タイム・アフター・タイムⅠ

 自宅とはちがってきちんと整理されたウォークイン・クローゼットのなか、灰色のカバーをかけられてハンガーパイプにならぶ冬服のしたか、あるいは几帳面に壁ぎわへ寄せられたスーツケースや靴箱の横からか、とにかくそれはころがりでた。その唐突さはあたしに、中身をすべて処理できたと安心していた書類箱から、底にはりついてひそかにのこっていた最重要の一枚がひらりと落ちてくるのを思わせた。
 一拍の空白ののちにかがんでひろいあげたそれを、重要で面倒な書類に向けるのとおなじ胡乱なまなざしで、数秒間見つめる。体系だたない考えが頭を駆けめぐるあいだに、やはりハンガーパイプにかかった丈のながい衣服のすきまから、赤い色がのぞいているのを発見した。手をのばしてたぐりよせるとそれは思ったとおり、本来の目的だったバケツだ。そこだけ青い持ち手をつかんでひろいあげ、バケツともどもプラスチック製の、砂あそびのための道具たち——シャベルやらじょうろやらふるいやら——がバケツのなかにひとそろいになっているのをたしかめると、あたしはきびすをかえしてクローゼットをあとにする。
 らせん階段を降りた先のリビングでは、ほとんど凪にちかい今日の海面をなでるかすかな潮風と、それにのってながれこむかろやかな笑い声が、あけはなした掃きだし窓のレースカーテンをやさしくゆらめかせていた。
 ウッドデッキへ出て、室内とは光量のちがう明るさに目をすがめたのと同時に、笑い声にまざったいくつかの足音を聞く。日差しにあたためられたデッキのはしまで歩いていくあいだに太陽光が集束して、足音のうち、もっともとおいひとつはゆっくりと歩いてくるスズナのすがたになり、もうひとつはそのすこし前をせいいっぱいの歩幅でとことこと走る、彼女がつれてきたおさないニューラになる。最後にいちばん手前の、ほとんど目の前までやってきていたひとつがヒカリちゃんのすがたになり、「ありがとうございます」とほほえんだ。
「ごめんなさい、取ってきてもらっちゃって。すぐに見つかりました?」
 あたしはうなずいて笑いかえす。ウッドデッキの前で脱いだフラットシューズにつま先をすべりこませながら、
「ね、わるいんだけど」
 そう言って視線をさげるのといれかわりに、片手のバケツを腰のたかさまで持ちあげた。
「ちょっとだけ、持っててくれないかな」
 こころよくバケツを受けとるヒカリちゃんの肩を借りて片足立ちになると、フラットシューズのかかとを指でつまんできちんと履きこみ、つま先でかるく地面を打って靴のなかの足の位置をととのえる。
 反対の足もそうするあいだに追いついてきたニューラが、ヒカリちゃんとあたしの足元にじゃれついてみゃあみゃあ鳴くのを、さらにおくれて追いついたスズナが苦笑を浮かべつつ抱きあげた。
「はいはーい。きみのために持ってきてくれたんだからね、じゃましないの」
「じゃまじゃないですよお。ねー、シロナさん」
「ねー、ほんとかわいいわよねー」
「かわいがってくれるのはいいけど、ふたりとも、甘ーい。しめるとこはしめないと、教育によくないんだけどー」
 そう言うスズナの胸元で、あるじに抱きあげられたニューラはひときわうれしそうな鳴き声をあげる。それを聞いたとたん、ぼやいていた当人の笑顔は苦笑から種類をかえるし、しまいにはニューラに頬まですりよせるのだから、説得力などひとつもない。
 キッサキジムで生まれたばかりだというニューラは、野生を知らないのにくわえて生来の性格もあるのだろう、種族やタイプの特徴を忘れさせるほどひとなつこかった。別荘をおとずれたスズナがボールの外へはなった瞬間、それをならんで見まもっていたヒカリちゃんとあたしのもとへ警戒心のかけらもなく飛びこんできて頬ずりし、一瞬であたしたちの心をとらえた。まだのびきらないやわい鉤爪よりもむしろ、その愛くるしさを武器にして。
