サンクス・トゥ・ユー

 よいしょ。
 というように聞こえるちいさな声とともに、長老さんが立ちあがる。背のひくいテーブルから、自分の湯のみごとうるし塗りの茶托をとりあげたかと思うと、わたしの前にあったそれもおなじように持ちあげた。
 出してもらったときは淹れたてで、湯のみに指をちかづけるのさえためらわれるくらいあつかったのに、いざ口をつけてみれば、おいしくていつの間にか飲みほしてしまっていた。そんなことを考えて、陶器の表面に咲いた桜が宙に浮くのをぼうっとながめていたけれど、「おかわりを淹れようね」というやわらかい声にはっとする。
「あの」
 あわてて呼びとめながら自分も腰をあげるわたしを、おそらくキッチンのほうへきびすをかえしかけていた長老さんが振りむく。午後の日差しを銀色にちらす、きれいな白髪をまとめたかんざしの先で、きゃしゃな石かざりが動作を追うようにしゃらりとゆれた。
 正座でひとと話しこむなんてはじめてだし、そもそも正座の姿勢をある程度の時間たもったままでいる状態、それ自体にほとんどおぼえがない。当然忘れていてひさしい、ぴりぴりした痛みをうったえるふくらはぎの声には耳をふさぎ、頭のなかをさがしまわる。
 こういうときにつかう言いかたがあったはずだ、たしか。
「あの、ええと……おかまいなく」
 ようやく見つけた言葉が口になじんでいないのも、足がしびれかけているのもきっとあからさまにうかがえたんだろう。長老さんはくすくすとさもおかしそうに、けれどいやみもなく上品に笑った。
「気をつかうことないんだよ。それに、足だってくずしてよかったのに」
 気をつかっているわけではない、と思う。
 湖畔のふるさととはまたおもむきのちがう、すずやかな空気が吹きぬけていく客間。やさしい味のお茶、話じょうずな長老さん。この家はあんまりいごこちがよくて、神話のポケモンの文献を見せてもらう目的でおとずれたはずが、気がつけばずいぶんと長居になってしまっている。これ以上好意にあまえるわけにはいかないし、ましてやおかわりなんて。
 ——あんまりながくおじゃましたらだめよ。おいそがしいだろうから。
 行き先を告げて家を出るわたしにのんびりとそう言いふくめた母の顔と声を再生し、仰々しくならない程度のちいさな会釈をする。
「ありがとうございます。でも、気なんてぜんぜんつかっていなくて。って、わたしが言うのもおかしいのですけど。お茶がとってもおいしくて、お話もたのしかったから、つい時間を忘れてしまっていました」
「ああ、それならよかった」
「……そろそろちょうどいいし、いきますね。今日は呼んでくださって、ほんとうにいろいろ、ありがとうございました」
「こちらこそ、話につきあってくれてありがとうねえ。年寄りは、気を抜くと話がながくなっちゃっていけないよ。ヒカリさんも聞きじょうずなもんだから、よけいにね」
「そんなこと。……あの、もしもご迷惑でなかったら」
 長老さんの、冗談めかしたおおげさなため息をまぜる口ぶりに笑ってそこまで言うと、彼女も相づちを打つようにまなじりのしわをふかくした。そうしてわたしの目をじっと見て言った。
「またおいで。いつでも待ってるから」
 また遊びにきてもいいですか。そう訊ねようとした胸中をわけなく見すかせそうな、実際に見すかしたのだろう聡明なまなざしに、社交辞令や方便はすこしもまざっていないとわかる。わたしはうなずいて、ありがとうございます、ともう一度言うだけでよかった。この場ですべきことも、かさねるべき言葉もそれだけだったから。
 それでも帰るまえに、せめてさげるのを手伝うくらいのことはさせてほしくて、長老さんの指につかまれたままの茶托へ手をのばす。案の定とりあってはもらえず、彼女は紙ひとえでわたしの手をかわし、してやったりとばかりに唇の片側を持ちあげた。
「はいはい、気をつかわない。それはそうとヒカリさん、今日はこれから、まっすぐ帰るのかい」
 つづいた質問に、一瞬どきりとする。寄りたい場所があるのを、またもや見すかされたように思えて。
 けれどこの流れで訊かれるのならそう唐突な質問でもないし、長老さんもすでに、あしたの天気について語るみたいになにげない態度へもどっている。あいさつのようなものだと判断し、首を横に振った。
「遺跡に、すこし寄らせてもらってから帰ろうかなあと」
「へえ、そんなに気にいってくれた」
