砂漠の月
ひと呼吸ごとに、行き場をなくしてわだかまった熱が夜へほどけて希釈されていく。ひとつまばたきをするごとに、白んだ朝の輪郭と距離がちぢまっていく。それでもいまはおぼろげにしかとらえられない目と鼻の先から、かすれた声が言う。
「喉がかわいたな」
とっさに起こしかけた肩を、きつく握りしめてからめていたあいだの温度をすっかりなくした指先が、あるかなしか程度の力だけで押しとどめる。気配は衣ずれと、それから足音をともなってベッドをまわりこみ、間をおかずそばへ戻った。かわらずひんやりとした指が、こんどは肩でなくわたしの頬を、おさえるのでなくくすぐるようにそっと撫でた。
「ほれ、飲むじゃろ」
「飲ませてほしいな」
「なにを甘えて……」
自覚のある甘えをすくいとって笑いまじりにはじまった言葉は、そこへ差しかかり、ちいさな呼吸音をはさんでとぎれた。
いや、そうか。ひとりごとらしい、なにかに思いいたったようなつぶやきのあと、「起きなさい」とやわらかく言われてそのとおりにする。ななめにうわむけたおとがいに指のふしを、ひらいた唇に指よりもつめたい硬質な感触をそえられる。張りつきそうな粘膜をうるおしてひろげながら、味のない液体が柔和な速度で喉を流れおちていく。
ほしかったぶんだけあたえられた水は声やしぐさでの合図も必要とせず、心を読んだようなタイミングでぴたりと止まった。唇にふれていた陶器がとおざかると、やがて一度だけ、ごくりというかすかな音が聞こえた。
「やはり、見えておらんのだなあ」
「コギトさんは見えてるんですねえ、やっぱり」
彼女とわたしの距離はちかい。そのはずだと推測できるのではなく、事実としてたしかに。
けれどおそらくうるおされた喉がたてたのだろう音も、つづけたコギトさんの言葉も暗闇のむこうからひびくものだから、しだいにふしぎな心地がしてくるのだった。まるで耳がどこか、歩いては到底たどりつけないほど遠方の土地で、かすかにおこった物音をひろったような。
コギトさんは夜ごと灯りを落とすまえ、庵の入口へていねいにとばりを引く。そのうえで光源にとぼしいヒスイの夜のなか、さらにゆるやかな目張りをほどこした空間を、まるで昼間のようにこともなげに歩きまわる。苦もなく探しものを手にとる。
すべて今夜が、いましがたがはじめてだった。かわいた喉に水をふくませてもらったのも。おたがいにうすうす悟っており、また理解していると知ってもいたことを、わたしたちがはっきりと話題にしたのも。
庵で決して欠かされない彼女の寝支度はわたしがひとときそう考えていたように、吹きこむすきま風をふせぐのをおもな意図としているのではない——街灯もなく、わたしにはほとんどまっくらと感じられるヒスイの月夜が、入口のステンドグラスを透かす月光が、きっとまぶしいのだ。夜目のききすぎるこのひとにとっては。暗闇におおわれたものをつぶさにとらえる、彼女の瞳にとっては。
色素のうすい虹彩が、夜にちらばったかがやきの粒子をあつめ、拡散させる。彼女の足元に道をしめす。
そんなイメージからふいにべつの光景を連想して「なんだか」と切りだすと、水差しの置かれる音が相づちのようにことりと鳴った。もしコギトさんがとなりへ戻ってこようとしても、わたしの目には彼女がそれを映すようには、よく見えない。枕に腰を、ヘッドボードというのか飾り板というのか、とにかくそこへ背中をあずけ、ベッドの対辺へすこしだけからだを寄せる。
「砂漠の夜、みたいですね」
「……さばく?」
「うろおぼえもうろおぼえなんですけど。月の光を反射するのでけっこうあかるいんだって、聞いたことがあるような、ないような」
「いや、そうではなく」
「ではなく?」
「さばく、さばく。……それこそ聞いたことのあるような、ないような気がする」
わたしが首をかしげたまま「ああ」と納得の声をこぼす間に、コギトさんはあいかわらずとおく聞こえる声音で「なんだったか」と言葉を継いだ。いくぶんそれまでよりもひくい位置から聞こえたので、どうやら直前つくられた申し訳程度のスペースに腰かけたらしいとわかった。
