ロマンチック・イミテーション
ねえ、ここでよかったの。
覇気なくそう問いかける自分の声がキッチンにひびく。
ヒカリちゃんはコーヒーカップの中身をティースプーンでかきまぜながらちらりとこちらを振りかえり、「はい、そこでお願いします」とかえしたきり、目もあわせないままシンクのほうへ向きなおった。予想の範疇になかった反応に一瞬虚をつかれてから、質問のしかたとタイミングをまちがえたのだと悟った。
ひとまず後ろ手にカップボードの把手を引き、迂闊にも片方の手でつかんだままだったインスタントコーヒーの瓶を、それひとつぶんだけあいている空間へともどす。扉をとじて息をつき、もうすこし言葉をつけたして質問をくりかえそうとしたところで、瓶を片づけたことに対してと思しい感謝の言葉を肩ごしにつげられてしまい、いきおいをそがれてだまりこんだ。
いやにできすぎた流れだ。まるで、彼女があたしの訊ねたい内容を察して意図的に話をそらそうとでもしているかのような。そんな考えをもてあそびながら、あたしに出してくれるコーヒーをつくりおえ、自分で飲む紅茶の用意へ手ぎわよくとりかかる少女の背中を見た。
気はすすまない。それでもどのみち折を見てふれざるをえない内容ではあったし、その折を先おくりにすればするほど、よけいに自分の首をしめるだけなのも重々承知している。決する意があるわけでもなかったが、こんどこそ言葉の意図が彼女にとどくよう、意識してはっきりと声を発した。
「ごめんなさい。コーヒーのことじゃなくて」
一拍の間をはさみ、ティーポットを調理台の天板において振りむいたヒカリちゃんは、先ほどとうってかわってまっすぐにあたしの目を見あげてきた。年齢のわりに大人びたおもざしのうえをもの憂げな表情がはしり、しかし視線がまじわるまでの一秒にもみたないあいだに、群青色の瞳の奥へかくれて見えなくなる。この数か月、最後のあたりで何度も目にしたように。
「なんて言ったかしら。ええと。ほら、今日の」
「……もしかしてさよならデート、ですか?」
「そう、それ」
さよならデート。
内実にそぐわない、なんとなく気のぬけるひびきだ。はじめて聞いた際におぼえた感想は、ふたたび聞いてみてもまったくかわらなかった。
恋人たちが未練を清算してきれいに別れるために思い出の場所でする、最後のデート。そう説明した本人よりはジムリーダーの女性陣あたりのほうがよほど好み、口の端にのぼらせて盛りあがりそうな話題だった。きっと彼女がどこかで能動的に仕入れてきたわけではなく、世間話をするような場にいあわせた際、小耳にはさみでもしたのだろう。
情報の出どころに興味はわかない。単語そのものさえ、すっかり頭から抜けおちていた。しかしたとえそうであっても、今あたしたちがそれにのぞんでいる事実がゆらぐわけではなかった。『恋人たちが未練を清算してきれいに別れるために思い出の場所でする、最後のデート』なんていうものに。
「最後なんでしょう。なにもここじゃなくても、いっておきたかったところ、もっとほかにあったんじゃないかと思って」
こんどこそ目をあわせながら言うと、少女はまじわったばかりの視線を足元へそらしてうつむいた。なにかを言いかけるようにうすくひらいた唇のすきまから、声とは呼べない、音にさえならないかすかな吐息だけがこぼれる。前髪の濃い影が落ちた顔のなかで、下唇がかるくかみしめられるのが見えた。
こんな日にいたって、彼女を困らせたかったわけではない。ただこんな日だからこそ、どう思われたうえでも知りたくはあった。あたしたちの関係をしめくくる場所として、この別荘がふさわしかったのかどうか。
できるなら彼女がこの数か月にわたって声にせず飲みくだし、消化してしまっていた言葉の中身も、いつからか浮かべるようになった、顔を向けると押しかくされてしまう重くるしい表情のわけも、すべて知りたかったと思う。ほかでもない彼女の口からはっきりと聞けたなら、それらがたとえあたしに傷をのこすたぐいのものであったとしても、おそらく満足できただろう。
けれど、そこまでを望むのは筋ちがいというものだ。
キッチンカウンター越しにのぞくダイニングのほうへ視線をながし、あらためて考える。やはりさよならデートなんて言葉は内実にそぐわない。たしかに気のぬける言葉ではあるけれど、言葉のもつ感触が、恋人たちを待つ別れにそぐわないのではない。ただ彼女とあたしに、そんな言葉がそぐわないだけの話だ。
