春が来る、花が咲く
コギトがその光景を見とめたのは、ふと履きものの底へうける感触が妙にやわいのをふしぎに思い、視線をおろした拍子だった。土を踏んでいたはずの爪先が路傍の緑のうえにある。顔を空へ向けたまま歩いていたので、おろそかになった足元が知らずしらず道をそれたらしい。
風やらポケモンやらの力を借りて種子をはこびいれたのだろう花々が、目線の先で天をあおぎながら陽ざしに揺られていた。白と黄と青と赤と紫と、並べたてるのが追いつかない、春めいたごく無秩序な色相で。
見てあきらかなことだ。花の名前もひとつひとつ頭に並んだ。しかしその一方、コギトには名前と並行して浮かぶ可能性のどれもがただしいように思われ、どうにも判然としなかった。それらがつぼみをひらいたのが今朝がたか昨日か、はたまた数日まえのできごとだったのか。春の陽気を感じていっせいに咲いたのか、あるいは一輪一輪が思いおもいに目をさましていったのか。
歩みをもどす。めざす小川はすでに視界の先にはいっていた。ゆるやかに傾斜した道をくだりはじめて重心がうごいたせいか、ひじにかけた水桶が一度おおきくはずんで存在を主張する。
間もなく橋のたもとへついて腰と桶をおろした。手袋をはずした手でせせらぎをたしかめると、山麓からの雪どけが、とじた指をひややかにこじあけて流れすぎていく。永遠に降りやまず積もりつづけるようだった雪が、はたしていつ、こうして隠れ里の小川へそそぐまでにほどけたのか。それもまた、くぎりをつかみかねることだった。
このところそうした詮ない考えばかりが、折にふれてコギトの胸へおこる。花はいつ陽のもとへつぼみをひらいたのか、冬のあいだの根雪はいつゆるんだのか。自分はいつからこうしてしずしずと、水を汲みに道をくだるようになったのか。
手を流れにひたしてもてあそばれるままに放っていると、こたえの出るよしもないものはあてどなく全身をめぐったのち、やがて自分以外の声をともなって脳裏へひびく。
ものずきの声だ。
——そうなったら、もう、たぶん……
もはや差しせまった用事も必然的な理由もないだろうに、飽きもせず間をおかず、ひねりだす余地などないはずの口実をたずさえて隠れ里をおとずれる。そんな、ものずきとしか呼びようのないものずきの声だった。ひとりの少女であり、ショウという名前がついていた。
久方ぶりに名をおぼえることになったヒスイの大地の住人、ものずきであり少女であるショウの名前や顔、あるいは声。そういった、彼女を構成する要素を空にとらえようとするとき、コギトはたいてい同時に、このごろつねにかかえるなかでもとりわけ詮ないものを、問いとして自分へ向けた。
なぜ。
そもそもなぜ、あんなことを。
恋慕、恋着、愛慕、呼びかたはなんでもかまわなかった。正確には言わせたとあらわすべき経緯のすえ口にされたのだったが、是非もどうでもいい。ともかく先日、コギトにそういうたぐいのものを向けていると、ショウは言った。
実のところコギトは、はっきりと声にされるのにずいぶん先だち、それについてを承知していた。なにせショウが毎回欠かさずたずさえてあらわれるものは、彼女のうすい背中で隠しおおせるのにいささか無理のある熱量だったし、そうでなくともうしろ手に隠したがる本人の意志をつねに飛びこえ、自身の存在を主張してやまなかった。ちょうど、ひじにかけた水桶がはねるように。
だからくだんの先日、万がいち、億がいち、兆がいち——それだけありえないのだという前提を、基本的にはのんびりとした気だてのショウでさえいぶかしむほど幾重にもかさねて、コギトは訊ねたのだ。
自分もショウと同質の感情をかかえていると言ったなら、どうするのか。仮に自分たちが両想いというものにあたったなら、その先にいったいなにを見るのか。
まなうらにひらめいた回想をいったんとどめ、流れにひたした手を引きぬいた。しずくを振りはらい、なおもぼうっと川面をながめる。どこか上流で落ちたらしい青々とした木の葉が、岸へぶつかりうねる水流にくるくるとまわりながら、目前を通りすぎてゆく。
一瞬たりともひとところへとどまらず、浮かべたものを平等に押しながすはずのせせらぎは、けれどごくかぼそいショウの声の一音さえ、コギトの脳裏から洗いさることはなかった。
——そうなったら、もう、たぶん。
——死んでもいいです。
コギトの問いにうろたえ、硬直しテーブルへつっぷしてうめき、ひととおり動揺をあらわにしてから、ショウのしぼりだしたこたえだ。
ひとを恋うた経験がないのに由来する、極端で投げやりな言いぐさ。そう判断して少女の口ぶりを諌めた当時のコギトは、直後に自分の思いちがいを知ることとなった。
積極的にいなくなってしまいたいのではない。ただ役目を果たそうとなにを成そうと、もといた場所への道がひらかれないと察したいま、それがかなえばほかに願うこともなくなってしまう。そう思ったゆえに、思うあまりにいきおいあまって言葉えらびを誤った、と語ったショウが、すまなそうに眉尻をさげて苦笑したからだった。
それから。
ため息をついて桶の持ち手を取りあげ、へりをかたむけて水面へ差しいれる。そそぎこんで容器を満たしていくせせらぎのおもみを感じながら、後悔ともみずからへの懐疑ともつかない温度でコギトは自問を反芻した。
なぜ、そもそもなぜ、あんなことを訊ねたのだろう?
