ワールズエンド
まどろみから浮上した意識をかかえて、もう一度寝いるでもなく、かたわらで眠るひとをぼんやりとながめていた。昨夜眠りについてから、どれくらい時間がたったのかは判然としない。ただカーテンのはしからしのびこんでくる明けはじめた夜のきざしが、目をふせたまま微動だにしない横顔に、ほのかな輪郭をあたえていた。だからかろうじて、自分がずいぶんはやくに目をさましたのだということはわかった。
窓の外からは昨晩の天気予報がそう伝えたとおりのたえまない雨音が聞こえてきて、彼女のあるかなしかの寝息をかきけしている。胸元までかかった布団がかすかに上下しているのを見なければ、人形ではなく生きた人間なのだとはとうてい信じがたい寝姿だった。
とはいえ彼女は——シロナさんは、現にこうしてぴくりとも動かずにいるように、ふだんから基本的に寝相がいい。寝おきのよさではわたしがまさっても、眠っているあいだに寝がえりをうって距離をあけてしまうのはわたしのほうだったし、夜を越すあいだになにかのきっかけで目をさましたとき、はなれた肩を抱きよせて距離をうめてくれるのは彼女のほうだった。
一度ぎゅっと目をつぶって息をついてから、彼女の横顔へ視線をもどす。今まで幾度もこうして目にして、その回数をひとつかさねているだけなのに、暗闇に浮かびあがった端整な稜線は、これまでの朝見つめたそれらとはまったくちがうものに見えた。
きれいなひとだ、と思う。つねに感じているからあらためて考えるまでもないはずのことを、今朝はどうしても言葉にしたくなる。きっと今朝だからだ。一生に一度しかない、あとにも先にもないこの朝だから。
昨日の夜、はじめてのことをした。このベッドのうえを、はじめての時間がとおりすぎていった。わたしたちのあいだに、知らない顔やはじめてのことなんてもうなにも残っていない、そんなわたしの考えを真っ向からふきとばす、まるで嵐のような。
目をさました瞬間から彼女がずっと目の前にいるものだから、ぼんやりした頭でもはっきりと意識せずにはいられなかった。今は人形じみた様子で静かに眠っているこのひとが昨日の夜、その手でわたしのからだのどこをどうたどっていったのか。ぴたりととじられている唇からどんな言葉をどんな声で発し、わたしの耳へふきこんだのか。
そんなふうに昨日の嵐を思いかえしたら、足が不随意にふるえ、そのままシーツのうえを力なくすべってとまった。体温に侵食されていない部分のつめたさが新鮮で心地よかったけれど、寝間着のしたを着ていないままだからそれを感じられるのだという理由にいきつくと、とたんにそわそわとした感覚がからだの末端をはしりはじめた。
ふだんなら、肩と肩のあいだのわずかな距離は彼女がうめてくれる。けれどいつもがそうだからといって今朝もそれにならう必要はないし、そもそもこんな朝にふだんの行動をなぞろうとする違和感が、この落ちつかなさの原因なのかもしれない。
そう考え、いっそ自分から距離をつめてしまおうと、布団のしたで漫然とあたためていた手をうごかし、そしてすぐにその判断が失敗だったのをさとった。シロナさんの二の腕にふれた瞬間、指先から伝わるシャツ越しの体温が、昨夜は布一枚をへだててもはっきりとわかるほど高かったのを思いだしてしまう。意識しないでいた時間はない、それでもわけがちがった。頭のなかで思いうかべているだけなのと、具体的な感覚をともなって思いだすのとでは。
どこかでくすぶったままだった眠たさが急速に拡散していき、それといれちがうように、しびれと寒気のまざった感覚が背骨の線をいったりきたりした。まるでたった今彼女がそこをなぞっていったみたいだなんて思ってしまったら、シロナさんの腕にかけた指が根元のからだごとこわばって、それ以上力をこめることも、腕を引いてしまうこともできなくなる。
気をまぎらわせてこのこわばりをどうにかするために、ベッドのどこかに放りすてられているはずのボトムスをさがすべきかと考えて、結局あちこちにちらばった昨晩のなごりを、もうひとつよけいにひろいあつめるだけのような気がしてやめた。かわりに深呼吸を何度かくりかえすと、おおきくはねた鼓動や皮膚の表面にはしった鳥肌が、すこしずつおさまっていくのがわかった。
——きれいなひと。
息もようやく落ちついてきたなか、なんとはなしに目の前のひとへの感想をくりかえしてみると、反芻されたそれは、ふだんは極力目をそむけて意識しないようにしている疑問とむすびつく。
