セイル・アウェイ
そのひととの出会いは最低だった。
いや、なにもそのひとと出会ったことや、そのひと自身が最低だったというのではない。むしろ、短い旅のあいだにそのひとのことをとても好きになったから、もしも叶うならあとほんのすこしばかりでもいい、ましな出会いかたをしたかったと思うのだ。
そのとき私は、それなりに乗りなれているはずの船のうえで、したたかに酔っていた。
それなりに乗りなれているというのが、かえってあだになったのだろう。母が持たせてくれようとした酔いどめ薬をみずからいらないと断っていたから、旅行かばんにしまわれた常備薬のなかにも、そのたぐいの薬はひとつもなかった。
あとから思えば、おそらく家族とはなれてはじめてひとりで船旅をする心ぼそさや、まだ見ぬ旅の目的地への期待、そして同じくらいの不安、そういったいくつかの要因がかさなったゆえのことだ。でも当時の私に、そんなことを分析する余裕があるわけもない。
定期的に足元でうなりをあげるモーターの振動にくたびれきった胃の底をなでられながら、あてがわれた客室へ戻る気力もなく甲板のテーブルにつっぷしていると、ふいに肩のあたりをやさしくたたかれた。
のろのろと顔を横へ向ける。頭をおこすのがつらかったせいなのだが、相手もそれがわかったのだろう。私の視界にはいるよう、腰をかがめてくれる。
そうして私の目に映ったのは、女性というよりはまだ少女のおもかげを残した、私よりいくつか歳上に見えるきれいな女のひとだった。
どこかで会ったことがある。
横むきになった視界のなか、とっさにそう思った。私はどこかでこのひとと会っている。どこでかは思いだせないけれど。
このひともそう感じたから私の肩をたたいたのだろうかと一瞬考えたが、ずっとテーブルへふせていた顔に見おぼえを感じられるはずがないので、その仮説はすぐに打ちけす。
女のひとは眉をさげて、「酔っちゃったのかな。気分がわるいの?」と訊ねてきた。どうやら私の様子が気になって声をかけてくれたらしい。
イエスかノーか、さらにいうなら動作だけで答えられる質問が、こんな体調のときにはとてもありがたい。私はテーブルにほほをこすりつけるようにして、ちいさく二回うなずいた。
彼女もこころえたようにうなずいてかがんでいた姿勢をのばし、片手に持っていた紙コップを私の顔の前に置いてから、小ぶりなハンドバッグのなかを探りはじめる。すぐに目あてのものを見つけたらしく、指先でつまんだなにかを紙コップのかたわらにそっと置いた。
銀色のシートにはいった錠剤。
もう一度腰を低くした女のひとが、「酔いどめだよ」と言った。
「これ、気持ちわるくなってから飲んでも効くの。お水もおいていくから、よかったら飲んでみて。飲めたらがんばって部屋まで戻って、横になったほうがいいよ」
私は眉間に力をいれ、涙がこぼれそうになるのをこらえてうなずいた。もしも暗い海をひとりで漂流しているさなか、とおくに光る灯台の明かりを見つけたら、こんな気分になるのかもしれない。彼女のおだやかな声とやさしさのにじんだ表情が、ひとりぼっちの私をひどく安心させた。
女のひとは私がうなずくのを見てほほえむと、手をのばして背中をゆっくりさすってくれた。最後に「おだいじに」と言いのこして、テーブルからはなれていく。
足音がとおざかって聞こえなくなり、船首が切る波の音だけがひびくなか、私はふだんなら考えられないくらいにゆっくりと時間をかけて、彼女のくれた錠剤に手をのばした。
*
次にそのひとと顔をあわせたのは翌朝、船内のレストランでのことだった。
顔をあわせたというより、もう一度会わなければならないと思い、探して見つけた。もらった薬を飲んで言われたとおり部屋に戻り、だいぶ調子が落ちついてから、いくら体調が悪かったとはいえお礼のひとことも言わなかったことに思いいたって、肝を冷やしたのだ。父がいたらひどく叱られたにちがいないし、それでなくても申しわけのなさに身のちぢむ思いがした。
ビュッフェの前でどれをとろうか悩んでいる様子のそのひとに近づいていき、横から声をかける。
「あの」
