そっと、ヴォーチェ
ちかづけた唇と唇のあいだに、そろえてかさねた指をするりとさしいれられて、ふれる前にうごきを止めた。どこかとおくで草が風に吹かれてさざめいているような、ほとんど音ののらない笑い声にまざって、もうだめです、という恋人の声が聞こえる。
ふれる場所が唇からその前をふさぐヒカリの指へかわっただけのことに、なんの不都合があるわけでもない。それでもひとまず、まるくととのえられた爪がわずかにのぞく指のはらをやわく食んで、「どうして」と不満をあらわしてみせる。かたちばかりのものと伝わるように、うすく笑いながら。
「明日の朝、はやいですから」
ヒカリはすこしかすれてざらついた声でこたえて口元から手をよけると、上体を浮かせてあたしの唇へふれてきた。先ほどまでひっきりなしにかわしていた、制止されなければ今しがたも落としていただろう口づけの、なにかを奪ったり急きたてたりするような切実さとはあきらかに性質のことなる、ごくかるい感触が表面をなぞっていく。
はなれぎわにのんびりと、しかし念を押すように「だめですからね」と付けたされた。そうして言われるまでもなく、去っていった体温と入れかわりに唇をつつんだ空気のひややかさのせいか、おたがいがそれと知っている茶番をつづけるだけの気力はすっかり霧散している。最後に一度、顔を見あわせて笑ってから枕のふちへ腕をおくと、ヒカリは体重のかからない位置をさがしてからだをもぞもぞとさせたあとで、あたしの前腕にうなじをのせて頭を枕へ横たえた。
あたしも半身をしたにしてそのかたわらへ寝そべり、首まわりの汗を吸ってかすかに湿っている恋人の髪をひとふさすくってはシーツに落とす、とくに意味のない動作を反復する。彼女はひたいにいくすじかはりついた前髪をはらうこともせず、自分の髪がもてあそばれるのを芯のないまなざしでながめている。あるいはただ目がそこに向いているだけで、どこかに焦点を合わせているわけではないのかもしれない。
されるがままでときおり身じろぐだけの無防備な横顔を、おなじようにぼんやりと見るうちに、ふと思いつく。
「ライト、つけてもいい?」
「うーん……どうして?」
「顔、見たいなあ」
今夜は月があかるい。ベッドにはいる前、いつもより地表にちかい位置でとろりとしたこがね色にかがやく天体を窓辺から見あげて、なにかとくべつな名前のつく日だったかと考えたほどだ。なのでじつをいえばベッドサイドの照明にたよるまでもなく、あえてきっちりとしめずにおいたカーテンのすきまからさしこむ月光だけで、恋人の表情も、その目元や鎖骨の先の肩口から引ききらない紅潮までも、それなりに見とおせている。顔をこちらへ向けてまよいなく目を合わせてくるヒカリも、あたしの顔が見えることでうすうすそれを察しているはずだった。
どうせ見えている事実を考慮すれば、いつもかたくなに電気を消して部屋をまっくらにしたがる彼女も、すこしは妥協してくれるのではないかと、そう考えたのだけれど。
「だめです。つけなくても、見えてるでしょう」
われながらなんと謙虚でささやかなのだろうと思いながら口にした提案は、どうやら見えていたがゆえに、というより見えていたからこそ、笑いまじりに却下されたようだった。
そのまま視線の死角にのがれるようにあたしの胸元へ頬を寄せてくるヒカリの首すじから、花のような香りがあわく立ちのぼる。髪を湿らせ、ボディソープやシャンプーの香料もまとめて洗いながしてしまうのではと思うくらいに汗をかいたあとでも、からだの奥にかかえたつぼみが気まぐれに花びらをひろげてそれをふりまくように、彼女からはほのかにこの香りがただよった。本人はいまいちぴんとこないのだと言う。あたしも花のような、以上にそれを言いあらわすための言葉を見つけられないでいる。けれど、たとえ目をとじていてもこの香りをたどれば彼女をさがしあてられるということだけを、実感として知っている。
吸いよせられるように顔をあげ、鼻先をえりあしにしずめていた。ヒカリははじかれたようにあたしから頭をはなし、うなじに手をやってもう一度「だめ」とくりかえした。熱の色をのこしたままの顔のなか、ひそめた片眉のしたのまぶたに、濃い影ができる。
