瑠璃色の朝
雨はいよいよ勢力を増していた。
オーシャンビューの別荘、そんな謳い文句にも、台風で目の前の海が荒れる日は心ときめかない。ただの台風ならフタバにいたころにも経験しているけれど、まさにいま体感している海沿いの土地で迎えるそれとは、比べるべくもなかった。
まるで拳で殴りつけてくるような雨風の音を聞いていると、ガラス窓どころか別荘自体の耐久性が心配になってくるほどだ。明日の朝起きたら、建物ごとさらわれて空を飛んでいるんじゃないだろうか。
むかし見たコメディ・アニメのごとく、目覚めた次の瞬間地上へまっさかさまに墜落、という世にも恐ろしい空想に身ぶるいしていると、シロナさんが優しく肩を抱いてくれた。
「海沿いだとすごいわね、でもだいじょうぶ。あたしがついてるから、安心して」
背中から落ちついた声が降りてくると、ほんとうに安心できるのが不思議だ。
わたしはほっとして、彼女の腕のなかでいつの間にか眠りに身をゆだねていた。
*
それで台風一過のすがすがしい翌朝、目を覚ますとわたしの横はもぬけのからになっていた。
ぽやんと寝ぼけた頭で、きっと目覚めのコーヒーでも飲みにいったんだろうと見当をつけ、なんとはなしで寝室の床に目をやったら妙なものを見つけた。
シロナさんのパジャマだ。それも下だけ。脱いでそのまま、文字通り脱ぎすててある。
ちょっとだらしないだけともいえる光景に引っかかったのは、シロナさんはたしかにずぼらなところのあるひとだけれど、わたしの別荘ではわりかしきちんとした生活態度をしているためだった。少なくとも寝間着を脱ぎちらかすなんて、今までしたことがない。
リノリウムの床にはだしで降りると、夜中に冷房をきかせているせいか、ひんやりした感触が足の裏に伝わった。そのまま扉(開いていた)まで近寄り、わたしは首だけで廊下を覗きこんだ。
思わずあっと声が出る。
点々と。そう表すしかない状態で、寝間着が脱ぎすててあったのだ。
パジャマの上に、Tシャツに、着圧ソックスが左右ひとつずつ。
なにか胸さわぎを感じずにはいられなくて、落ちているものをかき集めてリビングへと急いだ。今日に限って寝間着をたたむのを忘れたのだと思いたかった。
「うそ、いない……」
たどり着いたキッチンでコーヒーメーカーはつんと静まり、水切りには洗いたてのマグカップもない。シロナさんがここにいた痕跡はなにも見あたらない。
わたしの脳裏を不吉な想像がよぎる――昨晩の吹き荒れる風がサッシの隙間から忍びこみ、シロナさんを絡めとって去っていってしまった?
もちろんそんなこと、あるわけがないのはわかっていた。でも寝間着の散らばりかたと持ち主が忽然と姿を消した事実のなんともいえない不気味さに、ぞくりとしてしまう。
暗いリビングでしばらく立ちつくしていると、カーテンの向こう側で日差しがだんだん明るくなってきた。それに気づくと、せめて朝でよかったと思えた。同じ状況で時間が夜だったら、どれほど心細かったことだろう。
ひとまず探しに行かなくては。
わたしはパジャマのまま外へ出た。
結論からいえば、シロナさんは間をおかず見つかったのだった。
別荘の玄関ポーチからはビーチに向かって石畳の道がのびている。防風林はあるけれど、景観を損なわないためにか海を完全には隠さないように植えられているので、外に出るとすぐ海が視界に入る。そうして見えた遠浅の浜辺に、金色の後ろ姿が揺れているのがぼんやりわかった。
台風が蹂躙していったなんてうそみたいになめらかな白い砂浜を、サンダルでふらふらと歩みよる。シロナさんは波打ち際にしゃがみこんでいた。しかし輪郭がはっきりしてくるにつれ、わたしの頭を占めたのは探しびとが見つかった安堵よりも違和感だった。
彼女はタンクトップとスウェット生地のショートパンツを着ているきりだ。いくら周りに住む人もなく、半分プライベートビーチのようになっている砂浜とはいえ、ちょっと気軽すぎると思う。そしてただ海を見ているだけなのかと思ったらそれも違った。どこから持ちだしたのか傍らにはバケツがあり、片手にシャベルが握られている。熊手ではないので潮干狩りともいえない。
いったいなにをしているんだろう。
声をかけようとしたら、その前に足音で気づいたらしいシロナさんがふり返り、わたしの姿にきょとんとした顔をした。
「ヒカリちゃん? どうしたの、その格好」
「シロナさんには言われたくないよ」
「えー、そう?」