こちらを向いたそのひとは最初、声をかけた私と甲板でぐったりしていた私がつながらなかったとみえて、きょとんとしていた。それでも私が「きのうは」と口にしたとたん、昨日の子どもが自分の目の前にいる私だと気づいたらしく、小首をかしげて笑みをうかべた。
「ああ。きのうとぜんぜん顔色がちがうから、わからなかった。よかった、もう元気そうだね」
「もらったお薬のおかげです。ほんとうに、ありがとうございました。でもおねえさん……」
彼女は笑顔のまま「ヒカリ」と名のった。ともすればただの単語ともとらえられるそれを、とくに引っかかりもなく彼女の名前だと認識できたのは、名前にもおぼえがあったからだ。
ヒカリさん。顔を知っていて、名前だって聞けば思いだしたのだから、やはり会って話したことがあるはずだった。
でもふしぎなことに、具体的な会話の記憶はいくら頭のなかを探せど、いっこうに出てこない。こんなひとと一度でも会えば、忘れたくても忘れられないだろうに。
朝の明るさのなかで見るヒカリさんは、あんなにひどい状態の私にもまっさきにその印象をいだかせたように、同性から見てもはっとするほどきれいなひとだった。透きとおるように色の白いちいさな顔のなかに、派手ではないけれどていねいなつくりのパーツが、なにひとつ過不足のない配置でおさまっている。でもどこか人形じみたその顔だちで、おしげもなくにこにこと笑いかけてくれるので、とっつきにくさはちっとも感じない。
「……ヒカリさん。ヒカリさんは私に酔いどめをくれて、だいじょうぶなんですか? 船酔いするから、お薬を持ってたんじゃ」
彼女はふたつまばたきをして、その場では質問には答えなかった。ひとりなんだよね、と確認するように語尾をさげて訊いてくる。私は首を縦に振った。
「じゃあ、よかったらいっしょに朝ごはん食べながら、お話しない?」
「はい!」
願ってもない提案につい、返事をする声のトーンがあがる。昨日はろくに食べられなかったので空腹はたえがたいほどにまでなっていたし、ヒカリさんには酔いどめ薬のこともそうだけれど、ほかにもいろいろ訊ねたいことがあった。なによりも、ちょっとそのあたりでは見かけないようなきれいなひとと腰をすえて話ができる機会に、わかりやすく気持ちが舞いあがっている。
ヒカリさんはビュッフェからそうはなれていないあたりを指さし、それならあそこ、と言った。椅子のうちのひとつの背もたれに、見おぼえのあるハンドバッグが立てかけられている。
「白いかばんがおいてあるの、わかるかな。席をとってるから、あそこで」
「わかりました」
五分後、私はトレイのうえいっぱいにお皿をのせて、彼女のさしたテーブルへ向かった。トレイをおいてから席につこうとしたのだが、座って待っていたヒカリさんが立ちあがり、椅子を引いてくれる。
「ありがとうございます。ちょっとおなかがすいてて。いっぱいとりすぎちゃいました」
「いいえ。きのうはごはん、食べられなかったでしょう? そのぶんしっかり食べないと。ご両親も心配するだろうし」
そういえば彼女は、どうして私が両親とはなれ、ひとりでこの船に乗っていると知っているのだろう。
思ったのが顔に出ていたのか、ヒカリさんは自分の席へ戻って座りながら、こちらを見て口をひらいた。
「わたしもきのう、ミオから船に乗ったんだ。それであなたが……」
こんどは私が名のる番だった。ヒカリさんは「かわいい名前」とほほえんで言葉をつづけた。
「お父さんとお母さんと別れて船に乗るところを、たまたま見てたの。ひとりでなんてえらいなと思って、印象に残ってた。だからデッキでずっと座ってるのを見かけて、心配になっちゃって」
ひとりで船に乗ることをえらいとストレートにほめられて、面はゆいような気もしたが、結局は船酔いして彼女のお世話になってしまっているのだから、なにも言えずに苦笑するしかない。
「ああそうだ。薬のことはね、気にしないで。わたし、船酔いなんてもう何年もしてないの。ただむかしのくせで、ちょっとでも必要かもと思ったらつい、かばんにつめちゃうだけなんだ」
「でもおかげで、助かりました。ほんとうにありがとうございます」
