青天白日

 自分を口べただと考えたことはなかった。思えばフタバにいたころ、ジュンとの会話では聞き役ばかりしていたような気もする。でもそれは相づちくらいしかはさむすきのないほどつぎつぎ話題をつなげてしゃべりたおす、おさななじみのせっかちな気質のためにそうせざるをえなかっただけであって、わたしが口べただという根拠にはならないはずだ。実際のところ相手がかれであろうとなかろうと、話すがわにまわればとどこおりをおぼえることもなく、すらすらと言葉をつくれていたのだから。
 相手にどう伝わるか、そのとき口に出すのがただしいのか。発言のまえに考える必要はあるにせよ、思ったことを言う、それ自体にまよった記憶はない。思ったことをどうあらわしたものかと、頭をなやませた経験もない。だからひどくおかしな想定だけれど、もしそうなのか、と訊かれる機会があったらこたえただろう。
 わたしは、口べたではありません。
 ——でも、現にいま、言葉が見つからない。
 ソファでの午睡からひとあしはやく目をさまして、シロナさんの寝顔を腕のなかから見あげている。もっと具体的には微動だにしない眉の線よりも、したまぶたへ影を落とすながいまつげよりも、まっすぐとおった鼻すじよりも顔のそばにある唇を見ている、こんなとき。
 眠っているからなにを語りかけてくれるわけでもないのに、恋人のうすい唇から目をそらせない理由。ぴたりときれいにとじたそこを一心に見つめるさなか、ときおりうなじから全身の末端までを駆けぬけていく、むずがゆいともこそばゆいともつかないそわそわする感覚に、つけるべき名前。ほんとうはいまだけじゃない、わたしはここ最近ずっと、似た状況になるたび、そういうものたちをうまく言葉にできずにいる。
 はやく起きてほしい。あやふやさのない、それなりの強度で願う。ふだん彼女と目を合わせて話す際は、いま考えたり感じたりしているようなことがどれも、なぜだかほとんど気にならないのだった。
 なのに、まだ夢のなかにいるひとの腕にあんがいしっかりと抱きしめられて、上半身は身じろぐ程度にしかうごかせない。下半身はどうかといえば、ひじおきへ向かって投げだされた彼女の脚が絶妙にからまり、わたしのそれを背もたれのほうに追いつめているので、これもまたほとんどうごかせない。
 ああ、だけどそんなことは本来、たいした支障にならないはずなのだ。
 手足をいましめられているのでも、押さえつけられているのでもない。這いださせるのはむずかしくないし、どうしてもというなら声をかけて起こす手段だってとれる。むしろ夜に目がさえて眠れなくなってしまう可能性を考えれば、お昼寝もそろそろ切りあげたほうがいいころあいだ。すやすやと気持ちよく眠っているシロナさんも、起こされた理由を聞けば納得するだろう。
 そうとわかっている。
 唇から目をはなせないわけや、いまも断続的にからだをはしる感覚をなんと呼ぶのか、そういうことはなにもわからないままでも、どうすれば解決できるかはわかっていて、かんたんに言葉にできる。
 わかっているのにもかかわらず、どうして実行しないのか。わかっていることを押しのけて、自分への疑問ばかりがつのっていく。
「……ひまですー……」
 ひとりで、きゅうくつで、たいくつだから。
 いっそのこと方向性をかえてそういうことにしようとつぶやいてみたって、言いわけにもならない言いわけをうだうだとならべる矛盾を、ほかでもない自分がいちばんいぶかしんでいる。無意識にひそめた声はまるではなったわたしのものではないみたいな顔をして、昼さがりのリビングにしらじらしく浮きあがるばかりだった。
 ひとつ、またひとつ、逃げ道をみずからふさいでいっている。自覚したとたん、もともと唇に合っていた焦点がますます鮮明になり、手足のそわついた感覚もよけいにひどくなった。
 しまいには末端のみならず、おなかのあたりにまでわだかまりはじめるのをやりすごそうとした拍子、つい抱かれた肩にちからをこめてこわばらせてしまったからなのか、先ごろのひとりごとがとどいたからなのか、シロナさんがかすかに頭をゆらす。ゆれはわたしが呼吸をつめる間にも波紋のように伝播し、規則ただしかった寝息をみだれさせ、彼女の腕を不随意らしいぎこちないうごきで浮かせた。
 最後にアイラインがぴくりと波うち、まぶたが二秒をかけておもたくひらく。まだ夢につま先をひたしている、それでもほとんど現実に立ちかえってきていて、もう向こうがわへはもどっていかないとわかる。そんな芯のある色をたたえた目と、目が合う。
「……おはよ」
