サムデイ・イン・ザ・レイン
予感がしたわけでも音を聞いたわけでもなく、ただなんとはなしに顔をあげ、窓のそとで降りだした雨に気づいた。そうして本を取りにいくのだか飲みもののおかわりを用意しにいくのだか、とにかく用事ですこし席をはずしただけだと思っていたヒカリちゃんが、しばらくもどりそうにないのを知った。
窓のそとを見て雨に気づくこと、ヒカリちゃんがもどらないのを知ること。一見なんの関連もなくばらばらなふたつは、しかしあたしのなかではすみやかに、そしてたしかにむすびつくのだ。だれだってこうもなるだろう。数えきれないというほど膨大ではなく、さりとて片手におさまりもせず、ただすこしだけうんざりする程度。それくらいの回数、ほとんどおなじ経験をかさねていれば。
栞紐をはさんでとじた本を座面へ置き、ソファをはなれる。窓辺へちかよるにつれ、器に敷いた砂粒をゆらすようなさらさらという音が聞こえはじめた。ああ、やっぱり雨だ。べつにうたがっていたわけでもないけれど雨音にくわえ、引きあけたレースカーテンのむこうにのぞいた灰色の景色、そして地面に色こいしみが点々とひろがっていくさまに、あらためて天気を実感する。
いくぶんおもい足どりで玄関へ向かいながら、以前メリッサから『やっぱり』という言葉のニュアンスについて訊ねられたことがあったのを思いだした。たしかあのときもリーグ関係者の集まる会議の最中、窓のそとで雨が降りだしたのだ。気づいただれかが「やっぱり降ってきた」とつぶやいたのを聞きつけたメリッサが、となりあわせたあたしに『やっぱり』は過去と現在の状態をくらべて差がない場合につかうのではないのか、というむねの質問を耳うちしてきた。もちろん耳うちといってもいつもの歌うような口調とほがらかな声音そのままだったので、会議の場にいた全員に聞こえていたのは想像に難くないけれど。
結局、どう答えたのだったか。とおい土地からやってきたダンサーを納得させられたのだったか。
どちらにせよ、もう思いだせないあたしの返答よりも、これから向かう先で見るだろう光景のほうがよほどわかりやすい実例となってくれたにちがいない。
靴が一足あったはずのスペースを横目に自分の靴を履き、別荘の玄関をくぐったときとなにひとつかわらない傘たてから一本を取りあげてポーチへ出る。じかに接する雨は心なしか窓ごしに目にしたときよりもよわまったように見えた。
向かう先といってもとくべつ目星はついていないけれど、これもまたいままでの経験上、たいしてとおくはないとわかる。わかるからといってわずかな達成感も爽快感もおぼえないまま、すべてを洗いながしてしまうほどつよくも、傘を差さずにすむほどよわくもない中途半端な雨をかきわけて歩いていくと、ほどなくしてうすぼけた色彩のなかに、ひとつだけ輪郭のはっきりしたものがあらわれた。
いまならあたしは自信をもってメリッサに答えるだろう——予想があたったとき、思ったとおりの状況になったときも、それがいいことだろうとわるいことだろうと、やっぱり、をつかうのよ。
たとえばこんなふうに。
別荘の敷地を出たとはいえ、居住者のごくかぎられるリゾートエリアの往来には平時から通行人などほとんどないにひとしく、おまけにこの雨だ。見わたすかぎりだれもいない道ばたであたしの気配にも足音にも気がつかないはずはないのに、手をのばせばとどく距離までちかづいても、人工池にかかる橋のたもとに立ったヒカリちゃんはこちらに背を向けたままだった。頭上からの雨を傘でさえぎると、それではじめて他人の存在を知ったかのように振りかえってあたしを見あげ、傘の落とす影のなかで「ああ、シロナさん」と笑った。
「シロナさん、じゃないでしょう」
「シロナさんじゃないのですか?」
「シロナさんだけど……もう。そういうことじゃないってわかってるわよね。何回言ったらいいの。雨が降ってるときに出あるくならちゃんと傘、持っていって」
こういうことは数えきれないというほど膨大ではなく、さりとて片手におさまりもせず、ただすこしだけうんざりする程度の回数をかさねていた。