「どういたしまして。いつもかばんがいっぱいになってしまって荷物の整理が大変なのだけど、今回はよかった。そういえばイッシュへは、旅行なのかな?」
どんなに多く見つもっても私より五つ以上年上には見えないヒカリさんの、『むかしのくせ』というのがいつに由来するのかはすこし気になったが、彼女がさらりと話題を変えたので、それ以上訊くのもはばかられる。
私はこうしてひとりでイッシュへ向かう船に乗るにいたった経緯を、できるだけかいつまんで説明した。
家族ぐるみで親しくしていた幼なじみが、五年ほど前にイッシュへ移りすんだこと。幼なじみとは以降ずっと手紙でのやりとりをつづけていたこと。今年は夏休みを利用してイッシュを旅行しがてら、久しぶりに彼女の家へ訪れる話になったこと。両親も行くのだけれど、仕事の都合がつかないのといい経験にもなるというので、ひとまず私だけが先行してあちらへ向かっていること。
ヒカリさんは私の話を、まぶしいものを見るみたいに目をほそめて聞いていた。自分でも恥ずかしくなるくらいたどたどしい語り口で、うまく伝わるか心配だったが、話しおえて彼女のほうを見ると、顔の前で指をあわせて「すごい」と表情をかがやかせている。私は心配が杞憂に終わったのを知った。
「すごいね。それじゃあお友達と、今までずっと文通してたんだ。……すてきだね」
なんだか最後の言葉には、私と幼なじみの手紙のやりとりをそう言ってくれている、額面どおりの意味以上に、どこかヒカリさん自身の思いいれがこもっているように聞こえた。でも、その正体がなんなのかはわからない。もしかするとそもそも、聞きまちがいだったのかもしれない。
そこにはふれないまま、「ヒカリさんも旅行ですか?」と問いかえすと、ヒカリさんはゆるやかに首を横へ振った。
「生態調査をしにいくの」
「調査……ですか?」
「そう、ポケモンのね。わたし、研究者のはしくれのような、まあそんなことをやってて」
「ええっ?」
「もう。たしかに白衣は着てないけど。そんなに見えないかなあ」
おおきな声を出す私に、ヒカリさんはあきらかに冗談めかした口調で、ちいさく唇をとがらせる。けれど、おそらくヒカリさんがとらえているのと実際の私の驚きとでは、意味あいがちがっていた。
研究者という言葉からつい私が連想してしまう、厳格そうとか硬質そうといった雰囲気を、目の前にいるきれいなひとはすこしもただよわせていない。それに年齢だって、若すぎるくらいに若い。ひとくちに研究者と言っても、いろんなタイプのひとがいるのだなあ。私が感じたのは、そういう驚嘆だった。
「ご、ごめんなさい」
「いいよ、ごめんね、冗談だよ。実際まだまだ見ならいだもの、わたし。はあ、わたしにも博士くらい威厳があればな」
「はかせ」
「うん、博士。上司というか……なんと呼んだらいいのか」
きっとヒカリさんの言う『博士』こそが、私が研究者という言葉から思いうかべるような、いかめしく厳正そうな雰囲気を持ったひとなんだろう。そんなひとを上司と呼べばいいのかわかりかねている彼女が、ちょっとお茶目でかわいらしくて、私はくすりと笑う。
「むかしからお世話になってるひとだから。もちろん尊敬はしているけど、上司、っていう感じでもないんだ」
また、むかしの話だった。
威厳のある博士とむかしからかかわりがあって、必要そうなものをかばんにつめるのがくせになるくらい、しょっちゅう、あるいは長いあいだ、旅に出ていたヒカリさん。
きれいでつかみどころのない、ふしぎなひとだ。
そう思ったのとどうつながったのかわからないけれど、もうひとつ訊きたかったことを思いだす。
名前を呼ぶと、ヒカリさんは顔をちょっとかたむけてこちらを見た。そうするのも、くせなのかもしれなかった。
「私、ヒカリさんとどこかで会って話したこと、あるような気がするんです。でもどこでなのか、いつだったのか思いだせなくて。ヒカリさん、なにかおぼえてませんか?」
「会って、話したこと」
ヒカリさんは私の言葉をぽつりとくりかえし、私の目をじっと見ながらしばらく黙っていた。
やがて目線をななめしたに向けて、指で唇をなぞった。