ヒスイには砂漠がない。よってコギトさんは、口ぶりから推しはかるに単語くらいは耳にしたことがあるのかもしれないけれど、現状の実態として『さばく』を知らない。必然、わたしの連想したものも伝わっていない。
それは知れても、こまってしまうのはどうしようもなかった。だって引きだしはからっぽだ。さほどながい年月でもないけれどそれなりに生きてきて、砂漠の説明をしなくてはならない場面に、これまで一度も出くわさなかったものだから。
「ええと……そうだ、南のほう。ヒスイよりもずっと南のほうの暑くて乾燥したところに、雨の降らない、砂ばかりの土地があって」
「ああ、砂。それで砂漠、か。単に雨の降らぬ砂浜というものでもないのだろうな」
「はい、海のかわりに見わたすかぎりずっと、どこまでも砂の丘がつづいてるんです。日中は、火吹き島ほどじゃないかもしれませんけどぎらぎら暑くて、夜はこごえるくらいひえるとか」
「おまけに雨も降らんとは。過酷じゃなあ」
「そうです、ひとはほとんど住めない」
ふうん、とつぶやいたコギトさんがそれで、とつづきをうながしながらおそらく布団のはしをめくり、ベッドへ脚をのせた。足の指がシーツをすべるほそくするどい音。これも足音というんだろうか。おなじ部位でおなじ位置でおなじ動作をしても、わたしがたてるとまったくちがう音になるようで、いつもなんとなく耳をかたむけてしまう。
「ひとがほとんどいないから、もちろん暗いんです。だけどひとのつける灯りがほとんどないと、月も星もとってもあかるく見えるって」
「見えるもなにも。月も星も、あかるいものじゃろ」
「コギトさんほどはあかるく見えないんですよお、みんなというか、わたしにも。……そうだ、それでそのあかるい光を砂が反射して、もっとあかるくするんだって。たしかそういう話だったんだ」
ぼやけた速度と軌道で放った話をどうにか着地させられて、内心ほっと息をついた。調査隊としての職業病なのかもしれないけれど、はじめてそれを知るひとに、あんまりいいかげんなことは伝えたくない。相手がこのひとなら、なおさら。
「ふむ。なかなか興味をそそられる、うつくしい話ではある」
コギトさんの言いぶりを聞いて、暗闇へおもてをあげた。
人工の灯りにじゃまされることのない夜の光が、どこまでもつづくあわい色の砂丘へおしみなくそそぐ。そういう光景を思いうかべ、ふくらませてうつくしいとあらわしたのだろう彼女に基本的には同意するところだった。けれど自分もおとずれたことのない、目にしたことのない場所を想像のなかで飾りたてていきながら、ふとべつの思いが湧きおこる。
ついこぼれたものをコギトさんがおなじようにこぼしたなら、たとえ見えないにせよ、難なく苦笑だとわかっただろう。
「なにを笑う?」
「わたし、ほんとうの砂漠を見たこと、一度もないんです。話をなんとなく知ってるだけ。それなのに想像のなかでは砂漠がどんどん、すごくきれいな場所になっていく。……なんだかコギトさんみたいだなあって」
「今夜は比喩がおおいのお。それにそこでなぜ、あたしが引っぱりだされければならん。出演の手間賃をもらうぞ」
また、こんどは彼女の軽口に他意なく笑って、となりの肩へ顔をのせた。骨ばっていて、けれど頬にあたる二の腕の感触ばかりは指先よりやわらかくてつめたい。心地よさに目をふせる。
「……だって、見たことがないのはいっしょです。わたしには見えないもん、コギトさんみたいに」
飲ませてほしいと言ったときとおなじ、自覚をもって甘ったれた声音と口調が出る。とはいえ、もう水のようにねだれるものはなにもない。さすがに笑いとばされるかひたいをこづかれるかだろうと思っていたら、「砂漠とちごうて」としずかな声が言うので、まぶたを持ちあげた。
「すぐちかく、歩きさえせず行けるところにあるのだから、確かめてみればいい」
「……それって」
もしかして、もう一度。
そうつづけかける先を、わたしは飲みこんだ。
黙ったまま唇でたどった鎖骨が、かすかにふるえる。表情が見えなくても声が聞こえなくても、いまだけは手に取るように、目に見るようにわかる。
口にしたら、きっとまた比喩がおおいと言われるだろう。そんなことを考えながら、砂漠の夜空に浮かぶ三日月のようにゆがんだ唇へ、まよいなく唇を寄せた。