たったそれだけの話
掃除や勉強といった作業の最中になつかしいものを見つけて夢中になり、すこし、あるいはしばらくのあいだ、手が止まってしまう。
そんな話を、そういえばわたしはいままで何人ものひとから語られて、そのたびにぼんやりと聞きながしてきたのだった。
単純にそういう経験がなく、共感を見いだしにくかったからだ。コウキくん、ナタネさん、オーバさん。これという共通点の見つからないひとたちが示しあわせたようにおなじことを言うので、手を止める理由としてはだいぶ一般的なものなんだろうと察しはついた。それでも、また聞きにしか知らないことを納得のうえで受けとめるのはむずかしい。
だけど、いまならわかる気がする——というか実際にたったいま、シロナさんの家での蔵書整理中、偶然見つけたアルバムに胸を打たれてようやく理解できた。作成にかかっただろう手間ひま。中身のなつかしさとあたたかさ。ありふれたできごとには、ありふれるなりの理由と引力があるものなのだ。
「……シロナさんっ」
「はいっ!」
その引力に突きうごかされるように家主の名前を呼んだので、うわずった返事に疑問をいだく間もなかった。
振りかえったところで、呼びかけた相手のこわばった表情に行きあう。先ほど見たときは立ったままつぎからつぎへと本の内容を確認していたシロナさんが、ベッドの足元に座り、ひざに置いた本のページをめくりかけていた。
返事と表情と姿勢、みっつもそろえば見えてくるものがある。しばらくまえからその一冊に没頭しており、いよいよしっかり読みこもうと思いたってベッドに腰を下ろし、ページの角をつまんだまさにそのタイミングでわたしに名前を呼ばれた。つまりはそういうことらしい。
そろそろとハードカバーを閉じたシロナさんの表情が『まずい』というものへ変わっていく。
わたしはむしろ、直前までの会話を思いかえして感心していた。処分するか残すか、本のタイトルを読みあげて訊ねていくのにはきちんと返事があったのだ。
——えっと。『テンガン山系における』……。
——『ポケモンたちの民俗』よね。残しておく。
——これ、どんな本ですか? ちょっとタイトルが気になって。おもしろそう。
——うん、ヒカリちゃんみたいに、カンナギとかあのへん、知ってるひとにはけっこうおすすめなのよ。文章もあんまりかたくるしい書きかたじゃないし。こんど、読んでみたらどうかな。
——そうしますね。じゃあ、つぎ、『シント式に見られる二系統をめぐって』は。
——ああ。さっき『ジョウト地方と文化の質的研究』を残したから、それもとっておかないといけないわね。ワンセットみたいなものだから。
そんなふうに。
あれだけしっかりと文献のタイトルや内容をふまえた会話が成立していて、それでもなお一冊の本を読みふけっている最中だと気がつけるひとがいるのなら、ここへ連れてきてほしいものだ。すごい能力だと思う。この状況ではいやみにしか聞こえないので、本人には言えないけれど。
というか、そもそも文句を言う筋あいもないのだ。
「あの、わたし」
「た、たいへん申しわけないと思っています。あのね。何回も読んだ本だし、さすがにもういいかなと思ったの」
いつになくまえのめりな速度で話しはじめた声に、言葉がかきけされた。シロナさんはいったん息をつくと、影にかくれようとするみたいにハードカバーを口もとまで持ちあげる。難解な文献を『おもしろい』と評することもあるひとだけれど、こちらに向けられたのはごく一般的な小説らしい表紙だった。
「でもいちおう最後に目をとおしておこうと。そしたらやっぱりおもしろいから、つい。……あの、どう思う?」
「どう、というと。その本が?」
まさかそんなわけはないだろうと思いながら訊いてみる。いつもならふざけたやりとりに発展するところだけれど、シロナさんは消えいりそうな声で「この調子で終わるかどうか」と答えただけだった。
