あなたにはわからない
え、という声とともにひらいた自分の手のひらから、指のささえをうしなったぼんぐりがすりぬけてゆくのを感じた。視線を眼前のコギトさんにとめたまま、わたしはぼんぐりがテーブルに、より正確に言うならその天板にならべていた素材のうえに着地し、いくつかを四方へはじきとばしたのを察した。ころころマメのさやが胴体にぶつかってくる、帯ごしの感触によって。
落としたのが玉石、あるいは黒玉石や鉄のかけらでなかっただけまだよかった。ぼんぐりの殻はたしかにかたいし、木のうえから落ちてきてひたいに当たればこぶができて涙もにじむ。だけどすくなくとも、したに敷いたものを押しつぶしてだめにしてしまうほどの鋭利さや重量はない。
そのほか淹れてもらったお茶の無事に安堵したりと、さいわいな部分へ意識を向けるくらいの余裕はあって、だからわたしはあんがい冷静だった。コギトさんの発言への動揺が、絶句というかたちですくなからず尾を引いてはいても。
コギトさんは手にしていたカップをソーサーへ置くと、自分の足元へ目をやりながら「まるで」と言った。
「ミツハニーのような顔をする。ミツを集められず巣に帰っていくときの」
「えっ、どんな顔ですか? というか見たことあるんですか?」
それはちょっと、いや、かなり見てみたい。あわよくば観察したい。
一瞬状況も忘れてまえのめりになるわたしに、コギトさんは「もうちがう顔になったな」とうっすら笑っただけで、問いかけへの否定も肯定もかえさなかった。視線を向けていたテーブルのしたを探り、そこへ転がりおちた、もといわたしがはじきおとしたらしい素材を拾いあげる。
きらきらミツ。
わたしの顔と手元のそれと、いったいどちらから連想したんだろう。そう考えて、どちらにせよ実際に見たことがあるんだ、と結論づける。
この隠れ里でほとんど他者にたよらず生きてきたからなのか、このひとはおっとりしているようでいて、その実かなりの現実主義者だ。自分の目で見ていない、自分が手にとってふれていないものには言及したがらないふしがある。
だからいましがた言われたことも、ほかならないコギトさん自身がそう感じ、確信をもって口にした、ということなのだけれど——でもそうすると、いったいなんだろう、どうにもぬぐいがたいこの違和感は。
考えこんで視線を落とした草履の爪先に、タマゼンマイがごろりと転がってきて止まる。どこかふわふわとうわついた気分のまま、そのそばへしゃがみこんだ。
「うーん」
わだかまる違和感を声に出すと、身をのりだしたコギトさんがテーブルのしたをうかがってくる。
「頭でもぶつけたか。それともどれかがだめになったか?」
「あ、いいえ。ゼンマイもキノコもわたしも無傷です。だいじょうぶです」
「ならいいが。ゼンマイとキノコのほうが先にくるのはどうかと思うぞ」
椅子に座りなおして苦笑するコギトさんの顔、その瞳の中心に焦点を合わせる。それが合図だったみたいに、直前聞いた言葉が再生される。
——なにを言いたいのかわかりかねることがあるのお。ショウの話は。
直近の探索で見た景色やポケモンについて彼女に語っていたさなか、突然——そう思いかけ、正確ではなかったので『突然』の部分は打ちけした。会話の最中、ふいに相づちを飲みこんで目線を落としたコギトさんは、以前から思っておったのだが、というまえおきをはさんでそう言ったのだった。
以前から。いかにもまえおきにふさわしいその言いまわしが指す期間、昨日今日とは思いがたい期間についてあらためて考え、ひどく身のおきどころのない気分になった。いったいいつから、そんな印象をあたえていたんだろう?