「それもありますし、はじめてきたとき、すみずみまできちんと見てまわれなかったから、もったいなく思っていたのです」
「たしかにあのときは、ばたばたしていたからね。しかしそう、そうか。ふむ」
 なにかに納得したようなつぶやきをこぼし、長老さんはあごに手をそえてあたりを見まわした。考えこむともさがしものをするともつかないようすにわたしが首をかしげていると、ふいにおもてをこちらに向けた。
「それならいまいきなさい、いま。いますぐでないと。さあ、急いで急いで」
 こんどは唐突で、そのうえ町の名所へうながすにしても、ふしぎな言いまわしだった。
 妙には思ったけれど、彼女の目をほそめたおだやかな表情のほうが気にかかって、それ以上ふかく考えるのを止めてしまう。彼女がそのちいさな顔にのせるのをはじめて見る、しかし一般的にはさほどめずらしくないたぐいのほほえみのはずだ。それなのに、どうしてこんなに。
 どこかとおくなつかしいような感覚がざわめいて、胸の底がふるえるのだろう。

 *

 そういえば『おかまいなく』はもっとはやい段階、たとえばはじめにお茶を出してもらうまえあたりで口にすべき言葉だった気がする。わたしがそうしたように、おかわりを遠慮するためにつかうのではなくて。
 ほとんど追いたてられるようにあわただしく長老さんの家を出て、去りぎわの感覚に内心首をかしげながら歩いていく道すがら、急に気がついて、火がともったように頬があつくなる。
 反射的に立ちどまってやってきた方向を振りかえるけれど、わざわざそんなことを弁解しにもどるのもおかしい。結局見わたすかぎりだれもいない砂利道のまんなかに、ぐるぐると円をえがく奇妙な足跡をつけてから、あきらめて遺跡へのあゆみを再開した。
 とぼとぼ進んでいると、風がときおり空に向かって、髪や服のすそを巻きあげていく。
 山あいの風は頂上から吹きおろされてくるばかりだと思っていたけれど、一概にそうともいえないみたいだ。ナナカマド博士ならきっと上昇気流とか気圧とか、適切な言葉をつかって原理を解説できるのだろうし、ともすればなにかこの町特有のものを見いだして、興味ぶかく観察してみせるのかもしれない。でももちろんわたしに、そうするだけの知識の持ちあわせなんてないので、うしろから追いついてくる風を頬にうけて、ここちよさに目をほそめるくらいのことしかできない。
 飛ばされそうになる帽子へ手をやっておさえるのが何度目かをかぞえるあたりで、目的地へたどりつく。
 遺跡はひと気を感じさせず、まだ日もたかいはずが周囲の光や音さえ飲みこんで、暗くしずかにその口をひらいていた。はじめておとずれたときは気にもとめなかったのに、まじりけのない暗闇が、それ以上進むのをためらわせる。
 どこかべつの世界につながっているのではないか。足を踏みいれたが最後、もう二度とこちらがわへはもどってこられなくなるような。
 けれど通路の奥、台にのったろうそくらしいあかりがおぼろげにのぞくと、そんな空想もだいだい色の点のようなゆらめきのなかにかききえる。ひびのはしる部分をさけてタイル床に一歩目をのせてしまえば、あとはからだが自然にまえへと進んでいく。
 これもやはり初回は気にしていなかったことだけれど、通路に設置された燭台の数はけっしておおくなかった。あかりのとどく範囲を出て暗がりへ分けいったかと思うと、数歩先で見はからったようにつぎの光源があらわれる。それをくりかえすうちにようやく通路を抜け、おぼえのあるひろい空間へ出た。
 よわよわしいあかりは、まるで見るべきものだけを照らしだせればいいとでも言いたげに、いさぎよく数をへらしている。ライトアップというにはたよりなく浮かびあがった壁画のまえ、そのあかりから身をかくすような位置にひとりの先客がいた。キャンプチェアらしきものに座り、じっと正面へ顔を向けている。
 腰をすえて熱心に見学しているのが見てとれたから、足音には注意をはらった。でも壁画へちかづいていった際、空気のながれがかわるのばかりはどうしようもない。ひときわゆらいだ炎の影でわたしの存在に気づいたらしい先客が、一拍をおいてこちらを振りかえる。
「あ……」
 そのひとは、おぼえず間のぬけた声を出していたわたしのように、声をあげたりはしなかった。ただ逆光がほのかにいろどる顔のうえ、あきらかなおどろきの表情をのせて、彫像のようにうごきを止めていた。
