おやすみなさい、よい夢を

「……シロナさん。ちょっと、聞いてほしいお話が」
 ハクタイジムの応接室にしめっぽい声がぽつりと落ちて、あたしは読んでいたリーグの情報誌から顔をあげた。テーブルの向こうがわ、ジムの主がひどく深刻そうな顔でうつむいている。
 しばらく会話がとぎれたので、彼女は彼女でなにか別のことに集中しているのだと思っていたら、どうやら話を切りだすタイミングをはかっていたらしい。
 しかしこちらはといえば、ハクタイの近くを通りがてら世間話をしにふらりと立ちより、お手製のハーブティーをいただきながら優雅に読みものまでさせてもらっている身だ。話を聞くくらいのことを断る道理もない。目線で言ってごらんとうながすと、ナタネは青ざめた顔で話しはじめた。
「あのですね。ここ一ヶ月くらい、ファイトエリアに……幽霊が。出るらしいんですよ。夜おそくに、白い服を着てふらふらしてるんですって。それでどうもその白い服っていうのが、ちょっとした夜のお散歩って感じじゃないみたいで。だからもう明らかに、普通のひととちがうって、わかるらしくって……」
「……へえ」
「へえ、って。由々しき事態ですよお」
 そうはいっても、らしい、ですって、みたいで、と伝聞ばかりの話だ。反応にこまって空返事になったのを、ナタネが心配そうな表情でうかがってくる。
 あたしはその視線から逃避するように目をそらして、夜の散歩にそぐわない白い服とはどんなものだろうか、と考えをめぐらせた。たとえばそれはレースとサテンのネグリジェだ。ネグリジェを身にまとって月下を歩く幽霊とは。実に耽美で幻想的ではないか。
 まじめな方向に考えの道筋を戻してみてもナタネの口ぶりでは、どうもその幽霊とやらがだれかに危害を加えたとか、そういったたぐいの緊急性はありそうもない。そんな実害があったならまっさきに話すだろうし、そもそもあたしに話すまえに警察沙汰にするべきなのだ。
 となれば、出没したのはただ徘徊するだけの幽霊ということになる。
 そのいかにも無害そうな響きから察するに、真実はおそらく、ゴーストタイプのポケモンかなにかを見かけて驚いた話に尾ひれがついただけのことだろう。あるいはポケモンですらなく、それこそ寝つけずに散歩をしていたトレーナーかもしれない。
 この時点で『話を聞く』という条件は満たしているのだし、それを告げてこの着地点の見えない相談のようなものを一蹴することもできた。
 ——できたのだが、あいにくナタネとの付きあいは長い。幽霊のうわさ話を聞いた彼女がどんな反応をしめすか想像するのはたやすかったし、実のところまさかここにつながってくるとは考えてもいなかったものの、思いつく心あたりもあった。
「ふうん、なるほどね」
 不遜な声とともに笑う。ナタネが不審げな反応を示すのに先がけて、
「最近しょうぶどころに顔を出さないのは、そういうわけなんだ」
「えっ。どうしてそれを」
 ビンゴ。ぎくりとしたナタネの鼻先に、まっすぐ人さし指を突きつける。
「シロナさんはなんでもお見とおしです」
「な、なんだって! ……って、一瞬びっくりしたけど、わかっちゃいました。おおかた、ヒカリちゃんから聞きでもしたんでしょう」
「うん、そんなとこ」
「じゃあ、幽霊のことも聞いてました?」
「ああ、そういえば。なんでもすれちがう人が振りむくと、そこにはもういないんだってね。変だなあと思いながら家に帰って、手を洗おうと鏡を見てみると、うしろに……」
「えっ。待ってなんですかそれ、そんなの知らない! 怖すぎる!」
「だって嘘だもの。ヒカリちゃんはなにも言ってなかったから、興味がないかそもそも知らないんだと思うわよ」
「ちょ、ちょっと! こういうことでからかうなんて、ひどいですよ!」
 この子はそろそろ気づいたほうがいいだろう。そうやってりちぎにリアクションをとるから、あたしやスズナにおもしろがってますますからかわれるのだということに。
 それはさておき心あたりというのはまさに先日、ヒカリちゃんが電話で「近ごろ、しょうぶどころでナタネさんにお会いしないんですよね」とぼやいていたことだった。
 ちょうど一ヶ月くらい前からバトル・フロンティアに挑戦中の彼女は、食事をとるのと息ぬきをしがてら、あの店に入りびたっている。それなのに一度もナタネの姿を見ないので、ちょっと不思議に思ったらしいのだ。彼女もまさか、幽霊が理由とは思ってもみなかっただろうが。
「ごめん、ごめんったら。けど、それをあたしに話してどうしたいの」
「……シロナさんならどうにかやっつけてくれないかなあ、って思って」
「やっつけるって、ポケモンのいたずらならともかく。だいいち夜に出るっていうなら、明るいうちにいけばいいだけじゃない」
「そんなうわさのあるところ、昼間でも怖くてとても入れませんって! それに万が一ほんとうに幽霊でも、シロナさんならきっといけます。さあチャンピオン、あなたの手にファイトエリアの平穏がかかっているのですよ」
「あのね。チャンピオンのことなんだと思ってるの。ゴースト・バスターじゃないんだから」
 あきれてため息をつき、ハーブティーをひとくち飲んだ。さわやかな後味にすっきりと頭が冴え、そもそもの前提がすっぽ抜けていたことに気がつく。
「というかバトルゾーンは、リーグの管轄じゃないわ」
「あっ」
「どうしてもだれかに対処してほしいっていうなら、ブレーンにでも頼むのね」
「あのひとたち、忙しすぎてほとんどフロンティアから出られないし……頼むなら結局、あそこにいかなきゃいけないってことじゃないですかあ」
「そういうこと」
 これで結論は出た。悲愴な表情を浮かべるナタネを尻目に、誌面に目を戻す。
 ナタネはひとしきり騒いだのち、あたしの意思が固いと悟ったのか、テーブルに崩れおちた。横目でうかがった顔には鬼気せまるものが漂っていて、その迫力でいけば幽霊ぐらい簡単に蹴ちらせるのではないかと思ったけれど、それは言わずにおいた。

