わりない恋
まぶたを持ちあげても、目の前には自分がほんとうにそうしたのかどうか疑わしくなるような暗闇がひろがるばかりだった。
とっさにまだ夜中なのだと思いかけるものの、眠りについてから短時間で覚醒したにしては、眠気がやけにとおいのが引っかかる。枕のうえで顔をかたむけて窓のあったあたりを見ると、しめきったカーテンの四辺にそってうす明かりがこぼれていた。それだけがかろうじて、今が朝と呼べる時間帯らしいことをあたしに知らせた。
ぼやけた四角形をながめながら身じろぎすると、二の腕にかかるほそい指に気がつく。抱きしめているというにはあまりにもささやかで、ふれているだけというにはいささか密度の高い接触に。
真上を見ても、たしかにそこから吊りさがっているはずのペンダントライトの存在さえとらえられない。もちろん相手の顔などたしかめようもなかったが、指の持ちぬしがまだ目をふせて眠っているのだろうという見当くらいはついた。
いつものくせで体の向きを変え、意識のないあいだにはなれた距離をつめようと彼女の——ヒカリの背中へ腕をまわしかけるが、宙に浮いた中途半端な位置で手をとめる。きっと昨晩のつかれや負担が、彼女をこうしてふかい眠りのなかにとどまらせているのだろうと思ったら、不用意に手をふれてそれをさまたげるのは気が引けた。結局彼女を抱きよせられずに行き場をうしなった腕を、そのままからだの横へもどした。
そもそも、今までこのベッドで幾度も眠り、その回数とおなじだけの朝をむかえてきたけれど、こんな状況で目をさましたことが一度でもあっただろうか、と考える。これといった予定のない朝に、あたしがヒカリよりもはやく起きるなどあったためしがない。カーテンがしめきられているのにさえおぼえがないほど、やわらかな朝の陽がみちる部屋で、彼女にかるく肩をゆすられて起きるのが常だった。だから早朝のこの部屋がこんなに暗いとも知らずにいた。
へたをすれば家主であるヒカリ本人さえ知らないかもしれない景色のなかで、なにをするでもなく身を横たえているうち、光のとどかない深度の水底からゆっくりと浮上するように、起きぬけでにぶっていた感覚がそれぞれのはたらきをとりもどしていく。まずは天井の照明がぼんやりとそのかたちをあらわし、つづいて窓外からの雨音が耳にとどいた。そういえば昨夜ベッドにはいる前にニュースを流しみていて、あすはなんとかいう前線の影響で一日中雨が降りつづくのだ、という予報を聞いた気もする。
はやくに目をさましているのだから、昨夜といっても時間にすればさほど前の話ではない。それでもリビングのソファでヒカリとならんでテレビをながめていた記憶は、今やその痕跡さえつかめない眠気とおなじく、はっきりと思いだせないほどとおくへ押しながされている。
考えるまでもなく、理由はわかっていた。ヒカリがいまだに目をさまさないわけも、あたしがたった数時間前のことを忘れさりつつあるわけも。もっといえば、おそらくあたしがこんなにはやく目をさましているわけまでも——つきつめればある一点に原因を集約できるはずだった。つまり、昨晩ベッドのなかではじめてからだを重ねたため、というその一点に。
叶うなら恋人の背中に腕をまわすのを躊躇するような早朝ではなく、指先さえ見えないような暗闇のなかでもなく、ただいつもどおりの時間に、いつもどおりの目覚めかたをしたかったと思う。いつもどおりではない時間をすごした翌朝、最初に見るものが恋人の顔で、最初に聞くものが彼女の声であればよかった。
もちろん、今さら願ったところでどうしようもないのぞみばかりだ。そうなると当面の問題はすっかり目がさえてしまい、そのくせヒカリを抱きしめることもできないこの現状で、彼女が起きるまでの時間をどうつぶすべきかということだった。
かたわらの恋人から意識がそれたところで、ふと雨音がやけにおおきいようなのが気にかかり、のろのろと上体を起こす。ヒカリが起きるのを待つという目的上、部屋を出る選択肢は最初から除外しているけれど、窓辺に立って外の様子をうかがうくらいはその範疇でもない。スプリングをきしませないよう慎重にベッドから出した足を、つづけてそっと床へおろす。つま先でフローリングの表面をなぞって部屋ばきをさがし、足の甲に引っかけて腰をあげた。