「……ううん、ないと思うな。わたし、ひとの顔もポケモンの顔も、おぼえるのは得意なの。一度でも会って、お話までしていたら、たぶん忘れないよ」
*
それからの船内での日々、ヒカリさんとは顔をあわせればともに時間をすごした。
待ちあわせて四六時中いっしょにいたわけではない。彼女はあくまでも仕事で船に乗っているからだろう、部屋でレポートを書いたり調べものをする時間をきちんととっていた。そのあたりのきまじめさはさすが研究者というところだ。
食事どきに彼女がレストランにすがたを見せないこともあり、そんなときはさすがに気になって、あとからどうしたのか訊いてみると、「ちょっと集中してて、ごはんの時間を忘れちゃった」とはにかんだ表情を見せるのがおかしかった。やさしくてきれいでしっかりした、非の打ちどころのないひと。そんな印象に、かわいらしいひと、というもうひとつが加わるのにさほど時間はかからなかった。
そうして旅の行程もなかほどまできたある日、めずらしく甲板のテーブルでなにかの作業にいそしんでいるヒカリさんの背中を見つけて近よってみると、彼女は布とスプレーを使い、モンスターボールをつけて持ちあるくためのベルトの手入れをしていた。
「こんにちは。ヒカリさん、それ、ヒカリさんのなんですよね?」
「わあ。びっくりした。こんにちは。……うん、わたしのだよ」
ヒカリさんはいつもののんびりとした調子で、それでもたしかに驚いているようだったが、声をかけて彼女の手元をのぞきこんだ私も私で驚いていた。研究者のはしくれだと名のるひとの持ちものにしては、ベルトは年季がはいって使いこまれている。フィールドワークのおともかペットとしてポケモンを連れあるく、そんな程度でしか使われていないようには、とうてい見えない。
ということは、つまり、だ。
「トレーナーさんだったんですね、ヒカリさん」
「いちおうね」
私自身はトレーナーではないし、家族にもトレーナーはいない。ポケモンバトルとのかかわりといったら、たまに野良バトルを遠まきにながめるか、そうでなければテレビでジム戦やリーグ戦の中継を観るくらいのものだ。
そんな私だってもちろん、トレーナー業とほかの仕事を両立しているひとが、世間にたくさんいることは知っている。きっと研究員兼トレーナーというひとだって、いないことはないだろう。
けれど問題はそこではない。なんというか、のんびりとやさしいヒカリさんが、そうしたトレーナーたちのように闘争心を持ってバトルにのぞむ場面を、私はちっとも想像できなかった。
見た目でひとを判断してはいけない。両親はよく私にそう言って聞かせたし、学校でもそうおそわっている。さらにはヒカリさんとはじめてきちんと話したときすでに、彼女が研究者に見えないと失礼な反応をしてしまっているのに、あやうくまた同じことをしてしまうところだった。
でも彼女を見て、研究者あるいはトレーナーだとあたりをつけられるひとが、いったいどれくらいいるのだろうというのは、ちょっと疑問だ。
やっぱり、ふしぎなひとだ、と思う。
ヒカリさんは手を止め、自分の向かいの椅子を手のひらでしめした。
「座ろうよ。見ていても、つまらないかもしれないけど」
「つまらなくなんてないです! トレーナーさんのベルト、ちゃんと見るのはじめてで」
ヒカリさんはそうなの、と小首をかしげる。
「まわりにトレーナーをやってるひと、いないんだ?」
私は椅子を引いて座りながら答えた。
「うーん、あんまり……あ、まわりというか」
「というか」
「その、イッシュにいる幼なじみは。バトルをしてるって、手紙で言ってました」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ポケモンを見せてもらうのも楽しみだね」
はい、という自分の声がきちんとそういうふうに聞こえているかどうか、すこし不安だった。
私は船がイッシュにつくのを——イッシュについてあの子に会うのを、ただ楽しみにしている。
そのはずだと、自分に言いきかせる。
*
明朝早いうちに、船がイッシュに到着する。船内アナウンスをうけて、先におろしてもらうおおきな荷物をまとめて出してしまってから、私は甲板の柵にもたれて、ぼうっと夜空をながめていた。
