プリズム

 よかった。やっぱり冗談だった。
 シロナさんのあとについて入ったリビングで、行儀がよくないとは思いつつあたりに視線を走らせ、心の中でつぶやく。
 広いリビングには物こそ多く、具体的にはぶ厚い本がそこかしこの戸棚にみっしりとつまっているものの、それ以上の印象をいだかせる空間ではなかった。すくなくとも足の踏み場もないだとか本の山が崩れそうになっているだとか、そういった惨状は見うけられない。
 振りかえったシロナさんからソファに座るようすすめられ、断る理由もないのでうなずくと、シロナさんはわたしが手土産に渡した焼き菓子の箱を顔の横で軽くゆすってみせ、「これに合わせて紅茶にするわね」とキッチンへ向かった。
 家主の言葉に甘えて腰をおろしたコーナーソファの一辺はほどよい固さで、座る位置をすこし深くしてみても体が沈みこみすぎることはない。なのにふしぎと据わりが悪く、肩身のせまい心地がしてくる。
 もちろんソファのせいではない。それどころかなんの、あるいは誰のせいでも。
 ほんとうはよくわかっている。ここへ来たのも室内を見わたして安心しているのも、また身の置きどころのない気分になっていることまでふくめて、すべてがわたしの勝手な都合から来た当然の帰結にすぎないことを。そして据わりの悪さの正体が打算と罪悪感と——それらでも塗りつぶせない嬉しさとが混ざりあったものだということも。
 いよいよ目のやりどころに困って視線を落とせば、足の上で握りこんだ指先に、無意識に力がこもって白くなっている。
 そのままぼんやりと自分のひざあたりを見つめているうちに、ふとなにかが明滅しながら視界を横ぎった。反射的にまぶたがおりようとするのをどうにかこらえ、光の走りぬけていった方向へ顔を向ける。
 ベランダに出る掃き出し窓のカーテンレールに、丸く曲げた木の枠にひもを張りめぐらせた、網のようなオーナメントが吊るされていた。見ているあいだにも開いた窓から吹きこむ風でオーナメントが回転し、枠から垂れた羽やレースがゆれるのと同時に、先ほどの光がもう一度きらめく。ひもの描く幾何学模様の中心で、しずく型にカットされたガラスが光を乱反射させているのだった。
 この家のリビングにあるそれを、という意味でなく、そういったものを、という意味で、オーナメントには見おぼえがあった。たしかきちんとした名前もあったはずだが、記憶の底に沈んで出てこない。
 持ち主に訊ねればわかるだろう。そう思って座ったまま上半身をひねると、ちょうどバスケットトレイを持ったシロナさんがこちらへやってくるところだった。
 シロナさんはローテーブルに焼き菓子を盛った器とシュガーポット、ミルクピッチャーを置いて、いったんキッチンへと引きかえしていく。すぐにまた戻ってくると、今度はソーサーにのせたティーカップをわたしの前に置き、自分はトレイを持ったままソファのもう一辺に座った。
「ありがとうございます」
「お持たせで悪いけど」
「いいえ、おいしそうだと思ってこれにしたので。自分でも食べられるならうれしいです」
 シロナさんはにこりと笑ってバスケットトレイから自分のぶんのティーカップを取りだし、トレイを背もたれに立てかけた。
 手にしたソーサーと上にのったティーカップは、わたしの手前に置かれたそれらとまたことなる意匠だ。色ちがいやシリーズちがいといったようでもない。彼女が気にいっているセットなのだろうか。
 わたしの視線に気がついたらしいシロナさんが、自分の手もとに目を落とす。
「これね。この家にひとを呼ぶの、はじめてだし、お客さん用のティーカップなんて揃えてなくて。家じゅうひっくり返して、ようやくカップとソーサーがセットになってるのをふたつだけ見つけたんだけど、どうかな」
「これもかわいいけど、そっちもかわいい」
「そう? それならよかった」
 言いながら手の動きでミルクと砂糖をしめされたので、いただきますとひとこと添えて手をのばす。ミルクをそそいで砂糖をふたつ落とし、なめらかな飴色に変化した液面でティースプーンをまわしているうちに、オーナメントのガラスがふたたび室内に光を走らせた。
 そういえば、あれの名前を思いだせずにいたのだ。
 彼女に訊ねようとしていたのを思いだして口を開きかけたタイミングだった。もちろんそんなことを知るよしもない彼女が、どこかふくむもののある笑顔で「それで」とつぶやいた。
「——オーバくんはあたしの部屋のこと、なんて言ってたの?」

