やがて面影

 センターラインからエンドラインまで最低限とる必要のあるながさ、エンドラインとサイドラインをむすんでつくる長方形の比率。この空間を構成する要素はすべて、わたしたちの頭でなく肌がおぼえている。ふだんは意識の片すみにさえのぼらないそんなことをつよく実感したのは、最後の線をつなげてようやく足を止めた瞬間だった。
 たった十分前だ。
 これというやりとりも視線もかわさず、ただ暗黙の了解でその言葉を合図とさだめていたみたいに、発されるときを知っていていまかいまかと待ちかねていたみたいに、寸分のずれもなく同時に席を立った。椅子をもどすのも飲みかけのグラスを片づけるのもあとの自分たちにまかせて、言葉少なに足早に浜辺へ出た。できるだけふとくながくあたらしい流木をさがすのにほんのすこし手間どって、けれど見つけた二本をそれぞれ分けあって握ってしまえば、あとは迷う必要も瞬間もなかった。
 手前についた流木をささえのようにしてしゃがみこみ、それだけの動作でうえにのせた体ごと、靴底がかすかに沈みこむのをたしかめる。かわきのなかに満潮時の湿りけを残した足元はおおむねやわらかく、無言のうちにふたつの課題をしめしてみせる。条件を活かす方法と、避けるべき位置どり。
 猶予はあまりない。視界の中央をとおる流木に焦点を合わせたままこたえを組みたてるわたしの鼻先に、砂のうえを歩くためのサンダルに履きかえてきたらしいカトレアさんが、音もなく影を落とした。日傘の芯棒が彼女の肩にのって背後へかたむくと、陽のもとにのぞいたちいさな顔と白いサマーワンピースの表面で、反射光が街の名前とよく似たかたちにひるがえった。
「ねえ」
「はあい」
「言いだしておいて、なのだけれど。なにもいますぐでなくても、いいのではない? フィールドなら、すこし移動すればきちんとしたところを用意できるわ。そこまで行かなくても、サザナミの市街地にだって、いくつか……」
「ふふ、カトレアさんならたぶん、わかってくれると思うのですが」
 滞在先のあるじが、急に飛びだした自分の名前にとまどい、日傘ごとこてんと首をかしげる。
 手と体重をあずけていたものを、その場へよこたえた。足元をうすく掘ってはしらせる間に木肌のひびわれへまんべんなく砂をたくわえた流木は、ざり、と音をたてて風景の一部にもどる。腰をあげてつづけた。
「ここがよくて、いまがよかったのです。いずれ、こうなったのじゃないでしょうか。もしもさっき、カトレアさんが言ってくれなかったとしても」
 いくぶんあきれのにじんだほほえみが、わたしを見かえす。だけどそうと見当をつけたとおり、身におぼえのあるところだったんだろう。あからさまにしかたのない子、あるいはしかたのないひとたちと言いたげなのが、結局声にされることはなかった。日傘のグリップが手のなかでわずかに角度をかえ、となりを向いたままでいるわたしの、視野の外を指した。
「……ここがよくて、いまがいい。あちらもおなじかしらね」
「そうですねえ」
「あら。こんどはたぶんとか、思うだとか言わないの」
 からかうような問いかけにそろえた調子で直前の言葉をくりかえそうとして、けれど実行するよりはやく、『あちら』が視界のはしに映った。どうやらむこうも、課題にくぎりをつけたようだ。
 吸った息をほそくついて散らすと、砂浜につくった即席のバトル・フィールドをよこぎってくるそのひとへ向きなおった。ちょうど吹いたぬるい潮風が、踏みしめていた部分に残ったふるい足あとの輪郭をあいまいにくずす。完全に凪ぐかもしれないしその逆もありうる、ゼロではないよわよわしい南風。脳裏に浮かべたフィールドの条件リストに、その一行を書きくわえる。
 ポケモンたちが比喩ではなく縦横無尽に飛びまわるので、ひろさについて念頭におくのをつい忘れてしまいがちなこの空間も、人間がただ歩くにはあまりにもせまくちいさい。
