ユー・スピン・ミー・ラウンド

 かけようとした声を、とっさに喉の底へしまいこんだ。ソファの左どなりでシロナさんがわずかに頭をうつむけ、ほとんど音のしない、しずかな呼吸をくりかえすのに行きあったからだ。
 ゆったりとしたリズムで読みすすめられていた新書版は重力にしたがって閉じ、持ちぬしがローテーブルの手帳にメモをとっていないあいだ、指先でくるくるまわされていたペンも静止している。前髪が横顔の目元を隠すのも、眠っているという結論をくつがえす材料にはならなかった。
 だから言ったじゃあないですか。
 とは、さすがに思わないまでも。心のなかでちょっと嘆息するくらいはゆるしてほしい。まっしろなベロア生地のソファはここに住みはじめたころ、家としての体裁を最低限ととのえようと、定期便で届く家具のカタログからてきとうに注文したものだ。座りごこちにかけてはばつぐんなので、結果的にいい買いものだったと満足してはいる。でも、だれかが頭をあずけて眠るような想定はしていないから、そうするには背もたれのたかさが足りないのだ。
 こんなところでこんな眠りかたで、体がすこしでも休まるはずはないのに。
 結局ほんとうのため息をつくと、手元の小説を閉じてそばへ置き、ふたつのコースターからマグカップを取ってキッチンへ向かう。ココアを飲みおえたついでに、彼女にもおかわりをどうするか訊こうとしていた……けれど、おしえてもらうべくもないだろう。
 からになったものと半分ほど中身のはいったもの、ひとつずつのマグカップ。わたしのカップはもちろん前者で、さめたコーヒーをシンクにながしてスポンジに洗剤をつけながら、それぞれの中身からまだ湯気がたちのぼっていたころのことを思いかえす。
 シロナさんが別荘にやってきて、このキッチンでおのおのの飲みものを用意した。同時進行で、会う期間が空くたびそうするように、おたがいの近況を報告しあった。わたしからは、相棒たちといっしょにあいかわらずのんびりと日々を過ごしたこと。その一方、つい最近まで書きものの締めきりがいくつもたてこんでいたとかで、シロナさんのほうはずいぶん多忙だったらしく、
『どうにかぜんぶ片づいたんだけど、かえって気が抜けちゃったかも』
 そう話しながら容器からすくい、スプーンに載せたインスタントコーヒーは、あきらかにいつもより急勾配の山もりだった。出むかえた玄関でもダイニングまでの廊下でも気がつけなかったけれど、まじまじと見ればうすくお化粧をしているはずの目元に、それでもなおうっすらとくまが浮いている。
 それで見かねて、二階のゲストルームですこしよこになっては、と言ったのだ。休んでもらうにせよ、自分が今朝まで眠っていたベッドを勧めるのは、さすがにどうかと思ったから。
 だけど。
 彼女の反応を思いかえしかけて、いつしかコーヒーとココアを一杯ずつ淹れ、ティースプーンまで洗いおわっていたのに気づく。あまいココアのあとだから、おかわりは紅茶でさっぱりしようと思っていたのだけど。
 とはいえこうして用意してしまったのだから、おいしく飲みきるほかない。マグカップの持ち手をさわるとまだ熱かったので、ふたつともトレイに載せてはこんでいく。
 さっきまでのシロナさんは、いまにも前後にぐらつきそうな不安定な姿勢だった。そろそろかくんと舟をこいで、目をさますのじゃないだろうか——いや、どうやらそんなこともなさそうだ。ダイニングテーブルをおおまわりによけながら、奇跡的なバランスをたもったままの寝姿にもう一度ため息をつきかけた、ちょうどそのときだった。
「んん」
 自分以外のせきばらい。息をつめたものの、出どころのひとがまぶたを持ちあげる気配はない。もとどおり音をなくしていく呼吸にまぎれこませるようにほそく息を吐きだし、ソファまでのあと数メートルを歩きおえた。
 トレイをローテーブルへそっと置いて、もとの位置へやっぱり慎重に座りなおす。そのあいだに彼女がこてんと首の角度を変え、自分の右肩にもたれるような、これまでよりはいくらかましという程度の体勢になるのを見ながら、わたしは声に出さずつぶやいた。
