罪と蜜

 まぎれもない自宅の、玄関の扉だ。塗装の色あいにも取っ手のえがくカーブにも、出張へ発つまぎわ、最後に目視した時点からなにひとつ変化は見うけられない。帰ってくる部屋をまちがえたわけも、手をかけるのをまよう理由もない。
 ないというのに、あたしはかれこれ十分ほど立ちつくしている。これまで幾度開閉したか知れないその扉をまえに、ときおり押しだすため息にのせて体内によどむなにかをにがし、またあるときはコートの内ポケットへ指を差しいれすぐに引きぬく、そうしたしぐさを落ちつきなく延々と反芻しながら。
 けれどそんなおかしなサイクルを、もちろんいつまでもまわしつづけてはいられないのだった。
 コートのあわせへ何周目かに指をおよがせたタイミングで、玄関に向かってくる足音を聞く。あわててぬいた指を背後で外気にひえている旅行かばんのハンドルへかけ、しかしすぐに思いなおすと、ある種の覚悟とともに胸元へもどした。
 つま先が裏地をかきわけ、ちいさな金属のふちをなぞる。それを合図にしたように扉がひらき、わたした合鍵で出張の帰りを待ってくれていた恋人が、電球色の柔和な照明を背おって顔をのぞかせる。
「……なにしてるんですか?」
 部屋の玄関まで帰りついておきながら開錠もせず立ったままでいるのが、よほど奇妙に映ったのだろう。きょとんとした表情であたしを見あげて口にする第一声が、こういう場合のヒカリがいかにも言いそうな「おかえりなさい」でも「おつかれさまです」でもないその問いかけだから、ある程度予想も用意もできていたのに、つい頬をゆるめてしまう。
「……ロビーでひと息ついてるあいだに、鍵、どこにしまったかわからなくなっちゃって」
 実際はひと息つくどころか、エントランスロビーのソファやテーブルには一瞥たりともくれず、一秒たりとも足を止めずにここまでやってきている、そのはずが。気のぬけた表情のせいか、なさけない言いわけに照れくささという予想外の説得力が生まれたように思う。どこに引っかけるでもなくなめらかにつげながら、ひそかにいたたまれなくなる。
 さもいまのいままでそこをさがしていたのだというように、手を内ポケットから引きぬいた。指先からはなれていく体温をおびた金属の感触も、内側で首をもたげるかすかな罪悪感も知らないヒカリは、背と肩で扉を押しあけて出いりのスペースをつくると、手のひらで隠した口元からかろやかな笑い声をこぼした。
「なーんだあ、足音はしたのにちっともはいってこないから、おかしいと思ったのです。呼んでくれたらよかったのに」
「寝てたらわるいじゃない」
「まだこんな時間なのに? ……あーあ」
 さむかったでしょう、とつづけた彼女の、あたしを気づかう手のひらが頬をめざす。
 よく言うものだと思う。仮に自分があたしの立場なら。こんなのなんでもありませんなんて、シロナさんは心配性なんですからなんて、のんびり笑って流してしまうくせに。
 ——いや、そうではなく。いまもっとも懸念すべき問題は、せっかくの努力が水泡に帰そうとしていることだ。時間をかけて吐きだしてにがして、どうにかゆらぎもなくしずまりかけるところだった水面に、何日ぶりかに顔を見て声を聞いた、ただそれだけでふたたび、あっけなく波がたとうとしていることだ。
 ましてや、直接ふれようものなら。
 ひやりとした感覚を首すじにおぼえながらも、のばされた手をとっさにはらわなかった自分の判断をほめてやりたい。捨ておいたままの荷物の存在を思いだしたそぶりで振りかえり、うしろへさがった。ハンドルのロックを解除して収納し、側面の握りを持って玄関に運びいれるあたしを、ヒカリは避けられたと感じたようすもなく、立ち位置を横にずらして迎えいれてくれる。
「あのね、ひとつだけお願いが」
 背を向けて靴をぬぎ、ルームシューズへ履きかえながら、つとめてなにげない口調で言う。扉を施錠した彼女がこちらを見る気配があった。