 天気のいい日だったのでリビングから外に出てあそばせていた最中、浜辺へ行くのを発案したのはヒカリちゃんだった。寝室のクローゼットに、おさないポケモンたちに砂あそびをさせるための道具がしばらく眠ったままなのを、ふいに思いだしたという。ニューラはちょうどそのちいさなからだいっぱいにつまった、世界に対するあふれんばかりの好奇心をヒカリちゃんに向けており、有り体に言えば彼女にじゃれついて、しばらくそばをはなれそうもなかった。なのであたしが、砂あそびの道具を取りにいく役目を買って出たというわけだった。
 そうして足を踏みいれたウォークイン・クローゼットで、バケツにまとめられてひとそろいになったプラスチック製の道具たちよりも先に。
 あたしは『それ』を手にした。
「ありがとう。はい、持つわ」
「え、いいですよ、わたし……」
 靴を履こうとしてヒカリちゃんの手に持たせたままだったバケツを、遠慮する彼女からかすめとる。クローゼットをあとにするとき放りこんだ『それ』と、なかの道具とがゆられてぶつかり、音をたてる。
 まだなにがおこると決まったわけでもない。ただ夏の夕方、急速にひろがる黒い雨雲を南東の空に見あげるときのような、不穏な予感が胸のうちにくすぶるのだけを内心で感じている。
 念のため、訊ねた。
「ところでヒカリちゃん、IDくじって当たったことある?」
 唐突な質問に、彼女はなんでそんなことを、と言いたげにきょとんとした表情になるが、それでもひとさし指を唇にあてて、こたえを考えるしぐさを見せる。
「うーん。旅に出たてのころはなんだかおもしろくて、しょっちゅうチェックしてましたけど、最近はぜんぜん。ああ、でもたしかひとけたの……ボールだったかな。一度だけもらったこと、あった気がします」
「あれ、チェックするのつい忘れちゃうよねー。スズナ、もしかしたら知らないうちに百回くらい当たってるかも」
「あはは、わたしもです」
 一連の口ぶりで『それ』に関する、もともとごくうすいものだったひとつの線が消え、あとにはひとつの可能性だけがのこされた。スズナと顔を見あわせて笑っていたヒカリちゃんはあたしに向きなおり、「でも」と首をかしげる。
「どうしたんですか? そんなこと、急に」
 あたしは彼女の言葉がむすばれるのを待たずバケツに手をいれ、ふるいのした、きれいに洗われて砂粒のひとつもない底面にころがる『それ』を、ヒカリちゃんの眼前に取りだした。
「これ、どうしたのかなって」
 かさねてそう問いかけるのも耳にはいらないように、ヒカリちゃんは『それ』を握りこんだあたしの手のひらを凝視して息をつめる。ちょうどよわよわしい潮風もやんだので、地面に落ちる灌木の影からさえうごきはうしなわれ、まるで半径一メートル以内の時間が停止したようにも思えた。
 あたしが見つけた『それ』は、ボールだった。
 広義のモンスターボールだ。
 ただし、ロットナンバーではなく識別用のシリアルナンバーをひとつずつ割りふられ、さらに製造後は基本的にリーグで保管される。保管場所の情報すら機密事項としてあつかわれており、あたしも現物は目にしたことさえない。知らないこと以上に安全を担保するものはないというから、おそらくこの先も、それをリーグで管理しているという事実以上に踏みこんだ情報を得ることはないだろう。
 秘匿と言いかえてもいいほど厳重に管理される理由と、入手する方法。その二点のこたえにそれぞれひとつずつ、心あたりがある。
 一点目について。
 結論から言えば、このボールが標準的なモンスターボールの規格と共通するサイズのその身にひとつだけおびている、ボールにできうる最大限の機能のためだ。