 中途半端なところで語尾をとぎれさせたシロナさんが、ひかえめなあくびごと手のひらで唇を隠した。そこが見えなくなったことで、おかしな方面へ発揮されていた集中力もとぎれる。ようやく唇からそらした視線で彼女の瞳の奥をのぞきこみ、例の感覚がすこしずつうすれていくのに安堵しながら口をひらいた。
「……ございます」
「そこだけ言うの?」
「そこまで言いたかったのじゃないかなと思って。かわりに言っておきました」
「なるほど。それはそれはご親切に、どうもありがとうございます」
 わたしも、起きてからそうながい時間を経てはいない。寝おきのざらついた声で言う軽口に、声質も性質もおなじような言葉がかえる。
 そうしていよいよふだんどおりだと気がゆるんだ、肩にのこっていたこわばりを息といっしょにぜんぶ吐きだした、そのときだった。すべての警戒がとぎれるタイミングをはかっていたみたいにシロナさんが頭を浮かせ、吐息をすくいとるようなしぐさで唇を唇へふれさせてきたから、わたしは緊張をほどいたばかりの肩をびくりと跳ねさせ、もう一度かたまらなくてはいけなくなった。
「したかったんじゃないかなと思って。かわりにしておきました」
 ふざけたやりとりの、延長線上のつもりでしかなかったはずだ。クッションに後頭部をあずけなおしてわたしの口ぶりをまねたシロナさんは、けれどそれにしてはわたしの反応がにぶいので妙に思ったんだろう、眠っているあいだは微動だにせずまっすぐだった眉の根をかすかに寄せた。
「……ちがった?」
 その表情のまま首をかしげられ、はっとして硬直から立ちなおるのと同時に、べつの事実を発見してしまう。
 眠っていたり、こちらへ意識を向けていないときのシロナさんの唇に、視線がくぎづけになる。そわそわむずむずと落ちつかない感覚が、全身をはしる。ここ最近なんて漠然としかとらえていなかったけれど、思えば彼女とキスしてからだった。もっと厳密には回数をかさねて、いまみたいにとくべつな雰囲気もなくできるくらい、そうするのにためらいや気おくれがなくなるくらい、恋人とかわすその接触にしたしんでからのことだった。
「ちが、ちがいません。ただちょっと、びっくりして」
「そんなに?」
「そんなに。それはもう」
「やだ、なにそれ」
 どぎまぎとしてたどたどしく言うのを、趣向をかえたたわむれとでも解釈してくれたのか、シロナさんがちいさく吹きだす。
 ちがいません、そう発した文字にうそをこめたつもりもないのに言葉はどこかうつろで、やっぱりよそよそしい。きっとうそはなくても、他意があるせいなんだろう。
 うすれて消えかけるところだった例の感覚があっという間にもどってきて、あいかわらずろくにうごかせない全身を、シロナさんが目をさますまでとかわらないわがもの顔でぐるぐるめぐりだす。これをなんと呼ぶべきなのか、どうしてこんなものが湧きおこるのか。口べたではないはずのわたしはただしい言葉をさがしてさまようのに、頭は道の先へ霧をかけるようにそのこたえを隠してしまう。
 わからない、わからないのが腑に落ちない。でもいちばん釈然としないのは、自分自身に対してだ。
 この状態を、落ちつかない、言いあらわすこともできないもやもやとした感覚を、それでもけっしていやだとは感じていないらしい自分。判明している解決方法を実行もしないまま、漫然と耐え——いや、耐えているわけでさえない。どうやら期待している、うずうずしている、いったいなにをかもつかめないまま待ちのぞんでいる、そういう自分。
「そういえば、なにか話しかけたわよね。ほとんど寝てたから、反応できなかった」
「……ひとりごとだったので」
 ひそめたはずのつぶやきは、結局恋人を夢のふちから連れもどすひとおしになっていたらしい。いまさらどう作用するのでもない事実をたしかめていると、シロナさんは一度まばたきをして、わたしの背中を抱きしめなおした。腕をそこからうごかさないまま、眠気の最後のひとかけらのような、ちいさなあくびをこぼした。
 そうしてのぞくあかい舌へむしょうに視線が吸いよせられて、わたしはこの舌をどうにかしたいのかもしれない、とぼんやり思う。でも具体的にどうしたいのかというこたえを、よく晴れてあかるいこのリビングで考えるのは、なんだかいけないことなのではないか。すじのとおる理屈もとりとめもなく、そんなふうに感じる。たとえ夜のとばりのなかにいても、口に出してはぜったいだめな気がするけれど。
「ふうん。それならいいけど……」
 あいまいにうすれる語尾になにかのきざしをみて、つめた息をほそく逃がした。
 視界がにわかにかげり、もともと見つけられずにいる言葉が、よけいにとおくへ追いやられていく。気になって落ちつかない、それでも不快でない感覚を体内に滞留させたまま、わたしは黙っている。なにも知らない恋人の唇が、唇にふれる。