クワイエット・モーニング

 またやってしまった。
 覚醒した頭にそう思いうかべるほうがはやかったのか、ナイトテーブルでデジタル時計の無機質なアラームが鳴るほうがはやかったのかわからなかった。ただとなりでゆっくり身を起こして時計に手をのばす気配に、わたしはおもたいまぶたを持ちあげるせいいっぱいの努力をし、あえなく失敗して目をとじたまま、さまようようにおぼつかないうごきでそちらを向こうとする。
 けれど、アラームがとまっておとずれたしずかな暗闇のなかで寝がえりを打ちかけた肩も、まとうもののないそこをやさしくついた指先にはばまれて、結局放物線の頂点までたどりつくことはない。眠っているあいだに文字どおりひと肌のぬくもりをおびたシーツのうえに押しもどされ、もぞもぞとその温度に甘んじながら、わたしが目をさましたのにおそらく相手も気がついている、と思う。そうでもなければ、こういうことをするひとではないから。
 推測のこたえあわせをするように、笑ったらしい吐息といっしょにぬるい唇が降ってくる。まつげの生えぎわへふれたそれが音もなくはなれていくのと同時に、やっとの思いでまぶたを持ちあげた。
 寝室をみたす清潔な朝の空気のなかに見るシロナさんは、きっとわたしがまだ目をとじているうちからそういう顔をしていたんだろう、花の香りをふくむ春先のやわらかい風や、晴れた日の午後に地面でひるがえる光を頬に受けるときみたいな、ひどくやさしい表情でわたしを見おろしていた。
 彼女を見かえすわたしの顔も、彼女からおなじように見えているといい。そんな気持ちでそのまなざしを受けとめるのに、それはあまりにも無粋に思えたので、からだの底からのぼってきて顔を出そうとする咳ばらいは、むりやり喉の奥へ飲みくだす。そうしてそのまま、身についた習慣というのはやっぱりどうしてもうごかしがたいものだ、とあきれまじりに自身をかえりみた。
 ここを生活の場とするようになってもう何年も経つ。その何年ものうちに、口に出してなんと呼ぶのかはともかく、わたしのなかでこの場所への認識そのものはあらためられている。『別荘』から、帰るべき『家』へと。
 それなのにフタバの家で母と暮らした十余年でしみついたものは、いまだにちっともうすれる気配をみせない。冬がくるたび、セントラルヒーティングが供給してくれる二十四時間とぎれることのないあたたかさ、そのなかでぬくぬくと息をするすごしかたが、あたりまえのような顔をしてわたしのもとに舞いもどってくる。そうしてそのかわりに、この家でのおもな暖房器具であるエアコンをつけたり消したりする行動は、頭からきれいに押しだされてしまうのだった。
 ハードマウンテンを擁するこの島の気候が、いくらシンオウの本土ほどきびしくないからといって、もちろん暖房器具をまったくつかわずに底冷えする冬の夜を越すことなどできない。だから眠る前にエアコンを作動させ、寝室をあたためはする。
 そこまではするのだけれど、問題はその先なのだ。つまりそれを消したり、とくに冷える予報が出ているとき、朝にほどよいあたたかさを残しつつ停止するようタイマーを設定したりする、そういうことをわたしは何年経っても、つい忘れてしまう。
 自分に根づいた習慣がまだ消えさっていないのを再確認するのは、おおむねいまのように、朝になって目をさますときだった。というよりひと晩うごきっぱなしだったエアコンの風があたたかさと同時にもたらす、ささくれだっていたいくらいの喉のかわきが、目をさました瞬間のわたしにいやでもそれを思いださせ、またやってしまった、と思わせる。
 彼女は喉をいためてしまっていないだろうか。わたしみたいに——いや、これくらいのものならまだしも。
 ふと気にかかったそんなことをたしかめようとするけれど、その前にもう一度落とされた唇が唇にふたをする。きっと寝ぼけまなこでむりやりなにか言おうとしているように見えたから、それをとどめてくれようとしたのだろう。案の定彼女は、なおも口をひらこうとするわたしの鼻先でほほえみ、どうやら喉にいたみや違和感はおぼえていないのだと判断できる声で「まだ寝てられるでしょ」とささやいた。