 *

 ほとんど与太話のようなものだったが、耳にしたのだ。いわく、チャンピオンの家は誰も立ちいることのできないシンオウ唯一の未踏の地だと。
 もちろん口さがない冗談だと考えはした。だって未踏の地なんていう仰々しいものが、雪の吹きすさぶテンガン山の頂上でもなく、そのお膝元の迷路じみた洞窟の奥でもなく、ひとりの女性が住む家だなんて。そんなことがあるものか。
 そう、思いはした。
 けれど、そんな話をわたしに語って聞かせたオーバさんの語り口があまりにも巧みで、ほんのすこし、つま先程度だけ、もしかしたらほんとうのことを言っているのではないかとも、思わされてしまった。
 いや。思わされただなんて言いかたでは、あまりに責任転嫁がすぎるというものだ。
 わたしはオーバさんの話を聞いてからずっと、ひとりで半信半疑だった。ありえるような、ありえないような。単に誰も招かれたことがないというだけではなく、ひとの立ちいれる環境ではないからこそ未踏の地なのだ、とでも言いたげだったかれの口ぶり。でもまさか、そんな場所で暮らす女性はいないだろう。なにより、他でもないシロナさんが。でも。けれど。
 ぐるぐると堂々巡りの自問自答をくりかえしたすえ、行きついたのが『本人に直接確認する』という身もふたもない手段だ。
 リーグで行きあったシロナさんに、近況報告をかねた世間話もそこそこに「シロナさんのおうちには誰もはいれないってほんとうですか」と訊ねると、彼女は前髪からのぞく片目を丸くした。
「どういうこと? なんの話?」
「ええと。ちょっと、そんな話を小耳にはさんだというか」
「……ふうん?」
 あきらかに当惑した表情で首をかしげられ、いたたまれない気持ちになる。聞いた話に修飾を加えてはいないとはいえ、そもそもの大元が本人にそのまま伝えるのをためらうような与太話だ。あまり踏みこまれてしまうとごまかしようもない。
 つい廊下の柱の根元へ向けて顔をそらすと、シロナさんが低く短い声を漏らした。ふむ、あるいはううん、と聞きとれたそれを、わたしはなにかを検討する際の声として解釈する。
 視線を戻すと、シロナさんは組んだ腕の片方を顔に当て、やはり考えこんでいる様子だった。
 ごめんなさいやっぱりなんでもありません、と口にのぼらせかけたところで、しばらく押しだまっていた彼女が、ぽんと軽い音を立てて手のひらを合わせる。
「なんでそんなことが噂になるんだかわからないけど。べつに誰もはいれないなんてこと、ないわよ」
「そう、なんですか」
「うん。なんだったら、遊びに来る?」

