いまはまだ知らない

 たしかめたいことがあった。さほど切実なのぞみではなく、もしもいずれ機会があれば、タイミングが合えば、程度のつもりで。
 とはいえこれはこれで、いいきっかけだったのじゃないか。自分へ言いきかせるようにそんな考えをめぐらせて、「そういえば」と言った。じっとしたままでいるのがなんとなく落ちつかず、ベッドのはしからはみだした素足をぶらぶらとゆらす。いくらか予想外だった出だしのせいで、たしかめるというより試すような気分になってしまっている、たぶんそのせいだ。
「さすがになにもないと首元がさむくて、べつのマフラーなかったかな、って探してたら」
 言葉を切り、視線で正面をうかがった。
 伏し目がちにされた右の瞳はこちらを向かないし、相づちもない。ただ針と糸をあやつる指先が、よどみのない動作はかわらずたもったまま、速度だけをわずかにゆるめる。だからきちんと聞いてくれているのだとわかって、先を継ぐ。
「それは見つからなくて、ええと、だからむりやり直したんですけど。……そのかわり、はじめてヒスイに来たとき、履いてたサンダルが出てきたんですよ。なんだかなつかしかったな。もうわたし、ああいうの履いて走りまわったりできないかもしれません」
「ああいうの、というと?」
 コギトさんはやっぱり視線をあげず手も止めず、だけど端的にそう反応した。
 わたしの目から、彼女の手元の作業は八割がた完了しつつあるように見えた。なのでそろそろじゃまにもならないかと思い、なにげないそぶりで話しはじめてみたのだけれど、読みはさほどはずれていなかったようだ。
 一本きりの、代用品もないマフラーが探索中、ポケモンの一閃でやぶれた。とはいえ単純に切りさかれただけで、焼けこげるだとか溶かされるだとかの布地が再起不能になってしまうようなダメージはなく、断面もそうあらわすのが適切なのかどうかはともかく、ごくきれいなものだった。
 それで思いたって道具箱の片すみから、針と糸をとりだしたのだ。自分ではそれなりにうまく直せたつもりでいたのだけれど、どうもお裁縫に慣れ、どころかひとかどの腕前を持つコギトさんの目に、そうは映らなかったらしい。隠れ里をおとずれたとたんあいさつもそこそこに、それはどうしたのかとけげんな顔をされた。
 やぶれてしまったので直したのだとこたえるあいだにマフラーをほどかれ、ぽかんとして顔をあげきるまえに布をあてるから庵へと言われ、有無を言わさずきびすをかえす背中のあとを追い。そうしていまはベッドのはしに向かいあって腰かけながら、あざやかな手さばきでつくろわれてゆくマフラーを見まもらせてもらっているしだいなのだった。
 たしかめたいこと。彼女の縫いものの進捗と同様、すでに八割がたかないつつあるそれを反芻し、念のためとばかりに口をひらく。
「ゴム製、なんです」
「ほう」
「やわらかくて足には食いこまないんですけど、いまはそこが、かえって不安というか」
「不安。脱げてしまいそうで?」
「そうなんです、それにちょっと技を当てられでもしたら、かんたんに壊れちゃいそうで。オヤブンを相手してるときに脚絆だけ、もっとわるければはだしに……はだしで逃走……うう、考えたくないですう……」
 つづけた話の中継地点に、思惑も忘れて心底から寒気をおぼえる。身ぶるいしてつい自分の二の腕を抱きしめると、指先へ視線を落としていてもこの距離だ、しぐさはおおまかに見てとれたんだろう、コギトさんがこきざみに肩をふるわせながら「こら」と言った。
「やめなさい、手元がくるう」
「わたしだってやめたいですよ、でも本気で……イメージ、しちゃって」
「穴のあいた仕あがりにしてほしいというのなら、止めはせんがの」
「ほぼ完成まできれいに縫ってくれた状態から穴があいちゃうこと、あります?」
「あいてしまわなくとも、あえてあけるということは、あるかもしれんなあ」
「そんなあ。ヒスイでダメージ加工のマフラー、斬新すぎる……」
 だめおし、むしろなかばやけっぱちのように言って、目のまえのひとを見た。
 うすい唇が笑みのかたちに弧をえがいている。目じりが笑みのかたちにさがっている。だけどそれだけで、それだけだったから、わたしのたしかめたかったことにはあっけなくこたえが出てしまった。
 たしかめたいということはうすうす感づいていたということで、うすうす感づいていながらそうしたということはつまり、わたしがやっぱり彼女を試したのだということになり——親切にしてもらっておきながらという思いがあるので、それがひどくうしろめたい。
 やっぱり正面きって訊ねておくのだった。戦いにおいても対人関係においても、駆けひきだとか心理戦だとかにはまったく向いていない自覚があるのだから、なおさら。
 マフラーへあててもらった布の切れはしに視線を落とす。指先に巻きつけてもてあそびながらぼそぼそと彼女の名前を呼ぶ自分の声は、まるで失敗を報告するときの子どもの声のように聞こえる。
「ん。ああ、ショウ、その端ぎれを道具箱に放りこんでおいてくれんか。こういったこまかいものをつくろうのに使えるので、捨てずにおきたい」
「わかりました、んー、よいしょっと、あの、コギトさん」
「はいはい。……ほら、できた。ひろげてたしかめてみるといい」
「ありがとうございます、わあ、完璧。あたらしいのを仕たてたみたい! ……じゃなくて、コギトさん」
「なんじゃ」
「もしかしなくても、さっきからわたしの言ってること。意味わかってます、よね?」
 コギトさんはおもてをあげ、庵にはいって以来、はじめてわたしと目を合わせた。意味はわかるが意図はわからんと言いたげな表情で「ダメージなにがしのことか?」と首をかしげた。
「察するにショウのおったところでは、衣類にあえてダメージを負わせるような加工をする、ということかの。それはまた、ものずきというやら酔狂というやら……」
「あ、あーっ、それです、それじゃないけどそれですっ。マフラーとかサンダルとかも、ぜんぶ意味、わかってましたよね。たぶんいままでもずっと、わかってましたよねっ?」
 つまりわたしがたしかめたかったのは、そういうことなのだった。
 マフラーは襟巻き、サンダルは草履、ゴムはプリンやプクリンの体みたいにのびてはずむ素材、イメージは想像。コギトさんと会話する際はヒスイの外にルーツを持つと思しい、まだこの土地に存在しないかもしれない言葉をそういうふうに、できるだけ彼女に伝わりそうな言葉で言いかえるようにしていた。
 ところがいつだったか、うっかりそれを忘れてしまっていたにもかかわらず問題なく会話のつづいたことがあり、はたと思いいたったのだ——もしかしてこのひと、ふつうに意味、通じてませんか?