 そう。彼女の言うとおり、まだ眠っていられる。いましがたのアラームは仕事へ出かける彼女のために昨晩設定されたものであって、休日のわたしに目をさますべき時間をおしえるためのものではなかった。
 それを意識したとたん、口に出すまでもなく刈りとられたちいさな心配のかわりに、訊きたいことがひとつ、あらたに芽を出す。
 つまり、まだ眠っていられるわたしはともかくとして。仕事へ行くためにアラームをセットした、それも万が一にも遅刻しないよう万全のインターバルをもって、自宅で目をさます朝よりもだいぶはやい時刻にそうしたはずのあなたが。昨夜。
 その先を言葉にしようとして、なめらかなシーツのうえで急にすわりのわるい心地になる。わたしが発言をあきらめたと判断したのかあらためて起きあがり、顔の前にかかった髪を手ぐしで背中へ流しているシロナさんから目をそらして、視線をしたに向けた。自分のからだが視界にはいる。ひと晩じゅう稼働していたエアコンのおかげであたたまり、起きぬけだというのにやけに血色がいい。その一方で、こちらは当然わかっていたことだし、だからこそ血色がいいともわかるのだけれど、ほとんどなにも着ていない。
 こうなるにいたった経緯を連想しかけてよりいっそういたたまれなくなったところで、先ほど飲みこんでしまったせいで発散されなかった喉の違和感が、ふいにもどってくる。握った手を口元にあててひとつ咳をすると、できるだけおさえた音にそれでも気づいたらしいシロナさんが、まばたきとともにわたしを見やった。
 こちらをうかがう目に心配そうな色がのぞいたので、目の色そのままのなにごとかを言われるのに先んじて、言おうとする。だいじょうぶですとかなんでもないですとか、そんなたぐいのことを。
 だってほんとうにだいじょうぶだし、なんでもなかった。
 着ていたものを脱いだり脱がされたりしたあとでそのまま眠ってしまって、おまけにエアコンも消しわすれていたのだから、喉がはりつくようにかわくのもそれを振りはらおうとして咳がせりあがってくるのも、どちらも単なる生理的な、必然的な反応だ。
 そう、言おうとする。
 しかしそんな内心とも実情とも裏腹に、ろくな咳ばらいもしないまま今朝はじめて声を出そうとするわたしの口からは、ほとんど聞きとれないくらいにかすれて声なんてとうてい呼べない、自分の予想をうわまわってぎょっとしてしまうような音しかこぼれない。
 やってしまった。
 起きた瞬間に浮かべたものとおなじ言葉が、もうすこし切迫した感情をともなって脳裏をよぎり、思わず手のひらで口をおおうわたしの前で、シロナさんは早朝のたよりない明るさのもとでも見まがいようがないくらい、はっきりと顔色をかえた。
「やだ、風邪、ひいて」
「……っ」
「……だめ。むりしなくていいから、しゃべらないで」
 なにもよくない。
 とんでもない誤解が生まれかけている。
 風邪はひいていないしむりもしていないからだいじょうぶです、と伝えようとすればするほど焦りがうわすべりし、しまいにはむせかえるようにはげしく咳こんでしまう。これではまるでほんとうに風邪をひいているみたいだと思いながら、もちろん自分の意思ではとめようもなく、肩にそえられた手にうながされるままからだを起こす。
 ゆっくりと背中をさすられると、それがいいのかわるいのかはともかく、咳はしやすくなった。肌のうえをすべりおりていこうとする布団を片手でおさえつつ、ひとしきり喉を鳴らしてどうにか落ちつき、ようやくきちんと話ができると思ったところで、こんどはシロナさんがベッドをごそごそとさぐりはじめる。