別荘でいっしょに過ごす雨の日、ヒカリちゃんはあたしが目をはなしたすきを突くように、ときどき傘を持たずにふらりとそとへ出ていく。別荘の裏手、浜辺の防風林、リボンシンジケートの角。探しに出た先のおなじ場所で追いついたことはないかわりに、さほどとおくない場所で見つかるのと、たとえそばに建物の軒先や木陰があろうとそこへは立ちいらず、漫然と雨に濡れているのだけはいつもおなじだった。
「そうでしたね。ごめんなさい」
ていねいに発音するヒカリちゃんのこめかみから頬にかけてを、にぶく光る雨粒がひとすじ伝う。おとがいからしたたりおちるまえに親指のはらでぬぐってやりながら、ふかぶかとため息をついた。この会話もまた、細部はちがえどだいたいおなじようにくりかえされるのだ。追いかけて追いついたあたしが傘を持たずに出ていくことをとがめれば、彼女はいつもきちんと謝ってくれた。
言葉とも口調とも裏腹な、わるびれる気配のない笑顔で。
「いつもそう言うのに、結局こうやってまたおなじことするんだから」
「それもごめんなさい。気をつけようとは思うのです、いつも。だけど雨が降りだしたら、いてもたってもいられなくなってしまって」
「……お散歩の話よね?」
「はい、お散歩の」
雨の日のこれは彼女いわく、なんの変哲もないお散歩、らしい。
ヒカリちゃんがはじめてこの『お散歩』にくりだしたとき、あたしは読みかけの文献に集中しており、はずかしながら髪と服にじっとりと雨を染みこませた家主がリビングにはいってくるまで、そばから彼女が消えたことにも気がついていなかった。
目を白黒させながら洗面室へ取りに走ったタオルで彼女の頭をかきまわすさなか、どうしたのかと端的に訊ねた。くすぐったそうに身をよじるヒカリちゃんからかえってきたこたえは「お散歩に行ってきました」というもので、傘はどうしたのかと問いをかさねれば、帽子があるのでだいじょうぶかと思って、などと言う。
屋外を歩いて気分転換するのでも、わざわざ雨のなか、それもひとりで行かなくていいものを。そういぶかしみつつも、帽子は傘のかわりにはならないこと、雨足がよわくてもきちんと雨具を持っていくべきだということを言いふくめた。ヒカリちゃんはうなずき、納得していたように見えた——のは、どうやらほんとうにただ外見のうえだけだったらしい。それから雨と彼女の不在が瞬時にむすびつくようになるほど、おなじことがくりかえされているのだから。
出会ったときからおとなびて、泰然とした子だった。一を聞けば十を理解し、ポケモンはもちろん他人のこともふかく思いやる。言葉で説明できないかんしゃくだとかわがままだとか、そういうものの片鱗さえのぞかせたことはない。そんな彼女がなぜ雨の日の傘を持たない散歩にだけこうまで聞きわけをうしなうのか、あたしにはわからなかった。
不可解なのは、追いついたあとに見せるこの態度もだ。彼女のすべてを知っているだなんて傲慢なことは夢にも考えない。それでもあたしの知るかぎり、やめてほしいとたのんだことをむげにしたうえで相手をからかうような、そんな子ではないと思うのに。
「ねえ、どうしてわざわざ雨の日に出ていくの?」
正面に向きなおったヒカリちゃんの後頭部に訊ねる。そういえばどうしてこんなことをするのか、その核心について問いただしたことはなかった。いつも、あまり濡れすぎないうちに彼女を見つけだし、いそいでつれてもどることにばかり意識をかたむけていたせいだ。
ほんとうにただあたしをからかっているだけだと言われてしまったら、どんな顔をすればいいんだろう。その可能性を考慮してはじめて、自分のうちにある感情の手ざわりに気がつく。どうやらあたしは、そう、だったときをおそれている。いままでとなりに、だれよりもちかくに立って描いてきたはずの彼女の像が的はずれなものだと突きつけられる。たぶんそれが、ほんのすこしだけこわい。
「そろそろ来てくれそうなのですけど」
