夜明けはとおく
彼女の帰ってくる音がする。ヒールの立てる硬質な足音。ひかえめだがどこか弾んだような足どり。
ほどなくして玄関の鍵が解錠され、ドアのひらく音と靴をぬぐ音、アクセサリーがゆれてぶつかる細かい音、それからシューズボックスを開ける音だろうか、とにかくいくつもの音が続けざまにわたしの耳へ入ってくる。
ただの音や気配のあつまりでしかなかったものがはっきりと彼女のすがたに変わる、その瞬間が、わたしはわりと好きだ。だから帰ってきたのがわかっても玄関まで迎えにはいかず、いつもリビングで彼女を待つことにしている。
ルームシューズによってため息のような音量におさえられた足音が近づいてくるのに合わせ、心の中でカウントダウンをはじめた。
さん、に、いち。
ゼロ。
そうとなえるのと同時に、ソファに座っているわたしの真正面で廊下からつながる扉がひらいて、シロナさんが入ってくる。シロナさんはドアをしめると、体の前にたれた髪を肩のうしろへ流しながらこちらを振りむいた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
すこしだけ勢いをつけてソファから腰を上げ、彼女のほうへ歩いていく。キッチンの電気を点けようか一瞬迷い、スイッチに手を伸ばしかけたものの、ダイニングの明かりだけでも手元に不自由はなさそうだった。スイッチのかたちを指先でなぞるにとどめ、そのままシロナさんの横をすり抜けるようにしてキッチンへ入る。
腰高のカップボードからマグカップをひとつ取りだしながら、背後の彼女に向けて言葉を投げた。
「今日は遅かったですね」
「うん。あたしのところまで来たひとがいてね。その事後処理とか、いろいろ」
「へえ、久しぶりじゃないですか」
知っている、とは言わない。
昼間、研究所のテレビでリーグ戦の中継がながれていた。ジム戦のときからすでに光るものがあったというその挑戦者は、関門として待ちうける四天王を打ちやぶり、いよいよ今日、チャンピオンであるシロナさんの前に立った。ドローン型のスタジアムカメラがとらえた横顔は、大舞台に緊張してこわばっているようにも、バトルへの興奮と期待で紅潮しているようにも見えた。旅をしていた当時のわたしより、いくつか年上だった。
マグカップを片手に振りかえると、ちょうどシロナさんがなにかをキッチンカウンターへ無造作に放って、バッグの中身をごそごそと探りはじめるところだった。
すこし背のびしてカウンターの上をのぞきこむ。放られたのは玄関のカードキーだ。わたしは苦笑して、マグカップをシンクのふちに置いた。
「もう。こういうところに置くから」
「うん?」
「朝出ていくときになって、どこにあるかわからなくなっちゃうんですよ」
わたしが黒いカードキーを指にはさんで何度かひるがえらせると、シロナさんは手の甲をひたいに当て、照れくさそうに眉尻を下げた。
「やだ、無意識だった。どこにしまったかなと思ってたのよねえ」
「はい、どうぞ」
カウンターごしに腕を伸ばし、カードキーを差しだす。
さっと受けとられるかと思ったが、予想をうらぎってカードキーは指先から離れていかない。小さなプラスチックにふれたシロナさんの指がつやのある表面をたどり、そのまま骨にそってわたしの指をなぞりあげた。
一瞬背中をつめたいものが走ったが、指はあっけなく離される。シロナさんはわたしの手からかすめるようにカードキーを抜きとり、唇のはしだけを持ちあげて「ありがとう」と笑った。
彼女が体をかえし、こんどはおそらくバッグの中の適切な位置にカードキーをしまいこみはじめたので、わたしも思いだしたように、淹れるのを紅茶にするかインスタントコーヒーにするかで迷いだす。