「汗、かいてます」
「におったことなんてないけど」
「……とにかく。だめです」
「だめ、ばっかりだわ。今日」
「そんなことありません」
「じゃあもう一回」
「だめですってば」
「やっぱりだめなんじゃない」
「だって……」
まじめくさった表情で言いあうふりができたのはそこまでだった。その先はふたりとも笑いだしてしまって、意味をなす言葉はつづかない。ただ寝室にみちる笑い声の切れ間にどちらからともなく、まぶたをふせずに目を合わせたままキスをしあった。とはいえふれる場所を唇にとどめずに、目じりや頬、はてはこめかみや前髪の生えぎわまでもかすめるそれは、恋人同士のふれあいというよりは顔みしりのポケモン同士が頬をこすりつけてするあいさつによほど寄っていて、なんの甘さも帯びないものだった。
もっと彼女のかたちをたしかめたい、いろんな顔や声を見聞きしたい——彼女を知りたい。その一心で、ほんのわずかなすきまやたった一瞬の空白さえ惜しむように抱きあう。そうしてさんざん熱に浮かされたあと、恋人と枕元で顔を突きあわせてかわす会話は、たとえ本質としては、事前に聞いて知っている予定を復唱するだけのごく事務的な内容にすぎなくとも、世界であたしたちふたりだけが共有する、このうえなくうつくしい秘密のように聞こえた。このために、とまで言ってしまうのはさすがに言葉がすぎると思うけれど、それでもあたしは、おたがいのからだからすこしずつ引いていく熱を感じながらすごすこの時間が、彼女と抱きあう行為そのものとおなじくらいに好きだった。
ひとあしはやく笑いをおさえこみ、ヒカリのほうも完全におさまるのを待って「明日は何時?」と問いかける。ヒカリは枕に頬をつけ、あいまいに語尾ののびた声を発しながら目のうごきだけであたしを見あげた。
「七時に現地です」
ノモセでの仕事だと聞いている。軌道に雲を生むのではないかと思うほどの高速で飛翔するムクホークにまたがり、渋滞も速度制限も乗りかえもない空をまっすぐに駆けぬけて、約一時間。頭のなかでシンオウの地図をひろげてはじきだした移動時間に、彼女が朝の身じたくにかける時間を足して逆算する。
「……ねえ。もう一度くらい」
「だ・め・で・す」
今夜何度目に聞くのだかわからないせりふを、つよい語調でさらに一音ずつくぎって口にすると、ヒカリはふいと肩をひるがえして背を向けた。それを追いかけ、薄墨色の陰影にうもれて夜の尾根のようにも見える背骨へと顔を寄せる。
あきれてものも言えない。そんな様子だが、ポーズでしかないとわかる。背骨から肩甲骨のいただきへ、肩甲骨から肩へと、点と点をむすぶように唇でたどっていく。最後に、浮きでた肩の峰から首すじにつながるなだらかな曲線へあごをのせると、密着した皮膚からこきざみな振動が伝わる。それが証拠だった。彼女は笑いを押しころしきれずに肩をふるわせていた。
恋人はふだん、感情表現にとぼしいというわけではないものの、さりとてそこまでおおきな起伏も見せない。しかし抱きあったあとだけは目に見えて笑い上戸になり、ことあるごとに楽しげに笑うのだった。
あたしは先ほどからなにも本気で、しつこいくらいにもう一回もう一度とせまっているわけではない。はだかで抱きあったあとはこころまでむきだしになるのだろうかと憶測をたてながら、あたしだけが知る愛らしい恋人のすがたを、くりかえし目に映そうとしているだけだ。もちろん彼女がいいと言ってつづきができるのなら、それに越したことはないとも思っているけれど。
「あーあ、残念だわ」
「うん、残念ですね。ざんねん、ざんねん」
「思ってないでしょう、その言いかた。……明日、起こしてあげるのに」
「だれがですか?」
「あたしが」
「だれを?」
「ヒカリ以外にだれがいるの」
あたしたちふたりのうちどちらが朝につよいのかといえば、それは圧倒的に、休日でもほとんど決まった時間に目をさますヒカリのほうだ。ふだんがそれだからしかたないのだが、ほかにだれがいるのかとつげた直後、肩のふるえを押しころしていた労力をみずから無に帰すように噴きだされ、一瞬あっけにとられてしまう。