今までこのひとに惹かれたひとが、どれだけいたんだろう。彼女はそのうちどれだけのひとに、昨日のようなやりかたでふれて、あるいはふれられたんだろう。どれだけのひとと、こんな朝をむかえたんだろう。
わたしと彼女のあいだには、うめがたい空白や差がいくつか横たわっていて、その最たるものが生きてきた年数のちがいだった。どうしたって追いつかないし縮まりもしない期間や、出あったときから大人だったこのひとにも、今のわたしとおなじ年のころがあったのだという事実。わたしがこれから目にすることも、実感をもって知ることもない彼女のすがた。あたりまえだと知っているはずのそんなものたちが、ときどきひどく胸をしめつけて息もできなくさせる。だからそこへむすびつくことをできるかぎり考えずにすむよう、彼女の過去についてもなにも訊かないようにしていたのに、今朝は直接そこへ思いをはせてみても、ふしぎと苦しくはならない。
ふと雨音が意識の内側にすべりこんできて、ほかでもない今朝のこの時間だからかえっていいのかもしれない、と考える。外を見なくてもそのはげしさを想像できるくらいの雨音に、目と鼻の先にあるシロナさんの顔すら、おぼろげにしかとらえられないくらいの暗闇。そのなかで彼女の横顔だけ見つめていたら、過去のこともおたがい以外のことも、今このときだけはわたしたちのあいだにさしはさまれる余地のないように思えるのだった。
ふたりきりで嵐の海原をただよっているような、世界からこのベッドのうえだけが切りとられて、わたしたち以外のすべてがうしなわれたような。このふしぎな気分をあらわそうとして浮かんでくる非現実的なたとえをもてあましていると、ふいにシロナさんがこちらへ顔をかたむけた。眠っている人間の頭が枕のうえで不安定にゆれるのとはちがう、はっきりと意思をもってそうしているのがわかるしぐさに、反射的に目をとじてしまう。
まぶたをふせた暗闇のなか、となりから一拍をおいて、ごそごそとうごく気配がつたわった。腕にかけていた指がシーツへ落ちて、彼女の体温が肩や背中へちかづいてきたような気もしたけれど、どこにふれられるでもなくベッドのうえに静けさがもどる。たとえ指先のちいさな一点でも接触があれば、じっと眠ったふりなんてしていられなくなる確信があったので、ひそかにほっとした。
だまって寝顔を見つめていたのがどこかうしろめたく、できれば知られたくなかったのもある。それに——それ以上に、昨日の今日で最初になにを言うべきなのか、どんな表情で顔をあわせたらいいのか、そんなことでなやみだしてもちっとも答えが出ない。それどころか昨夜のことにまた考えをおよばせてしまったためだろう、先ほどはどうにかやりすごせた感覚が、こんどは目をそらしがたいほどはっきりともどってきた。背骨をかけあがり、腰のあたりへあらためてふきだまったおもたいしびれは、先ほどそうしてちらばらせたように息を吸っても吐いても、いっこうに引いていってくれなかった。
どうやら結局、起きているとは知られなかったらしい。そもそもよく考えれば、確実にたった今目をさましたばかりのひとが、この暗がりに目を慣らす時間もおかずに周囲の様子を、さらにいえばわたしが起きているかどうかなんて見とおせるはずもないのだ。
だとすれば彼女がこちらを向いたのも、わたしのほうを向いたというよりは光源に視線を引かれたほうがつよいのかもしれない。そんな推測に勇気づけられておそるおそるまぶたをひらき、視線だけでシロナさんを見あげる。
彼女は眠っていたときと寸分姿勢をたがえず、ただ目だけをあけていた。わたしへも窓へも向いていない、うつろに天井をあおいでいるまなざしを何度かまぶたでおおいかくしたかと思うと、それが眠気を振りはらうきっかけだったかのように上体を起こし、そのままゆっくりと、ほとんど音もなくベッドから立ちあがった。
寝室を出て階下のキッチンにでも足をはこぶのだろうか。まだきっと、目覚めのコーヒーの時間にもはやすぎるけれど。そんなわたしの予想をうらぎり、シロナさんはベッドの足元をまわって静かに窓辺へちかづいていく。しめきられたカーテンのはしへ手を差しいれると、青みがかったほの暗い、それでも朝の気配を帯びた明かりがはいりこんで、寝室と外の境界に立った彼女のすがたを窓ぎわへ浮かびあがらせた。
