倦んで弛んで

 ガラスをたたく合図とほとんど同時に引きあけた庵の戸から、おおむねふかいみどり色をした景色がこぼれて視界へそそぐ。昼さがりの色相にしたしんでいた視野をにぎわせるあざやかな光景に一瞬目をほそめて、ひらいて、そうしたとき思いだした。なにをしに来たのか、そう訊かれるのに身がまえてそなえる。そんなころが、そういえばわたしにもあったのだ。
 かつての自分のすがたは、まどろみのあいだに見た夢のようにとおくておぼろげで、それからやっぱりなつかしい。あのころは焦燥をおぼえるばかりでそんな余裕もなかったけれど、いまのわたしにはよくわかる。なにも手に持たないのは相手に対して不誠実な気がしていた。ここを訪れる資格がないように思えた。だから隠れ里に足をはこぶたび、必死に口実や理由をかきあつめたんだろう。
 思いだすのもなつかしむのも、いまの自分がそうではなく、そうでなくなって久しく、極端な言いかたをすればひとごとだからだ。もしかすると——いや、きっと。きっとわたしはあのころより格段にずぶとくなった。だっていまなら訊かれても言える。ただ顔を見にきたんだと、ただ会いたくてきたんだと、ためらいもなく即答できる。
 まあ、顔を見たくて会いにきている相手は目線の先ですやすや眠っているので、はりきってこたえようにも意気ごみはからまわりするばかりなのだけど。
「……コーギト、さーん……」
 たてた手のひらでまるく唇を囲い、呼びかけるというより声をひそめてささやいて、無反応という反応にむしろ安堵の息をつく。あえて眠るつもりではなかったのだと、ベッドの背板に上体をあずけるいかにも寝ごこちのわるそうな姿勢からも、枕にされて不本意そうにつぶれたまとめ髪からもうかがえる。そうやってふいに落ちるたぐいの眠りを、わたしならあまりさまたげられたくはない。
「おじゃましまーす……」
 かといってまわれ右をする選択肢もはじめから除外しているあたりで、自分の変化を再確認する。ほとんど無意味なあいさつをこれまたため息程度の音量で押しだしながら、うしろ手にそっと戸をとじた。
 床板のきしみやすい部分を避けて庵にあがりこみ、目線が一段ぶんたかくなる。それでベッドのはしへ腰かけて目をとじるコギトさんのひざのうえ、寝いった拍子に手からすべりおちたらしい布が折りたたまれているのがわかった。ちょうどひとの手が意思をもってそうしたような、うまいぐあいに。
 どうやら縫いものの最中だったようだ。布のそばにちからなく落ちた指先で、糸のとおった針が鋭利な光をはなっている。わたしにはふつうの縫い針とべつの用途にもちいる針との見わけがつかないので、やぶれやほつれをつくろっていたのか、刺繍でもほどこしていたのかまでは見当がつかないけれど。
「あぶないなあ」
 こんどはひとりごとにしてはおおきな、起きている相手に話しかけるような声でつぶやいてそちらへ足を向ける。数秒まえまでとは事情がちがう、もう目をさまさせてしまったってべつにかまわない。それでも足は自動的に、ある一角を避けてベッドまでの動線をたどる。
 かって知ったるなんとやらだった。糸ごと指からとりあげた針を棚の道具いれへしまいこんでもどり、布はさすがにどうしたものかわからないので、ひとまずベッドの足元へとおざける。
 見おろした端整な横顔は、周囲で何種類もの音が交錯したことなどまるでとおい世界のできごとだというように、まつげの一本さえ微動だにしない。息をついてとなりへ腰かける。ベッドがぎしりと音をたてても、かすかで規則的な寝息はゆらがなかった。
 ——ずぶとい、ずうずうしい、あつかましい。
 言いかたはなんでもいい、とにかくあのころとまるっきりかわったいまのわたしは考える。なにをしに来たのかという問いに身がまえたあのころの自分なら、好きなひとが目のまえで眠っているこの状況で、いったいどうしただろう。
 ノックに返事がなくてもなかへあがり、あぶないですよと手元の針をよけて。それくらいのことはできたかもしれない、ああ、でもきっと、こんな……。
 こんな、の先が喉をとおっておなかの底で溶けていくのを感じながら、指の背でコギトさんの髪の外縁をなぞった。背板と頭と肩のあいだでたわんだいびつな輪まで、三秒と経たずにたどりつく。つよく引いてしまわないよう注意をはらうまでもなく、うずめた指先をすこしすべらせるだけでかんたんにほどけて肩へこぼれるその髪をそっとすくった。
 色もくせもないひとすじを指にからめると、とらえておけずに指のあいだをするする逃げていく。温度がないから、なんだか朝の小川に指先をくぐらせているみたいだ。ありきたりな表現が静まりかえった脳裏に浮かび、イメージされるそのままに流れて消えていく。とめどないせせらぎ。あのころのわたしをいつの間にかここまでつれてきた、しずかな流れ。
 ずいぶんとおくまで来たなあと思う。あのころここを訪れるたび、なにか訊かれるまえに、言われるまえにと必死に言葉を用意した。だけど彼女が訊ねたからではなくて、因果関係はむしろ逆なのだ。
 ——今日はなにを話しに? それともなにか持ってきたか?