「キャリー、お部屋まで持っていきますか?」
「ううん、それはおもたいから、手を洗ったら自分で……」
「なら、コーヒーか、紅茶か」
「うそ、なんでわかったの?」
 いっしょにあたたかいものが飲みたいからと、そう頼むつもりだったのを先んじられ、思わずヒカリを見かえる。あたしが自分で運ぶと言った、もとい言いかけた旅行かばんを、おそらく上がり框のそばへ寄せてくれようとしてキャスターをころがしている彼女は、手元から視線をあげないまま、「どうしてでしょうね」とおもしろがるような声をかえした。
「あ。もしかして帰ってくるのが聞こえたから、準備してくれてるところだったとか」
「あは、正解ですー」
「さっすが、あたしのヒカリは……」
 気をぬいてそこまで言い、いつものように恋人のほうへのびようとする腕に、そうしてあやうく肩を抱きよせてしまいそうになっている自分に気づく。浮きかけた手のなかで親指をつよくにぎりこみ、どうにか「やさしいなあ」としぼりだすにとどめると、言うがはやいかきびすをかえして歩きだした。腕や指や唇がこれ以上本体の意に反して、よけいなうごきをみせるまえに。ただその一心で。
 リビングまでの廊下を大またに、ほとんど滑走するようにすすむ。ほんの数秒でたどりついた洗面室へからだをすべりこませ、最低限だけひらいた扉をうしろ手に押した。電気を点けずカウンターへ歩みより、なじんだ位置にある水栓のレバーハンドルを、はじくようにはねあげた。
 化粧台のふちに手をついてうなだれ、目をとじて、いつのまにか止めていた息をすべてつきこぼす。はあ、という声までいっしょに吐きだせば、すっかり時間かせぎをやりとげた気分になっていた。堅牢な城壁にまもられた安全地帯まで、逃げおおせた気分になっていた。
 だからあたしは、直前ドアを押すのにこめたちからがじゅうぶんでなかったことを知らない。すべるようにぬけたみじかいルートをおくれて歩いてくる足音が、洗面室をとおりすぎるものと信じてうたがっていない。加減を忘れたせいでいきおいよく流れる水が、きちんと手ごころのくわわらない温度にひえているか、それ以外に注意をはらっていない。
 すすんでくる気配は、あたしのまうしろでぴたりと止まった。同時に呼ばれた名前が遮蔽物の効果を感じさせず、いやにクリアに聞こえることにぎょっとして目をあけた。まったくの暗闇だとばかり思っていた視界に、廊下からさしこむ光がぼやけた線をえがいているのを見て息をつめた。
「シロナさん」
 聞こえているかと念を押すようにもう一度呼ばれて、聞こえていると弁明するだけの間もあたえられずに、白い線が幅をひろげる。線は棒になり棒から柱になり、手順を逆になぞって線へもどった。
 顔をうつむけたまま、まなざしだけ正面にはしらせる。鏡のなか、もうかすかにゆらいでいるきりの白い線と影の薄墨色を写しとった視界で、扉のこちらがわに立つヒカリの首元からうえが見きれていた。
「なにか言うこと、ありません?」
 ただの会話のつづきのように自然な口調の、ごくおだやかなその声は、それでいてはばかりなく流れる水の音にもさえぎられず、あたしの耳をするどく刺しつらぬく。まずい、と思う。思ってもとうに手おくれなのをどこかでさとっているのに、おなじく『どこか』にあるのではないかと、往生際わるく逃げみちをさがす。
「……コーヒーがいいな」
「わかりました。それで、ほかには」
「ミルクも砂糖も、いれてくれる?」
「はい。めずらしいですね」
「あまいものが飲みたい気分なの。ありがと、手、洗ったらすぐに」
「そうじゃなくて、シロナさん」
 調子をかえたしずかな声に、すぐに行くわ、とつづけたかった語尾をうばわれる。ヒカリが体重をかけるか適切なつよさで押すかしたらしい、扉の掛けがねが硬質な音をたて、白い線はぬぐいとられるように見えなくなった。