 たとえば水辺や太陽が沈みきった時間帯など、特定の条件下で使用した場合にのみほかのボールの捕獲機能に優位性をしめすボールは、何種類か存在する。けれどこれは、優位だとかつかまえやすいだとかそういうレベルのしろものではなく、ポケモンを捕獲するという機能面においては、すべてのフレンドリィ・ショップ店頭にならぶ通常のモンスターボールどころか、一般に流通し購入できるどんなボールの追随もゆるさない。
 ——投げた先にいるポケモンを、『かならず』捕獲する。トレーナーのIDを登録したボールと身体組織の組成をひもづけた、要はパートナーを持つポケモンでないかぎりは。
 捕獲技術の粋を結集した調整のすえ、どこか夢物語じみてさえいるそんな機能を実現したこのボールは、マスターボール、という名前を冠していた。
 その機能ゆえに、盗難と悪用をふせぐための厳重な管理がおこなわれているというわけだった。万が一そのような事態がおこってしまったとしても、正規の経緯でひとの手にわたったものではない事実を、ボールに振られたシリアルナンバーがつぶさにものがたるのだから、めったには使用できない。
 二点目については。
 無作為に選出した五桁の数字をボールに登録されたIDの下五桁と照合し、連続で一致する桁数がふえるほど希少な賞品を手にできる、コトブキテレビのIDくじがそれだ。十万分の一の確率を引きあてて五桁すべてを一致させることができた人間の手に、この最高峰のボールが賞品としてわたる。
 けれど、この線はそもそもほとんど現実的でないうえ、ヒカリちゃん本人によってすでに否定されていた。
 彼女はIDくじで『ボール』を当てたことがあると言った。ただしその『ボール』は一桁一致の賞品として提供される、いわば参加賞のようなものを指し、いまあたしの手のなかにあるマスターボールとは、もちろん性能も入手難度もくらぶべくもない。
 そうして消えた線のあとにのこった、否定したいがそうするだけの材料もないひとつの可能性が、目の奥で頭痛にも似たうずきをうったえた。
 音もなく、霧雨のように影が降りだす。
 晴れた日の明るさにそぐわないノイズがすこしずつ視界を侵食する、そのむこうがわになにかを聞いた気がした。

「ひとつだけ?」と訊くあたしの声と、「ええ、ひとつだけ」とこたえるいつかの、だれかの声だ。

 *

 赤を基調にした絨毯が眼下の床面をおおうのにつづき、周囲四方と頭上をそれぞれ壁と天井が囲う。展開された正六面体を組みたてるように、あたしや四天王が試合までの時間をすごす待機室がかたちづくられる。
 椅子の座り心地のわずかな優劣、テーブルのどの脚にいくつ傷がついているか。そんなことまで知りつくすほどなじみぶかい場所でかわしたゴヨウくんとの会話を、いつしかあたしは思いかえしている。
 リョウくんは四天王の一番手として試合へのぞみ、ほかのふたりは各々の理由で席をはずしていた。とはいえ五人どころか三人以上がそろうことさえめったにないくらいなので、この組みあわせにもさほど目あたらしさはない。あたしたちはその日の挑戦者の力量について二、三のやりとりをし、リョウくんの次鋒を引きだすかださないかというところだろう、と見解を一致させたきり、話題をつなげるでもなくおたがいにだまって時間を持てあましていた。
 知った仲だ、沈黙への気まずさはおぼえない。ただ退屈ばかりはいかんともしがたく、コーヒーを何杯か飲んでもぬぐいきれない眠気についあくびがこぼれたところで、ゴヨウくんが切りだした。
「しばらく前に聞いた話を、思いだしたのですが」
 あたしは口元に手をそえたまま、肩口をこちらに向けて新聞をひろげているゴヨウくんを一瞥した。そういえば今日は本を読んでいないらしいと気づいたけれど、そんな気分の日もあるのだろうと思っただけで、それ以上なにを感じるでもなかった。かれもまた、あたしが手のひらのしたにかくしたあくびに気づいたようではあったものの、あきれをみせるでもなく言葉をつづけた。