シロナさんは思いもよらないことを言われたみたいに自分の体を見わたしたが、特に気にならないようだった。顔を上げて「改めまして、おはよう」とにっこり笑う。
むくれたふりをしていたわたしは、あいさつの平和さに毒気を抜かれて脱力した。おはようという言葉はすべての暗いものを吹きとばすのだ。
「おはよう。……なにをしてたの?」
「ビーチコーミング。浜辺に漂着したものを観察したり、集めたりする遊びのことね」
シロナさんはもっと近くに来るよう手招きし、距離をつめたわたしにバケツを示した。ブリキ製のバケツの中はなにかのかけらやサンゴらしきもので埋めつくされて、たまに色つきのガラスがきらきら光を振りまいている。海をおもちゃ箱につめこんだみたいだった。
「これなんかは、アルフにあるのと同じ紋様に見えるなぁ。土器と陶器じゃ時代が違うけど、考証の余地はあるかも」
そう言いながら大きめの陶器をひとつつまみあげて、まじまじと見つめた。遊びとはいえ、けっこう本気で楽しんでいるのが表情からうかがえる。わたしはさざ波の音にもかき消されずよく通る彼女の声を聞きつつ、話が読めたと思っていた。
「海洋学をやってる知り合いに教えてもらったの。よっぽどいいものを探したいなら海が荒れた次の日、それも浅ーい浜なら最高って。ヒカリちゃんのとこなんかぴったりねって思ってたのを、けさ起きたら思いだした」
「それで、いてもたってもいられず」
「浜辺に出たのです」
「パジャマを置いたまま、ね」
「……あっ。やだいけない、忘れてた。ほんとはヒカリちゃんが起きるまでに戻って片づけるつもりだったのに、ついつい熱中しちゃって、それで――」
シロナさんは陶器をバケツの中に戻し、言葉の途中で前髪をかきあげた。あらわになった額にはうっすら汗がにじんでいて、熱中していたという台詞に真実味をそえる。
「ごめんね、怒ってる?」
あんまり神妙に言うので、彼女がパジャマを片づけなかったことに、わたしがよっぽど気分を害したと思われているらしいことがわかり、ちょっとおかしくなってしまった。苦笑しながら首を横に振る。
「昨日はあんなに雨も風もすごくて、それで起きたらシロナさんがいないでしょ。ばかみたいだけど、台風に連れていかれたのかと思っちゃった」
「どこに?」
「さあ。どこか遠くに。だってあの脱ぎかた、ひどかったもの」
「ごめんね、心細かったでしょう」
「……うん」
わたしが頷くと、シロナさんはなぜかごそごそと探しものをしはじめた。
「よかったら、お詫びにどうぞ」
うやうやしく手のひらにのせて差しだされたのは、いくつかの二枚貝だった。レモンイエローの、瑠璃色の、桜みたいにやわらかい桃色がふちどっているの。それ以外にも色や柄はさまざまだけれど、どれも開いていてハート型に見えるのは同じだ。
「かわいい」
貝を受けとり思ったままを端的につぶやくと、彼女はぱっと笑顔になり「でしょう?」と誇らしげな顔をした。
「条件のいいときには、こういうきれいな、南のほうの貝もたくさん流れてくるって聞いたから、見せてあげたかったんだ。……むしろ、心配かけちゃったみたいだけど」
その口ぶりに、シロナさんはもともとこの貝を探すつもりで浜辺へ出たのではないか、という考えに思いいたる。ちょっと都合のいい推測かもしれないけれど、あながち間違いではないような気もした。
「シロナさん、これを探してたの? さっきの陶器とか、めずらしいものを探しにきたんじゃあなかったの」
「割れたり汚れたりしてない貝を探すうちに、掘り出しものはたくさんあったわね。でも資料になるようなものは、ビーチコーミングじゃなくても見つけられるわ」
早朝、着ていたものをひとつひとつ脱ぎすてながら、貝を探すため海へ走るシロナさん。昨夜から今朝にかけてわたしがしたいくつかの想像のなかで、それは一番現実的で、一番やさしい。
わたしはちょっと瞬間的に胸がいっぱいになってしまって、訊かれたことにきちんと答えはしたものの、質問の意図がわからず不安そうな顔をしているシロナさんに「ありがとう。うれしい」と伝えるのが精いっぱいだった。
このひとは、わたしを喜ばせたり安心させるすべを無意識のうちにたくさん知っていて、惜しげもなく与えてくれるのだ。たとえば荒れ狂う嵐の夜、そっと肩を抱いてくれるみたいに。
「大事にするね」
貝の背のざらざらしたひだを指の腹に感じる。いろんな想いをこめてわたしは言った。
「うん」とシロナさんがほほえんだ。