 消えうせたばかりの明かりが、鏡をとおした暗闇にかすかなまたたきをのこす。だから恋人が廊下との境界をあとにするのも、そうしてあたしとの距離をつめるのも、ひとつひとつがよくわかった。わかっても、漫然とながめているしかなかった。
 腰に腕がまわる。肩甲骨のあいだに頬が横たわる。ぬくもりがコートごしの背骨を伝う。それから。
「はやく帰ってきてほしかったの……会いたかったの、わたしだけですか」
 それでなにもかも、だめになる。
 手を持ちあげて水を止め、まっすぐおこした上半身をひねると、巻きついた腕がとまどったようにゆるんだ。残像はもう暗闇に同化していたけれど、背中をはなれた頭の高さ、パーツの位置、そんなことはどうせ目をとじていたってわかるのだから関係がない。予想したあたりへ顔をおろせば、唇が想定どおりおなじやわらかさをとらえた。肩がぴくりとはね、息をのむ気配があって、しかしすぐにほどけた。
 唐突には感じたかもしれない、それでも結局慣れしたしんだ、いつもとかわらない接触だと考えなおしたんだろう。あたしが自宅の玄関を何度開閉したか把握できないように、計数が追いつかないほど何度もかわしたキスだと、そう判断したんだろう。
 正確な位置をはかるためのそれをきりあげて、輪郭に沿わせた両手でヒカリをうわむかせる。そうしてはなれたばかりの場所へもどると、もうふれるだけにはとどめずに舌先を押しこんだ。表面をなぞりあわせておわると思っていたはずの唇と歯列は、抵抗もなくかんたんに割りひらけて、反応は一瞬おくれてやってきた。
「……っん、ふ……う」
 背後へ引いていきたがる頭を、うなじとあごのしたにあてた手で固定する。けれど舌をからめて吸いあげて、逃げられても追いかけてつかまえてそれをつづけるうちに、拘束は意味をなくした。されるがままなぶられていた舌が、あるときからぎこちなくあたしにこたえてくるからだった。ゆるんだまま宙に浮いて行き場をなくしていた腕の先の手が、気づけばしがみつくように、すがるように、あたしの肩にかかっているからだった。
 玄関先で、でなければせめてこの洗面室で。あともうすこしだけでいい、時間をくれていたら。そうすればするどい外気で、あるいは手をぬらす水で頭をひやして、なんでもない顔をできたのに。理性的な、冷静な恋人のふりをして笑っていられたのに。
 自分のものでしかない責任を彼女に押しつけながら、いつしか夢中になって、はじめてふれる口内をさぐっている。おなじ組成を持つおなじ器官のはずが、そこはやけにやわくあまく感じられた。どうにもはなれがたく、止められなければいつまでもそうしていられそうだったけれど、肩にかかっていた手によわよわしく、しかし切実なリズムで背中をたたかれ、ようやく息をつがせるのさえ忘れていたことに気がついて頭を引きはなした。
 同時に解放した腕のなかから、暗闇のなかをよろよろとあとずさるヒカリの手が、どうやら扉のわきのスイッチをかすめて押したらしい。にわかにあかるくなった視界で、あたしは上下する肩を扉にささえられ、息も絶えだえといったていのまっかな顔でどうにか立っている恋人を見おろした。
 唇から伝った唾液が、彼女に向かってなごりおしげにひとすじ糸を引く。息を吸おうとうすくひらかれたおなじ場所のはしへ、それが落ちて消えるのを見とどけるころ、止めたはずの水を頭からかぶったように、意識はすっかりひえていた。
「——ごめん」
 ほかにつげるべき言葉があるとも思えず、かすれた声で言いながら顔を寄せる。ぬれた部分をぬぐいとるだけで唇をはなすまぎわ、溶けおちそうなほどうるんだ眼球の表面に映る自分が、目にどろりとくらい色をよどませているのを見た。いつからそうだったのかわからない、けれどすくなくとも最初からこんな目をしていたなら、彼女もおこさなかったはずだ。不用意に刺激しようなどという気は。ちかづいて、あまつさえふれてこようなどという気は。
「ごめん、なさい」言いなおす途中、からだごと横へそむけてせきこむ、その背中を撫でてやりながらつづけた。「でも、わかってくれた?」