すぐに気をとりなおし、「失礼ね、笑わないで」と唇をとがらせるのに並行して、彼女がよわいと知っているわき腹や背中へ指先をはしらせた。ヒカリがくすぐったさからのがれようとシーツのうえで身をよじりながらあげる、いっそうたかい笑い声につられて、いつしかそうさせている張本人のあたしまでいっしょになって笑いだす。
ひとしきり笑って、おちつくころにはふたりそろってかすかに息を切らせていた。まだ笑い声の片鱗がのこるみじかく浅い呼吸に肩を上下させていると、目の前のヒカリが口元を指でかくして目をほそめ、かみころしきれなかったらしいちいさなあくびをこぼす。
「眠くなってきた?」
「ん……そうですね。ちょっとだけ……」
こたえる声に『ちょっと』ではとうていおさまりきらないだろう眠気がにじみ、口調もおもたくにぶいのを聞いて、彼女もまぎれもなくこの時間が楽しいのだ、と思う。さんざん朝はやいのだと、だからだめなのだとくりかえしながらも、『ちょっとだけ』などとうそぶいて眠たさにあらがおうとするくらいには。
枕においていないほうの腕を背中にまわして抱きよせる。後頭部へ指をさしいれ、汗がかわいてひえてきた髪を手ぐしでとかしてやる。途中、ヒカリが胸元でなにかもごもごとつぶやくのが聞こえたので、ときおりあたしの指を引っかける、髪がもつれている部分を慎重にほどきながら、つむじへ顔をちかづけた。はじかれたように距離をあけられた先ほどとはちがい、こんどはそこを鼻先でかきわけても抵抗らしい抵抗はない。
「なあに」
「あした……」
「うん」
「……わー、を……」
「わー?」
ゆっくりと頭を撫ぜられるうちに眠気が足をはやめたのか、ヒカリは急速に眠りの世界へ落ちかけていた。この一見会話じみて見えるやりとりも、彼女のがわにかぎってはほとんど寝言のようなものだ。反応してもしかたがないし、そのまま寝かせたほうがいいことも理解しているのに、ついひろいあげてしまう。
もう眠ってしまったかと思うほどしばらくのあいだ、ささやかな吐息だけしか聞こえなかった。ひときわながく深い呼吸のあとで、「シャワーを」と言う声がようやくあたしの鼓膜をふるわせる。
どうも汗をかいたのを、寝言につぶやくほど気にしていたらしい。あたしは笑ったが、彼女はもう笑わなかった。そもそも聞こえているのかどうか。いや、きっと八割がた聞こえてはいない。
「……うん。だいじょうぶ。起こしてあげる」
だからゆるやかに上下するつむじに向けて落としたそんな言葉も、反応を期待してのものではなかった。それなのに、直前に輪をかけてたっぷりと間がひらいてはいたけれど、ともすれば聞きとれないくらいに不明瞭な発音ではあったけれど、彼女は言葉をかえしてきた。
「……ぜったい、ですよ……」
さっきはあんなに笑ったじゃない。そうまぜかえす気はおきない。
抱きあったあとであけすけに笑うようになり、今や深い淵へしずもうとしている無防備な彼女が口にした言葉からは、どんな建前もとりはらわれていた。
あたしへの無条件な信頼のあかしなのだ——そう思ったらむしょうにいとおしくなり、抱きしめるちからをつよめたい衝動にかられたけれど、それではせっかく眠れそうな恋人を呼びもどしてしまう。すんでのところで踏みとどまり、自分の耳にさえ聞こえるか聞こえないか程度に声をひそめ、ひとことだけをささやいた。
「……おやすみなさい」
それはただの言葉だ。あいさつ以上でも以下でもなく、実際に言葉にこもる感情も、おそらく顔みしりのポケモンたちが出あいがしらに頬をこすりつけてしめす親愛から、さほどかけはなれてはいない。
けれど思うのだ。
前もって聞いた予定を復唱しているだけにすぎない事務的な会話のなかにでも、あたしがそれを聞き、見いだすように。あたしのささやくただの言葉が、夢のなかへ落ちていくヒカリの耳に、世界であたしたちふたりだけが共有する秘密のように、聞こえていたらいいと。
こんどこそ反応はない。
あたしは胸元のちいさな頭からたちのぼる花のような香りを吸いこみ、サイドボードの目覚まし時計へと手をのばす。彼女をゆらさないように、できるだけからだをうごかさないように、細心の注意をはらいながら。