セットされていない顔のまわりの髪の毛がまっすぐ肩へ落ちていること、寝間着にしているシャツの背中側のすそに、まるで寝ぐせのかわりのようにしわがついていること。そんなところへ意識を向けようとしてあえなく失敗する。今朝、この部屋へはじめて明瞭に差しこんだ暗闇以外の色が、それが照らしだした、とおくを見るような彼女の表情が。この部屋の外にも世界がひろがっていることを、わたしたちが世界にふたりきりなどではないことを、否が応でも思いださせた。
ここへもどってきてほしい。そばにいたい。昨日の夜、今まででもっともちかくにいたときのように。
降ってわいた、衝動とも感傷ともつかないものに突きうごかされるようにからだを起こす。肩からすべりおちた布団がぱさりとかわいた音を立てる裏側で、知らず知らず彼女の名前を呼んでいた。
「……シロナさん」
かすれた寝おきの声は、どうにか雨音にかきけされずに、そのひとの耳まで届いたようだった。彼女がこちらを振りかえるのと同時に手を引いたので、カーテンが直前までのように窓をおおいかくす。
シロナさんはベッドをぬけだしたときよりもいくらか早足にもどってきて、わたしの前へ腰かけた。表情どころかからだの線さえあいまいになってほとんど見えなくなったものの、すくなくともすぐそばにいて、どこかとおくではなくこちらを見ているとさえわかれば、それでよかった。
「起こしちゃった?」
訊かれて、いいえ、とこたえる。見えないはずの動作に意味はないのを知っていても、なんとなく入念に否定しなければいけない気がして首も振った。
「ならよかった。おはよう」
彼女の声音はふだんとなんらかわるところなくおだやかに聞こえたけれど、わたしを起こしたかどうかを気にするのも、そうでないと知って安心したような口ぶりも、ふだんの朝にはないものだ。本人が意識しているかどうかさだかではないから、理由と呼べるほどではないのかもしれない。それでも、きっと彼女の頭のどこかにある昨日のことがそんな言いまわしを選ばせるのだ、そう思ったらすこしばつがわるくなる。
せめてわたしの声も、いつもの朝とかわりなく聞こえているといい。期待をこめながらあいさつをかえすと、まるで視界に不自由のない明るい場所でそうするようなまよいのなさで、シロナさんが頬にふれてくる。昨夜感じた熱とは種類のちがう、先ほどまで眠っていたことに由来するあたたかさをもった指先が、頬をなぞってとおりすぎた。
どんな感覚や記憶を呼びさますでもない、それこそふだんどおりのおだやかなふれかたに、あんなに危惧していた接触に、どうしようもなくなるどころかかえって安心してしまう。
そんな自分をひどく現金だと思いながら、たどりついた耳のうしろをなでる手のやさしい感触を享受していると、安堵にゆるんだらしい口元から、かすかなため息といっしょに言葉がこぼれでた。
「……いなくなっちゃうかと思いました」
言ってしまってから、今まで眠っていたことになっているわたしが口にするには妙な言いまわしだったと気づいて、はっと下唇をかむ。それにもっと冗談めかして、起きたらとなりにいないからおどろいた、その程度のあっさりした軽口をたたくつもりだったのに。シロナさんがなにか言いかけたのにかさなって実際に口から出た言葉は、今しがたの感傷をまざまざとにじませていやにおもたくひびいた。
変に思われなかっただろうかという心配をよそに、彼女はさえぎられた言葉を言いなおすでもなく、わたしの頭を胸元に抱きよせた。つむじに頬をあてられて距離がつまると、この瞬間にも窓の外ではげしく打ちつけているのとはちがう、からだをやわらかくつつむ霧雨のような声が頭上から降ってくる。
「どこにもいかないわよ。ヒカリが起きるのを待ってたんだから」
「はい」
「雨がすごくて。もう笑っちゃうくらい」
「そんなに?」
「そんなに。外、見てみる?」
雨について語っているとも思えない、笑いまじりのからりとした口調に、せめてもの思いでつられて笑ったふりをする。顔が見えないかわりに動作が直接伝わるほどちかい距離に助けられて、こんどは無言で首を横に振った。
昨日の夜から今朝にかけてのたった数時間程度のあいだで、知らなかったことをいくつも教えられている、と思う。はじめてふかいところまでふれられた翌朝、彼女の腕をかすめただけであの時間を思いだして落ちつかなくなったり、幸福よりも感傷に胸が苦しくなったりすること。いともかんたんにゆれて波だつ自分の感情と、そんなわたしをやはりいともかんたんにひろいあげてなぐさめる、このひとの手や声。