 そのひと、シロナさんは十秒とかけず眼前までやってくると、思いがけず出てしまったような中途半端な発音で「レギュレーション」と言った。苦笑してかぶりを振り、「じゃなくて」と打ちけした。
「ルール、よね。どうしようか」
「個人的にはフルが見たいところだわ」
「わたしは六対六でかまいません。シロナさんさえよければ」
 カトレアさんの希望をうけて提案し、返事を待って目をふせる。ひとつらなりとなった記憶の映像が、一瞬のあいだにまぶたのうらを駆けてゆく。
 今日にいたるまで、サザナミタウンのビーチをのぞむ別荘を、シロナさんを、仮住まい先の提供者であるカトレアさんをふくめたイッシュの友人たちが、日をおいて入れかわり立ちかわりおとずれた。
 たわいのない世間話やポケモン、あるいは考古学についての談義はときに別荘のリビングをはなれ、サザナミの市街地に何箇所かもうけられた、野良バトル用フィールドでの手あわせへ発展することがあった。
 一般トレーナーもジムリーダーもチャンピオンも関係なく、最終的な会話や相互理解の手段がバトルになるのは、いわばトレーナーのさがだ。それが数人もあつまってしまえば、べつのところへたどりつくほうがよほどめずらしい。実をいえば先ほどカトレアさんが言及した『いくつか』のフィールドの存在も、そうした経緯でよく知っていたのだった。
 するどい発声でくりだされる的確な指示に、よどみなくボールへかかる指に、刻一刻と移りゆく状況を戦略に落としこもうとするまなざしに。フィールドのわきで、じっと耳をすませる。目をこらす。
 あの日はいったい、それが何度目をかぞえたころだったのだろう。いつしか自分のなかにとぐろを巻いていた、ハイレベルな戦いに胸を高ならせるいち観客のそれとも、奮戦をいとおしく見まもる恋人のそれとも、まったく異質な心理に気がついた。なにかにみちびかれるように顔をあげると、ちょうど肩のうえの髪を背中に流し、こちらを見やったシロナさんと目が合った。その瞬間、おたがいの思考がぴたりとかさなって通じあうのがわかった。
 自分と相棒たちなら。
 わたしたちがあなたと、戦うのなら。
 見まもり見まもられるだけの日々のうちに火種を得てくすぶりだし、あのときはっきりと燃えたちはじめたものに、けれどわたしたちは以後、言葉でも態度でもいっさいふれずに日々をすごした。
 その均衡をやぶったのが、つい十分まえだ。
 ——ひさしぶりにあなたのバトルが見たいわ、手あわせしてもらうのでもいいけれど、どうせならあなたとシロナさんの。
 紅茶のカップをソーサーに置いて、カトレアさんがなにげないようすで口にした、十分まえ。
「オーケー。じゃあ、それで決まり」
 シロナさんが胸のまえでぽんと手のひらを合わせて言い、ルールに合意した。のどかなしぐさに緊張はうかがえない。わたしもまた、自分の全身のどこにも、相棒たちへの指示をさまたげるようなこわばりを見いださなかった。
 気がゆるんでいるのとも、リラックスしきっているのともちがう。理由は知っている。たとえ一線をはなれてひさしいとしても、目のまえに立つのが恋人だとしても、わたしも結局はただの、ひとりのトレーナーでしかないということだ。
 レギュレーションと呼べるほど厳密な規則を敷かない、流木で砂浜に線を引いただけのぶかっこうなバトル・フィールド。
 それでもこの場にルールをさだめた瞬間、目のまえのひとへの認識がかちりと切りかわるのが、全身を循環する血液が、するどいひややかさへと置きかえられてゆくのがわかった。あたたかな陽ざしに撫でられているはずの皮膚さえ凍てつかせるような、緊張なんていともたやすく塗りつぶすような高揚を、頭ではなく肌が思いだした。
 まぶたをひらき、なれたアングルで恋人を見あげる。わたしを見かえした瞳が笑みと似たかたちに引きしぼられ、そうして言葉にされるまでもなく、ずっとむかしからそうだったような既視感すらともなってさとった。
 このひとも、おなじだということを。
