うまくいかない恋

 ありのままをいえばすっかり忘れていた。自分でもどうかと思うけれどあとのまつりだ。気がつけばもうとっくに、やりなおしのきかないところに立っていた。
 キッチンからもどったシロナさんが、グラスについできた水をローテーブルへ置いてソファに座ろうとする寸前、サイドチェストのほうへ目をやりちいさく首をかしげる。なんだろうと思っていると、そちらをのぞきこんで言った。
「手紙?」
 手紙。
 その単語をきっかけに、わたしはひたいのうえで手をたたかれてまどろみから一瞬で引きあげられ、一挙に周囲の状況を把握するように、ごく急激な展開で思いだした。数週間まえ、ナナカマド博士の助手として同行した研究会。そこでシロナさんにと一通の手紙を託されたこと。持ちかえったその手紙を研究会で配布された冊子にはさんで、サイドチェストに置いておいたこと。
 恋人とちがい、わたしは片づけをそうにがてにはしていない。もうつかわない資料の整理を忘れ、おざなりにはさんだ手紙ごとそのままにしていたわけではなかったし、もちろんあずかったものをぞんざいに放りだしていたのでもなかった。
 シロナさんとの予定が噛みあわず、しばらく会えないのはわかっていたから、せめて当時にひもづくものとひとまとめにしておけば、渡す機会が先になっても忘れずにいられるだろうと思ったのだ。結局数週のあいだに、手紙は冊子ごとリビングの風景にとけこんで一体化してしまい、ほかでもない本人に発見されたので、そんな経緯にもはや意味もなくなってしまったけれど。
 なんだか間のぬけた返事だと思いながら、「手紙です」と肯定する。
 書類のはいっていそうな封書やダイレクトメールなら、通常あまり『手紙』というあらわしかたはしない。シロナさんがそれを手紙と呼んだ理由は、ひとえに冊子の小口からのぞく封筒の、やわらかなミントグリーンをベースにフラップ部分だけを白いレース柄でかざった、いかにもフェミニンで個人的なデザインにあるはずだった。
「きれいな封筒。なにかの招待状? それともヒカリがだれかに書いてるとか?」
「いえ、もらって。ファンレターだって」
「へえ、どこで」
「このまえの研究会で……」
「研究会って博士といっしょに行くって言ってた、あれ? すごいじゃない、そんなところで……」
「あの、わたし宛てじゃなくて。シロナさんへ、です」
 目をかがやかせて封筒を取りあげようとしていたシロナさんが、それを聞いて手を止め、一転していぶかしげなまなざしをわたしに向ける。冊子から中途半端に引きだされた封筒は重力に負けて、サイドチェストの天板にぺろんと倒れこんだ。
「あたしに、って。それをなんでヒカリがもらってくるの、しかも研究会で」
 もっともな疑問だ。訊ねられてしまってはこたえない理由もなく、そろえた自分の両ひざへ視線を落として息を吸う。
 もう数週間まえのことになる研究会。学会より格段に規模のちいさなその場で、学会より格段に自由な討論時間のすきまに、わたし同様研究助手という立場でここにいるのだと名のって、彼女は声をかけてきた。
 聞けば彼女自身はトレーナーではないものの、むかしから公式戦をこのんでよく観ており、わたしが殿堂いりを決めた試合もテレビで観戦していたのだという。その後チャンピオンを引きつがず、ナナカマド博士の助手となったわたしがここにくるかもしれないと知り、会える機会があるならのがしたくなかった、とも語った。
 殿堂いりの日から月日は経ち、ちかごろは頻度もひくくなっていたけれど、ひとときチャンピオンだったわたしを知る相手からそうして声をかけられること自体は、はじめての経験ではなかった。だからまぎれもなく高名な博士ならともかく、ただの助手でしかないわたしを呼ぶとき、彼女がなぜかすこし緊張したような表情をみせていた理由も腑に落ちた。面はゆさはあっても、けっしていやな気分はしなかった。ただ純粋にうれしかったと思う。
 ——あのとき熱戦をくりひろげたシロナさんと、いまでも交流があるのなら、どうかこれをわたしてほしい。何度も練習してきたとわかるなめらかな口調でそういうむねのことを言った彼女から、くだんの封筒をさしだされるまでは。