ひとまず手元の引きだしを開け、インスタントコーヒーの瓶とティーバッグの入ったケースを見くらべていると、静かな足音と気配がカウンターを回って近づいてきた。
足音がわたしの背後で止まるのと同時に、うしろから抱きこまれる。
「どっちにしましょうか?」
「どっちでも」
後頭部で応じる声がこそばゆい。言ったからにはほんとうにどちらでもいいのだろう。そう思ってケースのふたを開けようとしたところで腕の拘束が強まり、シロナさんの鼻先がわたしの髪をかきわけるようにして、耳元までやってきた。
「訊かないの?」
「なにをですか」
「今日の試合、どういう結果だったか」
「勝ったんでしょう」
知っている。観ていたから。けれどそうとは告げず、どうせ、というニュアンスをこめて言ってみる。
吐息だけで笑う気配があったが、もうこそばゆいだけではすまなかった。耳朶にかかって鼓膜を直接ふるわせるそれを、背後にいる彼女から見えないのをいいことに、目をかたく閉じてやりすごす。
耳から吹きこまれた熱をにがそうとしたのか、無意識にマグカップへ伸びた手を、シロナさんの手がつかんで引きとめた。
「……どっちでもいい。けど、あとでね」
*
ぱさりとかわいた音を立てて、シロナさんの髪が金色の紗幕のように顔のまわりを覆う。
頬にかかった毛束のくすぐったさに思わず頭を振ると、シロナさんはやけにゆっくりとした動きで髪を耳にかけた。久しぶりにじゅうぶんな量の酸素を吸いこみながらそのしぐさをぼんやり見つめていたわたしの中へ、ふいに彼女の指が深く突きたてられる。
「——っ」
悲鳴じみた声をあげそうになる口を、かろうじて握った手を押しつけてふさいだ。さいわい大きな動きは続くことなく、それきりでいったん止まる。眉間を引きしぼって睨めつけた先で、シロナさんがふっと息を吐きだした。目を細めて一見笑っているようには見えても、どこかするどくとがった表情で。
ふだんの彼女は、感情にとぼしいという意味でなく、ほとんど怒ったり焦ったりすることのない、ただおだやかなひとだ。それがどうしてこうなってしまうのか、こういう触れあいかたをするようになってからそれなりに経つけれど、いまだにつかめない。
でもシロナさんもわたしに対して同じことを感じているのかもしれない、とは思う。ふだんのわたしがどうとらえられているかはわからないけれど、たとえばどこにどうやってふれられても熱を持つからだが彼女の目にはふしぎなものとして映っている可能性だって、ないとは言いきれない。
枕元に投げだしていた片手に、シロナさんの指がからむ。なんの合図かといぶかしんでいたら、案の定中に埋まったものが動きはじめた。意味をなさない、文字でもあらわしがたいような声が喉の奥から漏れ、口をふさいだままだったもう片方の手にぶつかって指をすこしずつ湿らせる。
こういうことをするのには色んなタイミングがあって、もちろんなにもしない日だってないことはない。でも挑戦者が彼女のところまでやってきて試合があった日の夜だけは、確実にこうなる。わたしたちのあいだの不文律とでも言うべきものだった。
理由をつけたってしかたがないのは知っていて、それでもあえて考えるとするなら、バトル後の興奮とか神経のたかぶりとか、そういった話になるのだと思う。
だからわたしはなんとなく、バトルのあとにかならず燃えつきてしまうオーバさんのことを笑えないでいる。それを思ったら、ちっともそんな状況ではないのに、かえっておかしさがこみあげてきた。
もちろん実際に笑顔をつくるような余裕はかけらもなくて、けれどなにかが表情に出かけていたのかもしれない。わたしを見おろしたシロナさんが一瞬おやという顔をして、わたしのことを苛む手は止めないまま、口元の手に唇を落とした。
「そういえば、今日は、観なかったのね」
「んっ、あ、なに……」
「今日の、あたしの試合。いつも、観てくれるじゃない」
