トロイメライ

 シロナさんが別荘に泊まりにくると決まって、わたしが最初につきあたったのは、そういえば、という疑問だった。つまり、家にひとを泊める際はいったいなにを用意するものなんだろう、ということだ。
 泊まらせてもらうよりも自宅に帰ったほうが早いようなちいさな町に住んでいたせいか、だれかの家に泊めてもらうのも自分の家にひとを招いて泊まってもらうのも、思いかえせばまったく経験がないのだ。泊まるというのでまっさきに連想されるのはポケモンセンターだったけれど、トレーナーがポケモンと自分の身を休めるための宿泊と今回の話とで、わけがちがうのだけはさすがにわかった。
 とはいえ、それがわかったところで未知のイベントであるのに変わりはない。最終的に、困りはててしまって母をたよると、電話口の向こうから「お友達が泊まりにくるの」と訊ねられた。
 なぜだかうれしそうに語尾を弾ませている母にあいまいな声をかえし、腕からはずしていたポケッチを頭と肩ではさみこんで固定する。親指でペンの芯先を出し、そのままつづけられるだろうアドバイスをスムーズに書きとれるよう、メモがわりのルーズリーフをもう片方の手でおさえた。
 ——お掃除はだいじょうぶよね、きっと。それなら部屋着を用意して、あとは歯ブラシとかシャンプーとか、毎日使うものを使いすてでそろえておけばいいんじゃないかしら。そうだ、寝るところはどうするの? あら、ゲストルームが? まあ、そんなにおおきなおうちをゆずっていただいたのね……。
 三分後、ありがとうと伝えて電話を切った。
 自分なりにていねいに書きとめたつもりの母の助言をながめながら、おともだち、と抑揚のない発音でつぶやいてみる。
 シロナさんとわたしは、友人ではない。それはたしかなはずだし、現にこんどのことも、先日の別れぎわにかわした、ただの友人同士ならきっとありえない温度の会話のなかで決まった話だ。けれど、かといってこの関係につける名前を考えたとき、しっくりくる言葉はまだ見つけられずにいる。
 好きですと伝えて同じ言葉をかえしてもらったら、その瞬間になにか目のさめるような変化があるのだと、無意識に思っていたのかもしれない。
 でもそうではなかった。考えてもいなかったできごとにくらんでいた視界がもとに戻ったら、日々は意外とおだやかにながれていき、わたしとシロナさんは以前よりもすこし距離を近づけて、いっしょにいる。
 たとえば世界が急にかがやきだして、それまでよりも美しく見えるようになるだとか、そんな話をまるっきり信じていたわけではなかった。ただ、フィクションのなかの絵空ごとでしかなかった恋が実際に自分のところへ降りてきて、そのうえなんの偶然かそれが叶ってしまったとき、もしかしたらほんとうにそれくらいの劇的な変化があるのかと考えたことを、否定はしない。
 だってわたしは、あのひとのことを好きだと思ったほかに恋と呼ぶべきものを知らないし、当然、恋が叶ったその先になにがあるのかも知らない。なにが起こっても起こらなくても、それはちがうと言えるだけの根拠を持っていない。
 だから近ごろは毎日、手さぐりにすごしているような気がした。彼女とわたしの関係をなんと呼ぶのか、これからどうなっていくのか。そのこたえは、こうしてひとを家に泊めるための準備をおぼえるように、ひとつずつ学んでいくものなのか。あるいはわたしたちのあいだにとつぜんきっかけが落ちてきて、電撃的に理解するものなのか。そんなことを考えながら。
 このことへ意識が向くと、どうしても思考が一気にそちらへかたむいてしまうのでいけなかった。
 ともかく今は、彼女をむかえる準備をはじめなければならない。頭を切りかえるために視界の焦点をあらためてルーズリーフにあわせ、ペンのノックカバーを何回か鳴らして芯を出しいれさせる。
 ひとまず最初に手をつけるべきなのは、部屋の用意かもしれないと思えた。母の読みどおり、ふだん使っているスペースなら掃除に不足はないつもりだけれど、一度も使ったことのないゲストルームはそのかぎりではない。そもそもあの部屋のベッドにもとからセットしてあったのは、来客に、それもシロナさんに使わせられるような寝具だったかどうか。