「手かげんはしないでほしいわね」
「そういうのは」
 いったん言葉を切った。あんまりおかしなことを言うので、そうしなければ場ちがいにも笑ってしまいそうだった。
「してくれたことのあるひとが、したことのあるひとに言うせりふでしょう?」
 シロナさんは唇の片がわだけを持ちあげると、ベルトからボールをひとつはずして力をこめずに真上へ放った。垂直の軌道をボールが行ってもどるまで、およそ一秒にもみたない時間しかかからなかった。
「……それもそうだわ」
 かるい音とともに手のひらにボールをキャッチして、しずかな声で言うひとは、もう恋人の顔をしていない。
「じゃあカトレア、レフェリーを」
 言葉のおわりがにじんでぼやける。
 カトレアさんがなにかこたえる。
 砂のうえを、足音がとおざかる。
 敵の。
 強敵の、足音が。

 *

 ひとり、またひとり。それぞれの相棒が倒れてゆく。沈んでゆく。
 観光シーズンにはまだはやい砂浜のどこにも、わたしたち以外のいきものの影はない。
 フィールド外に唯一存在する音、寄せてはかえす波のやわらかなひびきのなかに、わたしはいつしかあの日のスタジアムの歓声を聞いている。無数の波長がたばねられ、ひとつの渦となった大音声。ともすれば相棒たちへ指示をくりだす自分の声まで、のまれて見うしなうような。熱気さえともない肌を打ちすえるような。
 けれどあのとき、フィールドの反対がわで彼女の発した言葉を、たしかに聞いたように思う。立ちのぼる砂塵と黒煙の切れ間、数秒間のぞいた唇がそのかたちにうごいたというだけでなく、たしかに声が、わたしの鼓膜をゆらしたように思う。
「——まだまだよ」
 思いうかべた音が現実とかさなり、はっと瞳をまたたいた。
 戦況からは目をはなしていない、はなすすきなんてない。距離があって、くりだされる技の炸裂音があって、相棒たちの声がある。すべてのものがうねりをあげて遮蔽物と化し、それでもたしかに、聞こえた。まるで目のまえにいるみたいに、耳元でそっとささやかれるみたいに、声が、せりふが。
 フィールドから視線をあげると、巻きあげられた水柱がいささかできすぎたタイミングで蒸発し、むこうがわにいるひとと目が合った。一瞬なのか永遠なのかもわからないあいだをはさんで、彼女はたぶんあの日砂煙に隠されていたのとおなじ表情で、おなじように唇をうごかした。

 ——こんなにたのしい勝負、かんたんに、終わらせない。

 *

「いいものを見せていただきました。ふたりとも、ありがとう」
 日傘を持った手の甲を片手の指でひかえめに打ちながら、カトレアさんが言う。
 終わってみればふたりしてふつふつとあたためていたものが、彼女の言葉をきっかけにあふれただけのことでしかない。あまりに勝手すぎて『いいもの』なんて、ましてやお礼なんて言われるのは身にあまる。あいまいに笑うとなぜだか「とくにヒカリ、あなた」と名ざしされ、思わずきょとんと相手を見かえした。
「はい、わたしですか?」
「あなた以外にいないでしょう。ほんとうになつかしかったわ。むかしのままね」
「やっぱりカトレアも、そう思った?」
「あれ。メンバーはフィールドに合わせてかえたつもりだったのですけど……ふたりがそんなにいうほどなつかしいところ、あったかなあ?」
 なにか所感を共有したようすでうなずきあうふたりの顔を、交互にうかがう。ややあって表情をゆるめたカトレアさんのほうから、「まあ」とみじかい声がかえった。
「自覚がないの。ルールを決めたとたん、あなた、目つきがかわった。かわったというか、もどったのかしら。むかし……よく考えればそれほどでもないわね。私のキャッスルにきていたころに」
「わあ、自分では、ちっとも」
 なんのことはなかった。どうやら恋人の顔をしていないと思ったひとをまえに、わたしも知らずしらずおなじような、戦いのまっただなかへ身をおいていたころの表情を、顔にのせていたらしい。