「ひとつだけ、ゆくえの知れないマスターボールがあるとか」
「……マスターボール?」
「ええ、マスターボールです」
 唐突な話題に面食らい、単語を反復することしかできなかった。
「ひとつだけ?」
 あたしが訊き、
「ええ、ひとつだけ」
 とゴヨウくんがこたえる。いま思えば、なんとも間の抜けた会話だった。
 その名詞も意味も当然認知しているが、おたがいに興味を持っているそぶりを見せたことも、そもそも話題に出したことさえなかったはずだ。リーグで管理しているとはいえ、あたしたちが直接どうこうするのでもないのだから。
 そもそも口数のおおいほうでもないゴヨウくんが、なぜ待機時間の空白を埋めるための話題に、そんなものを持ちだしたのか。
 このときのあたしはまだ理由を知らない。想像さえできない。
 一方で現在のあたしは、これよりあとのかれの言葉やもろもろの情報によって、すくなくともゴヨウくんが口をひらくにいたるまでの経緯を、最低限推測できるだけの材料を得ている。
 当時のゴヨウくんは、直近に図書館で借りてきた本を読みつくしてしまっていた。つぎの本を借りにいこうにもスケジュールとの折りあいがつかず、それゆえ読める本を手元に持ちあわせていない。
 こよなく愛する本の不在にあたり、無聊をなぐさめる手段としてかれがやむなく手に取ったのが、待機室のラックに用意された新聞の一紙だった。
 新聞をめくりはじめてからほどなくして、ゴヨウくんは眼鏡の奥から文字を追う目を、社会面の片すみに載ったひとつの記事にとめる。分野はちがえど、あたしとおなじくナナカマド博士のもとで学んでいたことのある研究者。かれの住む地方でおこったとある事件について、解決までの顛末をまとめたものだ。
 記事は文字だけがならぶいささかそっけないものだったが、社会面に掲載される記事としてはめずらしくもなかった。なによりその事件、というより事件の解決に中心的な役割をはたした人物の立場からいって、おそらく何枚かは撮影されていたはずの写真を刷りだし、世間の目にふれさせることもはばかられたのだろうと思われる。
 このあたりについては推測よりもさらに根拠のあやふやな憶測でしかない。しかし待機室で新聞を読むにいたった経緯からすれば、ゴヨウくんはすくなからず活字に飢えていて、写真のないその記事に目をとめたのはある種必然的な帰結だったのではないか、とあたしは考える。
 かれは記事を読みすすめるうちに登場したある人物の名前におどろき、なつかしさをおぼえる。それは前述の、事件の解決にあたって中心的な役割をはたした人物の名前——より正確に言うならコードネームだった。こっけいなほどおぼえやすい、本名ではないのが一目瞭然のコードネームを持つ国際警察の捜査官に、ゴヨウくんは職務上接触したことがあった。その人物がシンオウでの捜査に従事していた、数年前のことだ。
 かれは、捜査官のコードネームに関連していくつかの記憶がよみがえり、目の前に点々と浮かぶのを見る。そのさまはあとは引きだしにしまうきりだった書類を、窓から吹きこんだ風が机のうえから巻きあげて床に落とすときの無秩序さと、よく似ていただろう。
 とはいえ浮かびあがり、ばらばらと床に落ちたうちのどれも、処理はとうにすんでいる。ゴヨウくんのみならずその他大勢の人間にとって、再度ひろいあつめ、角をそろえてととのえてしまえば、あとはあるべき場所へ収納されるだけのものでしかない。かれもまた、そこにあらためて検討や精査をする必要は見いださない。
 ——現在のあたしにも、推測できるのはここまでだ。ゴヨウくんが記憶のひとつを話題にした決定的なきっかけはわからない。
 けれどこの日このときでなければ、かれはなにも口にのぼらせず、待機室に漫然とみちていた空白はみちたままにされていただろうことだけはたしかだ。