 コギトさんと顔を合わせるとまずそう問いかけられるようになったのは、しばらく経ってから。そのころにはギンナンさんから買いとっためずらしいもの、あたらしく探索した地域、出会ったポケモン、聞きはさんだ伝承の裏どり——かろうじてそれらしく聞こえる理由はとっくに使いはたしてなんなら二周目にはいっていた。苦笑しながら訊ねたこのひとは、おおかたわたしがひとりでやっきになっているのも、なにもかもわかってあきれていたんだろう。
 前述のとおり理由が尽きていたものだから、たまたまちかくに寄ったとか最近雨がつづいたから気になってとか、口実になるようなならないようなささいなものばかり呈示するようになった。コギトさんはなにをこたえてもあいまいにうなずくばかりで、納得してもらった手ごたえなどなかったにひとしい。なのにわたしはさほど経たず、なにを持ってきたともなにを話しにきたとも言わなくなって、それは。
「……わ」
 ふいに当の彼女が、ほどけた髪をもてあそばれながらはっきりみじろいだ。考えを中断して名前を呼ぶと、ゆっくりまぶたを持ちあげて瞳にわたしを映した。ねごとともうめきともつかないみじかくあやふやな声とともに、おもたいまばたきをくりかえす。
「……ん」
「起こしちゃいました?」
「んん」
「うーん、どっちだろう……」
「なんじゃ」
「なんでしょう」
「来ておったのか……」
 はい来てましたとなんのひねりもなくうなずくか、おじゃましてますとあらためてあいさつをすべきか迷う。
 でも結局決められなかった。ふたたび目を伏せたコギトさんの上体が無言でかしいできたのをあわてて抱きとめる。すこしもおもたくないとはいえ、重心をまるっきりゆだねられるとさすがに姿勢が安定しない。腕をのばしてどうにかひとつ枕を引きよせ、ふたりで落ちるようにベッドへよこたわった。
 こちらへなびいてきた髪のひとたばが頬をくすぐってこそばゆい。払うついでにむりやり肩を浮かせて唇で唇にふれると、彼女はやっぱりどういう意味なのか「ん」とだけ言ってしずかな寝息をたてはじめた。
 わたしを見とめて、なんだ来ていたのか、それだけ。また眠ってしまったからつづく言葉がないのは当然といえば当然なのだけど、たとえあれきり目をさましていたっておなじような反応だったはずだ。
 だってこのひとはいつからか、ここへ来たわけをわたしに訊ねない。わたしが最終的に口実も理由も用意しなくなったのはそのためで、言ってしまえばわたしが増長したのもコギトさんのせい、そんなわたしをこのひとがゆるすようになったせいなのだ。
 ——と、いうのはさすがに冗談として。あんまりやっきになっているので訊くようにしたのはいいけれど、聞いても聞かなくてもかわらないようなことしか言わないからやめた。そんなところなんだろうなあ、とよくわかっています。
 聞かせる相手のいない弁解を胸のなかへ、頭を枕へそれぞれ落とす。もぞもぞと位置を調整して首すじへ頬を寄せると、夢のなかからぎこちなくうごかされたコギトさんの腕が胴にまわって、ちょうど抱きしめられるような体勢におさまった。あたたかくてほどよくおもたくて、あらゆる方向からコギトさんの香りがする。頭の芯が溶けてぼうっとめまいがするくらいの幸福感が、はしのほうからすこしずつ眠気へ置きかわっていく。
 以前ならもしかしてでもきっとでもない、まちがいなくこんなことはできなかった。そういうわたしはたしかにあのころの面影をなくしてしまって、会いに来たと言うかわりに口実や理由をかきあつめた自分と、平然とふところにもぐりこむ自分と、どちらがどれだけ誠実でどれだけただしいのか、もうよくわからない。
 だけど、すくなくともこのひとの腕のなかが一度はいると二度と抜けだしたくなくなるようにできている、それを知っている、そうじゃない自分にはもうもどれない、もどりたくないと思う。
 顔をうごかさずに視線だけ持ちあげる。庵の壁とコギトさん。つぎに目をあけたときもおなじ景色が見えていたらいい。そう考えながらおもたいまぶたを伏せた。