泣かないで
コギトさんはおどろかない。うしろからこっそりちかづいて声をかけても、連日の雨のせいで庵のそばの小川が決壊寸前になっても、果てはそのあたりから不穏な吠え声が聞こえてきても、うかがえる反応といえば「おや」とみじかいつぶやきをこぼし、かすかに目をまるくする程度のものだ。それだってわたしがひとつまばたきする間にはうすれて元どおりになってしまう。
おどろかない。
もしかするとそう感じる根拠として適切といえるのは最初に挙げた例だけで、あとのふたつをふくめて考慮すれば動じない、とあらわしたほうが正確なのかもしれない。それにそもそも最初の話については、すこし距離をつめただけの時点でいつもさとられて振りかえられてしまうので、結局成功したためしがないのだった。
つまるところどれもあまりいい例とはいえないなあ、なんてぼんやり考えるけれど、間髪いれずに思いなおす。この際どちらでもかまわない。だってたとえがよかろうがわるかろうが事実はかわらない。なんにせよコギトさんはおどろかない、あるいは動じないのだ。まえぶれもなくベッドへ組みしかれている、いまこのときでさえ。
感心ともあきらめともつかないふしぎな気持ちをおぼえながら、上半身をすくめておおいかぶさる。背中からこぼれおちて彼女の頬をかすめそうになる髪を耳に引っかけると、夜気にひえた鼻先がふれあうかふれあわないかの距離でささやいた。
「……あの、おどろかないんですね。こんなふうにしたこと、いままでなかったのに」
「こんなにもおどろいているのが、伝わらないものか」
「うそだあ、ぜったいおどろいてないくせに。……うそつき」
「ひとぎきの、ん」
ため息をつくようにふっと笑って言いかける、その先の軽口と吐息を盗みとって唇を落とす。顔をはなしてまぶたを持ちあげると、おくれてひらいた瞳がともったままの灯りを見るのがわかった。視野をふさぐように、角度をかえて口づけをくりかえした。
寝床にはいろうとする一瞬のすきをついて押したおしておきながら、いつもどおりまったく動じたようすを見せない彼女に対してひそかに胸をなでおろしている、おどろかないのかと訊ねておきながら、今夜もそうでいてくれないとこまってしまう、そんな自分をよく知っているつもりだ。だから灯りを落としたくなかった。どうせわたしがなにをしたっておどろかないし動じてくれないその顔を、今夜はこのまま最後まで見ていたかった。
唇から首すじへ、首すじから寝間着の合わせへ、指を差しいれてすきまをつくったえり元から鎖骨へ。コギトさんは唇と唇をふれあわせるのでも、唇で唇以外の場所にふれられるのでもなんでも、およそキスと呼べる行為が好きだ。はっきり言われたことはないけれど、ほぼ確信にちかいものをもっている。浮きでた骨の稜線や耳朶のまるみを、手でたどるのと唇でそうするのとでは、体温のあがりかたが目に見えてちがうから。
帯の結び目を引いてすこしずつほどきながら、唇と指先で布のなかへ忍びこんでいく。あたたまりつつある肌にわたしの体温がつめたいのかびくりと肩がはねるので、とっさにふれるのをやめてごめんなさい、だいじょうぶですかと案じてしまいそうになる。衝動をぐっとのみこんであちこちに手のひらを這わせ、あさくなっていく呼吸をうばうようにときおり舌を舌にからめて、皮膚のしたでまだ眠っている感覚の種を呼びさましてまわる。
「……っ、ショウ?」
あさくみだれた吐息のむこうから名前を呼ばれたのは彼女のひざをシーツから浮かせ、つけ根に向かって脚のうらをなぞりあげた、ちょうどそのときだった。
こんどばかりはさすがに手を止める。すっかり意識から消しさられてしまったらしい灯りが、唇をはなしたわたしをまっすぐ見あげてくるおもてに、波うってゆらめく影を落としていた。色のない瞳が不安にゆれているように見えるのはその影がおこす錯覚だ。目をこらしてみれば、やっぱりおどろきや動揺はうかがえない。
「だいじょうぶですよ」
直前言いそうになったのとは真逆のことを口にする。つめたく投げやりに聞こえればいいと思ったのにうまくいかなくて、むしろ真逆に、なだめてあまやかすような口調になってしまう。性急さをいぶかしんでわたしを呼んだはずのコギトさんが、それを聞いてとまどっていたような目の色をうすめるから、胸中でああ、とふかくため息をついた。