 ずるい。
『ありがとう。でも、それよりいっしょにいたいかなあ』
 このひとは、ずるい。
 ゲストルームのベッドで休んではどうかと言うわたしに、のんびりとそう答えてコーヒーをくるくるかきまぜるのだから、ほんとうにずるいひとだと思う。
 だってもともと、おなじ気持ちなのだ。できるものならそうしたいにきまっているのだ。そんな折に、そこまではっきりと言葉にされてはたまらない。いくら休んでほしいと思っていても、本音がかんたんに引っぱりだされてしまうじゃないか。
 最後のそれは、さすがにただのやつあたりだった。内心苦笑して、トバリデパートの技マシン・コーナーで『やつあたり』のディスクを見たときの、正確にはパッケージに書かれた技の説明を読んだときの気持ちを思いだす。ひどい。そして、いまのはあれに勝るともおとらない、ひどいやつあたりだ。
 そういえばあの技を、これまでバトルに組みこんでみるどころか、戦術として考慮してみたことさえ一度もない。日ごろの不満をばねにして相手へ力をぶつけるので、ポケモンとトレーナーのあいだで信頼関係が築けていなければいないほど、むしろ威力のたかまる技。わたしと相棒たちにかぎらず、そんな技をうまくつかいこなせるパートナーたちなんて存在するのだろうか。
 寝顔をじっと見つめるのもなんだかわるいし、かといって中断した読書を再開する気分でもなく、おまけに淹れたてのココアは飲むにはまだ熱い。手もちぶさたのせいか、とりとめもない連想がするするとつながっていく。
 バトル・ファクトリーあたりの、初対面のレンタルポケモンといっしょにいどむようなレギュレーションならあるいは——なかば真剣に検討しだしたところで、となりのシロナさんの手からペンがぽろりとこぼれおちた。脚のうえで一度、そうたかい位置でもなかったのですこしだけはずんで、わたしと反対がわの座面へころがった。
 さっきまでの姿勢と同様、いままで手元にとどまっていたほうがむしろ奇跡的だったのかもしれない。それとも、指先であんなふうに軽快にペンをまわせるひとにとって、持ったまま眠るなんてぞうさもないことだとか?
 わたしが彼女のしぐさをまねしようとすれば、軽快とはほどとおくぎこちないものになり、要するに、わたしはペンまわしができない。だから仮説を『まさか』と笑いとばすこともできないまま、左手へ身を乗りだす。
 たしか文字を書くときとはちがう持ちかたで、ひとさし指となか指のあいだにはさんで、いや、なか指の背に載せるようにするのだっけ。
 おぼろげな映像を思いかえしながらペンをとりあげ、なんの気なしによこへ向けた視線が、べつの視線とまじわった。
 せきばらいをしても姿勢をかえてもずっとまぶたの奥にかくれたままだった瞳が、煙るような膜を一枚張ったむこうからこちらをのぞいている。
 思わず「わ」と声をあげ、飛びすさるように身を引いた。
「ん」
「ごめんなさい。び、びっくりしました。起こし」
「て、ない……自分で、起きたから、だいじょうぶー……」
 寝おきはいつもこれくらいぼんやりしているのか、いまは寝おきなうえにつかれていて、とくべつにこうなのか。ふだんのようすを知らないから判断がつかない。どちらだろうと考えて落ちつこうとするわたしをよそに、シロナさんはゆっくり二度まばたきをしてかぶりを振った。新書版をひざのうえから座面に移すとローテーブルに目をやり、いつもより間のびした口調のまま「コーヒー」とつぶやく。
「淹れなおしてくれたの」
「ちょうど飲みおわったので、ついでに。あ。まだ熱いから、気をつけてくださいね」
 たちのぼる湯気を見ればあきらかなことで、ふだんならわざわざ注意なんてうながさない。でも、いまのシロナさんを見ているとどこかあやうくて心配になる。コーヒーへ手を伸ばすようすに、よけいなお世話だとは思いつつもつい言いそえてしまった。