「シロナ、さん」
 つかえながらもどうにか名前を呼ぶ。彼女はわれにかえるようにゆるくかぶりを振ると組んでいた足をほどき、キャンプチェアになにかを置いて立ちあがった。まだすこしだけ目をまるくしたまま、それでもあかるい笑顔をみせる。
「こんにちは、カンナギへようこそ。でもびっくりしちゃった、どうしてここに?」
 こちらもおなじことを訊ねたいのはやまやまだったけれど、この町はシロナさんの故郷だ。わたしが旅をおえてフタバヘ帰ったように、節目をむかえてさとがえりしていたってなにもおかしな話ではない。思いなおし、わずかにのこった距離をあゆみよる。
「こんにちは、あの。さっきまで、長老さんのところにおじゃましていたのです」
「うちに?」
「神話のポケモンの文献を見せていただける、というので」
「ああ、あれ。どうだった、なにか図鑑づくりの参考になったかな」
「はい、とっても」
「それで、あー、その……おばあちゃん、話、ながくなかった? 話ずきだから、しゃべってくれるひとがいるとついたのしくなっちゃうの。もしかして、むりに引きとめちゃったんじゃないかしら」
 おばあさん本人と似たようなことを気にしている。わたしは首を横に振って笑った。
「いえ、ちっとも。むしろお話がたのしくて、わたしが長居してしまったのです。おじゃましました」
「ならよかった。あたしはなんのおかまいもできてないけどね」
 故郷。実家。頭でわかっているつもりでも本人の口から聞くのはやはり新鮮で、ここに彼女がいる光景にも、なんだかふしぎな感慨をおぼえる。
 この町ですごすシロナさんを、はじめて目にしているから。そんなわかりやすい理由もある一方、彼女がいままで見たことのないたたずまいでいるのも、おおきな割合をしめるような気がする。
 ブラックのダメージデニムに、襟ぐりのあいたニットというラフなかっこうでいるこのひとは、まるではじめて会うひとみたいだ。初対面という言いかたがただしくないのはわかっているけれど、ひとつのくぎりをむかえたあとではじめて顔を合わせる状況のせいか、どうしてもその言葉にくわえて、最後に会った際のことを連想してしまう。
 ——元気にしてた? そう、テンガン山のこと……
 その先が再生されようとしたところで、いま目のまえにいるシロナさんが「それで」と言い、スタジアムの映像はうすぐらい周囲へ煙のようにとけきえた。
「遺跡へは、どうして? そんなに気にいってくれた?」
 また、というよりこんどこそ、長老さんとおなじことを言っている。
 そう考えたとたんなぜか、シロナさんの祖母がわたしの去りぎわ、妙な言いまわしをしたわけに思いいたった。はじかれたように唇へ手をそえると、シロナさんは急にどうしたのかと訊きたげにわたしをのぞきこんだ。
「あ、いえ、その。最初にきたとき、あまりじっくり見てまわれなくて残念だったので、機会があればもう一度と思っていて」
「うん」
「だから帰りがけに寄っていきますって長老さんに言ったら、急にいますぐいきなさい、いまじゃないとだめだっておっしゃったのです。どうしてだろうってふしぎでしたけど、もしかして」
「……十中八九あたしがいるからね、それ。帰ってきて、たいていはぶらぶらしてるんだけど、ここにくるときはこの」
 そこまで言い、身をかがめてキャンプチェアのひじおきの部分を指でとんとんと打ってみせる。長老さんの、まわりを見まわすような動作の意味に、いまになって合点がいく。
「——椅子をね、持ちだしてくるの。だからあたしがいるってわかって、きみを急かしたんだと思う。案内してあげなさいってつもりなんでしょう、たぶん」
 シロナさんの指先を追った視線が、先ほど彼女が立ちあがる際、座面に置いたなにかをとらえた。みるからに年季のはいってつかいこまれた、黒いバインダーノートだ。ぶあつい背表紙からはかなりの許容量がうかがえるのに、どうも綴じられたルーズリーフの枚数がその限界をこえているらしく、表紙はゆるやかな弓なりに変形している。
 研究ノート、だろうか。ただしい意味での『初対面』をしたとき、神話を研究しているものずきなトレーナー、そんな自己紹介をしてみせた彼女の。
 そういえば、案内とは。意識と視線を、目のまえのひとへもどす。
「あの、案内って……案内、してくれるのですか?」
「ガイドつきでね。よければ、だけど」