このひとはおどろかない。動じない。おどろかないのはなにがおこるか知っているから。動じないのはなにがおこっても受けいれられるから。
ヒスイに来てずいぶん経つ。わたしの身長はそうなりたいと願ったほどには伸びなかったし、腕力だって同様で、そうなりたいとのぞんだほどつよくはならなかった。だから寝台によこたえられたってのしかかられたって、わたしを押しのけるのはコギトさんにとってさほどむずかしいことじゃないはずなのだ。
それでもこのひとはけっしてそうしない。かぼそく消えつつあるとはいえともったままの灯りを見やりはしても、消さずに自分のからだにふれるわたしをとがめない。だいじょうぶだなんてなんの意味も根拠もない言葉に、あっさり表情をゆるめてみせる。
信頼されているといえば聞こえはいい、だけど、ほんとうに。ほんとうに、それだけなんだろうか。
「……ね。だいじょうぶでしょ」
「ん……」
「もういれたって、くるしくありませんよ」
返事のかわりにわたしの唇をかるく食んで、コギトさんが息をつく。その耳へ水音が届くようにいりぐちをなでていた指を止め、彼女がついた息をもう一度吸うのと同時に、うるんだうちがわへそっとはいりこませた。
ぐっと背中を引きよせられてきつくしがみつかれて、熱をもってふるえているのが腕のなかのひとなのかわたし自身なのか、あっという間に境目を見うしなう。そこにはあつくて、せまくて、ぬれている、およそ快適とはいいがたい感覚しか存在しないはずだ。それがこのひとのなかだというだけで、どうしてこんなにはなれがたいんだろう。どうしてそこに押しいっているだけで、胸が焦げついて穴があきそうなくらい、たまらない気持ちになるんだろう。
どうしてなのか、ほんとうはわかっている。好きだから。わたしがこのひとを好きだから、好きで好きでどうしようもないからだ。
だからいくら理解していたって、どうせ、と思っていたって、つい願ってしまう。このひともおなじだったらいいのに。わたしのことでおどろいたり動じたり、たまらなくなってしまえばいいのに。
切実な声に名前を呼ばれ、ついばんでいた胸元の皮膚から唇をはなす。喉の奥へしまいこみそこねてときおりこぼれる声が、耳や頬や唇にぶつかる吐息が、隠しようもなく湿っていくのを知っていた。そろそろだろうと肌で感じていた。わたしたちはそれがわかるくらいの年つきいっしょにいて、それがわかるくらいの回数、からだをかさねている。
わかっていて、沈める指を足しはしても、ある一定の線から先へはすすめずにずっとあさいところにとどめて泳がせつづける。背後へまわっていた手にそのあたりの布を引かれ、えりがはだけて肩があらわになる。焦れている、もどかしい、余裕がない。いつもならそんなしぐさを見れば、からだの中心に熱のかたまりをかかえこんだみたいに全身があつくなるはずだった。だけど、今夜は。
「だめ」
そっけなくささやいたわたしの肩先をなでる空気がつめたくて、つめたいのに、さむいという感覚がない。肌のなかとそとの感覚も、頭で考えることと心で感じることも、なにもかもが切りはなされてばらばらになっている。
「だめです、コギトさん」
淡々とくりかえして、眉のはしがさがっているのはいつものことだけれどいまはその根もぎゅっと寄せている、たえがたいくるしみをやりすごすようにもあまい夢にうっとりしているようにも見える、そんな顔を見つめる。そうした動作に気配はのらなかったはずなのに、音だってたたなかったはずなのに、きつくふせられていた彼女のまぶたのはしに、ひらいていこうとする兆候があった。
「あ、あっ、ショウ、ショウっ……」
「コギトさん、言って」
「ん……っ、ふ、あ」
「ちゃんと、言って」
言って。
おもてに、態度に出ないのだ。だから言ってくれなければ、言葉にしてくれなければわからない。そう考えて追いたてたのに、追いつめたのに。
