる。
「やっぱり、意識してそうしてたんですね。もし言ったら理由、おしえてくれましたか」
「もちろん。でもね、気にさせておいてわるいんだけど、ほんとにたいした理由じゃないの。もったいぶったみたいで、自分でも恥ずかしいくらい。たぶん聞いたら、『それだけ?』って言うわ」
「それだって、おたがいさまでしょう? ……ね、おしえてください、どうしてだったのですか」
ゆっくりと一度、ふかく息を吸うあいだに、ずっと言わずにいたことをつげられるだけのささやかな覚悟を決める。
「ヒカリ」と呼ぶと、あたしがまたなにかつけたすのではないかといぶかしむような、しばらくの沈黙があった。
いびつにつながった朝のなかではない、しかしよく似てそれを思わせる明るさにつつまれ、銀色の水面からたちのぼるもやではない、風に巻きあげられる花びらや草の切れ端を背に、彼女が振りかえる。はい、とみじかくこたえる顔にかぶさった陰影は、あたしが語った理由を聞いて彼女が笑う間にながれていき、そうあるだろうと思っていたままのものがそこに見えた。
あの朝よりも数年ぶん線のとぎすまされた顔だちで眉尻をさげ、こまったようにも照れたようにもとれるほほえみを浮かべながら、彼女は「それだけですかあ?」と言う。
「だから言ったじゃない」
肩をすくめてちかづき、背中に腕をまわして抱きよせると、顔のしたから「しかえしです」という声が聞こえた。ほとんど風にまぎれてしまうくらいの、うれしい、というささやきと、あたしの鎖骨のあたりへ局所的に降ったぬるくちいさな雨粒が、それを追った。
「……実を言うと、忘れてるだろうと思ってたの。だからおぼえててくれて、とくべつに思っててくれて、あたしもうれしい」
そう言って、抱きしめる腕にちからをこめる。
その機能の喪失と引きかえに、あらゆるものを消化して眠りについたがらんどうの金属が、距離をつめたあたしたちのあいだでやすらかな寝息のように、あるいはほこらしげなせきばらいのように、ちいさく音をたてた。
*
会議室の入口へ向かおうとする背中を呼びとめる。
振りかえったスズナは、「お……」とだけ言ったところであたしが手に持ってさしだしているものに視線をとめ、自分のひたいをぺちんとたたいた。そのしぐさを見ながら『お』とはなにかを考えて、おそらく『おつかれさま』あたりを言おうとしたのだろうと結論づける。
「あー、ごめんなさい、忘れるとこだった。ふだん資料って持ってかえらないから」
まあね、と共感の相づちを打って苦笑した。
定例の会議で配布されるレジュメは、たいていがその日の進行スケジュールをしるす程度のもので、あたしもわざわざ持ちかえるような習慣はない。ただ今日は、キッサキ港とバトルエリアをつなぐ定期船の周航本数についてが議題にのぼったので、現地のジムリーダーであるスズナには、持ちかえって検討するために封入した資料がわたされている。あたしがさしだしたのは、進行スケジュールといっしょにスズナの席に置きわすれられていたくだんの封筒だった。
とはいえ、声をかけた理由はほかにある。封筒をわたして二、三会議にからんだ世間話をはさみ、本題を口にした。
「そういえば、こんどまた、あの子をつれてあそびにおいでって」
言いおえてから、さすがに主語が足りなかったかと考えなおしてつけくわえると、スズナはにこやかにうなずきかける途中で頭のうごきをとめ、にんまりと笑みをふかめた。
「なに? にやにやして」
「んーん、よかったなって思って」
「よかった?」
てっきりつけくわえた主語をからかわれたものと思ったので、意外な言葉に首をかしげ、とりつくろわず怪訝な顔をした。
「このまえあたしたち、先に浜辺に行ったでしょ。そのときちらっと聞いたんだけど、ヒカリちゃん、自分だけずっと呼びすてされないこと、けっこう真剣に気にしてたみたいで。それなのに茶化すみたいになっちゃったから、わるいと思ってたの。だから、よかったなって」
「ふうん」
「あッ、あのときはシロナさんにも無茶ぶりしすぎたよね。申しなく思ってまあす、いちおう」
「いちおう、がよけいなのよねー」
スズナは白い歯を見せてちいさな子どものように屈託なく笑うと、笑みをいくぶん大人びたやさしいものへかえて「なんでだったの?」と訊ねてくる。
あたしたちが明かさないのなら踏みこまない、そんな思慮ぶかさをたたえた顔を見てひとつまばたきをすると、あたしはいつもどおりの呼びかたを口にした。
「なーに?」
目の前にいる相手から、あらためて名前を呼ばれてきょとんとするスズナを見ても、とくにおこる感情はない。
彼女を——ヒカリを呼ぼうとするときだけ感じたものは、数奇な運命をたどったマスターボールが、最後につれていった。
なにもつけず恋人の名前を呼ぼうとするたび、いまもまぶたの裏に鮮明なあの朝を思いださせて胸にせまり、あたしに息さえできなくさせた、甘く苦しい万感の想い。あの朝、高揚と希望にまぎれてひそかにはじまっていた、恋の象徴。
それはもう、この世に存在しない。
「……ううん、なんでもない。そうね、ひみつにしておこうかしら」
「えー、そんなあ。ざんねん」
スズナはいかにもかるい調子でそう口にしてから、ひとさし指で頬を一度なぞって「そういえばさ」と眉間へわずかにしわを寄せた。
「ヒカリちゃんのとこにマスターボールがあるって、スモモちゃんに話しちゃったんだけど。まずかったかな」
「べつに言いふらしたわけじゃあるまいし、相手だってスモモなんでしょう。だいいちジムリーダーのみんなとは仲よくしてるみたいだし、それくらい気には……」
こんどは『いちおう』ではなく心底から申しわけなさそうに目線をさげてしまったスズナは、話のつづきそうな方向に思いいたり、言葉の途中ではっとしたあたしを不審がるようすも、そもそも気づくようすもない。
「ほんと? よかったー。でもごめんなさい、つい興奮して、話したくなっちゃったんだ。実はスモモちゃんが見てみたいって言ったから、そこではじめて、勝手に話しちゃまずかったなって」
「……見たいって?」
「うん、見てみたいって。持ってるひと、ほんとにいるんですねってびっくりしてたよ。しかもそれがヒカリちゃんだっていうからよけいに」
「あのね。あれ、もうつかっちゃったのよ」
「……え?」
「つかまえたポケモンもにがしちゃったし」
「ええッ!?」
スズナは二秒ほど硬直してから、目を見ひらき口をぽかんとあけたまま、あたしの背後へ向けて肩から先をつかったおおぶりな手まねきをはじめる。たぶん、会議室の奥で席を立ったスモモを呼びよせているのだろう。
あたしは「捨ててはいないんだけど」とつぶやきながら、聞いているのかいないのかわからないスズナと、もうすぐ話を耳にしてスズナとおなじように硬直するだろうスモモに、どう説明したものか頭をなやませる。
比類ない性能のボールはヒカリの別荘のリビングで、白を基調にしたインテリアにまったくそぐわない色あいの、ちいさな植木鉢になっている。