 主観的な部分をさけて客観的事実だけを選びとり、『恋人宛てのファンレター』がわたしの別荘のリビングにある理由を説明しおえる。
「交流どころか、お付きあいをしてますなんてまさか言えないから、いいですよって受けとっちゃいました」
 口角をあげてそう言いそえると、シロナさんはとくに相づちをかえさなかったものの、不審げな表情ばかりはゆるめて封筒へ目を向けた。
「なるほどね」
 ややあってシロナさんがつぶやき、指先でひょいと手紙を取りあげる。
 わたしはもう一度自分の足と、知らず知らず親指をにぎりこんだ状態でそのうえに置いていた手へ視線を落とした。けれど胸を撫でおろす気持ちでいられたのもつかの間、紙がなにかに接するかわいた音がして、視野にうすく影がかかった。
「ええと」
「うん」
「読まないんですか」
「ファンレターって、そんなにいそいで読まなくちゃいけないもの?」
「いけないとかじゃ、ないですけど」
 このひとなら、たとえ直接でないとはいえファンレターを受けとれば、その場で封をあけて読みはしないまでも、うれしいと口に出すとかにこにこするだとか、なんにせよ好意的な反応をみせると思っていた。
 そんな予想をくつがえしてミントグリーンの封筒は冊子の表紙のうえへ捨ておかれ、「そうよね」と笑うような声で言ったシロナさんは、笑うどころかなんの色ものせない、温度のない目でわたしを見おろしている。
 どこをどうまちがえたんだろうか。慎重に話して取りつくろったつもりが、無意識のうちに主観をにじませていたのかもしれない。そのせいでひどく動揺して流れをくるわせた自覚はあったから、シロナさんが口にするまで封筒の存在を忘れていたことが、いまさら心底から悔やまれた。本来なら研究会での経緯などくわしく告げる予定はなかったのだ。博士経由であずかったのだとか、もっともらしい理由をつけてなんでもないかるい調子で、なにより自分から渡すつもりでいたから。
 恋人なのだ、一度浮かんだ疑念を、追究する余地のある疑問を、宙に浮かせたまま放っておくひとではないことくらい、だれよりも知っている。知っていたから。知っていた、のに。
 うろたえて過剰に回転した思考が熱をもち、口のなかがかわいてくる。頬もいよいよ引きつりはじめる段になって、シロナさんの片ひざが座面にのった。もう片方の足がわたしのひざのあいだへゆるやかに割りこんですきまを生む。足それぞれの挙動にともなってかたむいた上体を、背もたれについた両の腕がささえていた。
 シロナさんの表情も落とす影もつねになくひえびえと感じられるのに、どうしてもキスするまえ、目を合わせて肩を抱きよせられるときの体勢を連想する。
 結局さほど間をおかず唇は降り、撫でるようにそっとふれてきた。つむじ、こめかみ、指で髪をはらって耳殻へ、首すじへ。おとがいをとらえられておもてがうわむく。けれど唇の感触はつぎにふれるのだと思ったおなじ場所をとおりすぎ、まぶたでちいさな音をたててはなれた。
 なんとなく意図は想像される。どうしてかはわからない、それでも唇をふさいでしまわないようにして待っている、うながしている気がした。わたしの言葉を。わたしがなにか言うのを。でもそうしていったい、なにを言えというんだろう。
「気、にならない、ですか。ファンのかたからのお手紙なのに、読みたくないのですか」
 先ゆきの見とおせない焦燥感に急きたてられて選んだその言葉がはっきりと最悪だったのを、言った直後にさとる。シロナさんは唇の両はしを持ちあげて、そこだけ見れば笑っているような表情をつくった。そこだけ見ればとわざわざ頭にそえたのは、すがめた瞳がちっとも笑っていないだけでなく、一段と剣呑なやりかたで温度をさげたからだった。
「あたし、読みたくないなんて言ったかな」
「いえ、でも」
「ねえ、これをくれたひとじゃなくて、むしろヒカリが気にしてほしくて、いまここで読んでほしいみたいな感じね。どうして? ファンレターなんでしょう」
 ただの。そう付けくわえた言葉まですべてただしく、それでいてまちがっている。まるで正答の文章を文節単位のカードにしてめちゃくちゃに並べなおしたみたいに、欠けずにそろっているただしい要素の、順番だけが。