長いようで短かったこの船旅が、ようやく終わる、とは思わない。もう終わってしまうのか、と感じている。
はじめはどうなることかと思ったけれど、終わりに近づいてみればこうしてどこかさみしさをおぼえているのだから、やはりいい旅だったのだ。ヒカリさんとも出会えて、気のせいでなければ仲よくもなれて、あの子にもいいみやげ話ができた。
ようやく会えるあの子。その名前と顔を思いうかべると、胸のあたりにすこしだけ、重たいものがうずく。
空から視線をおろし、暗くぼやけている船の舳先、そのさらに先を見つめた。明日の朝には、あの向こうに港が見えてくる。あの子が家族をともなって迎えにきてくれることになっている、ヒウンシティの港が。
会ったら、まずなんと言おうか。どんな顔をしようか。
旅のあいだ、かばんにいれてきたあの子との手紙を読みかえしながら、何度もそれを考えた。けれど結局今日、さらには今夜にいたっても、答えは出ていない。
こうしているさなかにも、船は少しずつイッシュへ近づいているのに。そう考えると胸のなかの重たいものがよけいにひろがるようで、私は柵にかけた腕に顔をうずめて目をとじた。
その肩に、とんとんとかるくふれる感触がある。
なんだかおぼえのあるシチュエーションだと思いながら顔をあげる。案の定ヒカリさんがそこに立っていて、こんばんは、と私にほほえみかけた。
よかった、と言う声が自然と口からこぼれる。今日は荷物をまとめるのにいそがしくしていたせいですれちがったのか、一度も顔をあわせなかったのだ。このひとと、最後に話もできないまま別れてしまいたくはなかった。
「よかった?」
「最後にちゃんとあいさつ、したかったんです。きょうは会えなかったし。あしたも、私のほうが先におりちゃうから」
「よく知ってるね。なんだか、こういう船にずいぶん乗りなれてるみたい。荷物をちゃんと出したかどうか気になっていたのだけど、ぜんぜん心配、いらなかったね」
「旅行で何度か、乗ったことあるんです。イッシュにいくのは、はじめてなんですけど」
「そのときも、船酔いした?」
「いえ。だから大丈夫なんだろうと思って、酔いどめも用意してなくて。ヒカリさん、あのときはほんとうに、ありがとうございました」
ヒカリさんは笑みを深めて、ちいさくうなずいた。
「最初にも言ったけど、たまたま持っててよかった。……きっとご両親とはなれたり、お友達に会うのが楽しみだったりで、いつもと勝手がちがったんだね」
「そうですね。私、は……」
言葉につまってしたを向く。ヒカリさんは黙って、つづく言葉を待っている。
「……楽しみかどうか、よくわからないんです」
言ってしまった。
ヒカリさんはきっかり五秒後、あいかわらずやさしいけれどいつもよりすこしだけ平坦な口調で、「どうして?」と言った。
ほんとうに、告げるつもりではなかったのだ。いろんなことへのお礼をして、ただよい旅をと伝えて、別れたかった。
けれど一度口にしてしまって、もう取りけすこともできない。私とあの子の手紙のやりとりを目をかがやかせてすてきだと言ってくれたこのひとに、今度はこんなことを聞かせるのだと思ったら、旅の初日、今と同じこの場所で彼女と出会う前の心ぼそい気持ちが思いだされて、なんだかたまらなくなってしまう。
「……もうずっと、会ってない。いっしょにいたとき、どんなことをどんなふうに話していたのか、どうやって仲よくしていたのか、思いだせません」
「会えばきっと、大丈夫だよ」
「私が会いたいと思うほど、あの子が私に会いたいと思っているかどうかも」
「あのね」
はじめて出会った翌朝からうすうす気づいていて、この数日のあいだに確信したことだが、ヒカリさんは相手の話を決してさえぎらないひとだった。私の話がどんなにおぼつかなくても、おだやかに相づちをうちながら最後まで聞いてくれていた。
そのヒカリさんが言葉の途中で声を出したので、驚いて顔をあげる。
「……生態調査でイッシュにいくんだって言ったの、半分くらい、うそなんだ」
「うそ、ですか?」
「半分はほんとう。もう半分は……」