「わあ、ぜひおねがいします!」
 思わず指を組んでまえのめりに言うと、シロナさんは歯をみせて笑った。
「きまりね。じゃあまずは、外の壁画から。こんな機会、ほとんどないから腕が鳴るなあ」

 *

 まずはと言った言葉どおり外部の、入口の両わきで風化とたたかっているふぜいの壁画をめざして通路をもどるのに、シロナさんにキャンプチェアのうえのバインダーノートを持ちだそうとするそぶりはなかった。
 研究ノートではないのか、手元になくてもいいのかと訊ねると、「そんなちゃんとしたものじゃなくて」と照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「ここにくるたび書きためてたメモとかスケッチを、子どものころのぶんからとってあるんだけど……最初のほうなんか字も図も、それこそ子どものらくがきでね。中身は頭にはいってるし、はいってなくてもひとに見せられたものじゃないの」
 中身は頭にはいっている。
 それが誇張でもなんでもなく、ただ事実を口にしただけなのだとはすぐに知れた。
 そもそも絵画のおこりは、居住空間だった洞窟の壁面を利用してえがかれた壁画にあったこと。人間が建物をつくり住まうようになり、絵画もしだいに壁というキャンバスをはなれていったけれど、壁画は完全には忘れさられないまま、脈々とつたえられたこと。それはきびしい自然のなかで肩を寄せあって生きた古代のひとびとにとって、空間全体をつかい、同時にながめるおおくのひとをつつみこむ壁画や天井画というかたちが、こころの拠りどころになったためではないかと想像、および推測されること。
 遺跡の外部と話の導入と、ふたつの意味をかねてそんな地点からはじまり、中心のひろい空間へもどっていくみちゆきで語られる彼女の話は、まるで何度も読みこんだ絵本を読みきかせてくれるように平易で、よどみなかった。
 通路のそこかしこにきざまれた文様やモザイク柄になった床のタイルを、位置をずらした燭台で照らして観察しながら、わたしがなにかを質問する。シロナさんは的確なこたえをかえしたうえで、またとくべつ興味ぶかい、あらたな話題をつなげてくれる。
 そのさまはあるとき地表へ出て以来、こんこんと湧きつづける澄んだ水を思わせた。彼女のなかに生まれた知識の泉は川になり湖になり、蓄積され、根づき、彼女自身をもうるおしながら流れている。いまこのときも、たえまなく。
 復路一度ぶんだけで往路を何度も行き来できるくらいの時間をかけ、ぽつんとのこされたキャンプチェアのところまでもどった。わたしはすっかりシロナさんの話に惹きこまれ、彼女が案内と解説を申しでてくれる直前までうっすら考えていたことを、きれいさっぱりどこかへ追いやっていた。
 だから旅をおえたいま、湖の三体をえがいているのだとわかるようになった壁画のまえで、シロナさんがふいに「ねえ」とひと声をはさんで言葉を止めたときも、ただ彼女を見かえしただけだった。
 つぎはなにが聞けるんだろう。かってな期待に胸をはずませ、からだは壁画に向けたままつづきを待つわたしへ向きなおり、シロナさんはだいだい色がかったうす闇にまつげの軌跡がのこるほど、かみしめるようにゆっくりとまばたきをして言った。
「あのときの話は、しないの?」
 あのとき。いったい、どのときの。
 面くらいつつもかじを切った思考で、彼女からおつかいの名目をもらい、この町へはじめて足をはこんだ際のことではないかと見当をつける。後日会ったシロナさんはとどけものの受けわたしがつつがなくすんだと、長老さんから知らされていたようだった。そのあとすぐに話題がべつのことへうつったのもあって、わたしの口からは当時の状況について、とくに詳細を伝えないままおわっている。
 おばあさんと、お孫さんなのだ。たとえ本人からじかに聞いてはいても、おどろいていたとかうれしそうにしていたとか、反応をもっと具体的に知りたかったのかもしれない。
 そう思ったらのんきに話のつづきをたのしみにしていたのがいたたまれなくなり、視線をさげた。
「……おつかいのときのこと、ですか?」
 たしかめるために訊いて、もう一度相手の顔を見る。
 シロナさんは打ってかわってみじかい間隔で数回瞳をまたたき、こてんと首をかしげた。
 どうもまとをはずしたらしい。あせってべつの可能性をさぐる頭に、ふともうひとつ、彼女と共有できそうな『あのとき』が浮かぶ。