ふと、無為に抱きしめられるばかりでいるのに気がとがめられてきて、シロナさんの肩を抱きしめかえした。そのまましがみつくような姿勢で彼女の心音に耳をかたむけているうちに、ある考えが頭をよぎる。思いついたまま名前を呼ぶと、シロナさんは声だけでひとつうなずいてから、「どうしたの」と言葉をかえしてきた。
「きのうの、その」
「うん」
「……やっぱりなんでもないです。ごめんなさい」
「言ってよ」
ずっと訊かずに、あるいは訊けずにいたことをたしかめるなら、このタイミングしかないのかもしれない。
そう考えたはいいものの、いざ口にのぼらせてみればそれがほんとうにただの勝手な思いつきにすぎなかったと気づいて、言う間にいきおいをうしなってしまう。訊かなかったとして、どうして困るというんだろう。今まで知らずにいたことをこの先も知らないままでいる、ただそれだけだ。訊いたところでどうしたいかだってわからないのに。
それでもつづきを一度うながしたきりなにも言わないシロナさんの沈黙には、言葉をかさねるよりもよほど、わたしの言葉を引きだす力があった。抱きつく先を彼女の肩から腰へとかえ、知りたい、知りたくない、と相反する感情をころがしながら、意を決して息を吸いこむ。
言いかけたままのみこんでしまった言葉につなげて、今までだれかとしたことあるんですか、そう言うつもりだった。ところが彼女のからだにあたってくぐもった声は躊躇とあわさり、自分でもなにを言ったのだか聞きとれないほどの、おぼつかない音のかたまりにしかならない。
「ごめんね、もう一度言ってくれる?」
わたしの頭から顔をはなしたシロナさんが、声にあきらかな困惑の色をにじませる。
一度目でさえ言うのをためらったのに、二度目はよりいっそういたたまれなかった。けれど逃げ道もないから、投げやりな早口で言いすてる。
「……今までだれかとしたこと、あるんですか」
訊いてしまった。そう実感したら、頭のすみに残って口をおもくさせていた感傷が、またたく間にひえてかわいてはがれおちる。もはやなにに押しとどめられることもなく、浮かんでくる言葉を浮かんでくるとおりにならべていく。
「こんなこと言ってもしかたないって、わかってます。でも、やっぱり……」
「ヒカリ。ちょっと待ってよ、どうしてそんなこと」
「だって。な、慣れてる、みたいだったから」
そこまでたたみかけたところで、喉元をなぞってきた指に、そのままあごの先をそっと押しあげられた。うえを向いたら目があった気がしたけれど、シロナさんからわたしの顔が見えているかはあやしいし、どんな表情がのっているかわかったものではない顔なんて、むしろ見えていてほしくないとも思ってしまう。
ほんとうは無意識のうちにずっと知っていたのかもしれない、それでも言語化できるほどはっきりと自覚したのはたった今、実際に口にしてからだった。どんなに目をそむけようとしたところで、結局のところわたしはおもしろくないと感じている。もっというなら拗ねている。おびえてさえいる。いたんだろう、いてもしかたない、いたほうが自然だ。そう思ってはいるのにうまくのみこめない、わたしの前にいただれかの影に。
「そう見えた?」
暗闇のなかで、彼女の顔だってろくに見えてはいなかった。だからといって心音さえ聞こえるくらいの距離にいて、そのうえふれられているのに、自分をあばくひとの余裕やその手のまよいのなさに、気がつかないほうがどうかしている。
なにも見えなかったけれど、そうとしか見えなかった。
かえす言葉がほかに見つからなくて、でもさすがにそんなものを彼女にぶつけたくもない。だまりこむあいだに、シロナさんは静かな声でつづけた。
「どう見えたかわからないけど。必死だったし、いたくしてないか心配だったのよ。あたしだってはじめてだったから」
「……うそ」
「信じてくれないの」
「だって」
——信じがたい、でも、そうだったらどんなにいいか、だって、あんなに。
とりとめのない言葉ばかりが頭のなかを占めて、目をあわせていられずにうつむくと、流れた前髪のすきまから、やわらかな感触がひたいにふれた。反射的に片目をふせるわたしの耳へ、彼女の声がたえまない雨音を押しのけて落ちてくる。