ヒカリさんは柵に手を置き、夜の闇のなかに沈んで見えない水平線のほうへ顔を向けた。
「……大事なひとに、会いにいくの」
大事なひと、そして会いにいくという言いまわしから、私はなんとなく恋人や好きなひとを連想したけれど、それにしてはなにか妙だとも思った。
ヒカリさんが前を向いて、表情が見えなくなったせいもあるのかもしれない。彼女の言いかたからは、『大事なひと』に会えるというのに、嬉しさや幸せといった甘い感情を感じとれなかった。
「あなたとお友達ほど、長いあいだはなれてたわけじゃないけどね。そもそも自分では、はなれていても平気だと思ってた」
「じゃあ、どうして?」
「まわりから見たら、ちっともふだんどおりじゃなかったみたい。知らないうちにみんなに心配をかけてしまっていて。最後には例の博士が、もう見ていられないからイッシュにいきなさいって言ってくれたの」
もっとやさしい言いかただったけど、そう言って笑う気配があった。
「だから今、イッシュに向かってる。でもこうして会いにいくのが、もしかするとあのひとにとって迷惑なのかもしれないと思ったら、すこし怖い」
「そんなはずは……」
こんなにすてきなヒカリさんが大事だと語るひとが、ヒカリさんのことを迷惑だと思うようなひとであるわけがない。
そう言いつのりかけて、はっと言葉を飲みこむ。
「そんなはずないって、思ってくれる? わたしも今、同じことを思ってるよ。おそろいだね」
私が幼なじみに会うのを不安に思っているように、ヒカリさんも不安なのだ。
だからといってたまたま同じ港から乗りあわせただけの子どもに、心のなかのやわらかい部分までさらす必要はないはずだった。でも彼女はそうしてくれた。おこがましい考えだとは思うけれど、私の不安をやわらげようという、ただそれだけのために。
ごめんなさいと謝るのもなんだかちがう気がして、ありがとうございます、と口にする。
ヒカリさんはこちらに顔を向けると、「おたがい、ここだけのひみつにしよう」と言って唇にひとさし指をそえた。
夜の暗がりのなか、そのいたずらっぽい表情に、今よりも幼い顔をしたヒカリさんのイメージがかさなる。やはり私たちは彼女が私くらいの年だったころ、どこかで出会っているはずだった。
これで最後だ。最後だから訊いてしまいたい。
「ヒカリさん」
「うん」
「やっぱりどうしてもヒカリさんと会ったこと、ある気がして。でも、なんで思いだせないんだろう」
ヒカリさんは首をかしげかけてからすぐにはっとしたような表情になり、顔の前でぽんと手をあわせた。
「ねえ、もしかして」
「わかったんですか?」
「わたし、お友達と似てるんじゃないかな?」
予想外の言葉に私が目を丸くしたのを、ヒカリさんはそれだ、と記憶がよみがえった表情として受けとったらしい。
「やっぱりそう。きっとむかし、いっしょにいたころのお友達の顔とわたしの顔がまざってるんだよ。わたしも気になってたから、最後にすっきりできてよかった」
「……そう、かも。そうでした」
ヒカリさんはとても楽しそうに、よかった、としきりにくりかえした。その様子のあまりのかわいらしさに、私はつい、ほんとうのことを言いそびれる。幼なじみは、記憶にあるかぎりでも手紙に同封してあった近影を見た所感でも、ちっともヒカリさんには似ていないことを。
けれどもう、そんなこともたいして重要ではない気がした。私はできるだけ明るい表情に見えますようにと祈りながら、彼女に向けて笑いかける。
「あらためて、ありがとうございました。お薬のことも、今のことも。それだけじゃなくて、もっとたくさん」
「こちらこそ」
「私はなにも……」
「そんなことないよ。わたし、あなたがいてくれて、今の話をできたのがあなたで、よかったと思ってる」
ヒカリさんは最後にもう一度ほほえんで、それじゃあそろそろおやすみなさい、と言った。おやすみなさいとかえしたら、部屋へ戻ろうと振りかえりかける横顔にこれ以上なにかを言うのも野暮だと思えたので、つづきは心のなかでつぶやくにとどめた。
——どうか、よい旅を。
*