 ゴヨウくんの手元に本があれば。他地方の事件にあまり言及しないローカル誌を手に取っていれば。当時の待機室にいたのがオーバくん、あるいはキクノさんだけだったなら。五人のなかで唯一、その話題が行きつくところにかかわりを持つあたしのほかに、だれかひとりでも、そこにいたのなら。
 そんな無数の仮定と可能性のすきまをくぐりぬけたあげくに、両名とも実物を見たことさえないボールは、話題にあがった。
「ゆくえがわからないと言っても、正確には、ボールのわたった先自体は判明しているのだそうですが」
 そんな前おきをしてゴヨウくんが語ったのは、こういう話だ。

 ——代金は言い値で支払うので、マスターボールを買いとらせてほしい。
 コトブキテレビにそんな申しいれがあったのは、もうずいぶん前のことだという。
 とある企業から交渉のために派遣された人物の態度は、たいへんに熱心なものだった。『言い値』では抽象的にすぎるから、と目安に提示した金額さえ、そうとうなものだったらしい。
 だが結局のところ、コトブキテレビはそれをことわった。
 自力のみでねらうならば十万分の一という当選確率ながらひとびとを惹きつけてやまない、IDくじにおける文句なしの目玉賞品。トレーナーの夢の具現だ。それを金銭で売りわたすことへの拒否感、あるいは倫理的な抵抗感。最高峰のボールを、企業の名刺を提示されたとはいえ、身元の保証もない相手の手にゆだねる危険。価格のつけようがないという根本的な問題。どんな事情や思惑がテレビ局側の胸中に渦まいていたかは、余人の知るところではない。
 ただひとつ、たしかな点がある。
 テレビ局が申しいれをことわった決め手が、交渉役としてテーブルについた人物のたいへんな熱心さ、むしろそこにあったということだ。
 ことわられても引かずに食いさがる姿勢は、あたえられた役割には相応のものだったのかもしれない。しかしその場にいあわせた人間はそろって、応接室の床にひざをついて拝むように指を組み、涙まで浮かべてみせたという交渉役の目の奥に、どこか尋常とは言いがたい異様なものを感じた。なにかに心酔し、対象にすべてをささげることもいとわないものが見せる、あやうい光だった。
 テレビ局は交渉役を刺激しないようできるかぎり穏便な言葉をえらび、最終的にはほとんどなだめすかすようにして帰らせた。交渉役はちからなく肩を落とした去りぎわ、なにがなんでもあきらめない旨を言いのこして一同を内心うんざりさせたものの、実際にはその後二度とすがたを見せなかったという。
 冷静になって無理をさとったのだろうとだれもが考え、その日のできごとはコトブキテレビ職員たちの記憶からしだいに存在感をうすれさせていったが、それからさらに数年を経たタイミングで、突如として鮮明に思いだされることとなる。
 マスターボールの当選者が出た。
 テレビ局にとっても一大事だ。平職員から重役までがずらりと顔をそろえ、幸運なトレーナーが完璧なボールを受けとりにくるのをいまかいまかと待ちうけるなか、当選者は予定時刻に一秒たりともおくれることなく、賞品引きわたしの場へあらわれた。
 それを見た何人か、数年前におこなわれた異様に熱心な譲渡交渉と今回の賞品引きわたし、マスターボールに関係する両方の場にいあわせたものたちが、いっせいに顔色をかえる。
 そこにあらわれたのはあのときの交渉役——ではない。前述のとおり、当時の交渉役本人がコトブキテレビにあらわれることは二度となかった。しかし顔色をかえた全員が瞬時に理解した。当選したのがあの交渉役の関係者だということ、そしてどんな経緯があったかはわからないが、交渉役の最後の言葉にこめられた意志と執念が、あの日から数年を経たいま、たしかに実をむすんだのだということを。
 なぜかれらはひとめ見ただけで、理解できたのか。