窓へ近づき、外の明るさがヒカリの顔のあたりを照らしてしまわないよう、枕元からとおいほうのカーテンのはしへ手のひらを差しいれる。できたすきまをのぞきこむと、夜が明けたばかりと思しい藍色がかった光景が、さらにうえからうすいベールでおおわれたように白んでいた。一瞬、レースカーテンを持ちあげずそのままにしていたかと考えるが、そうではない。はげしく降りしきる雨が、窓から見える景色をかすませているのだった。
別荘の前の防風林がおおきくゆれていないのを見るに、風のつよさはさほどでもないらしい。それでも海面は白く波うち、海岸線はけむったようにその輪郭をあいまいにしている。夜明けの水平線などはのぞむべくもない。
あたしはどこかでこうしたとくべつな翌朝を、雲ひとつない空へのぼった太陽のつくるあわい色彩と、とおくにかすかな波の音が聞こえるだけの、おだやかな静けさのなかでむかえるものだと思っていた。ちょうど、あたしたちにとっての『いつもどおり』がそうであるように。
われながら、いったいなんのドラマや映画から得たのだか、と言いたくなるイメージに内心苦笑するあいだに、背後から衣ずれの音がする。ヒカリが寝がえりでも打ったのだろうとそのまま窓の外を見ていたら、眠っていると思っていた本人の声で名前を呼ばれ、あたしはカーテンから手をはなして振りかえった。
窓がふたたびかくされ、申し訳程度の光源さえもなくなった暗い部屋のなか、ベッドの枕元にはいちだんと濃い暗闇がわだかまっている。どうやら彼女が上体を起こしているあたりに影が落ちてそう見えるらしい。抜けだしたばかりのベッドへ近づき、ふちにそっと腰をおろした。
「起こしちゃった?」
「いいえ」
ヒカリがみじかくこたえるかたわら、一瞬だけおとずれた雨音の切れ間に、髪のゆれてこすれる音がした。言いながらちいさく数回、首を横に振ったようだった。
「ならよかった。おはよう」
「おはようございます」
眠たげな声と髪のたてた音をたよりに位置の見当をつけて頬にふれ、そのラインをたどって耳のうしろをなでると、ふいに昨晩のことが断片的に呼びさまされる。寝室の照明をすべて落として、明かりと呼べるのは雲にかげった月光くらいのものだった。しだいに目が暗闇に慣れていったとはいえ、結局見おろした彼女の表情の細部をとらえられるまでにはいたらなかった。にもかかわらず不便だと感じなかったのは、からだを重ねていたあいだじゅうずっと、ありていに言えばそんなことを気にする余裕もないほど必死だったからだ、と思う。
「まだはやいけど……」
「いなくなっちゃうかと思いました」
ヒカリがこぼした言葉を聞いてつい、もう起きるの、とつづけようとしたのをのみこんでしまう。内容そのものに対してというよりは、先ほどのぼんやりしたものから打ってかわってまっすぐな、けれど心ぼそさのにじんだ声と口調にとまどってのことだった。
それでもとまどいに半歩遅れてついてきた、どうしてそんなことを、という疑問にはすぐにこたえが出る。
今朝、自分がヒカリよりもおそく目をさましたと仮定してみた。そうして起きた際、となりに彼女のすがたが見あたらない状況を想像した。眠る前は肌一枚のへだたりさえ忘れるほどちかくにあったはずのぬくもりが、まぼろしのようにあとかたもなくなっていたとき、自分がなにを思うのか。
なぐさめたり謝ったりするかわりに彼女の頭を抱きよせ、つむじに頬をあててささやく。
「どこにもいかないわよ。ヒカリが起きるのを待ってたんだから」
「はい」
「雨がすごくて。もう笑っちゃうくらい」
「そんなに?」
わざとおおげさな口ぶりで話の風むきをかえると、胸元でくぐもった声に笑いがまざった。そんなに、と語尾をさげて彼女の言葉をくりかえし、外を見てみるかと問いかける。鎖骨のあたりで首が横に振られる気配があってから、ヒカリがあたしの両脇へ腕を差しいれた。
寝間着がわりにしているシャツの背中をのぼった手が、たどりついた肩口をうしろから握りこむ。そのしぐさになぜか、ただ手をかけているだけだとか抱きしめかえしているだけだとはいいがたい、必死にしがみつくような切実さを感じて、あたしは気どられない程度にちいさく首をかしげた。たいした力もこめられていないのにどうしてそう感じたのか、自分でもこれといった根拠を言葉にできなかった。