 考えるよりも、実際に見てしまったほうが早い。ダイニングチェアから腰をあげ、リビングの中心にそびえたつらせん階段のほうへ歩いていく。早足に階をあがった先、寝室の向かいの扉をあける。
 時刻はまだ昼さがりだ。部屋のなかはカーテンが引かれていてもある程度明るかったが、やはり空気がすこしこもっているような気がした。
 窓へ歩みよってカーテンをあけ、その先のサッシも網戸ごとあけはなってしまう。今日は別荘の前の海も凪いでいて、吹きこむ風はほとんどない。それでもこのまましばらくあけたままにしておけば、じきに空気の入れかえはすませられるだろう。
 振りむいて窓辺からはなれ、部屋の中心に陣どっているベッドへ近づいた。ちいさなサイドテーブルにペンとメモをおき、ベッドの枕元になんとなく座りこむ。いくつもおかれたクッションのうちのひとつに手をのばして胸元に抱きしめ、そのまま部屋のなかを見わたすと、ようやくひとつの実感がふつふつと湧きあがってきて、胸のうちを満たすのがわかった。
 シロナさんと今までになく近い距離で、長い時間をともにすごすことになる。これまでのように外でいっしょに食事をしたり、ここに立ちよって談笑して、遅くなる前に帰っていくのともちがう。
 彼女とこの家で、翌朝をむかえる。それはいったいどんな感覚なんだろう。どれだけ時間が長くなったとしても、やはりいつもどおり、またたく間にすぎていってしまうのか。そうして次の日の朝に目をさましたとき、なにかが変わっていたりするのだろうか。
 いくぶん自分を俯瞰的に見すぎているとも思うけれど、こうでもしなければ気がそぞろになりすぎてなにも手につかなくなってしまいそうなくらいには、わたしはこんどのことを心待ちにしている。
 ふと、彼女はどうだろうという考えが頭をよぎった。たとえわたしほどではないにしても、すこしは楽しみにしてくれていたらいいのだけれど。
 ——だめだ。このままでは進むものも進まない。
 かぶりを振っていったん立ちあがってから、クッションを抱いたままだったことに気づいて、元の位置へ戻した。そのままベッドとサイドテーブルとキャビネットくらいしか家具のない、シンプルというより殺風景な部屋のなかをうろうろしては、ときおりベッドや窓辺へ寄りつく。
 結局きちんと掃除に手をつけはじめたのは、落ちつかない気持ちのままそんな意味のないことを何度かくりかえして、だいぶ時間がたってからだった。

 *

 それでも結論から言ってしまえば、ゲストルームの用意は必要なかったことになる。
 むかえた当日、いつもよりおおきなバッグをたずさえてやってきたシロナさんと昼間のひとときをすごしてから、おたがいあまり空腹でもなかったので、ふたりでかんたんに作って夕食をすませた。彼女がふと思いだしたように顔のしたで手のひらをあわせ、「そういえば、ちょっと心配なことがあって」と切りだしたのは、食後なにをするでもなく、ソファにならんでのんびりとしていた最中のことだった。
「自分の寝相がいいのかわるいのか、よくわからないのよね」
「寝相、ですか?」
 そこまでわるくないとは思いたいけど。そうつづける彼女に、というよりは少々突飛な話題に、つい目がまるくなる。それをどう受けとったのか、シロナさんはわたしの顔を見て楽しそうにほほえんだ。
「ヒカリちゃんはよさそうね」
「……どうでしょう。あまり考えたことがなくて」
「気になったことがないなら、いいんじゃないかな。ベッドから落ちたこととか、ないでしょう?」
 わたしはそこでようやく、ちいさく声をだして笑った。そうしようとしたきっかけがどこにあるかはわからないけれど、とにかく彼女が冗談を言いだしたと思ったのだ。
 笑いをおさめるために、かるく咳ばらいをしながら訊きかえした。
「もしかして、シロナさんはあるんですか?」
「さすがに、ほんとうに落ちたことまでは。ただ、寝てるあいだにベッドのはしに移動してて、おきたときに冷や汗をかいたことが何度かあって」
「わあ、あぶない」