 マスターボールを引きあてた当選者と交渉役が似ていたのではない。そんな場があったことさえ、その瞬間までほとんど忘れていたほどだ。顔色をかえたうちのだれひとり、交渉役本人の顔かたちどころか背格好も思いだせなかったし、仮に街なかで偶然本人とすれちがったとしても気がつけなかっただろう。
 では。
 かれらはなぜ、それを理解したのか……

「ああ、そういう話だったの」
「おや、わかってしまいましたか」
 言葉の途中であたしがうめくと、ゴヨウくんはかすかに首をかしげたが、言うほど意外そうな表情も浮かべず、むしろ「まあ、そうでしょうね」と言って視線を手元の新聞へもどした。
 話を聞く前の眠気は消えていた。かわりに頭痛にも似たよどみを感じているのが当時のあたしなのか、いまのあたしなのかわからない。とにかく過去のあたしはながくおおきなため息をつきながら、墜落するようないきおいでテーブルにくずおれ、ゴヨウくんの横顔を見あげる。
「わかったわ。わかったけど……まったく。まさか、そんなことのためだったなんてね」
 記憶のなかのかれは一度だけまばたきをして、ずれてもいない眼鏡をひとさし指と中指で持ちあげる。レンズが室内の照明を反射してにぶい色にきらめくのが、いまのあたしの目にはどこか不吉な予兆に映る。
 しかし過去のあたしはどうかといえば、この時点で読みとれる事実に気分をわるくする一方で、安堵をおぼえてもいる。
 新聞をひらいたまま語り、ふだんのくせをかわらずなぞる、ゴヨウくんの平然とした態度に。
 もう終わったことを話すときの、それも取りかえしのつかない、やりきれない悔悟の情について語るのではない、たとえば前日を窓のない部屋にこもってすごした人間に、昨日は雨が降りつづいていたと伝えるような、淡々とした口調に。
「行き先はわかってるのにゆくえがわからないって、そういうこと。……でも、結局マスターボールはつかわれなかったし、いまもつかわれていない。そうでしょう?」
 ゴヨウくんは、首肯や表情でのわかりやすい返答はよこさなかった。ただ、ひろげた新聞をラックにそうしてはいっていたとおりの四つ折りにたたみ、組みかえた足のうえにぱさりと置くと、「こたえあわせでもしてみますか」と言った。
 まさかほかでもない自分が、たまたまはいった恋人のクローゼットで『それ』を見つけることになるとは思いもよらない、過去のあたしは。
 おなじくなにも知るよしのないかれの口ぶりからただよう雰囲気に、この話はとっくに解決されたものなのだと確信する。直前のため息とは意味のちがう息をつくと、目のうごきだけでつづきをうながした。
 待機室の色彩がにわかに翳り、暗闇に尾を引いて急速にとおざかっていく。ところどころとぎれて聞こえるゴヨウくんの声といまのあたしの意識だけが、その場に取りのこされる。

 こたえあわせなどと、言ってはみたものの。
 おおむね、お気づきのとおりかと思います。
 交渉役と当選者の関係性にテレビ局の人間が気がついたのは、単純にかれらが、ほとんど共通……特徴のある奇抜な……をしていたから。
 かれらは……の構成員だった。
 強奪された……は、発見されたものについてはすべて、本来のパートナーのもとへもどることができたようです。
 その後……をくまなく捜索しても…………にはいったポケモンも、現物も見つからず、最終的に……警察は…………した際の混乱で、それが紛失したものと結論づけた。
 ところで。これは素朴な疑問なのですが、毎日……とはいえ、仮に何百、何千の…………あつめれば……現実的な確率になるのでしょうか。

 ——あまりふかく考えないほうが、よさそうだ。

 *

「わお」
 スズナがあげた声にはっとして、現実の、別荘の前へ意識を引きもどされた。また吹きはじめた風が、ニューラの耳からひとふさのびる桃色の毛をゆらしている。