清算すべき未練も、そのうえでむかえるきれいな別れも、ひとつも存在するはずがなかった。
そもそも恋人でもなんでもないあたしたちのあいだに。
*
すこしのあいだでいいんです。夢を見させてもらえませんか。
別荘をあとにするあたしを見おくるために立ったエントランスポーチで、ヒカリちゃんは顔をうつむけてそう言った。言葉のさすところを飲みこんだあたしは、彼女から視線をそらして数秒だまりこみ、すこしのあいだでいいなら、とこたえた。
たった数か月前のできごとを脳裏にえがきだすこころみは、そうしようとするたびに彼女の張りつめた声と、体の芯に氷を刺しこまれたような感覚ばかりを反芻して終わる。直前までの文脈、どんな天気だったのか。そのやりとりのあと、なにか言葉をかわしてわかれたのだったか。たしかにすごしたはずのあの一日から、ごくかぎられた場面以外のいっさいの記憶がそぎおとされていた。
彼女への気持ちから、決して目をそむけていたわけではない。まぎれもなくそこに存在しているのも、どんな名前があたえられるのかも知っていた。ただ芽ばえたときからずっと、めったにひらかない引きだしのさらにその奥にしまっておくような、ぶあつい布でおおってかたちをあいまいにするような、そんな抱えかたをしていただけだ。そのせいかあたしは彼女と接するうちにときおり、自分がこの少女に恋と呼ぶべき感情をいだいていると、はじめて自覚するような新鮮な感覚で思いだすことがあった。
叶う展望はない。そもそも伝えるつもりもない。けれどそれを悲観もせず、自宅で書きものをしながらひとりすごす夜、ペンを指先でまわしてもてあそびながらぼんやりと夢想する——その程度にしかかまいたてず、無気力にたずさえていただけの感情が、あの瞬間あたしの横面を張りにきたのだと思った。ほかでもない彼女から、だれかのかわりを求められるというかたちで。
それでも、だれかれかまわずこんなことを頼む少女でないのはよくわかっていたし、もし表面だけをなぞるなら、願ってもない提案といってよかった。彼女に夢を見せるというのは、実体のないうつろなものであっても、乱暴に言いかえれば相手のちがう恋の代替品や練習台にすぎなくとも、結局のところ恋人のようにふるまうということだ。ただ抱えて生きていくつもりでいた、やがて風化していくだけだったはずの恋。それが叶ったとわずかなあいだでも錯覚できるなら、僥倖なのではないか。
彼女の前で立ちつくしてだまりこんだ数秒間、そんな考えをめぐらせていた。そうして、すこしのあいだだけでいいなら、とこたえた。
薬もすぎれば毒になるというけれど、きっと幸せもおなじなのだろう。その点、彼女が言った『すこしだけ』の期間はあたしにとっていかにも都合がよく、過不足がなかった。こんなことを頼まれる程度、それなりに勝ちえていたらしい信頼にのぼせてすぎた期待をもってしまう前に、甘い錯覚におぼれて現実を忘れてしまう前に、きちんと身を引こうとするなら。
請けあったことを現実にするにはそもそも時間の余裕もなく、あたしはその日から間をおかず、何度か彼女を連れだした。ほんとうの恋人たちがふたりきりで訪れるような場所を、ほんとうの恋人たちのような距離感で肩を寄せあいながら歩いた。もともと自分の感情をさておくなら、彼女とは気をゆるせる友人として接していたつもりだ。甘い言葉をささやくことはなくとも、周囲の恋人たちから浮かない程度の談笑は、友人同士の会話の延長線上にあるようなもので、苦にはならなかった。
ただひとつ、まがりなりにも恋をしている相手とデートのまねごとをしながら、わずかにも感情がうごかなかったのだけを、まるでひとごとのように意外だと感じた。かりそめの関係にやがてくる終わりを思って落ちこむでも、憂慮をすべて忘れ、危惧していたようにずるずると幸福にひたって引きかえせなくなるでもなく、彼女とのあたらしい日々は浮きも沈みもせず平坦に、ひたすらに凪いでいた。あの日とりだした恋のかわりに、それをくるんでいたほかのものをすべて引きだしの奥へしまってきたかのように。
短くも長くも感じられる時間がすぎゆくあいだ、周囲の恋人たちがそうしているように、指や腕をからめてみようかと考えたこともある。けれど実際にとなりを歩く彼女へ手を差しだしかけた瞬間、そうすればまがいものの関係なりに真にせまって見えるのではないか、と想像したのとはべつの部分から、彼女はいつか代替品でも練習台でもない相手とそうするのだ、とささやく自分の声が聞こえ、思わずうごきがにぶった。