 彼女はあいまいにうなずくと、片方の指を持ち手にかけて取りあげたマグカップの液面へ、唇をすぼめて息を吹きかけた。そうしながらふいに、ななめしたをちらりと見やった。
 視線の先にあるもの。ゆるやかに握りこまれた、けれどからっぽの右手のひら。わたしははっとして、煙ったまなざしの延長線上にペンを差しだした。なにか言うまえに合点のいったらしいシロナさんは、それを受けとってため息まじりに苦笑する。
「本にはさんだんだっけ、と思ったら。落としてたんだ」
「シロナさん、ほんとうにいまさっきまでちゃんと持ってたのですけど」
「それで。あたし、てっきり……はあ。ありがとう。結局寝ちゃって、コーヒーは淹れなおしてもらってペンもひろってもらって、だめね」
「わたしはそういうこと気にするより、ちゃんと休んでくれるほうがうれしいですよ」
「はい。ごめんなさい。……ん、おいしい」
 しおらしく肩を落としたシロナさんは、コーヒーを口にすると一転して満足げに声をはずませる。それならよかった。ペンを本のとなりに置いて表情をかがやかせる彼女にそう相づちを打ちかけ、わたしははたと首をかしげた。
「……てっきり、なんでした?」
「うん?」
「いま、なにか言いかけませんでしたか。てっきり、って」
「ああ」
 一拍。
「キスされるかと思ったの」
 また、一拍。
「ペン、ひろってくれたでしょう。ちょうどそのとき目が覚めて、ヒカリちゃんの顔がすぐそばにあったから。でも、それにしてはあんまりけろっとしてるし、まさかキ——」
 言葉の意味が頭に沁みこみきるより先に、頬が熱をもった。ぼっ、と燃えあがる音さえしそうなくらいのいきおいで。
「し。し、しません!」
 シロナさんの言葉をかきけすように今日いちばんの音量で声をあげ、ばっと顔をそむけて両頬をおさえた。言われて思いかえしてみれば。ころがったペン、伸ばした腕、乗りだした上体、至近距離でまじわった視線。かんちがいされてもしかたがない。わかる。わかるのだけれど。
 経緯と理由を知ったところで、それらが熱を冷まして気持ちを落ちつけてくれるわけじゃない。キ、ではじまるものの件を受けながす余裕だって、とうぜん湧いてこない。
「しないんだ?」
 それでもシロナさんへ向きなおったのは、語尾をあげたその声がごめんなさいと言ったときよりよほどしょんぼりと、ひどくさみしげに聞こえたからだ。
 やっぱりこのひとはずるい。からかうような口ぶりだったら、表情だったら。熱は引かないまでも、すこしは軽口でまぜかえせたかもしれないのに。そんなふうに言われたら、ざんねんそうな顔をされたら。なんだか自分がとてももったいない、ひどいことを言いはなったような気がしてきてしまうじゃないか。
 きっとこれはやつあたりではないはずだし、かえす言葉だって、うそではなかった。
「……いまは」
 ぼそりと言うとシロナさんは目をまるくした。二秒後、かすかに眉尻をさげ、にがにがしくほほえむ。
「なあに、それ。ずるいなあ」
 わたしのせりふだ。わたしこそ、あなたにそれを言いたい。だって、わたしがずるいのはいまのひとことにかぎっての話かもしれない。だけどあなたは今日ずっと、いや、今日だけでなくいっしょにいるあいだじゅうずっと、ずるいのだ。
 非難がましく考えたことを、けれど口にはしなかった。
 ずるいひとにずるいと言われて、ふしぎといやな気もしないでいる。
「おたがいさまだと思います」
 そう言ったら、どういう意味かわからない、というみたいにきょとんとされる。みたいに、というよりほんとうに心あたりがなく、自分がずるいひとだなんて思ってもみないのだろうから、説明するのはあきらめてローテーブルのマグカップに手を伸ばした。
 シロナさんがしていたように、液面へふうふうと息を吹きかける。ちょうどひとすじあがってきた湯気が、軌道を変えられてくるりと円をえがき、空気中にほどけて消えていく。
 ココアは熱い。キスはしない。
 いまはまだ。