「……ですよね。ええと」
「正直に言ってほしい」
正直に。わたしが三秒おいて「ノーコメントで」と答えると、ハードカバーごとがっくりと肩を落としたシロナさんが、
「うう、ごめんなさい。おねがい。見すてないで」
と悲痛な声をあげる。
べつに文句を言うつもりも、見はなしたつもりもなかった。
ベッドがあるのはもちろん、ここが寝室だから。書斎のある家の寝室で蔵書整理という一見してふしぎな状況は、シロナさんの蔵書と史料が書斎を埋め、リビングに造りつけた本棚もいっぱいに満たし、寝室にまでなだれこんでもなお増えつづけているからだ。
先日、彼女が「そろそろまずいかも、床」とぼやいていたので心配になり、今日は自分から申しでて整理を手伝っていた。その最中にアルバムを見つけ、読みふけってしまっていたわけだ。文字でもないのに読みふけるという言いかたがただしいのかどうかわからないけれど、とにかく自分から言いだした手伝いの手を止めていたくせに、進捗をだいじょうぶだとかきびしいだとか評価する、ましてやあきれる筋あいもない。
そう思う一方で、いまのシロナさんがそうは受けとらないだろうということもよくわかっていた。ページの小口にひとさし指をかけてアルバムを閉じ、苦笑した顔のよこまで持ちあげてみせる。
「ちがいますよ。これ、見てしまってたので、なにもえらそうなこと言えないのです。たしかにちょっと、びっくりはしましたけど」
「これ、って。ああ」
ベッドに積んだ本のうえにうしろ手でハードカバーを載せながら、すこし距離があるのでよく見えなかったのかわずかに目をほそめ、シロナさんはうなずいた。そうしてから、なぜかすぐに首をかしげた。
「あれ。でも、見せたことなかったんだっけ?」
「ありませんよお」
とぼけているようではない。なんのふくみもない素朴な言いかただった。まったく、本を読んでいたことよりも、こちらのほうをうしろめたく感じてほしいものだ。わたしはこれ見よがしに唇をとがらせてみせ、アルバムを手にベッドのほうへ向かった。
シロナさんが周囲の本をよけて空けてくれたスペースに腰を下ろし、栞がわりに指をはさんだままにしていた例のページをひらいた。見ひらきいっぱいに色とりどりの、ほんものの花びらが散りばめられている。はじめ、花束を描いたポストカードでも貼ってあるのかと錯覚したほどだった。
陽に当たっていないからだろうか、花びらは散ったときのままほとんど色あせていないように見える。ほそながいピンク色のひとひらをラミネートフィルム越しになぞり、そのまますぐそばに書かれた『ソノオ』の文字を指さして「これ」ととなりを見た。
「なつかしいです。調査に行ったとき、帰りがけにポケモンたちがあつめてた」
「そうそう。ぜんぶはさすがにむりだったけど、あんまりしおれてないのを押し花にね」
「押し花って、ぶあつい本とかにはさむのでしたよね。わたし、なんとなく聞いたことはあるのですけど、実際に作ったことはなくて」
「うん。つかえる本ならいくらでもあるでしょう? ……その、ほら。ヒカリちゃんもよくよくご存知のとおり」
そう言って、壁の本棚のほうへ目くばせする。思わず吹きだしたわたしにつられたように、言った当人もいくぶん気まずそうながらようやく笑みを浮かべた。
「ふふ、そうですねえ。たしかに、それはよくよくご存知かも。でも、こんなの作ってくれてるのはちっとも知りませんでしたよ、もう。おしえてくれればいいのに」
もちろん中身は押し花だけではない。日付と地名つきで保存された写真、出かけた先のチケットやパンフレット。記憶のなかのワンシーンが、台紙に整然とならんだ品々をひとつたしかめるたび、より鮮明な輪郭を得た。ふたりの思い出なのだ。こんなにしっかりと保存してあるのなら、おしえてくれてもいいものだった。