ちかづきはしても、決してゼロにはならない。彼女がつねにたもってかたわらを歩くその距離が、この関係にふさわしい距離だ。あとすこしのすきまを埋めるのは、いつか彼女の前にあらわれるほんもののだれかであるべきだ。自分の声に、はたと気がつかされた。
気がついて手を止めようとしたところで、距離はすきま程度にしかひらいていない。いきおいをころしきれないまま自分の腕をかすめたあたしの指先へ、彼女はなにをそこまでと言いたくなるような速度で視線を向けた。一瞬の凝視のあと、呆然とした顔であたしを見あげ、なにかを言おうとするように息を吸った少女へ、あたしはつとめてかるい口調で「ごめんなさい」とつげた。笑いかけさえした。どうか平然としているように、意図をもってではなく、偶発的に手がふれてしまっただけのように見えていてほしいと祈りながら。
彼女も唇を引きむすび、表情をきりかえてほほえみかえしてきた。行動の意図を心えた、すくなくとも、表むきにはそう見えた。
今になってみればそれを境に、彼女はくだんの憂鬱そうな表情をのぞかせはじめたようにも思う。なにかを言いかけて一音も発さずにやめる、そんなことも増えた。あのとき言わなかった言葉がからだの奥にわだかまって彼女をむしばんでいくように見えた。
あたしが気がついたあの瞬間、ときをおなじくして、彼女も気がついたのかもしれない。
あたしたちは手をつながない。ほんとうのことも言いあわない。どんなに精巧に見せかけたところで結局にせものでしかない、いつかさめる夢がほんもののかわりになることは、決してない。
すこし経ってから、はっきりとすりあわせたことのなかった、終わりの日について切りだされた。さよならデートというものがあると語り、意味をかんたんに説明してみせた彼女は、あの日を最後に一度も訪れていなかった別荘でそれをしたいと言った。ことわる理由もその意志もない。あたしはうなずき、今日こうして、別荘へ足を運んでいる。
今日で終わる、数か月間にわたってつづいた恋人ごっことでも呼ぶべき日々のなかに、はたしてわずかであれ彼女の求めたものに沿えた瞬間があったのだろうか。
かえりみても、こたえはわからない。けれど今になってみて思うのだ。ほんとうは彼女についてわかっていたことなんて、ただの一度だってなかったのかもしれないと。
*
べつにどこだっていいか。変なこと訊いちゃったわね。
ヒカリちゃんに向きなおり、そう言って笑ってみせる。そのままコーヒーを手にとるため足を踏みだすと、彼女はうつむいたままかすかに肩をふるわせ、立ち位置を一歩横へずらした。
天板へちかづいてソーサーのはしに指をかけ、湯気をたてるカップの、黒々とした液面へ視線を落とす。この別荘で彼女が淹れてくれるコーヒーを飲むのも、これが最後になる。そう考えたら、彼女につげた建前をひるがえしてでも言っておきたいことがひとつだけ頭をよぎって、衝動的に「あたしは」と主語をおいていた。
「最後にここにこられて、よかったと思ってるけど」
ヒカリちゃんが、よかった、とちいさな声でつぶやく。返答でも相づちでもなく、ただあたしの言葉にとまどってくりかえしているだけなのは、抑揚のない口調を聞けば顔を見ずとも察せられた。
あたしたちの恋人ごっこは最初から最後まで不毛なまま、この場所を訪れる最後の日も、ただ無為にとおりすぎていこうとしている。彼女が最後の場所をここに指定したのも、最後の日にまでひと目を気にして恋人のふりをするのが億劫だった、あるいはもっと単純に、出かけるのが面倒に思えて自分の家ですませたくなっただけで、ふかい理由はないのかもしれない。そんなことをあたしには言えないからこうして口ごもっていると考えれば、つじつまもあう。
けれどたとえ彼女にとってこの場所がどうであれ、あたしにとっては彼女とすごした記憶の背景に、見まがいようもないほど映りこむ場所だった。最後のデートの場所に選ぶほどの思い出なんて、ここにはない。どこだっていい。あたしがそんなふうにとらえていると、彼女にそう思われるのだけはたえがたかった。
いつだったか、雲ひとつなくよく晴れた日にテラスの椅子へ腰かけて、別荘の前の砂浜でおたがいの相棒たちが羽をのばすのを横目に見ながら、飲みものにたっぷりいれた氷が溶けきるまで、今ではもう要旨を忘れてしまったなにかの議論に熱中した。夕立に降られて濡れそぼったあたしを、たまたま在宅だった彼女が目をまるくしてむかえてくれたこともある。彼女の購入したグランドピアノが納品されてくる日には配送のトラックをいっしょに待ったし、先ほど片づけたインスタントコーヒーの瓶は、ふだんはコーヒーばかり飲んでいるとなにげなく話したら、次に訪れた際、カップボードの中身にくわわっていたものだった。