 掛け布団のはしから、見る間にわたしのネルシャツとカーディガンが引きだされた。彼女は昨日よりもいくぶんくたびれたようすで発掘された二着をわたしの肩に羽織らせて立ちあがり、「ちょっと待ってて」とまぶたにひとつキスをする。わたしになにか言わせたり手ぶりで引きとめたりさせるだけのすきを与えないまま、足早にベッドのそばをはなれて部屋を出ていってしまう。
 はっとして手をのばす先でいったんとじかけた寝室のドアは、室内の空気にやわらかくはねかえされてうまくしまりきらず、もうすがたの見えないシロナさんの手によってふたたびつよく押された。そうしてこんどこそとじた扉のたてるぱたんという音は、そのどこか気がぬけるような温和さにもかかわらず、彼女の足音がとおざかっていく廊下と部屋の内側とを、単に室内と室外であるという以上の意味でへだてるように、無情にひびいた。
 これは、もしかして。まずいことになってしまった、のではないか。
 呆然としながら、布団に落ちた手を胸元へ持ちあげてネルシャツの前をかきあわせ、指にふれるボタンをとりあえずひとつだけとめる。ちいさな咳が、いままで喉の奥に取りのこされて出る機会をうかがっていたみたいに、ひとつだけころがりでた。

 服を着てあとを追うべきか、言われたとおり待っているべきかとためらうあいだに、シロナさんはささやかな足音と甘いにおいをつれてもどってくる。
 後ろ手にドアをとじる彼女のもう片方の手には、マグカップと平皿が器用なかたちで引っかかっていて、そうして寝室に持ちこまれナイトテーブルに置かれたふたつそれぞれが、甘いにおいの正体をわたしにおしえた。マグカップからはホットココアの湯気が立ちのぼり、平皿には彼女がここに泊まるとき、いつも朝食用にふたりぶんを買ってくるお気にいりのベーグルが、水平に切ってチーズやクリームをサンドするのではなく、食べやすそうなおおきさに切りわけられて並んでいる。
 ベッドサイドで甘く香る、体調に配慮されたあたたかな朝ごはん。行儀はよくないものの平和な光景で、おまけにどうやらベーグルにはわたしがこよなく愛するキャラメル味もふくまれているようだったけれど、それがかえって、生じた誤解がなにも解消されていないままなのを強調する。
 どんな反応をしたものかよくわからず、とまどって彼女を見た視線がどう映ったのか、ベッドのふちに突っ伏したシロナさんは腕をのばし、指の背でそっとわたしの頬をなでた。息をぜんぶ吐きつくすくらいふかいため息のおわりに、「ごめんね」と言う。
「服を着せてから寝なくちゃいけなかった。ほんとに、ごめん……」
 何度も言うように——と思いかけて、結局一度も言えていないのを思いだす。
 服を着ないで眠ったことが今朝の声の出しづらさの一因を担っている、それはたぶん、みとめざるを得ない。けれどその責任の所在はわたしにあるのであって、彼女があやまらなければいけないような理由はひとつもないこと、根本的な原因がひと晩エアコンをつけたままにしたわたしにあること、そのふたつもまたあきらかだ。
 そしてそもそも喉から風邪をひいたときの、あの水分を飲みこむのさえつらい感覚をおぼえていないわたしは、ほんのひととき声を出しづらかっただけの健康体であること。それもまたあきらかだった。
 さっきからそう伝えたいのに、いまも言おうとするのに、ちょうどそのときシロナさんは、持ち手をこちらに向けてマグカップを差しだす。わたしは「いれたてだから気をつけて」と言う彼女の指先からそれを受けとり、口をつけた。うたがっていたわけではないけれどマグカップになみなみとみちる液体はほんとうに、予想された以上に熱くて、味よりもはやく舌がざらついていくのを感じる。
 思わずはなした唇からほそく息を吹きかけたところで、ココアの甘さがようやく熱に追いつき、しみわたって喉をひらく。その速度の性急さや焦燥とは縁とおいおだやかさは、わたしに似たようなものをつぎつぎと思いださせた。たとえば起きぬけに肩をシーツのうえへ押しもどしたシロナさんの指や、目をあけたときにこちらを見おろしていた表情の、やさしい手ざわりを。