 というよりも本来はこちらをまっさきに思いつき、思いだすべきだったのではないか。そう考えたとおり、
「じゃなくて、ば、バトルのときの」
 とはずかしさにわななく声で言えば、シロナさんはわたしが「ことですか」まで言いおえるのを待たずにうなずいてみせた。
「いつその話になるかと思ってたんだけど、まさかおつかいって、そっちが出てくるのは予想外だった。おまもりをとどけてくれたときのことよね?」
「もう気にしないで忘れてください、ごめんなさい……お話、おもしろくて。バトルのときのこと、ほんとうにさっきまで考えてたのに、すっかり吹きとんじゃってて……」
「それは、また。そんなに夢中になってくれたなんて、ガイド冥利につきるなあ」
 シロナさんがおかしそうに肩をふるえさせ、「この場合は学者冥利のほうが合ってるのかしら」などとつぶやいているあいだに、あおぐ手とせきばらいで、顔にのぼった熱をどうにかちらそうとする。結局うまくいかないのであきらめて彼女へ向きなおり、もものなかほどで手をかさねた。
「リーグでのこと、ありがとうございました」
 できるかぎりていねいに言って、腰を折る。
 体勢をもどすと、シロナさんはわたしの言いまわしからいまいち意図をすくいとりかねたのか、まなざしと表情を、そらしはしないまでもあいまいにゆらした。
「リーグ、での? もし勝負の話なら、そこまできちんとお礼を言われることじゃないし、ほかにはなにも……」
 中断したスタジアムでの映像のつづきが先ほどと反対に、語尾をにごす現実の彼女のすがたにかさなって再生される。
 ——そう、テンガン山のこと、感謝しています。
 勝負の話なら、そこまできちんとお礼を言われることじゃない。
 きっとチャンピオンとしてたたかうと言った彼女にとって、あの勝負はチャレンジャーとしてのわたしと、ただ真摯に向きあっただけでしかないという認識だからだろう。
 でもそれならテンガン山でのできごとだって、わたしにとってはおなじだった。そうしなければいけなかったからではなく、そうしたくてあの山の頂上にのぼったわたしに、本来シロナさんからお礼を言われる道理はないはずなのだ。
 それなのに、あのときの彼女は言った。感謝していると、たしかにそう言ったのだった。
「リーグでお会いしたとき、シロナさん、感謝してるって言ってくれましたよね。テンガン山のこと。それこそ、お礼を言われることじゃないのに」
 はっとしたように唇を引きむすぶシロナさんに、「わたしが子どもだから……」と言葉を継ぐ。彼女はななめしたに向けたおもてごと、こんどはたしかに目をそらす。
 ややあってふたたび視線が合い、話しだすために息を吸う音がはっきり聞こえた。
「ほんとうはおとなが、あたしたちが解決しなくちゃいけないことだったって、あのとき、ううん、たぶんいまでもそう思ってる。もちろん勝負ではひとりのトレーナーとして、きみと対等に接したつもりよ。でもそれはそれとしていま、言われてはっとしたの。どこかに子どもあつかいする気持ちがあったから、ああして直接、お礼を言ったんだとしたら」
 眉のしたに、谷のような濃い影が生まれる。
「きみに、失礼だったわね」
「ちがいます、ごめんなさい、ちがうのです」
 言いかたをまちがえたとわかり、あわてて否定する。子どもあつかいしたと気にかけている彼女にその先を言うには、すこしこころの準備が必要で、わたしは五秒だまった。ろうそくの炎が発散するほのかな熱のせいか遺跡内部の乾燥のせいか、口のなかがかわいて、一度ごくりと喉を鳴らす。
「……ちがうんです、そうじゃなくて。子どもあつかいされたと思ったのじゃなくて、わたし、うれしくて」
「うれしい?」
「どうしてテンガン山のことでお礼を言われたのか、あのときもう、なんとなくわかってました。だってわたしは実際子どもだし、おとながするべきことだったってシロナさんが考えてるのも、伝わったから」
「……うん」
「そのうえで、シロナさんがいま言ったみたいに、対等な相手として接してくれたのも、よくわかったから。だからすごく、うれしくて」
 きちんと伝わっているかどうか自信がもてず、向かいあったふたりの靴の爪先、その中間あたりへ視線を落とした。