 レース柄のフラップ部分はすきまができないよう几帳面に糊づけされて、封入の瞬間から現在にいたるまで中身を守りつづけているので、わたしはもちろんそれを読めない。読めたとしても読まない、読みたくもない、積極的に読んでほしいわけでさえない。
 本来なら、わたしがみずから自然に差しだした手紙をうれしいなあと笑って受けとってもらい、読むというならわたしのいないところで、知らないうちにやりとげてもらう予定だった。理想的だったはずのそのプランが取りもどしようもなく失敗したのに気がつき、どうにか軌道修正ができないかと焦って考えた。そうしていっそ正直に、しかしつごうのいい部分だけを説明して、シロナさんがありがたいわねとでもひとこと言って納得してくれたなら、それが叶うと思いついた。
 だってただのファンレターだから気にして、読んでほしかったのではないのだ。この手紙は偶然会ったひとからあずかっただけの、なんの変哲もないただのファンレター。その事実を、自分にそう言いきかせるなんてあやふやな手段でごまかすのではなく、ほかでもないこのひと自身によって、たしかなものにしてほしかったのだ。
 かえす言葉を待たれず、幕を引いてほしかった手に重心をくずされた。ひじかけに置いたクッションへゆるやかに倒れこむからだのあちこちを、指と手のひらがかすめてなぞりあげる。いつの間にかわたしをまたいでソファに乗りあげたシロナさんが、くろぐろと終止符を打ってほしかった唇からなにも発さないまま、先とおなじ一点をさけてキスの回数をふやしていく。
 髪のなかや首すじに吐息を隠され、肋骨の本数や血管の分岐を数えてたしかめるように指でたどられて、湿り気をおびていく息の合間からどうにか名前を呼ぶ。わたしの指のふしへひとつずつ口づけを落としていたシロナさんは、そこから唇をはなすとうっすら眉をひそめてこちらを見た。
「そろそろ、言ってくれてもいいんじゃない」
「っ、なに」
「……訊きたいのはこっち。なにを気にしてるの、なにがそんなに心配? 言っておくけど。そのひとがだれだか知らないわ、でもファンレターだなんて言ってまわりの人間を、しかもヒカリを利用するようなやりかた、下心を感じて、あたしは好きじゃない」
 このひとにしてはめずらしいほどつよい語調で言いおえたシロナさんの顔に、このひとにしてはめずらしいほどはっきりと、不愉快そうな色が浮かんでいる。
 シロナさん自身が、取りちがえようもないほどきっぱりとその手段を否定したのだ。それで安心できたらよかった、変な心配をしてごめんなさいと言えたらよかったのに、はたと気づいてしまった。サイドチェストの手紙は、わたしがそうでだけはあってほしくないと危惧したものになってしまい、もはやなんの他意もないファンレターにはもどらない——そして。
 胸のあたりへ、おもたくひややかなものが落ちる。息がつかえて黙りこくるようすで言ったことがひびいていないと判断されたのか、吐きすてるようなため息のあと、止まっていた手と唇がうごきだした。絞まった喉からあわてて声をしぼりだし、手をとって食いさがった。
「う……うえで、話したいです」
「どうして。場所をかえて、なにかかわる?」
 真剣にそんなことを考えたわけではなく、この煌々とあかるいリビングでさえなければどこだってよかった。きっと指先で、唇で思考をかきみだされていなくても、あきれていることもうんざりしていることも隠さない目と向きあいながら、言うべきことなんてまとめられない。
「かわります、かわるから……」
 お願いだ、と決定的なひとことを言わなくても、声音がほとんど懇願のそれなのを自覚する。
 それでもいまのシロナさんが聞きとどけてくれるかわからない。そう考えた瞬間、鼻と目をむすぶ一点によどみはじめるものを、奥歯を噛みしめて散らしていたら、ふいにソファからおりたシロナさんが、わたしの手首と二の腕をつかんで立ちあがらせた。
 きびすをかえしたシロナさんの、ひとりで歩いているような背中につれられてリビングを横ぎり、階上へあがる。手をつなぐのではなくつかんで引かれているのと、歩幅も歩調も合わないのとが相まって、まるで持ちはこばれるハンドバッグにでもなったみたいだと、ひとごとのように考える。