「ほんとうよ。ああいうことするのも、キスも……ひとを好きになるのも、ぜんぶヒカリがはじめて」
時間が間のびでもしたみたいにやけにゆっくりと聞こえる、いや、実際にゆっくり口にして言いきかせようとしてくれたのかもしれない。最後の一音がしみこむと、いきどおりや不満ではない、まぎれもない興奮に血がつどって顔があつくなった。
「じゃあ」
そう言っておもてをあげる。熱に浮かされたまま、彼女のきょとんとした表情を見すえる。躊躇や鬱屈としたものがただの一点も残らずとりはらわれた頭から、直接口とつながったようにすらすらと言葉がこぼれおちてくる。
「シロナさんもはじめてなら。わたしがするのでも、いいんじゃないですか」
虚をつかれたようにひと呼吸おいて、しかしあわてる様子もなく、シロナさんが問いかえす。
「するって……ヒカリが? あたしに?」
「だめ、ですか」
「だめというか。どうしてかなって」
「だって、わたしもシロナさんに、気持ちよくなってほしいから……」
言いながら、昨夜のことをもう一度思いかえした。腰や背中へしびれがまとわりついてきても、手や足の指先が宙に浮いたように落ちつかなくなっても、できるだけことこまかに思いうかべた。あの時間、あの感覚、彼女みたいにうまくはできないかもしれない、それでもあたえられるばかりではなく、彼女にもあたえることができたなら。
なにか低い音が聞こえた。目の前のひとが喉の奥で笑っている声だとすぐにわかるけれど、そうする意図はつかめない。こんどはこちらがきょとんとする番だった。
「……気持ちよかったんだ?」
笑った声とおなじ低さの声でささやかれてはじめて、自分が口ばしったことの意味をかえりみた。つい口元へあてた手の甲を指がかすめたかと思うと、そのまま手首をとられて顔の横へよけられる。ちがう、だか今のは、だか自分でもわからない、とにかくなにか言いわけしようとひらいた唇を、彼女のそれが一歩はやく食んでふさいだ。
——どこにもいかないわよ。
そう言ってわたしを慰撫したときのおだやかさをどこかにわすれてきたみたいに性急なのに、わたしをねじふせるような力なんてひとつもこもっていない、ただ熱をはらんだだけの指や唇にふれられて、どうして抵抗する力までうしなってしまうんだろう。思ってもシロナさんを押しかえせないまま、口内をなぞる舌へ反射的にこたえる。唇がはなれると、いつのまにそうなったものかわたしは枕に頭をしずめて、ベッドに乗りあげてきたシロナさんをあおいでいた。
「よかった。さっきも言ったけど、いたくしてないか心配だったから」
「いたくは……んっ」
「ねえ、気持ちよかったなら、もう一度、してもいいわよね」
「ふ、あ、待って、シロナさん、こんどはわたしが……っ」
言葉の合間、あつい手と唇が欲火の種をまくように、服越しに、素肌に、あらゆるところに点々とふれていく。昨夜を思いだしてでも記憶のなかの熱にさいなまれてでも、せめて寝間着のボトムスをさがしておくべきだった。おおうもののない足を逆手でなでられたら、かんたんに温度をあげた吐息が喉を焼いて、やっとのことで振りしぼった声がどうしようもないとぎれとぎれの音にかわる。
でも、いちばんどうしようもないのはわたし自身だ。
わたしたちは、世界にふたりきりではないかもしれない。けれどこのひとがはじめてだと、抱きあうのもキスをするのも、だれかを好きになるのもはじめてだと言った。だから世界の裏側までさがしたとしても、このひととこうして朝をむかえた人間もこのひとにこうしてふれられた人間も、わたししかいないのだ。それを考えただけで幸福に手足がしびれて、かたちのうえでの抵抗をつづけながらも、本心ではもうこの熱にのまれて身をゆだねてもいい、そんな気分になっている。
そんな自分にやっぱりどうしようもない以外の感想を見つけられないでいると、寝間着のボタンに手をかけたシロナさんが唐突に静止した。ぼやけた視界で位置がさだまらず、急に侵食をやめた熱にとまどって無意識にうごいたらしい指で、彼女の腕を引っかいてしまう。
引っかいたのを謝る余裕も、やめてと制止する気もなく、ただそのひとをたぐりよせるためだけに名前を呼んだ。やまない雨音と、おたがいの輪郭さえあいまいにする暗闇につつまれながら唇をかさねるこの瞬間だけ、わたしたちはたしかにふたりきりだった。