とはいえ、さっき冗談めかしてみせたように、不満というほどのこともなかった。シロナさんのほうもおおかたさっきの口ぶりのとおり、タイミングをのがしたまま言いわすれていたのだろう。
内心納得していると、笑っていたシロナさんはふいに目をまるくした。ぱちぱちと瞳をまたたき、「作ってくれて?」とわたしの言葉をくりかえす。まるで未知の言語の発音だけをなぞるみたいに。
「いっぱいあるからたいへんそうに見えるのかもしれないけど、ほんと、そこまでじゃないのよ? はさんで置いとくだけだもの」
そうして、ふしぎそうに言った。
予想外の反応にぽかんとしたものの、思いあたるまでには二秒とかからない。ああ、ソノオに行った日のページを見ながら話していたせいか。アルバムそのもののことと、押し花づくりの手間の話。わたしはちょっとおかしくなって、笑いをこらえながら「ちがいますよ」と言った。
「押し花もそうですけど、アルバムのことです。わたしだけじゃなくて、みんな、見たらとってもよろこびますよ」
「ええ? そう?」
「そうですよー」
「うーん……」
「よろこびますってば。ぜったいに」
「はあ。そこまでかなあ。ソノオのときのことっていうならまだわかるんだけど。ロズレイドと、ヒカリちゃんのチェリムだったかな。あんまりたのしそうにあつめてたから、どうにか残してあげたいと思ったくらいだし」
そのあたりでなんとなく妙な気分になってきて、わたしは「ああ」とあいまいな相づちを打ったきり黙りこむしかなかった。シロナさんの態度がどうも、自分が作ったものへの謙遜だけにしてはいきすぎている。こんなものでそこまでよろこばれる理由がわからない。はっきり言葉にこそしなくても、そういう困惑のニュアンスさえ感じた。
かといって、このアルバムをどうでもいいと投げやりに捉えているわけでもなさそうなのだ。ずっとまえに作ったきり存在をわすれていたのならまだしも、ぱらぱらとめくったなかにはつい最近のページもあった。いまも手を加えつづけ、すくなからず手間ひまをかけているアルバム。こんなもので、という困惑。どうにもちぐはぐで、よくわからない。
つい視線をおよがせると、正面の本棚の一箇所が目についた。
アルバムを抜いたすきまのすぐそばで、背表紙の列から一冊がわずかに飛びだしている。タイトルを読みあげるのにつまんで引きだして、きちんと戻しきれていなかったらしい。そのあたりにならんだ本の規格がそろっているせいで、この距離だとやけにめだってしまうのだ。
「あれ」
「うん?」
「あそこの本。ちゃんともどしてなかったみたいです。……うん、そろそろつづき、やろうかな」
飛びだした一冊と同様、すこし距離をとったからこそ全体像が見える。目のまえの一面の本棚を埋めつくす蔵書のうち、処遇がきまったのはだいたい四割ほどというところだった。まあ順調と言っていいだろう。お世辞にもあとちょっととは言えないまでも、けっして終わらない量ではない。
もちろん、これからまじめに取りかかれば、の話だ。アルバムの残りのページは、こんどゆっくり見せてもらうことにする。
わたしがあそこの本、と言いながら指さした先を視線で追い、本棚を見ていたシロナさんが、はじかれたようないきおいでこちらを振りむいた。その拍子に背後に積まれた本がばさばさと崩れたのを気にするようすもない。
「つづきって、片づけの?」
「え? はい。途中でしたから」
「そんな。それはたしかにそうだけど。その、まだ手伝ってくれるの? あたし、自分のことなのに本読んでサボってて……」
そうは言うものの、彼女は本に没頭している最中ですらきちんと指示をくれていた。しかも、わたしには内容の想像もつかないようなややこしいタイトルを正確にそらんじながらだ。本人の引け目はともかく、整理を進めることにかけてならむしろ貢献している。アルバムに見いって完全に手を止めていただれかよりもよっぽど。