 ポケット、モンスター、ボール。ヒスイを基準におくならすべて外来語といえるけれど、現にコギトさんはそれらを知っているし、日常的に口にする。よくよくかえりみてみれば、隠れ里の外部とまったく断絶された生活をおくっていたわけではない彼女が、ヒスイのなかでうまれた言葉しか知らないと考えるほうがむしろ不自然だった。
 ただし、それだけでは説明のつかない点が、ひとつある。
 コギトさんはわたしがそばへ引きよせた道具箱に糸切りをしまいながら、なにか問いつめられているひとのようすとも思えないくらい、からりと笑った。
「また急に、なにを言いだしたかと思えば。そのことか」
「やっぱりー! も、もう、通じてたなら言ってくださいよお……」
「なぜ?」
「なぜって。意味をわかってるひとに、そうとも知らず何度もおせっかいしちゃって、顔から火が出そうですし……だいいち知ってることわざわざ言いかえられて、まどろっこしかったり、いやだったりしなかったんですか?」
「とくべつまどろっこしくはないし、いやということも」
 こたえに並行して、縫い針にとおった糸が引きぬかれ、糸巻きにくるくると巻きつけられてゆく。
「——ないな。しかしそうか、ショウがどう感じるかということについては考えがおよばなかった、わるいことをした。なにせあたしはわりに、たのしく思っておったものだから」
「たのしい? なにがですか?」
「あたしに通じるよう一生懸命に言葉を探す、そなたを見ているのが」
 体感で十秒、おそらく実際には一瞬。庵のベッドのうえの光景がとおざかり、光も音もないはずの空間で、コギトさんの言葉だけがリフレインした。リフレイン、くりかえし、だろうか。言いかえを探すうちに現実へ立ちもどると、わたしはまずコギトさんの手から糸巻きを取りあげて道具箱へ放りこみ、箱ごとベッドの対角へ押しやった。
「おや、まだ巻ききっていないのじゃが」
「あとにしてください、ほんと、もう、ひとをきゅうっとさせることばっかり言って……魔性っていうかなんていうのかっ」
「……魔性? まったく。あたしがいつ、ひとをたぶらかしたり、まどわせたりした」
 この後におよんでとぼけているようすでもなく、意味はともかく意図をつかみかねる、先ほどとよく似たそんな表情で、コギトさんが片目をまたたく。時代のくだった先で気軽にもちいられる、自分の魅力で相手をおぼれさせる性質としての『魔性』。一寸先も見えない純粋な夜のとばりのなかを切実に生きるヒスイのひとびとに、それはまだ存在しない概念なのかもしれない。言葉について考えるのがもうほとんどくせになってしまって、とっさにそう思う。
 だけど通じるとか通じないとか、伝わるとか伝わらないとか、もう、すくなくともいまこのときは、どうでもいい。
「それでもとにかく、コギトさんみたいなひとのことです」
 言った声はもう、不安そうな子どものそれではなかった。なにか言いかけてうすく唇をひらいたコギトさんの肩を、手に持ったままのマフラーごしにつかんで押した。背後の枕元へいっしょに倒れこむと、ふれるかふれないか程度に口づけて、顔をはなした。
「……おや。ショウ、これはなんと言うのだったか、忘れてしまったな」
 わたしの体が落とす影のなかで、自分が直したマフラーを指先にのせながら、けれどそこへは目もくれずに、コギトさんが言う。教えてくれないか、と笑う。
「……ちゅー、です」
 うなるようにひくくかすれた声と子どもっぽい言いまわしが、いかにもちぐはぐでおかしくて、だからといってこちらはちっとも、笑えやしない。わたしの言葉をはっきりした発音でくりかえす、たぶんキスという言葉も知っているひとの唇へ、唇でもう一度ふれる。