 体感ではともかく、実際は一秒にもとどかなかったのだろう沈黙をやぶったスズナは、目をかがやかせて興奮ぎみにつづけた。
「ほんものだよね? すっごい、はじめて見た!」
「……実際に見るのってはじめてなのよね、あたしも」
「でも意外とふつう、かも。ちょっとはでなだけのモンスターボールって感じ。ねーヒカリちゃんおねがい、さわってみたい。いいかなあ」
 ヒカリちゃんはまっすぐマスターボールを見ていた顔をはじかれたようにスズナへ向けると、無言のまま、あきらかにうわの空だったとわかる唐突さでぶんぶんと首を縦に振った。どうやらあたしほどではなくても、彼女もべつの方向へ思考を飛ばしていたようだった。
 あたしが手わたしたものを、スズナがためつなすがめつながめまわすのに興味を惹かれたのか、ニューラも腕のなかからしげしげとボールを見つめている。その光景を横目にヒカリちゃんへ向きなおると、おなじタイミングで彼女もこちらを見た。しかしすぐにうつむかれたので、視線が合っていた時間はまばたきのあいだにもみたなかった。
「あの。わたし……」
「うん」
「くじは当ててないですけど、変な方法で手にいれたわけじゃない、はずです。でも正直、旅のあいだにもらったっていうこと以外、きちんとおぼえてなくて」
「やだ、そんなことうたがってるんじゃないの。こっちこそ変な訊きかたしたわね。ほんとうにただ、どうしてあんなところに、と思って持ってきただけ」
 彼女がもう一度おもてをあげるのと同時にみじかい鳴き声が聞こえ、ふたりしてそちらへ気をとられる。ニューラが自分を抱いたあるじの腕から身をのりだし、マスターボールに鼻先をちかづけようと首をのばしていた。
 地面へ、視線を落とす。
「……あのころ、いろいろあったから。おぼえてなくたって、しかたないわ」
 ウッドデッキの土台あたりにぼんやりと焦点を合わせながらつぶやく言葉が、ほとんど自分に言いきかせるような調子になるのを自覚する。
 あたしは彼女におぼえていてほしくないと、忘れていてほしいと思っている。願い、あるいは祈りのように。
 ギンガ団がトレーナーのポケモンを強奪した主な目的は、ポケモンそのものよりむしろボールにひもづいたIDを多数入手し、いまニューラが鼻先を寄せてにおいをたしかめているボールの、およそ現実的ではない当選確率を引きあてることだった。
 数の問題ではない。他人のポケモンをうばうのはただでさえ重罪だ。ゼロが一になる、それだけでトレーナーとしての倫理をかなぐり捨て、人間としての品位を地におとしめて余りある。
 毎日抽選される十万分の一は、そんな暴挙をさらにおびただしい数かさねてもなお、ようやくとどくかとどかないかの確率だ。それでもかれらは執念ぶかく、何年もかけてその一点を目指し、そして手にいれた。
 マスターボールは、まずまちがいなくひとりの男にささげられただろう。テレビ局の職員たちが見たというあやうい光——かれらの目の奥に燃えていたほのぐらい情熱の、火種となった男に。
 だが男は手にいれたものをつかわなかったどころか、どのような意図をもってそうしたのかは知らないが、ひとりの少女にそれをわたしてしまった。その後自分の野望を打ちくだくことになる少女に。
 少女が——彼女がほんとうにその経緯を忘れているなら、ただのひとかけらも思いださないままでいてくれたなら、どんなにいいだろうと思う。
 けれどマスターボールがウォークイン・クローゼットのなか、かくすようにしまわれつづけた事実と、ボールの存在自体を忘れていたのではなく、あえてそうしてひっそり眠らせていたようにうかがえる彼女の態度が、その願いに濃く影を落とすのだった。
「だめだめ、これはおもちゃじゃないからね。はいシロナさん、パス!」