まわりを見まわそうとしたところで白い船体が陽の光を照りかえして、思わず目をつむる。雲ひとつない空のした、港に陽をさえぎるものはなにもない。
私の部屋があった区画は思いのほか下船の順番が先のほうになり、あの子にあらかじめ手紙で伝えておいた下船予定時刻よりも、いくらか早く港におりたつことになってしまった。
とはいえたいしたずれでもなく、そのうえまわりにはシンオウやカントーからの乗船客と、それをむかえる家族や友人と思しきひとたちがまだたくさんいて、聞きなじみのある言葉しか耳にはいってこない。言葉のわからないイッシュのひとびとにかこまれていたのならちがったかもしれないが、いまのところ待つのは苦になりそうもなかった。
ヒカリさんはもう、船をおりただろうか。
ふと気になって、こりずに船のほうへ顔を向けようとしたところで、目の前を見おぼえのある女性が通りすぎる。その顔と名前を認識した瞬間、息が止まるかと思った。
そのひとはまぎれもなく、テレビで何度も見たことのある、シンオウリーグのチャンピオンだった。
今はリーグのシーズンオフだったはずだから、それを利用してこちらへ来ていたのだろう。そんな予想はついても、まさかはるばるやってきたイッシュで故郷でも一、二をあらそう有名人とすれちがうなんて、夢にも思わない。
ここにいるということは、シンオウからやってくるだれかをむかえにきたのだろうか。
まだどきどきと高なっている心臓の音が、周囲に聞こえはしないだろうかと心配しながら、人ごみのすきまを縫って歩いていくチャンピオンのすらりとした背中を、なんとなく目で追う。
彼女は迷いのない足どりでどんどん船のほうへ近づいていき、やがて足を止めた。なにかをじっと見つめているけれど、その視線の先はちょうどひとの陰に隠れて見えない。
視点を変えてまでのぞきみるのは下世話だと思い、それ以上見るのをあきらめようとしたところで、となりにいた青年の背に肩があたり、一歩前へ押しだされた。
背中になにかがあたったのに気づいたらしい青年が振りかえり、ごめんね、と謝ってくれる。こちらもまわりを見ていなかったのだから、謝られるようなことでもない。そう思って、同じ言葉をかえそうとした。
「ごめん、なさい……」
そのさなか、つい五秒前までひとの陰に隠れて見えなかった、チャンピオンの視線の先にあるものがあらわになって、今度こそ私に息をつめさせる。
ヒカリさんだった。
私もおりてきた渡船橋の出口のすぐそば、チャンピオンのほうに背を向け、船旅の荷物をつめたキャリーバッグに寄りかかることなくまっすぐな姿勢で、ヒカリさんがそこに立っていた。
ヒカリさんの背中を見つめるチャンピオンと、それに気づいていないヒカリさんを同時に視界におさめたその瞬間、急に目のおおいをとかれたように、私の頭のなかにいくつもの答えがふってくる。
まず、ヒカリさんと私が顔をあわせたのはこの船旅がはじめてだった。
出会っていたのではなく、私が一方的に彼女を見ていたのだ。数年前テレビのなかで、あざやかにリーグを勝ちあがってチャンピオンにも勝利した、彼女のすがたを。
それから、彼女の『大事なひと』はチャンピオンそのひとであり、彼女の背を見つめる表情を見れば、チャンピオンもやはり、彼女のことをきちんと——
そこまで考えたところで、チャンピオンがヒカリさんのほうへ向かって足を踏みだす。
けれど私が、その先を見ることはなかった。
おおきな声で名前を呼ばれて、振りかえる。
日にやけた顔をくしゃくしゃにしたあの子が、人ごみをかきわけてこちらへ駆けよってくる。その肩ごし、もっとうしろに、なつかしいおじさんとおばさんの顔がのぞいている。
なにを言おうか、どんな顔をして会おうか考えていて、結局答えは出なかった。
でも、そんな考えは必要なかったのだと、今になってようやくわかる。
会えば大丈夫だと言ったヒカリさんはきっと、私にこういうことを伝えたかったのだ。もしかすると、自分にも言いきかせるようにして。
ヒカリさんがあのひとと、同じように再会できればいい。いや、できているだろう。そう確信めいたものを持ちながら、私に向かって飛びこんできた幼なじみの体を抱きしめかえして、私もその名前を呼んだ。