 *

 つまりシロナさんは最初から、わたしがそんな話を持ちだした理由を察していたわけだ。
「……ぜんぶ、ばれちゃってたんですね」
 観念してため息まじりにそう言うと、彼女は歯を見せていかにも楽しげに笑った。一方わたしはといえば言葉にしたとおりで、とても笑えるような心境ではない。
「ぜんぶとまでは、言えないかなあ。おおよそ見当はつくけど、オーバくんが何を言ってたか、細かいところまではわからないし」
 ミルクピッチャーとシュガーポットを手前に引きよせながら続ける。
「でも、まずそんな話をヒカリちゃんの耳に入れられる相手って時点で、候補はだいぶしぼられるでしょ。その中でさらにあたりをつけるとしたら、まあオーバくんくらいしかいないわよね」
「もうちょっとうまく、訊ければよかったです」
「あはは。たしかにヒカリちゃんにしては、へたな訊きかただったかもね。そんなにあたしの部屋が気になった? それなら実際に来てみて、どう?」
 さらりと問われて、答えにつまった。
 安心。据わりの悪さ。打算と罪悪感と、喜び。この部屋に来て感じたものたちが、走馬灯のように脳裏を駆けていく。
「……オーバさんの言ってたこと、やっぱり冗談だったって」
「へえ?」
「なんてことない、って言いかたもおかしいですけど、きれいなお部屋ですよね」
「そっか。そう見えたなら、必死で大掃除したかいがあったってものね」
「え」
 意外な言葉に、思わず目を見ひらいた。
「言ったでしょう? ひとを呼ぶの、はじめてなの。本と資料でいっぱいで、呼べるような部屋じゃあなかったから。片づけは苦手中の苦手だけど、きみが来るからちょっとがんばっちゃった」
 シロナさんは紅茶に息を吹きかけながらおだやかにほほえんだが、わたしは先ほどとまたちがう理由でとても笑えそうになかった。目や耳から忍びこんできたあたたかいものに、体中をぐずぐずに溶かされていくようで。ありていに言えば、胸がいっぱいになってしまったのだった。
 シロナさんのことが好きだ。
 それはポケモンたちや母や博士に向ける感情と同じ名前だけれど、同じものではない。キスがしたいような意味で、わたしはシロナさんのことが好きだ。そう思う。
 旅のあいだからずっとあたためつづけた感情を、彼女は知らない。けれど知らないままでいいとも思っている。
 彼女がわたしの別荘にふらりと立ちよったり、ともすればこうして家に招いてもらえたりする現状の関係だけで、それなりに満たされている。それに、彼女がたまにこうして思ってもみないような言葉をくれるたび、すっかり特別あつかいしてもらえている気分になって、これ以上を望もうとする心の声を都合よく忘れてしまうのだ。
 答えずにいるのも不自然な気がして、うわついた気持ちを引きもどし、紅茶に口をつけるふりをしながらむりやり言葉をしぼりだす。
「……ふだんからきれいにしていそうな感じに見えるので、苦手って言われても、あまりぴんとこないような」
「それはそれでなんだか複雑だなあ。ほんとうにがんばったのよ。ふだんのままだったら、たぶんオーバくんがヒカリちゃんに言ったとおりの状態だからね」
 まさか、『シンオウ唯一の未踏の地』が?
 冗談を言われているものと思ってようやく出そうになった笑いが、視野のはしに映った彼女の表情を認識したとたんにすう、と引いた。
 シロナさんは笑っていなかった。
 つめたさとも言いがたいなにか硬質なものをたたえて、おそらくはわたしの横顔を、観察していた。
 観察としか表現しようがなかった。まるでまばたきするあいださえも惜しんで、一挙手一投足を注意ぶかくとらえようとするかのようなそれを。
 けれどわからない。そんなふうに見つめられる心あたりなど誓ってないし、一連の会話にも、こうまでわたしの反応をうかがうような重みはなかったと感じた。
 わからないものと正面から向きあう勇気がなくて、つい逃げてしまう。
「そういえばシロナさん、あれって」
 あくまでも彼女の視線に気づいていないふうをよそおい、つとめて平然とした声をあげる。窓のほうを向くと、シロナさんがつられるように顔を動かすのが横目に見えた。
「あれ?」
「あれです、あそこについてる飾り。なんて言うんでしたっけ。見たことはあるのに、名前が出てこなくて」
「……ああ、あれ。ドリームキャッチャーよ。イッシュの伝統的なお守り。本来はもっとシンプルで、しかもベッドサイドなんかに吊るすものなんだけど。あれはレプリカだし、レースとかガラスがついてたりしてちょっと装飾的だから、リビングの飾りにしてるの」
「そうだ、ドリームキャッチャーでした。かわいいけど、お守りだなんて知らなかったです」
 うまく会話をつなげられているだろうか。
 意を決してシロナさんの顔を見ると、先ほどの表情は消えていた。彼女はなにもなかったかのごとくにこやかに、嬉々とした様子でドリームキャッチャーについて語りはじめる。
「あの網の目がね、悪い夢をせき止めて、いい夢だけをとおすんですって。だから現地では寝室に……」
 どこか心ここにあらずで相づちをうつ。
 今度はわたしがひそかに彼女を観察する番だったが、結局あの表情がふたたびあらわれることはなかった。
 ドリームキャッチャーが風でひるがえり、あるいはゆれて、プリズムが室内に七色の光をまきちらすごとに、だんだん自分が見たものが現実だったのかどうかわからなくなっていく。
 一瞬たりとも同じ色を見せない光に目がくらんで、視野のはしにぼやけた幻を見たのかもしれない。
 そう思うと彼女の表情のことはしだいに意識からうすれ、やがて地面に落ちた雨の跡がかわくように、あとかたもなく消えた。