 妙なにおいはしないと判断したらしく無邪気に好奇心をしめすニューラから、スズナがそう言ってマスターボールをとおざけ、文字どおり投げるようにわたしてくる。あたしはそれをどうにか受けとめて、思わず苦笑する。
「あたしにわたしてどうするの。これ、ヒカリちゃんのよ」
「そうだった、つい。でも持ちだしてきたのはシロナさんだし」
「そうだった。あたしが持ってきたんだった」
 ヒカリちゃんがちいさく笑った。それがそこはかとないくぎりになり、あたしは胸中をみたす懸念や影に、いったんふたをする。
「しまってくるわ。ヒカリちゃん、これ持ってスズナと先に行っててちょうだい」
「わかりました」
「りょーかい、待ってまあす。お、自分で歩きたい?」
 元気よくかえすうちに腕のなかでもぞもぞしはじめたニューラを、スズナはしゃがみこんで地面へおろしてやった。ひざに手をあてて立ちあがると、道具いりのバケツを受けわたすあたしたちを見ながら「そういえば」と言った。
「シロナさんってさ。まだヒカリちゃんのこと、ちゃんづけで呼んでるんだ」
「なあに? いきなり」
「んー、なんか急に、気になって。スズナたちのことはずーっと呼びすてなのに、ヒカリちゃんのことだけ、なんでかなって」
「なんでって言われても。それこそずっとそうだから、べつに理由なんて……」
 あやふやに語尾をにごす。
 やけにあのころとむすびついたものごとを思いだし、考える日だ。まるでクローゼットのすみからころがりでたマスターボールが、過去を引きつれてきたような。
 当然そのあたりを関知するはずもないスズナは胸の前で手のひらを合わせ、のびのびと笑った。
「ものはためしって言うでしょ。理由もないなら、一回呼びすてしてみようよ」
「ねえ、ちょっと。なんでそうなるの?」
「さん、はいっ」
 ひとの困惑をよそに、手をたたいて拍子まで取ってくる強引さに圧され、つい息を吸ってしまったあたしを、三対の目がじっと見つめた。スズナとヒカリちゃん、なぜかニューラまで。
「ヒカリ」
 ずっとそう、ではない。
 あたしは一度だけ、彼女の名前を呼びすてにしたことがある。彼女と恋人になるどころか、友人とはことなる意味の好意を自覚するよりも前のことだ。きっとそう呼ばれた本人はおぼえていないだろう。
「……ちゃん」
 つけたすと、一瞬の沈黙につづいて「なんでー?」と声があがった。スズナとヒカリちゃんがそれぞれ、前者は腹をかかえてからだを折り、後者は手で口をかくそうとして失敗しながら笑いだす。ニューラは笑うふたりをふしぎそうな表情で交互に見くらべていたが、やがてなにかたのしげな雰囲気を嗅ぎとったのか、スズナの足元で身軽に飛びはねて鳴き声をあげた。
 そのなかであたしだけが、あさっての方向に目線をながして唇をとがらせている。いきなりだったんだからしょうがないじゃない、とつぶやいた声は、いかにも拗ねたようなこどもっぽいものになり、ふたりは笑い声をよけいにおおきくした。
「ほらほら、笑ってないでさっさと行く」
 ふたつの肩を指の背でぐいぐい押して向きをかえさせる。
「いっけない。ヒカリちゃーん、シロナさん怒らせちゃったよお」
「怒ってない。さっさと行く」
「ふふ、ごめ、なさ」
「ヒカリちゃんも笑いすぎ」
 ぼやきながらヒカリちゃんの背中にそっと最後のひとおしをくわえると、彼女は振りむいた顔に笑みをのこしたまま「待ってますね」と言い、あたしの手のなかにあるマスターボールにちらりと目をはしらせてから、先に歩きだしていたスズナとニューラの背を追った。といってもスズナがニューラの歩幅とペースに合わせているので、つめるべき距離はいくらもない。
 ふたりと一匹の背中がウッドデッキをまわりこみ、ゆっくりとはなれていく。
 それが見えなくなってから、ゆるやかな風が散らした横髪を耳元に引っかけて、あたしはだれもいないリビングへ再度あがった。