たそかれどき

 ざ、というみじかい足音のつらなりをともない、ほのかに橙色がかった晦冥からコギトの前へ歩みでる影がある。誰そかれ、とふるい言いまわしをつかうまでもない。コギトは気どられない程度に息をつき、「なにごともないか」と訊ねた。
「ひととおり見まわってきましたけど……」
 言いながらかすかにうつむけた視線の先で、帯締めにはさまった木の葉の存在に目をとめたらしい。ぴんとはじいた指でそれを払いおとし、ショウは顔をあげた。ほとんど野山のむこうへ隠れつつある夕焼けのなごりをおもての半面に受け、首を横に振った。
「だいじょうぶそうでした。気のせいだったか、すくなくともそばからはいなくなったみたいなので、安心してください」
 そういう話ではなく。
 とっさに喉元までのぼったのをどうにか押しとどめたコギトは、同時に浮かんだ二、三のことを口にするか迷ってもてあましたあげく、脳裏でいましがたのショウの口ぶりをなぞった。ごく気楽なものだった。話すのを最後に聞いた際は別人が口を借りていたのかと錯覚するほどに。
 質問によって知りたかった本意を、どうにか推しはかれないということもない——やがてそう落としどころを見つけると、「帰りぎわに手間をかけたの」とだけ言った。
 あす未明からの調査予定を控え、庵に宿さずムラへ帰ってゆく折だったショウがはじかれたように顔をあげてとおくを見やったのは、およそ三十分前のことだ。
 オヤブンのあげるそれと似た咆哮を聞いた、ようすを見に行かなくてはならない。かたく緊張した声と表情でそのむねをつぶやいたショウは、コギトが制止する間もなく隠れ里の外へ向かってきびすをかえした。うすい背中はひるがえった襟巻きごと、またたくすきに暗闇へまぎれた。相棒のいずれかを放ったらしいボールの作動音だけ、コギトの耳に残して。
「いいえー、ちっとも。むしろ自分のためなんです」
 あわてるように顔の前で振られたショウの指先が、暗がりに残像をえがいてひらめく。コギトが回想していた三十分前の光景は、ちょうどのぞきこんで顔を映していた水面へその指を差しいれたようにかきみだれて拡散した。いれかわって目前へあらわれた現在のショウが手をおろし、おだやかに笑った。
「だってちゃんとたしかめなくちゃ、安心して帰れません」
 そう言ってふいに自分が往復してきたばかりの背後を振りかえるので、コギトもつられてそちらに顔を向ける。無意識に息をひそめ耳をすませるが、夕方のぬるい風に草木がさざめいているほかに聞こえるものはなく、自分たち以外の生きものが発する気配も感じない。
「なんぞおりそうなのか、まだほかに」
 そういうわけではないのだろう。振りむいた動作のどこにも、遠ぼえのことを口にした際の差しせまった雰囲気は見あたらなかった。うすうす思いながらもひとまず訊ねるコギトへ向きなおり、ショウはちいさく頬をかいた。
「ああ、いえ、そういうわけじゃ。……暗いの、いつのまにか平気になったなあと」
「平気に?」
「明かりのついてない、階段とか廊下の先とか、夜の道の、はしっこのほうとか。そういうところが怖くて、ひとりで行けなかったので」
「子どもの時分にはよく聞く話じゃな」
「というか、なんというか。うーん」
 もったいぶるやりとりでもないというのに、妙に煮えきらないものいいをする。それで違和感をおぼえてみれば、そもそもそこへ向かってわずかさえ躊躇を見せず駆けだしていった人間が、いまさら気にすることでもないように思われた。コギトが内心のみならず実際に首をかしげていると、やがて頬から指をはなしたショウがどこかにがく笑って「たぶん」とつぶやいた。
「子どものころも、怖かったでしょうね」
 その言いまわしに、はたとコギトは気がついた。食いちがったまま会話をつづけていたらしい。ショウが暗い階段や廊下の先や夜道のはしを恐れたのも、逡巡せず飛びだしていけるほど慣れたのも、どちらもどうやらヒスイにやってきた以後の話だ。
 日常生活にも会話にもほとんど差しさわりがない。身に染みついた生活習慣とヒスイにおけるそれとの差異にときおりとまどい、おどろくようすにそれがただよう程度なので、つい意識から取りおとすことがおおかった。この少女はヒスイへ流れつく——そう表現するのが適切なのかどうかわからないが——までの日々を過ごした場所について、記憶がひどくおぼろげらしいのだ。具体的な、たとえばだれと暮らしなにを話しどこを訪れたか、そういった記憶はほぼ浮かびあがらないようだった。