熱を帯びて芯をなくしていた思考がわずかに冷えて、彼女の言葉が頭に沁みこんでくる。胸につくくらい曲げたひざの内側や耳のうしろをつたう汗の冷たさを、急に意識した。
今日の試合。
ほんとうは観ていた。いつだって観ている。でも今日の試合は。
「いそがし、くて」
「ふうん」
答えに興味があるのかないのかあいまいな声音の裏で、手の動きかたが——激しい動きは最初の一度きりで、あとはなぞったりゆっくりとかき回したりするのに終始していたそれが、どこか一点を目指してのぼりつめさせようとするものへと変わった。
せいいっぱい、彼女の手に集中しようとする。
でも、だめだった。
水音がひびくにつれ、下腹部にたまったうずきが際限なく温度を高めていく。喉の奥からは、口に手を押しつけていなければ自分の耳をふさぎたくなってしまうような声が、ひっきりなしにこぼれる。
それでもすこしだけ冷静になった思考が、どこかで別の方向に向いてしまう。
今日の試合。挑戦者の緊張した、しかし精悍な横顔。
結果だけを言うなら、シロナさんは危なげなく勝った。
ただ、いち観客にすぎないわたしから見ても、バトル中の挑戦者がくだす指示はあざやかで、ポケモンのポテンシャルを的確に引きだすものだった。シロナさんに勝てはしないまでも、才気にあふれるトレーナーだと感じた。
それを画面ごしではなく、間近で直接見つめるシロナさんの顔をドローンがとらえて、テレビの画面に映しだした——いきいきと目をかがやかせる表情を。
あんなふうにバトルにのぞむシロナさんを、チャンピオンという立場に対してつねに真摯な彼女が、ただのひとりのトレーナーとしてバトルを楽しんでいる、そんな光景を、久しく見ていなかった。
見たくなかった。そう思ってから、試合は観なかったことにしようと決めた。
だって万が一試合の話になったら、感じたことを吐きだしてしまうかもしれない。でも伝えられるわけがない。研究者になるのは自分で選んだ道なのに、これからもあらわれる才能を持ったトレーナーたちの中に、あなたの目を惹くひとがいるかもしれないことが、たまらなく怖い、だなんて。
そんなことを思いかえしていたのと、からだが追いたてられて色んな部分がゆるんだせいだろうか、熱いものが瞳をうるませて、目じりを伝って流れていく。
状況が状況だから生理的なものに見えるだろうと、とめどなくあふれてくる涙を流れるにまかせていたら、ふとシロナさんが手を止めた。つないでいた指をほどいて、目元をぬぐってくれる。
「……なにか、不安にさせてるの?」
静かな声だった。
ちがう。そんなことを言わせたいわけじゃない。わたしが勝手になにかを信じられないでいるのを悟っても、なにも訊かずに自分のせいにしてしまうやさしいひとを、ただ好きでいたいだけなのに。けれど感情とからだがばらばらで、うまく言葉をまとめられない。
むずかる子どもみたいに首を横に振り、上体を起こしてシロナさんの唇に口づけた。距離が近すぎて、おまけに涙で視界がぼやけて、彼女がどんな顔をしているのかはわからない。
シロナさんはなにも言わなかった。わたしの噛みつくようなキスに応えながら、手の動きを再開させる。
もともとぎりぎりまで高められていたからだは、ほんのすこし指が行き来するだけで簡単に限界へと達した。涙と快感で引きつった自分の悲鳴をどこか遠くに聞きながら、頭が真っ白になるような緊張と弛緩を享受する。
脱力して、シロナさんのからだにもたれるようにして息をととのえていたら、そっと枕へ押したおされた。
汗で乱れてひたいに貼りついたわたしの前髪をはらって、すこし悲しげにほほえむこのひとを、好きだと思うし、好きでいることを苦しいとも思う。
明日の朝にはきっとこんな考えを忘れて、笑っておはようと言えるはずなのに、夜明けはひどく遠い。