彼女が自分では飲まない、飲めないはずのコーヒーを用意してくれたと知ったとき、あたしはなんと言ったのだったか。思いだせないけれど、きっと手間をかけたと謝りはせず、ありがとうとでも伝えたにちがいない。ずっととは言わないまでも、まだしばらくのあいだはここを訪れるのだと、このたわいもないおだやかな日々がまだしばらくのあいだはつづくのだと、無意識のうちに信じて。
ひとつ思いかえすたびに、凪いだ日々のなかで忘れかけていたつよい感情が、胸のうちで水かさを増していく。放っておけばほんとうのことが堰をきって出て、存在するはずのない、それでも彼女がそうしたいと望んだ『きれいな別れ』に水をさしてしまいそうだった。
数か月間の恋人ごっこが今日で最後だというばかりでなく、今日が終わればもうここを訪れないつもりでいる。彼女とも、もう偶然以外で会うことはないだろうと思っている。だから真綿で首をしめられていくようだった日々からも、今日をもって完全に解放されるのだ。そう考えようとしても、あの日以来はじめて足を踏みいれたこの家のあちこちに降りつもったままの、ふせたまぶたのうらであざやかに明滅するような記憶たちが、それをよろこぶべきなのかどうかをあたしに見うしなわせた。
「コーヒー、ありがとう。先にいただくわ」
彼女の言葉を待たずにそっけなく言い、カップごとソーサーを持ってキッチンを出る。よけいなことを口にするくらいなら、なげやりに言いすてて会話を切るほうがよほどましに感じられた。
ひらきかかっている引きだしをとじてしまわなければならない。きちんと、一分のすきもなく。
手はふるえていなかった。ただ自然と早足になる歩調にこぼれそうなほどゆれうごくコーヒーの液面にだけ、感情のなごりのようなものがのぞいている。そしてそれも、すぐにかききえて見えなくなるだろう。
ダイニングをとおり、ピアノのかたわらをすりぬけ、リビングのソファの前へたどりつく。ソーサーをローテーブルにおいてソファへどさりと腰をおろすと、キッチンのほうから足音が聞こえた。
ためらうように踏みだし、わずかに速度をはやめ、小走りにこちらへやってくる家主の足音へ、あたしは顔を向けるべきか迷って、結局やめた。足音が肘おきのすぐ手前で止まっても、まるでそれがどこかとおい場所のできごとであるかのように、ローテーブルの天板でひるがえる外からの光に視線を落としていた。
だから彼女の声も、耳の外側に張ったうすい膜のうえをすべっていくように聞こえて、反応が一拍おくれた。
「わたしもここでよかったって、思ってます」
「……そうなの」
「……ううん。ここでいい、じゃなくて。わたし、これからもここで暮らしていくから。だから最後に、ここでの思い出がほしいのです。ここじゃなきゃ、だめなのです」
あの日ヒカリちゃんの前でそうしたように沈黙する。今回は考えこんだせいではなく、彼女がなにを言おうとしているのかをとらえかねたせいで。
「かたちにのこるものは、もらえませんけど。これくらいなら、いいですよね」
あの日のように張りつめてはいない、ずっと飲みこんでいたなかで何度もくりかえし練習したようになめらかな口調だった。あたしがなにも言わずに彼女から目をそらしているのだけが、あの日とおなじだった。
問いかえすべきことは理解しているのに、それとはべつの言葉が唇から飛びだしたがっている。
それでは。その言いかたでは、まるできみがあたしのことを好きみたいに聞こえる、と。
彼女はどんな表情で、あたしに夢を見せてほしいと頼んだのだったか。すこしのあいだならとこたえたあたしに、どんな顔を向けたのだったか。あの日見なかったもののかわりに、今このときの彼女を焼きつけておかなければならない気がして、ようやくそちらを見る。
あたしたちは手をつながない。ほんとうのことも言いあわない。ずっとそうしてきた。にせものばかりの関係のなか、たったひとつだけたしかにあるほんとうのことを今さら伝えようとしても、やりかたが思いだせない。眉尻をさげて今にも泣きだしそうな笑顔でそこに立っている少女に、いったいなにを言えばいいのかわからずに、あたしは息さえ止めてだまりこむ。