「サボって……たのは、どちらかというとわたしですけど。でも、シロナさんがそんなに気になるなら、そのぶんこれからがんばってもらっちゃおうかなあ。ここだけでも、どうにか終わらせないといけませんしね」
なんて、と付けくわえて笑い、ぱたんと閉じたアルバムを抱えなおした。つぎの瞬間、体の側面をやわらかな衝撃がおそい、視界から本棚が消えた。
「わっ」
「いたっ」
どうやらいきおいよく抱きつかれ、わたしがなんの受け身もとれずに姿勢を崩したせいでふたりともベッドへ倒れこんだらしい。
抱きついてきたシロナさんはなぜかとなりでうめいている。見ると、先ほど崩れた何冊かの本に頭をぶつけたようだった。
「えー。だ、だいじょうぶですか? どうしたのですか、急に」
「だいじょうぶ……いや、あの、うれしくなっちゃってつい」
「うれしい?」
「うん」
頭頂部をさすっていた手を離し、よこたわっているから掛け布団に頬をこすりつけるようにして、シロナさんはうなずいた。
「だってただでさえうれしかったのよ、手伝うって言ってくれただけで。なのに、あたしよりもちゃんと、どうするか考えてくれてる。……もう、うれしいとかありがとうじゃぜんぜん言いたりないっていうか。感動してます。大好き!」
言葉どおり感きわまったように言うがはやいか、シロナさんはわたしを抱きよせた。
アルバムをかかえているせいで距離をつめきれないぶかっこうなキスのあいだ、わたしはまぶたをふせるのもわすれてぽかんとしていた。唇が離れていっても、声が脳裏に反響しつづける。うれしいとかありがとうじゃ。ぜんぜん言いたりないっていうか。感動してます。感動——感動。そう言った?
アルバムの話にまったくぴんときていなかったひとが、床がぬけてしまわないように蔵書の整理を手伝う、ただそれだけのことに感動している。思わず飛びついてくるほどに。さっき、ちぐはぐな態度をよくわからないと思ったけれど、いよいよもってまったくわけがわからない。
でも、シロナさんと至近距離で目を合わせながら、なんだっていうんだろう、とだれかの口ぐせみたいなことを考えかけたとき、唐突に思いあたった。
もしかして、彼女もこういう気持ちで聞いていたのか。
わたしがアルバムのことを話すのを。
アルバムそのものについての話を、シロナさんはあくまでも手元の見ひらきの、さらに言えば押し花を作る手間についての会話だと思っていた。片すみに『ソノオ』の文字と日付の添えられたあのページがもし存在しなかったとしても、そこに一輪の花しかなかったとしても、わたしはおなじように胸を打たれたにちがいないのに。
いまならわかる。
たぶん、シロナさんにとって思い出をとっておくという行為はあたりまえすぎて、それがだれかをよろこばせることだという認識も、そのだれかにわざわざ伝える発想もなかったのだろう。だからわたしに見せたかどうかさえおぼろげだった。
それでわたしのほうは、この家の床を守れるかどうかのせっぱつまった状況を心配するのも、そうして整理の手伝いを申しでるのも、ぜんぶあたりまえに思っている。
「はい、はい。わたしもですよ」
言いながら、思わず笑ってしまう。
にこにこするシロナさんにこんどはわたしから顔をよせたけれど、やっぱりアルバムがあいだにあるせいで、彼女の唇をかすめるだけのへたくそなキスになった。
感動すること、あたりまえだと思っていること、キス。なにもかもちぐはぐなのに、ひとつだけどうしようもなく噛みあっている。それがおかしくて、ひどくいとおしい。
それぞれ体を起こせばいいものを、目くばせでわざわざタイミングを合わせて起きあがり、正面の本棚を見た。
残りは六割。たったそれだけだ。