それに、というかなによりも、相手はコギトさんだ。
もちろん、ほかのひととだって会話はする。もちろん、ほかのひとになら要領の得ない話を聞かせていい、なんて思わない。だけどこのひとはわたしにとって、やっぱりとくべつな相手なのだ。わたしの話を聞いてくれて、たまには目をほそめて笑ってくれたりする、それだけでちょっと泣きそうなくらいわたしをうれしくさせる相手はやっぱりこのひとだけで、そんなひとに。
ふいに、ほかのひと、という部分が脳内の片すみに引っかかり、ふくらんであふれださんばかりだった思考をせきとめた。
引っかかりはどんどん具体的なかたちを得ていくように思われた。やがてコギトさんのすずしげな目元に、別人の、けれどおなじようにすずしげな目元のイメージがかさなった。
シマボシ隊長だ。
記憶のなかのシマボシ隊長は、手のなかの紙に視線をそそいでいる。机にいくつもできた決裁待ちの書類の山のあいだからわたしを見あげ、手元の一枚を指の背でとんとんとたたいた。にこりともせずに言った。
『簡潔で、わかりやすい』
探索でたしかめた土地の状況や植生は、探索後にかならず報告書として隊長へ提出するきまりになっている。想起されたのは幾度となくくりかえしてきた手順、そのうちのどこか一回だ。わたしの報告書に目をとおした隊長がくだした評価だった。
つづけざま、脳内にラベン博士とテルくんの顔が浮かぶ。探索中に観察や捕獲をおこなったポケモンについてのおぼえがき。それを図鑑としての体裁に落としこんだ文面に、ふたりがそれぞれ、隊長とほぼおなじ感想をくれたときの光景が。
隊長についてはいうまでもない。なにかを評価するときにかぎらずつねに率直で正直で、自分に対しても他人に対しても妥協のないひとだ。そしてこと図鑑づくりに関しては、ふだんものごしのやわらかいラベン博士もそれをサポートするテルくんも、要領を得ない文面を見のがしてくれるほどあまくはない。
そうだ、引っかかった理由は、違和感の正体はこれだ。手ごころをくわえるなんて行為とは縁とおい三人がわかりやすいと言う、コギトさんはよくわからないと言う、わたしの語り口についての、印象の食いちがい。
「あのっ、コギトさん」
「うん」
「わたし。話というより報告書とか図鑑とかの文章なんですけど、わかりやすいって言ってもらえたこと、何度かあって……だからわかりにくいっていうの、自分でどこだかわからないんです。いったい、どのへんが」
「わかりにくくはない」
「なにを言っているかわからない、って」
「なにを言いたいのかわかりかねる、と言った」
なにがどうちがうのか、なんだか言葉あそびのような言いまわしだった。返事につまって黙りこんだ拍子、コギトさんの手がおろされる。ほこりがついているからと止める間もなく、わたしが地面へ落としたきらきらミツはテーブルのうえへのせられてしまった。
彼女にはこういう、わりにおおざっぱなところがある。知りあってはじめのうちは繊細にととのった外見や器用さとのギャップにおどろいたりもしたけれど、いまではもっといろんな面を知りたいと思ったりするし、おおざっぱなところもいやなのではなくて、むしろ逆だ。もちろんミツをテーブルのうえにもどすのは、自分が落としたという引け目を差しひいても、さすがにちょっといただけないけれど。
コギトさんはミツの表面をひと撫でした。付着していたらしいミツが白い手袋の指先にぽつんとしみをつくっても、案の定すこしも気にするようすをみせない。
「あのミツハニーは」
「ミツを集められなかったミツハニーですか?」
コギトさんがうなずく。かなり横道にそれた気がしたけれど、どのみち本題の向かう先をとらえあぐねている状態だ。ひとまず興味をそそられるほうに足を向けることにする。
「さんざんあちこちを飛びまわったあと、最後にこのあたりまで飛んできたんじゃろう。よろよろとした飛びかたで……結局、花がほとんど咲いていなかったものだから、来たときよりもっとよろよろと帰っていった」
「そのときの顔が?」
「ああ。まさに、さっきのショウのようだった。あたしはミツを見るとときおり、あのミツハニーの、いかにも悲惨な顔を思いだす。……いま、観察したいと思ったじゃろ」