「何度かだけよ? だからきょうも迷惑はかけない、と思うんだけど……とはいえそういうことがあっただけに、すこし心配で」
 スムーズに進みだしたように思えたやりとりが、迷惑とはなんの話だろうかと考えたわたしの番で、ゆるやかに流れをとめた。やはりなにかを取りちがえているのかもしれないと感じて、ひとまず訊ねてみる。
「どうして、迷惑になるんです?」
「どうしてって。あたしがベッドから落ちるくらい動いたら、きみのことも巻きこんじゃうじゃない」
 シロナさんは笑いまじりの声で、こともなげにそう言った。
 彼女の寝相がよくないと、わたしを巻きこむ。
 それは、なんというか。その状況を想像してみたら、なんだか考えてすらいなかった光景が思いうかんでしまい、おさまりきっていなかった笑いが静かに引いていった。
「……あの、きょう」
「うん?」
 まばたきしながら小首をかしげたシロナさんに向かって、もしかして、と言いかけたのをのみこむ。そのかわりに、声に期待がのりすぎてはいないか心配しながら「いっしょに」とだけ口にすると、彼女はその語尾を引きとるように、なめらかな口調で「寝るのよね」とこたえた。暗黙の了解として共有していた秘密をふたりであらためて確認するみたいに、いたずらっぽい表情で。
 シロナさんといっしょにいて感じるものはたいていがそうなのだけれど、そのとき去来したものをひとことであらわすための言葉ばかりは、きっとどこにもないと思った。驚きとくすぐったさとまぎれもない幸福と、それから胸がしめつけられるような苦しさと。
 このひとはいつも、わたしの想定を軽々とこえていく。いろいろ考えこんでは立ちどまるわたしの手を自然にとって、迷いなく歩いていってしまう。
 わたしがこうして感じるうちのほんのすこしほどでも、彼女に幸せだと思ってもらえているのだろうか。ただでさえ彼女には、叶う展望も叶えるつもりもなかった望みが叶ってしまってから、もしかするとそれよりもずっと前から、あたえられてばかりな気がするのに——あれだけ楽しみにしていた今日という日にそぐわないそんな考えで、胸がいっぱいになってくる。
 話題でも思考でもどちらでもいい、とにかく切りかえるきっかけになるもの。それをさがしていたら、ふと母のアドバイスのひとつが頭のなかにちらついた。
「そろそろお風呂、はいらないといけませんね」
 できるだけ自然に、たまたま思いだしたように聞こえているといいと願いながら、ひらめいたことを口にする。けれどそのままつづけようとした「お先にどうぞ」のせりふは、ちいさくうなずいたシロナさんに言われてしまった。
「シロナさん、お客さんだし、先に……」
「ありがとう。でもあたし、この髪でしょ?」
 シロナさんはそう言い、手ぐしでうしろの髪をすかして苦笑した。
「どうしても時間がかかるから。待ってたらヒカリちゃん、お風呂にはいるまえに寝ちゃうわよ。先にいってらっしゃい」
 せっかく母が教えてくれたことをいまいち活用できていないのは、きっと気のせいでもない。
 でも、シロナさんはこうするんだ、彼女といるとこうなるんだ、そんなことをあらためて知っていくのが、母には申しわけないけれど、ひどく新鮮で楽しい。それはやっぱり、シロナさんとだからそう感じるのだろう。
 ありがとうございます、それじゃあお先に。
 そう言って、ゲストルームを準備したことはこの先もずっとだまっておこうと思いながら、ソファから立ちあがった。

 *

 シロナさんの言葉に甘えて先に入浴をすませ、ベッドのなか、あたたまった体で彼女を待っていると、しだいに意識がうつらうつらとしてくる。ほとんど境目のないような入眠と覚醒をくりかえす合間に、ひとつづきの夢を見ていた。
 きちんと目がさめたら忘れてしまうほどあいまいで抽象的な、それでも指先がしびれるほど幸福だという実感だけがのこる、そんな夢。
 これが夢だということを、今すぐかもしれない、あるいはとおい未来かもしれない、それでもかならずいつか現実に呼びもどされる瞬間がくることを、意識のどこかでたしかに知っている。そのうえで幸福の浅瀬に足をひたして、同時に薄氷をふむような気持ちで、ずっと祈っていた。