 口にしなかった目的語を汲みとったらしいヒカリが、まぶたをふせる動作でかすかにうなずく。そうしてこちらを見ないまま、表情やしぐさから想定されるよりも存外はっきりした口調でつぶやいた。
「……こういうのはもうすこし、小だしにしてくれると」
 ほとんど断罪を待つ罪びとの心境でいたあたしはぽかんとして、小だしに、の部分を棒読みにくりかえす。
「ほんとうに、ぜんぜん平気そうに見えたのです。だからわたしばっかりって、思ったし……いまみたいに急だと、びっくりします」
「ええと……」
 意味をのみこみかねたような口ぶりで、実際は理解できているのだ。ただ、あたしまで酸素が足りなくなったように眼前がくらくらしてくるから、むりやり間をおいて落ちつかせる必要があっただけで。
 足りているはずの息を一度ふかく吸い、「いやじゃなかった?」とわかりきっているはずのことを訊いた。びっくりは、しました、けど。たどたどしいそんな返事がある。けど、につづく気配にはかまわず親指のはらで唇をなぞると、いやでは、と出た声が言葉のおわりに向かってしぼんだ。
「じゃあ、小だしにするから」
「ん」
「もう一回してもいい?」
 思わず、というようすでちいさくふきだしたヒカリが、まだ赤い顔でくるりとこちらへ向きなおる。
「なんですか、小だしにって」
「ヒカリが言ったんじゃない」
「……言いましたよ、言いましたけど。そういうことじゃないのに」
 それもそうだと思いながらのばした両手を、それぞれ扉と壁へついて恋人を閉じこめる。見あげてくる顔に影を落とし、今夜まずまっさきに言うべきだった言葉からやりなおした。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
「会いたかった」
「はい」
「ずっと。すごく」
「わたしもです、あ」
 そんなわけもないのにまぶしそうに目をほそめて言ってから、ヒカリはなにかそれなりに切実なことを思いだしたような調子の声をあげた。ピントの合わなくなるまぎわで接近を止め、視線でつづきをうながす。
「そういえば忘れないうちに鍵、さがさないと。置いてきちゃったってことはないのですか、したに」
「ああ、うん、あのね」
 はなれがたい味を知ったあと、それを鼻先に置かれて待たされるのはつらいものがあった、けれど。自分で張った伏線を自分で回収しているだけなのだから世話はない。不本意ながら。
 ぬれたままの瞳に映る、あいかわらずほのぐらい目であたしを見かえす女から距離をはなすと、胸元からくだんの鍵を取りだした。目をまるくするヒカリに向かって指先でキーリングをまわしてみせ、「言いわけです」と白状してポケットへもどした。
「外ですこし落ちついてから、はいってくるつもりだったの」
「それであんなに? さむかったのに?」
「足りなかったくらいよ、ヒカリが出てきてくれちゃったし。この際だから言うけどね、あまいものが飲みたいっていうのも言いわけ。そうしてもらったほうが、ちょっとでも時間、かかるんじゃないかって思ったから」
「そんなところまで」
 酸欠とはちがう理由で肩をゆらしてこぼす声に、「シロナさん、なんだかたいへんだったのですねえ」と笑いまじりに言って壁ぎわでからめてくる指に、自白した罪がゆるされていく。
「ほんとうに。もっと小だしにしておくんだったわ」
 片腕をまわして腰を抱きよせ、もういいかとは訊かずに、もういいとも言われずに口づけた。唇を割り、まだ眠っている舌先をつついてうながし、こんどは息をうばいきらないよう意識しながら、むさぼる角度をするどく、深度をふかくしていく。
 思考の片すみに、やめられなかったらどうしようと考えて、やめられなくてもかまわないと放りなげた。ヒカリの指にちからがこもる。鼻にかかったあまい声がこぼれる。この罪もきっとすぐにゆるされるんだろう。