 *

 シロナさんが、ソファの座面に立てた自分の片ひざにもたれ、近づいたわたしを見あげて言う。
「ねえ。ヒカリちゃん、このあいだから、あたしのだらしないところばっかり見てるわよね」
 思わず足を止めると、手に持ったグラスの中で水が波うった。
 このあいだ? だらしない?
 彼女がなにを言いたいのかつかめず、返す言葉も見つけられない自分をすこし恥じてしまったものの、すぐに考えなおす。これはわたしがにぶいのではなく、彼女の切りだしかたが唐突すぎるのではないか。
「……どういうことです? なんの話ですか?」
「ああ、それ。いつだったか同じこと言ったわね、あたしも」
 わけのわからないまま腰をかがめて、けらけらと笑うシロナさんにグラスを差しだす。
 シロナさんは腕をのばし、「ありがとう」と言ってそれを受けとると、ソファから垂らした片足をぶらぶらとゆらしながら、入っていた水の半分ほどをひといきに飲みほした。
 たとえ相手が彼女であったとしても、事情や理由がわからなくとも、むしろわからないからこそ、大人が自分のことで笑っているらしい事実はおもしろくない。
 くちびるをとがらせるわたしに、シロナさんは「ごめんね」とあきらかに身の入らない軽い調子で謝った。
 彼女がお酒を飲んだその足でわたしの別荘へ立ちよるのは今夜がはじめてだが、もしかしてお酒を飲むといつもこうなのだろうか。妙にとらえどころがなく奔放な言動は、まるで知っているのとはちがうひとのようで——
「幻滅しないの?」
 胸中の独白を引きついだようなタイミングでそう言われてぎくりとしたものの、内容はといえば、やはり唐突で脈絡のないものだ。わたしはひとつ息をついてうつむき、ひたいに手をあてた。ゆるく握った手のひらの中で、前髪がくしゃりとつぶれる。
「もしかしてだらしないって、こうやってお酒を飲んだあとでわたしの家に来ること、ですか?」
「それも、ね」
「ほかには?」
「片づけが苦手で、ふだん部屋は足の踏み場もないくらいだとか」
「……そんなこと。なんでそれが、幻滅につながるんです」
 我ながら至極真っ当だと思った疑問にしばらく答えはなく、長い沈黙のあと、どこかそっけない声で彼女は言った。
「そう。それは残念」
「残念?」
 この流れで口にするには妙な言いまわしだと思って、顔をあげる。
 シロナさんはもう一度グラスをかたむけてのどを鳴らすと、わたしの目をまっすぐ見て笑った。
「ここで逃げないなら、もう逃してあげられないと思ったから」
 表情とは裏腹に、感情のほとんど読みとれない平坦な声だった。そのうえ言葉選びも端的すぎて、相手になにかを伝えようという努力をまるごと放棄しているように思える。
 それでもシロナさんが今なにを考えているのか、手にとるようにわかった。わかってしまった。
 なにかに背中を押されるようにして、ソファのほうへ一歩を踏みだす。これ以上を望む自分の声に耳をふさぐのをやめながら、同時にわたしがそうと思ったことがまちがっていて、彼女がわたしたちのあいだに線を引いてくれるのを、かすかに期待しながら。
 しかしシロナさんはグラスをサイドテーブルに置いて、立てていたひざをおろした。
 今夜はじめて向かいあい、わたしの言葉を待っている。
 言うことは決まっていて、ただ声がふるえないようにと願った。
「逃げなかったら、どうなるんですか」
 小さく聞こえた息をのむ音が、わたしのものなのかシロナさんのものなのか、もうわからない。
 ただ腕を引かれて倒れこむ一瞬、今まででいちばん間近に見つめたシロナさんの瞳に知らない色がたくさんきらめいて、彼女の家で見た七色の乱反射を思いだした。