 いつまでもつづくようにとは願わないから、どうかこの甘い夢がもうすこしのあいだだけ、さめませんように。

 ドアの把手がまわる音に、意識がぼんやりと浮上する。そのままつづくドアをしめる音とひそやかな足音で、だれかがベッドへ近づいてくるのがわかる。
 だれか。だれだろう。
 ぬかるんだ眠気に半分ほど沈んだままの頭で考えてから、すぐに今夜はシロナさんが泊まりにきていること、そして同じベッドで眠るのだということを思いだす。
 かたわらにずれて彼女が横になれるスペースをあけようとするけれど、まだほとんど眠っているようなものなので、体にうまく力がはいらない。結局わたしが動く前に、彼女が布団のはしを持ちあげてするりとベッドへあがってきてしまう。
 もしも。
 そのときシロナさんが、彼女の視点からは眠っているようにしか見えないはずのわたしを起こさないよう、なにも言わずに横になったなら。そのまま眠りにつくために目をとじたなら。
 きっとわたしもふたたび眠りに落ちて、もうすこしのあいだ、気がつかずにいただろう。
 けれど、そうはならなかった。
「……もう、寝ちゃった?」
 もしかするとその言葉に、わたしが起きているかどうかをはかる以上の意味はなかったのかもしれない。
 けれど問いかけるような言いかたとは裏腹に、万が一にもわたしに気づいてほしくない、ともすればどうか眠っていてほしい、とさえ言いたげにひそめられた声だった。ふしぎな声音にとまどった体が、動こうとするのをやめる。
 すこし間をおいて、背後の気配がゆれた。反応がないので眠っているのだろうと判断したらしいシロナさんの指が、頬にかかったわたしの髪をすくいあげて耳のうしろへ流す。急な接触に息をのむあいだに衣ずれの音がして、おたがいの体の距離がつまった。首のしたからなにかがのびてくる感触があって、気がつけば体の前に、うえからもしたからも彼女の腕がまわっていた。
 うしろから抱きすくめられている。状況を頭のなかで言葉にできるようになるころには、眠気はすっかり消しとんであとかたもない。
「おやすみなさい」
 後頭部にそっとささやかれた声はちいさく、先ほどのそれとよく似ていたけれど、決定的にちがうところがあった。
 言うつもりのなかった言葉や出すつもりのなかった声が、思いがけずこぼれてしまったみたいに。あるいは眠っているわたしのことを起こすまいと考えて、それでも口にせずにはいられなかったように——なによりも、わたしと同じベッドで眠ることが、わたしを腕のなかに抱きしめていることが、このうえなく幸せだとでも言うような。そんな声だった。
 わかっているつもりでいたことは、やはりつもりでしかなかった。このひとはほんとうに、わたしのことを好きなんだ。言葉にされたときよりもよほど直接的に、めまいがするほど強く、その事実をつきつけられた気がする。
 どうしよう。どうしようもない。
 この関係をなんと呼ぶのか、どうなっていくのかも知らない。シロナさんを家に泊めていっしょに眠る、それだけでもう、身うごきができないくらいなのに。そのうえこんなに幸せが降ってきても、どうしたらいいのかわからない。
 幸せもすぎるとむしろこわくなるものなんだ、と思いしる。それはどこか、楽しかった夢のつづきをまどろみのうちに見るのと似ていた。夢がいつかおわることを知りながら、それでもさめないでと願わずにはいられないように、このときがずっとつづけばいいと願ってしまう。
 振りかえって彼女の顔を見たい。おやすみなさいと言って、わたしがそれを幸せだと感じたように、抱きしめかえせたらいい。
 けれど、そうした瞬間に目がさめて、体をつつむ彼女の腕もぬくもりも消えてしまったら。広いベッドのうえにひとりで眠っている現実に、気がついてしまったら。そんな想像が、どんな悪夢よりもこわい。だってもしもいま目がさめてしまったら、こんな夢のつづきはもう二度と見られないだろう。
 叶うならいつまでもこの夢を見ていたい。だからわたしは彼女の腕のなか、振りかえることができない。