なにがあってもおどろかない、動じない、そういうコギトさんを好きだと思う、ひどくしたいと思う、そういうわたしは彼女の目に、いったいどう映るんだろう——そんなこと、知りたがるべきじゃなかった。顔なんかまじまじと見ていなければよかった。コギトさんは眉を寄せ、唇を引きむすぼうとしながら、波うつ橙色のなかでひらいた目を、そんなはずもないのにまぶしそうにほそめた。
「……わたし」
言葉がこぼれるのも、手が止まるのも無意識だった。庵のそとは風もなくしずまりかえっている。コギトさんの心臓の鼓動がわたしの耳に聞こえないことが、いっそ不自然に感じられるほどに。
「断りました」
ぽつりとつづけると、コギトさんはあさくぬるい呼吸のいち往復だけ間をおいて、しばらくあえぎをかみころしていたせいでいつもよりささくれだった「ああ」という声をかえした。たった二音のみじかい声音だけで、彼女がとまどっても、ましてやあきれてもいないのが理解できる。それなのに、言いわけみたいな言葉がぽろぽろとこぼれつづけるのを止められない。
「さっきの話、わたし、ちゃんと……断って……」
「ああ。そうだろうとも」
「あのひとだって、わかっててわたしに声、かけてきたんです」
「ショウ」
「断ったら笑ってた、そうだよねって、でも」
でも。
わたしは先日ムラであったささいなできごとのいきさつを、このひとにあえて最後まで語らなかった。ふかく考えてそうしたわけじゃない。ほんとうにただなんとなく、気になった。縁談を持ちかけられたとだけ伝えたら、このひとがどんな反応を見せるか。さすがにおどろかせてしまうかもしれない。じっと観察してようやくわかる程度に、眉をひそめるかもしれない。そのときはちゃんと言おう。わたしは笑って断ったし、相手も断られることを織りこみずみで声をかけてきたからやっぱり笑っていた。それだけの話だったんですと、そう言おう。
結局、言えなかった。
「……ショウ、ショウ。あたしは」
わざと途中でとどめた話に、コギトさんが、なにがあったっておおきく感情をゆらさないこのひとが、
「あたしは、うれしかったよ」
——そうか、とつぶやいてはっきりと、うれしそうに笑ったから。だからたまらなくなった。たまらなく、こわくなった。
おどろかない、動じない。たいしたことじゃないからだ。受けいれられる程度のことだからだ。だけど、もしもわたしのこともおなじだったら。このひとにとってとなりからわたしがいなくなるのも、まばたきひとつはさめばのみこめてしまうような、ささいなことにすぎなかったら?
「そなたがいまはもうかれらに、あの場所の一員として受けいれられているのだとわかった。だって」
だけどきっと、どこかでわかっていたんだろう。組みしかれたってかんたんに押しのけられるはずのわたしを、むしろしがみつくように抱きよせるあの腕。そう、それから、くらがりでわたしを見あげてまぶしそうに目をほそめる、あの顔。そうして見てきたなにもかもに教えられて、ほんとうはわかっていたんだろう。
たいていのことに動じず、抱きあうときは灯りを消したがって、キスが好き。いっしょに過ごした日々のなかでこのひとのそういうひとつひとつを知ってきたみたいに、好きで好きでどうしようもないこの恋が自分ひとりのものじゃないことを、ほんとうはとっくに知っていたんだろう。
「……だって、そうじゃろう。そうでないのならそんな声が、そなたにかかるものか。……そう思ったから、うれしかったよ」
「……ごめ、なさ……」
「……はあ、やれやれ。わざわざ言わせずとも、わかってほしいものだがの」
あきれきったすえにため息といっしょくたに吐きすてるようなことを、だけど彼女が出すうちのいちばんやさしい声でつぶやいて、コギトさんはわたしの顔を引きよせた。目じりにふれてはなれて、灯りに照らしだされた唇の表面がぬれて光った。
わたしがいる。好きで好きでたまらない、そういう顔をしたわたしが映りこんでいる。わたしがなにをしたっておどろかないし動じてもくれない、彼女の瞳に。
ごめんなさいともう一度あやまるかわりにキスをかえした。目のまえのものがだいじでいとおしくてたまらない、そういう顔でほほえんで、コギトさんはあまい息をついた。