思った。思ったし、具体的にどんな表情だったのか、みっつの顔がみっつともおなじ表情をしていたのか、その詳細まで聞きたい。そんなわたしを見すかして、コギトさんは唇の片側にうすい笑みをのせた。
「だが、今日からはミツを見て、むしろショウの顔を思いだすだろうな。ともすれば、また見たいと思うかもしれん」
「えーっと。わたし、観察したくないって言ったらうそになりますけど。でもほら、またその状況になるのって、ミツハニーにとってはかなりかわいそうな気が」
「そちらはもう、あまり目にしたくないものじゃなあ。人間でいう肩があのものたちのどこにあたるのかわからないが、そっとたたいてやりたくなるくらいにはあわれだった」
「気がつかないふり、しようとしたのに。わたしがそういう顔をするのもかわいそうだと思ってくださいよお……」
こんどはちいさく声を出してはっきりと笑い、コギトさんは唇のまえで指を組んだ。
「ショウの話を聞いていると、よくわかる。浜辺の砂がいかに白く、海がいかに名前のとおり碧く、火吹き島の溶岩がいかに目を焼く色をしているか。よくわかるとも」
「……ええと」
話の風向きが急にかわる気配を受け、わたしはやっぱりかえす言葉につまってしまう。先の言いまわしは言葉あそびのようだったけれど、いまのそれはわたしがこれまで彼女に伝えた話をなぞってならべたというより、詩でもそらんじるみたいに聞こえた。現実的な彼女の言葉にしては、まるで現実感がない。
「だが、ちっともわからんな。ショウがそれを、どう感じたのかは」
「いちおう、お話してる、つもりだったんですけど……」
「そなたの話は、たしかにわかりやすく緻密じゃが。そなたの目線がひとつも読みとれないので、あたしにとっては、ほかのだれから聞くのでもかわらない。もしあたしのミツハニーの話も、そなたにとってそうだというのなら……話しがいのない、さみしいことじゃな」
しゃがみこんだとき、タマゼンマイを拾っていなくてよかった。とっさにそう思った。コギトさんの言葉にある思いがおこった瞬間、おぼえず手をひらいてしまっていたから。
わたしの語り口は、きっと隊長たちが簡潔でわかりやすいと評してくれる文面をしたためつづけるうちに、主観をはぶいて事実だけを伝える、その方向に特化しつつある。だから、わかりにくくはない。
だけど、わかりかねる、とコギトさんは言う。ちっともわからない、と言う。
もしかして、そんなことがあるんだろうか。
わたしにとってこのひとがとくべつな相手で、もっといろんな面を知ってゆきたい相手であるみたいに、このひとがわたしの見聞そのものでなく、わたしが見聞きしてどう感じたか、むしろそちらを知りたがっている。そんなことがあるんだろうか。
「あの、わたし。イチョウの砂浜とか、海を見て」
言いながら立ちあがる。コギトさんは目を合わせたままなにも言わず、たぶん、わたしの言葉を待ってくれていた。
「……きれいだって、思いました。また見にきたいって」
確信はもてない、それに報告書や図鑑の体裁が身につきすぎていて、そもそも言葉がうまく見つからない。だから結局おずおずと、それだけしか言えなかったのに。
きっとコギトさんが、何年も待ちわびた手紙がたったいま、ようやく届いたような顔でうなずいたせいだ。その先が、唇からぽろっとこぼれた。
「コギトさんといっしょに」
そこまで言うとは思わなかったんだろう。彼女は一瞬だけ、あわい色の瞳をまるくする。すぐに切れ長のかたちを取りもどして言った。
「考えておこう」
思わなかった、予想できなかった。それだけじゃない、きっと彼女にはわからない。飾り気のない平凡な良いまわしが、淡々とした口ぶりが。あなたの唇から出てくるだけで、どんなにとくべつに聞こえるか。
わからなくていい。わたしだけが知っていればいい。
そう思いながらもう一度しゃがみこんで、タマゼンマイともちもちキノコのほこりを払った。あんまりながくそうしていたからか、コギトさんがいぶかしげにわたしの名前を呼んだ。
もうすこしでいい、もうすこしだけ待っていてほしかった。鼻の奥をつんとさせながらのぼってくるものをやりすごす、もうすこしのあいだだけ。