「……シロナさん」
「うん、どうしたの」
かすかにためらいをふくんだような声で名前を呼ばれ、つとめて平坦な口調でかえしながら、ひそかにぎくりとする。なにか口ごもるようなことを言われるのだと思った。それもきっと、昨夜のことに関して。
つかれさせた、いたい思いをさせた、もしくはそもそも——このタイミングでそんな呼びかたをされる理由の候補をひとつあげるたび、明かりのない地下へつづく階段をおりるように暗いほうへ向かっていく思考を、雨音にかきけされないぎりぎりまで音量をおさえたヒカリの声がいったん引きもどす。
「きのうの、その」
「……うん」
「やっぱりなんでもないです。ごめんなさい」
「言ってよ」
聞かなければならないような聞きたくないような、どちらともつかない心境にまかせて口に出した声は、思いのほか懇願するようなひびきを帯びる。気を抜けば、お願いだから、とでもつづけてしまいそうだった。
ヒカリはしばらく黙っていたが、やがて肩にかけていた手をおろすと、そのままつくった輪をひとまわりせばめてあたしの腰を抱きしめた。顔をあげずになにかつぶやいたものの、ただでさえ声がこもっているのに加え、先ほどよりもさらに声量がおさえられていたので、ひとことも聞きもらすまいとそばだてていたつもりの耳をもってしても、内容はとぎれとぎれにしかひろいあげられなかった。
今まで、こと、ですか。
ようやく聞こえたそればかりでは、どうころがしてみたところで意味の通る文章を組みたてられそうにない。髪にうずめていた頬をはなし、うつむいている頭を見おろす。
「ごめんね、もう一度言ってくれる?」
「……今までだれかとしたこと、あるんですか」
言いなおした声もかぼそいうえに、まるで聞きとらせる気のないような早口で、それでもあたしはようやく、穴ぬけになった文章のすきまをうめることができた。
なにを言いたいのか、あるいは訊きたいのかになんとなく理解がおよび、かといって今朝すでに感じたおぼえのある、どうしてそんなことを、という疑問にはこたえを出せないでいると、ヒカリがつづけざまに口をひらく。
「こんなこと言ってもしかたないって、わかってます。でも、やっぱり……」
「ヒカリ。ちょっと待ってよ、どうしてそんなこと」
「だって。な、慣れてる、みたいだったから」
ふだんの彼女らしくもなく要領を得ない言葉が寝室に落ちたのをきっかけに、一連の言動の指すところが頭にしみこんだ。
肩を抱いた腕をほどき、片手の指先をヒカリの喉元にあてる。ふれたあたりがぴくりとふるえるのにはかまわず、おとがいまでをたどってそのまま押しあげる。抵抗もなくうえを向いた顔にのった表情を見てとれたので、あたしは自分の目がいくらか暗闇に慣れたのを知った。
ひたいの横に流れた前髪からのぞく、かすかによせられた眉間やはしのほうをさげた眉や、そのしたで引きむすんだ唇が、やはりふだんの彼女らしくもないものを伝えてくる。悲しげにも見えるけれど、そういうよりは拗ねているとあらわしたほうがちかい、そんな感情を。
「そう見えた?」
ヒカリからは今のあたしの表情がどう見えているだろうか。もしかするとまだ目が慣れていなくて見えないのかもしれない、そんなことを思いながら言う。質問のていをとっていてもなにかを問いたいわけではないから、彼女の答えは待たなかった。
「どう見えたかわからないけど。必死だったし、いたくしてないか心配だったのよ。あたしだってはじめてだったから」
「……うそ」
「信じてくれないの」
「だって」
昨夜はあんなに必死だった、今朝だって呼ばれかたひとつであれこれ考えてしまったようなあたしが、当のヒカリからは『慣れてるみたい』に見えるのだと思ったら、自分たちの食いちがいがおかしくてつい笑いだしそうになる。そしておかしいのとおなじくらい、それを言いあぐねていた恋人をかわいらしく、いとおしいと思った。ともすれば、昨日の夜そう感じたときよりもつよく。
笑いをかみころして、すこしうつむいた彼女のひたいに唇を落とす。