ショウに隠しきれていない自覚があるにせよないにせよ、どこかで線を引かなければならない。その動機へたしかに見いだしていたはずの道理が、いまはもうどれだけ探せど見つからなかった。
はじめて顔を合わせて名のりあった際も、隠れ里を一時的に拠点としていた期間も、ショウはコギトに向ける感情のなかに、まだ恋と呼びあらわされるものをひそませてはいなかった。線を引くというのなら、くぎを刺そうとするなら、気づいたその瞬間に彼女をとおざけて実行してしまうべきだった。そうしないのなら、ただそのまま目をつむっていればよかった。だというのに、それだけにとどまらず。
ふと、視野の上端でなにかうごくのをとらえて正面を見る。案の定ものずきが、小川の対岸からにこにこと腕を振っていた。みじかい橋をはねるような足どりで渡ったものずきは、コギトのそばへ立っておおきな目をほそめた。
「来ちゃいました」
けしつぶのような点が、快晴の空に打たれるのを見た。ものずきが今日も、ものずきたるゆえんを発揮したのだとわかった。だから水桶をさげ、小川へ足を向けた。
コギトがただ「そのようだの」とだけ言うと、ものずきはなぜだか橋と川面と空とを順につないで目をおよがせた。
「ええと。今日はほんとうになにもなくて。調査、あんまり進んでないですし」
「うん」
「渡したいようなおみやげもなにもなくて、手ぶらで」
「むしろいらんと言うとる。いつも」
「う、でも……わ、お水。コギトさん、お水があふれちゃってますよ」
「……ん、ああ」
あわてた声に指摘され、コギトは手のひらにかかるむやみなおもさに気がついた。目をもどせば、かたむけていたはずの桶はすでに必要以上の水で満たされ、どころか流れに圧しまけて川面のしたへ沈みかけている。
引きあげるにはそれなりの力が必要だったが、ひとりではたせないほど困難な仕事というのでもない。ショウの申しでた助力を手ぶりでことわり、立ちあがる動作で持ちあげた水桶を、置くというよりほとんど落とすように足元へおろす。いきおいであふれた中身が地面と裾へそれぞれしたたり、かすかに肌までしみた。
先ほどまで手をくぐらせていたせせらぎを切りとったとも信じがたい、布地にやわらげられたぬるい感触。すぐにかわくだろうと考えながら、なんとはなしに視線をさげる。水に濡れた桶の胴がにぶく陽光にきらめくのを、衣服と地面が点々と色を濃くしているのを見とめる。
とりたてて言うべきところもない、自明の理じみて当然の光景だった。けれどコギトはその瞬間、ふいにはっきりと知覚して目をまたたいた。視界からはいって喉をとおり、どこへとどこおるのでもなく、まっすぐ腑をめざして落ちてゆくものを。
音も色もないまま、しかし着実にかさを増していたものが、やがて限界をこえる。いつしか咲いた花に、とけた雪に、目にして指にふれてはじめて気がつく。しずかに器へそそがれつづけていた無色透明の液体を、それがふちからあふれ肌を濡らしたとき、ようやく認識するように。
その日が先日、おとずれた。死んでもいいと言ったショウに、死なれては寝ざめがわるいという思いをいだき、あまつさえそれを口にしたとき、その瞬間をむかえた。
目をつむっておけなかった。すじのとおらない理屈をこねくりまわして、おなじ気持ちであったならどうするのかと訊ねた。言葉にされたそれを、結局はねのけなかった。行動のみなもとは目に見えず手にふれず、耳に聞こえないから判然としないだけで、もっと以前からコギト自身の内側に存在していた。体の底でしずかに湧きおこり、かさを増しつづけていた。
そうわかった。わかってしまった。わからないほうがよかったということも、また。
「コギトさん」
呼ばれて顔をあげる。口実さがしをあきらめたらしいショウが伏し目がちに「なにもないのに」と言葉をつなぐので、コギトは自身の挙動に、とくべつなにかあらわれるものがあったのではないのを知った。
「来ちゃいました」
「ショウ。もしもそんなことを、わるいと思うておるのなら」
「は、はい」
「……これを運ぶのを手伝ってくれんか」
そう言い、桶の持ち手を指先でたたく。ショウは虚をつかれたようにまばたきをしてから、おずおずとうなずいた。
「それはもちろん。でも」
「ついでに。いつもよりおおく、茶を飲んでいくように」
「わーい、いただきますー……じゃなくてあの、まさかと思いますけどこのお水、ちょっと捨てたりとか」
「しない。せっかく汲んだというのに、もったいなかろう」
「えーっ、汲んだというか、うっかり汲んじゃったみたいに見えましたよー?」
「捨てんよ。このまま持ってゆくし、すべて使う」
ショウはあきらかな困惑を表情にのせながらも、やがてコギトの意志が、なぜとは知れないがゆるぎそうにないのをさとったようだった。それじゃあ、と上体をかがめて持ち手に指をかけ、ふいになにか思いついたようすでコギトを見あげた。
「わたしひとりでもだいじょうぶそうだし、持っていきましょうか」
コギトは黙って首を振った。なぜ、という疑問はもはやない。かわりにあきれとも自嘲ともつかないものが胸を満たして、とっさに言葉をかえしあぐねる。ため息で押すようにして、むりやり声を出した。
「自分で運ぶ。が、手伝ってほしいんじゃ」
「それは、もちろん」
ショウがくりかえす。コギトは水に濡れたままの手で、ショウが指をかける反対側をにぎってつぶやく。
「ひとりで持つには、いささか荷がおもいのでなあ」