 思えば一度、ヒスイの夜は暗い、とつぶやくのを聞いたことがある。日の沈む夜が暗いのは自然の摂理だ。けれど彼女のいた土地では夜道をさえ規則的にならんだ常夜灯が照らし、人里をよほど離れた山奥でもなければ、まったくなんの灯りも存在しない場所のほうが希少だったという。純粋な夜のとばりは彼女にとって新鮮で、またその際はおくびにも出さなかったものの、恐ろしくもあったのだろう。
 きびすをかえす以前よりもふかく薄闇にひたったショウの顔を、コギトは三秒間まじまじと見つめた。
「ずいぶんむかしのように言うが」
「え?」
「いまも子どもに見える」
 ショウは意味をはかりかねたのか、コギトが見つめたのとおなじだけの時間、目と口をまるくひらいたまま黙った。やがてゆるみかけた表情を咳ばらいでごまかし、「もっとちいさかったころですよお」とまじめくさった口調で言った。
「これくらいに?」コギトはもののおおきさをあらわす手つきでころころマメひとつぶ程度のすきまをつくり、ショウへ向けた。「それともこれくらいか?」
 言いながら、すきまをいきいきイナホひとつぶ程度まで縮小させる。唇を隠した握りこぶしのむこうでちいさく吹きだす気配があった。観念したように息をついたショウが、「おぼえてないけど、それくらいだったかもしれません」とはっきり笑った。
「いきいきイナホもおどろきの成長ぶりだのお」
「じつは最近、ほんとにちょっと背が伸びたんです。きっとまだまだおおきくなりますよー、末恐ろしいくらい!」
「……はあ、かよわい年寄りをあまり怖がらせんでくれ」
 コギトがひたいへ指をあててこたえるまでにはさんだ一拍は、おそらく不自然さを悟られなかっただろう。ショウはくすくすと肩をゆらし、たわむれの延長線上の口調で「またまた」と言った。
「かよわい……かどうかはともかくお年寄りじゃありませんし、そもそもコギトさんが怖がってるところなんて、わたし、想像つきませんよ」
「ひとをなんだと思っておる」
「コギトさんだと思ってます。じゃあ訊きますけど。コギトさんにもなにか怖いもの、あるんですか?」
 コギトを見あげるショウの瞳の表面に、夜と夕方のはざまの色をした影が落ちている。虹彩のはしにときおり映りこむのは、日が暮れはじめたころあいに庵の外へ焚いたかがり火だろう。コギトにはじゅうぶんすぎる光源であっても、ショウの目にはそのかぎりではない。逆光になった影のゆらめきでしぐさを知ったとして、表情までは見てとれないはずだ——その事実をたしかめることで、コギトはどうにか自分の現在の表情を意識せずにいられた。
 ヒスイの夜について語った当時のショウはまだ、暗闇へ踏みいるのをためらったかもしれない。コギトの止めるすきをみせたかもしれない。しかしいまのショウにとってその恐怖はもはやどこかとおくへ置きわすれてきた、実感も湧かないうすい感覚でしかないのだ。止める声も追いつかない速度で迷いなく駆けだしていき、戻ってからはたとそれを思いだすほどに。
 コギトにもおぼえがあった。なにかを恐れることについて。時を経るにつれその恐怖がうすらぎ、やがて完全に消えさり忘れることについて。
 暗闇が怖かったかもしれない。人間をたやすく引きさくポケモンの爪や牙が怖かったかもしれない。訪れるかもわからないだれかを待ちあぐね、果たせるかもわからない使命をかかえてひとり過ごしつづけることが、怖かったかもしれない。
 そのいずれをもコギトは忘れたが、かわりにいま、ひどく怖いものがある。
「しいて言えば」
 怖い。
 負った傷を隠されることが。置きみやげのようだと考え縁起でもないと打ちけしたボールの作動音が、真実そうなるのが。誰も戻らないまま、あすの朝を迎えるのが。
「イモモチが怖い。なによりも怖い」
「あはは。それじゃあつぎ来るとき、いっしょにつくりましょうか」
「……怖がらせてくれ」
 ショウは一瞬ふしぎそうな顔になったが、聞きまちがいと判断し、また直前の会話から正答を探して当てはめたらしい。目をほそめてたのしげに笑った。