「ほんとうよ。ああいうことするのも、キスも……ひとを好きになるのも、ぜんぶヒカリがはじめて」
きちんと彼女の耳にとどくよう、そうしてもう二度と不安にさせないよう、できるだけゆっくりとささやいた言葉は、実際に言いおえるとむしろあたし自身に向けてひびいた気がした。あえて告げることでもないと思っていたし、ヒカリもとくべつ訊いてはこなかったので、そういえば何年にもなる関係のあいだ、一度もこのたぐいの話をしたことはなかったのだ。
一拍の間をおいて、ヒカリがはじかれたようにいきおいよくこちらを見あげた。「じゃあ」と切りだした声には正体のわからないふしぎな熱がともって、先ほどまでのかぼそさがうそのように聞きとりやすい。あたしはきょとんとして、頬までもほのかに紅潮させた彼女の顔を見つめた。
「シロナさんもはじめてなら。わたしがするのでも、いいんじゃないですか」
「するって……ヒカリが? あたしに?」
「だめ、ですか」
「だめというか。どうしてかなって」
「だって、わたしもシロナさんに、気持ちよくなってほしいから……」
それを聞いた瞬間、ふいに窓の外の雨音がとおざかったように思った。雨が突然やんだのかといぶかしむが、かわりに頭のすみでどくどくとはげしく音をたてはじめた血流に、間をおかず気がつく。それが雨音をぬりつぶしているのだということにも。
こんどはかみころさずに、喉の奥で笑った。
「……気持ちよかったんだ?」
あたしにそう言われてはじめて、ヒカリは自分がなにを口ばしったのかに思いいたったようだった。あたしの腰に巻きつけていた手をはなして、あわてたように口元をおおうけれど、もうおそすぎる。
顔の前にあてられた手の甲、そこに浮きでた骨の線を指でなぞった。ゆれた手首をのがさずにとらえてよけると、もう一度あらわになった唇が上下にわかれてなにごとかを言いかけたが、最初の一音が声になる前に口づけてうやむやにしてしまう。
条件反射からかあきらめからかわからないが、とにかく口内へしのびこませた舌にヒカリが応じてくることに満足しながら、うすい背中に手をそえてからだを枕へ横たえる。上体をおこして唇をはなすと、さすがに表情の細部まではわからなくなったが、きっと頬はさらに赤くなっているのだろうと思った。
「よかった。さっきも言ったけど、いたくしてないか心配だったから」
「いたくは……んっ」
「ねえ、気持ちよかったなら、もう一度、してもいいわよね」
「ふ、あ、待って、シロナさん、こんどはわたしが……っ」
腰かけているだけだったベッドに乗りあげ、言葉の合間に、昨夜もさんざんふれた彼女のかたちをたしかめるように、そうして彼女が言わんとすることをかきけすように、指や唇でからだのうえをたどっていく。
昨夜あたしがぬがせ、そしてことがおわってからせめてうえだけでも、と着せた寝間着のあわせに手をかけたところで、布地がやけに突っぱっているのとその理由に気がついて、つい手をとめた。暗がりで手元がおぼつかなかったせいか、ボタンをかけちがえたまま着せてしまっていたらしい。
それを知らないヒカリが、あたしの腕をかるく引っかく。そのしぐさといいタイミングといい、手をとめたことに焦れたようにしか感じられず、あたしは思わず息をつめた。
実をいえばどこかで、ヒカリのすることならなんだって不快なはずもないし、彼女がほんとうにそうしたいというならあたしが抱かれるがわでもかまわない、と思っていた。けれどそんな考えはたった今、自分がしたいのだと言いながら、ふれられることを無意識に期待しているような恋人を前にして、完全にけしとんでしまう。
せいいっぱいなのだ、と思った。ヒカリにもあたしにも、余裕なんてかけらもない。たとえばふだんなら心のなかにしまっておけるあらゆることをおもてに出してしまうように、寝間着のボタンをかけちがえてしまうように。あたしたちはふたりとも、なりふりかまわないほど必死になって、はじめての恋におぼれている。
血の流れる音もとおくなり、青みがかった暗闇のなか、あたしの名前を呼ぶヒカリの声だけが耳にとどいた。その声に吸いよせられるように唇を重ねてから、まるでおぼれながら酸素をわけあっているみたいだと思った。