まえを向いたままつぶやいて、ヒカリちゃんが人工池を指さす。あたしは言葉の意図をつかみあぐねたまま、ほそい指先の延長線をまなざしでなぞった。深緑色の水面に、雨粒の落とす波紋がたえまなく生まれては消えていく。ある瞬間、そのはざまにあざやかな色を見たような気がして反射的に目をこらした。
切れこみのはいったあかるい緑色の円盤、が浮きあがってきたかと思うと、ぶあつい透明の膜を押しあげるようにして水上へあらわれる。へりのみじかく立ちあがった円盤のした、青色の胴体、扁平なくちばし……雨のなか立っていたヒカリちゃんのようにくっきりとした輪郭を順に目でたどっていく最後、つぶらな黒い瞳と視線が合った。
「来てくれるって、このハスボーのこと?」
「はい」
「一度つかまえて、お別れした子なの?」
池のほとりにしゃがみこんで傘のしたから出てしまった彼女を追いかけ、一歩まえに出る。ヒカリちゃんは手をのばし、そばまでおよいできて鳴き声をあげるハスボーのくちばしを撫でてやりながら、ゆっくりと首をよこに振った。
「リゾートエリアって住んでるひとはすくないですけど、すくないだけにポケモンたちにとっては棲みやすいみたいで。わたし、この子みたいな野生の顔見しりがたくさんいるのです。すごいでしょう?」
むじゃきでほこらしげな口ぶりに、あたしは一瞬、言葉につまってだまりこんだ。
ああ、この子は。
別荘の裏手、浜辺の防風林、リボンシンジケートの角。これまで彼女を見つけた場所をいくつかならべて、ながいまばたきを終える。
「……雨の日にだけ会える子が、ほかにもいるのね」
「そうなのです。そういえばちゃんと言ったこと、ありませんでしたね。ふふ、でも、ごめんなさい」
「なにが?」
「もちろんみんなに会いたいと思うから、いそいで出ていくのですけど。ほかの理由もあって」
二分まえならだめだった。けれどいまのあたしには、ヒカリちゃんが口にするまえから、なんとなくその先がわかるような気がした。
「シロナさんがいつもむかえに来てくれて、いっしょにお散歩ができるから」
やっぱり、と心のなかでつぶやく。
やっぱりこの子はこんなやりかたでだれかをからかったりしない、あたしがとらえてきたままの人物で。
「……雨の日はまだいいけど。雪のときはこういうの、ほんとにだめよ」
「そうですねえ。わたしはともかく、シロナさんまで風邪をひいてしまったら」
「ヒカリちゃんがひくのだってだめにきまってるでしょう」
——それぞれのんびりとした口調で言いながら、まるであきれかえったようなため息まじりの口調でたしなめながら。あたしたちはやっぱり、おたがいにわかっているんだろう。
冬がくるまでに、きっと彼女には雪の降りしきるなかでだけ顔を見せる友達がふえ、会えると見るやいなや傘を持つのもわすれて飛びだしていくようになる。きっとあたしは雪が降りだしたのを知り、同時に彼女がとなりにいないことに気がつくたび、持ちだされない傘を取りあげて玄関を出ていく。
メリッサに説明するための実例にはつかえそうにないけれど、やっぱり、この子にはかなわない。かなうわけがない。
だってあたしは、この子のそういうところを好きになってしまったのだし。
「……そろそろ帰らなくちゃいけませんね」
池の縁石にちいさな脚をかけて乗りあげたハスボーとたわむれながら、ヒカリちゃんがなごりおしげに言う。
あたしは傘をすこしかたむけて空をのぞき、それからヒカリちゃんの手元へ視線を落とした。ハスボーが警戒心をふくまない穏和な表情であたしを見あげ、ぱちぱちとまばたきをする。彼女の友人と見なされているから、ここまで許容されているんだろう。
「その子が帰るまでならここにいてもいいんじゃないかしら。傘も持ってきたし」
「だけど、雨、もうすぐ……」
「これからどしゃぶりになるかもしれないでしょう?」
言葉につまったような沈黙が生じたことに、あたしはささやかな満足感を得た。
とおくのほうで雲がうすれ、雨はますます粒をちいさくしていく。ふっと息をついたヒカリちゃんが「そうだといいなあ」とつぶやくのも、その声が笑っているのも、雨音にじゃまされることなくはっきりと聞こえた。