 電気を点けられたらと気がかりだったけれど、寝室へはいったシロナさんはわたしが策を講じるまでもなく、まっすぐに部屋の中心まで歩みよった。どうにか押した扉がとじる音を聞くと同時に、ベッドへ放りだされる。それこそバッグをそうして置いておくように、でもバッグならここにいるのは一時的なことで、いつかはただしい場所へ片づけてもらえるはずだ。わたしはいつまでここに捨ておかれるのかわからない、たぶんそれだけのことをしてしまった。
 起きてすぐに引きあけたままのカーテンが、あるかなしかの月あかりを濾過して寝室に引きこんでいる。シロナさんがベッドに乗りあげておおいかぶさってくる、肩を押されて倒れこむ、それでも目と鼻の先の表情をうまくとらえられないことに、ようやくわずかばかりの安堵が芽ばえる。
 髪がシーツに横たわった頭のまわりへ落ち、闇のなかからのびてきた手がまぶたにふれた。ソファでのことを思いだして一瞬全身がこわばるものの、位置をさぐった指は頬のうえへ落ちついたきり、その背をつかってあやすようにゆっくり撫でてくる以外の動作をせず、シロナさん自身もなにも言わない。
 場所をかえたらという言葉を尊重して、待ってくれているのだとわかった。わかったら、階下で奥歯にちからをいれてこらえたものが、とどめなければと考えるすきもなく頬をぬらして流れた。
「わ、っ、わたし……」
 いまはうかがえない表情のかわりに、階下でわたしに影を落としたこのひとの顔を、余裕がなくて細部まで意識できなかった態度を、いまさら鮮明に思いだす。不愉快なのだと、あきれてうんざりしているのだと隠さなかった。声はきっぱりしていただけであらくはなかった、なのに怒っているのをひしひしと伝えた。それでもそんなとがった感情を向けられているわたしよりもよほどくるしそうな、いたみに耐えるような顔をしていた。
「わたしとあのひとで、なにが、ちがうんですか。下心ならわたしだって、あって」
「本気で訊いてるの。そのひととヒカリで、おなじなわけがないでしょう」
「おなじです」
 おなじだ。下心があったからこそ、わたしは友人だったころのシロナさんと、殿堂いりのあともしたしく会う回数をかさねた。あるとき好きだと言って、好きだとかえしてもらえたから恋人になった。でも順番が逆だったら、彼女のほうが、わたしよりも先に出あっていたら。今夜、下心を感じると眉をひそめられていたのは、わたしだったかもしれないのに。
 もしかしたらあの瞬間よりもまえに気づいていた、ほんとうはたぶん手紙を託された時点で無意識のうちによぎっていた、意味のない、ばかげているにもほどがある仮定。そんな仮定を察してシロナさんは傷ついたのだと、わたしが傷つけたのだと、そうしてこの期におよんでまだ傷つけるのだと思う、その考えが壁を一枚へだてたところにあるみたいに、どこかとおく感じられる。
「もし仮に、おなじでも」
「ごめ、なさ」
「……おなじだったら、なんだっていうの」
「こ、んなことに、なるんだったら、受けとらな、ければ、よかっ……」
 しゃくりあげながら言うのを、ながくふかいため息がかきけした。
 顔のまわりがひらけて、またもどる。一度髪をかきあげたんだろう。
「……ごめん、もう、黙って」
 しずかなひくい声が聞こえて、そう言われなくてもどうせろくに言葉をつくれない唇を、今日はじめて唇がふさいだ。
 キスをしたまま、必要最低限だけ服をみだされる。キスをしたまま、階下で必要最低限の準備を勝手にすませたからだがひらかれていく。キスをしたままだからこぼせない声が、つながった口内にこもって反響する。
 顔さえ見えない暗闇のなかでも、どこにいてなにをしていてなにをされるのかわかって、よけいなことをこれ以上言わせないための口づけがつづいていても、酸素が足りなくなるタイミングを把握されているように、息つぎのすきがあたえられる。
 この夜のなかではじまったものはすべて、なんの支障もさしさわりもないまま進んでいく。なにもかもうまくいっている。それなのに、とっくに叶ったはずの恋だけがふしぎとすこしも、うまくいかない。