「……それで、つぎにもし会えたら、まずお礼を言いたいと思っていました。わたしは子どもだったし、いまも子どもですけど、ちゃんと向きあってくれてありがとうございます、って。なので今日は偶然だったけど、会えてよかったです」
 遺跡の入口から吹きこんだ風が、この中心部までやってこられるくらいの間をおいて、シロナさんは「そっか」とだけ言った。
 顔をあげる。すでにからだの向きをもどしている彼女にならってわたしも正面へ向きなおり、壁画のなかに息づく三体を見あげた。
 文字にすればそっけなく聞こえるひとことにもそれきりおとずれとどまった沈黙にも、いごこちのわるさはなかった。たったいち単語ぶんの声音、たよりないあかりをまぶしがるように目をほそめた彼女の横顔、それだけでこれ以上すべきこともかさねるべき言葉も、この場にないのがわかったからだ。遺跡にくるまえ、彼女の祖母と会話していたときのように。
 どれくらいそうしていただろう。すこしはなれたところで燭台のあかりがひとつ消え、それを合図にしたようにとなりから、一度帰ろうかな、と笑いまじりの声がかかった。
「知ってること、ほとんど説明しつくしちゃったし。きみもそろそろ行くでしょう?」
 うなずいて、ふたりできびすをかえす。ぶあついバインダーノートをわきにはさみ、手ぎわよくキャンプチェアを折りたたむ背中を見ながら、ふいに浮かぶ感情がある。
 訊きたかったことを知り、伝えたかったことを告げた。
 だからいま、満たされた気分でいなければいけないはずなのに、どうしてか。
 彼女と会う機会がおそらくこれきりだということを、ひどくさみしいと感じている。

 *

 カンナギに到着したときよりもずいぶんやわらかくなった日差しが、まぶたをなでた。
 先に出たシロナさんが数歩先でキャンプチェアをかたわらに置き、ひたいのうえに手のひらのひさしをつくる。そのままこちらを振りかえって腕をおろすと、ゆるやかに視線をさげた。
 あとはわかれを告げるだけで、彼女もおそらくそのつもりでタイミングをはかっている。そうとおくなく、具体的にはあと数秒で、その瞬間はおとずれるはずだ。
 あと数秒。それだけしかない。
 だから。
 息をつき、意を決して「あの」と出した声が、シロナさんの発したなにごとかにぴたりとかさなってかききえた。さようなら、だとかそれじゃあ、を言ったようには見えないかたちに唇をひらいている相手とふたり、はじかれたように顔を見あわせて目をまるくする。
 手ぶりとまなざしをつかった無言のゆずりあいに、なんとか競りかったのはわたしのほうだった。シロナさんはこほんとかるくせきばらいして「あの」と、たぶん直前かきけされたものと思しい言葉で切りだしなおした。
「こんど、お茶でも……というか。また、会わない?」
 うれしくておどろいて、胸がつまって、絶句する。
 でも彼女が「もちろんいやじゃなければ、だけど」と自信なさげに目をおよがせるから、どうにか今日二回目の言葉をしぼりださなくてはいけなかった。
「ちがうんです、そうじゃなくて、いやなわけ、なくて。びっくりしたのです。わたしもおなじこと、言おうとしてたから」
「ほんとに?」
「ほんとうです、ほんとうに……」
 もう会う理由がないのだと思ったら、さみしくて。
 そうつづけるのを逡巡するあいだに、シロナさんは胸のまえで手のひらをあわせた。
「よかった。トレーナーとしてはよく知ってるけど、きみ自身の話は、まだぜんぜん聞けてない。なのにこれっきりになるの、もったいないと思ったから。……よかったわ。ほんとに、よかった」
 最後、念を押すようにくりかえした彼女が、安堵をにじませてふかい息をつく。そうして目をほそめた、その表情に気がついて、思いだす。
 長老さんのほほえみに、つよくなつかしさをおぼえたわけを。
 血のつらなりを色こく感じさせる笑顔が、たった一度だけ、どこでわたしに向けられたのかを。
「あらためて」
 そう言ったシロナさんが、バインダーノートを持っていないほうの手を差しのべた。
 とおくのほうで、予感がする。
 たった一度、まだ二度。
 でもふしぎとこれから何度も見るような、見るたびに何度でも胸がしめつけられるような、そんな予感が。
「これからも、よろしくおねがいします」
 言って、両手を出した。
 とおくで咲きはじめた花の香りがまざって流れていくように、風といっしょになって吹きぬけていこうとする予感ごと、彼女の手をにぎりかえす。