 連想はしだいに時間をさかのぼり、やがてドレープカーテンに指ですきまをつくって窓外をうかがうようにそっと、数時間前まで寝室にたゆたっていた夜のくらがりへ分けいる。からめた指やそらした首すじを伝った、どちらのものか判別できない汗のなまぬるさや、翌朝こんなことになるとも知らずに眠る前、最後にかわしたキスなんかの記憶を順になぞると、この朝の甘い香りのなかにするりともどってくる。
 昨夜、せまる肩を押しもどそうとのばしたわたしの指先から、かるい音とともにふれた唇だけで意思をうしなわせたそのひとはいま、ベッドサイドから沈痛な面もちでわたしを見あげていた。見つめかえすついでにナイトテーブルとそのうえに載ったものへ視線をはしらせると、すこしだけ余裕が生まれるのがわかった。
 間隔をあけてなんくちかココアを飲んだのを見はからい、こんどは平皿のベーグルが差しだされる。そろそろほんとうに話をしたくて、まだ口のなかに残っているココアを飲みくだしながら、すこし待ってほしいという意思表示のつもりで首を振る。そんなしぐさをシロナさんはまた、おそらくはあらぬ方向へ誤解して、眉のしたにいっそう深刻な影をつくった。
 声を出すための息を吸うのと同時に、彼女が「うう」とうめく。言葉のつづきそうな気配に、またもやしゃべりはじめるタイミングを見うしなうけれど、生まれたばかりの余裕がわたしに状況を静観させた。平皿がナイトテーブルに置かれるのを見て、あとできちんと食べよう、と思えたし、立ちあがって腰をまげた彼女に抱きしめられても、ココアをこぼさないように腕をそらしてマグカップをとおざけるのを忘れずにすんだ。
 何度目かの、たましいまで吐きつくすみたいにふかいため息。髪といっしょになって鎖骨あたりをくすぐるそれのおわりに、彼女はやっぱり「ごめんね」と言う。
「まだ間にあうのよね」
 ひとりごとだ。そうわかったから、前髪をかきあげてつづける声を聞きながらもう一度、ナイトテーブルに目をやった。「休もうかしら。電話して……」
 デジタル時計が液晶にしめす時刻は、昨日のシロナさんがとったインターバルがまだたっぷり残っていることをおしえ、わたしのなかに生まれたあいまいな余裕をたしかなものへとつくりかえる。
 宙に浮かせたままの腕が、もうそろそろ自然な姿勢になりたいと切にうったえていた。とりあえずシーツのうえでもいいかとおろしかけたマグカップをシロナさんが受けとって、すっかりものがふえて密度のたかくなったナイトテーブルのうえへ置いてくれる。
 目もあけないわたしが起きていること、堪え性のないわたしの腕が限界にちかづいたこと、ひそめた咳だってひろいあげるのに、彼女はわたしが風邪なんてひいていないことにだけ、どうしても気がつかない。
 ——電話して。お休みする理由は、なんて言うのですか。
 ——さんざん抱きあったあと服も着ないで寝た恋人が風邪をひいてしまったので、とか?
 そんなことを言うわけがないと知っているから、自分の想像がよけいにおかしい。わたしの肩を抱きしめなおすシロナさんから見えない角度へ、ついと顔をそむける。
 昨夜はわたしをいいようにしたくせに、今朝はキャラメル味のベーグルを切りわけ、持ち手をこちらに向けていれたての熱いココアを差しだし、ひとつも自分のせいではないことを悲痛な顔であやまってくる。そんなこのひとがちぐはぐでおかしくて、まぎれもなくやさしくて、ばかなことを考えて笑うために顔をそむけでもしないと泣いてしまいそうなくらい、あまりにもいとおしかった。
 彼女がリーグに休みの電話をいれにいこうと決めてしまうか、そうでなければ身じたくが完全に間にあわなくなるデッドラインを越えてしまうか。
 マグカップの影からのぞくデジタル時計の液晶を見つめて、ひとつだけとまったネルシャツのボタンの残りをとめてくれるシロナさんの背中を抱きしめかえしながら、それまでもうすこしだけこのやさしい、しずかな朝のなかにいたい、とわたしは思う。