 そう知ってこぼした言葉にうなずくシロナさんを横目で一瞥し、カトレアさんは「さっきはヒカリにああ言ったけれど」とわたしに無邪気な笑顔を向けた。日傘の落とす影のしたでもそれとわかるほど、瞳をきらきらとかがやかせて。
「一瞬もたいくつしない真剣勝負を、こんなにちかくで、それもほとんどひとりじめできたのだから、やっぱりここでよかった。街なかやきちんとしたスタジアムじゃあ、きっとこうはいかなかったもの。ふたりの指示とポケモンの声だけが、だれにも、なににもじゃまされずに聞こえて……」
 のんびりと優雅に、けっしていそがず、なのにまえのめりぎみな興奮を隠しきれない。
 そんな口調をたどって、わたしたちの勝手なバトルへ賛辞をおくってくれる文意をひとつひとつつかまえていきながら、おや、と思う。めばえたものがはっきりした違和感へ育ちきるより先に、彼女の語尾がフェードアウトする。
「……いけない、私ったら、つい。まずはポケモンたちを休ませなくてはいけないわね」
 カトレアさんは唇に指をそえるとすこしはなれた後方を見やり、そこにひかえるコクランさんに向かって手をあげた。目礼につづいてシロナさんとわたしへもほほえみかけたかれが、浜辺の外へきびすをかえす。潮風にひるがえる執事服のすそを追うように砂のうえを何歩か進んだカトレアさんが、わたしたちふたりを振りかえって言った。
「車を出します。もうすっかりいい時間だわ、ポケモンセンターへ行くついでに、どこかで食事にしましょう」
 腕のポケッチは、たしかに後半へ差しかかったランチタイムをしめしていた。
 返事をして、けれど立ちどまったまま、そばのシロナさんを見る。彼女もこちらを見ていて、おたがいカトレアさんの言葉の、同様の部分に引っかかりをおぼえたのだとわかった。
「カトレアには、聞こえなかったのね。あんなにちかくにいても」
「そうみたいです」
「よかった。それならリーグのときも今日も、聞けたのはあたしだけだったってことよね」
 二度目のおや、を感じて首をかしげる。会話がいまいちかみあっていない気がする。
「聞けた、ですか? それに、あたしだけって。わたしだけ、じゃなくて?」
「……わるいけど、なんの話?」
「……シロナさんこそ」
 ふたりそろって足元に視線を落とし、五秒間だまった。はっとして顔をあげると、やはりおなじタイミングで顔をあげたシロナさんが、わたしが声を発するのに先んじた。
「ふたりしてバトル中、二回とも、なにか言ってて」
「ふたりして自分では、気がついていなくて」
「ふたりして相手だけが、なにか言ったものだと思って……」
 こらえるべき理由は、もうなにもなかった。わたしたちはそれぞれうつむいてひとしきり肩をふるわせてから、もう一度目を合わせた。
「言ってたの、まったくおなじことでしたよ。リーグのときと」
「そっちもね。だからよけい、なつかしくて」
「はい、なつかしくて」
「あたしだけが聞けたんだったら、うれしいと思ったの。……ねえ、なんて言ってたか、知りたい?」
 リーグのスタジアムで、あの日のシロナさんに、あの日のわたしが言ったこと。今日、恋人の顔をしていないひとに、恋人の顔をしていないわたしが言ったこと。
 すこし考えて、首をよこに振る。
「もしもそうなら、わたしもうれしいので。わたしだけが知っておくから、シロナさんだけが知っててください」
 彼女は聞くまえからこたえを知っていたようにごくあさくうなずき、わたしの正面へまっすぐ右手を差しだした。
「とりあえずトレーナー・シップにのっとって、健闘をたたえあいましょうか」
 骨のかたちがわかるほどつよくおたがいの手を握りあい、一瞬でほどいて、それよりもすこしだけながいあいだ、指をからめた。恋人が恋人の顔で笑う。たぶん、わたしも。
 指をはなすと、わたしたちはすっかり距離のあいてしまったカトレアさんの背を追い、ゆっくりと砂浜を歩きだした。