 *

 そんな話をした記憶も薄れたころのことだ。

 仕事のついでで、バトル・キャッスルにカトレアを訪ねてみると、思いのほか雑談が盛りあがってしまい、気づけばすっかり夜になっていた。
 送ってくれようとするコクランくんの申し出を丁重に断って城を辞し、来た道をマイペースに歩いていると、ひと気がなく街灯もまばらなファイトエリアの夜空に、巨大な影がぼんやりと浮かびあがる。
 バトル・フロンティアのゲストルーム棟だった。
 フロンティアはリーグよりはるかに挑戦期間が長く、また勝ちすすめばすすむほど、それに比例して日中の拘束時間も延びていく。だからわざわざ毎日海を越えてバトルゾーンに足を運ぶよりも、近場に腰をすえて攻略していく挑戦者のほうが圧倒的に多い。
 そういった人びとのための宿泊施設なのだが、目下利用中のヒカリちゃんから聞きおよんだところによれば、棟内の設備は上等なビジネスホテルなみに充実しているということだった。
 羨ましい話ではある。リーグにも、近隣のポケモンセンターに空きがなくなったときのために宿泊できる部屋が一応用意されており、ゲストルームという名もついているものの、実態はといえばゲストルームというより仮眠室と呼んだほうが近いようなしろものだ。あそこで一夜を過ごして心身をしっかり休められるゲストがいるとは思えない。
 しかしヒカリちゃんにそれを言った際、彼女は電話の向こうで「わたしはリーグのゲストルームもいいと思いますよ、近くにひとがいてにぎやかだし」と苦笑したのだった。
 あたしがフロンティアのゲストルームをしきりに持ちあげるので、相対的に点数のさがったもう片方をフォローしなければという思いに駆られたのかもしれない。仮にも休息をとるための場所に対して、にぎやかという評価がはたしてフォローになるのかはわからないが。
 知らず知らず、足が止まっていた。
 足もとに立って見あげるゲストルーム棟は、外から見える窓にほとんど明かりが点いていない。そのせいか夜空よりもなお黒く、全貌は杳として知れなかった。
 夜とはいえ、市街地ならまだ明かりの消えるような時間ではないのだが、一日中バトルに明けくれる利用者たちにとっては、もうそろそろ眠りにつかなければ翌日に差しさわる頃あいなのだろう。
 くだんのヒカリちゃんもその例にもれず、暗くなった部屋のどれかひとつで眠っているはずだ。
 現在、彼女とは多くて週に一度程度電話で近況報告をし合うくらいで、しばらく顔を合わせていない。
 たがいの居所を知らないのならいざ知らず、彼女がここにいるとわかっていてあたし自身もここまで近くに来ているのに、ひと目会うこともかなわない。そう考えると、今までになく長いあいだ彼女と会っていない事実を、あらためて意識せざるを得なかった。
 バトルそのものについてはなんの心配もいらない相手だが、そつがないあまりに、かえってなにかがあったとしても他人に言わず抱えこんでしまいそうな危うさがある——などと建前を並べてみるものの、結局はただ顔を見て話がしたいだけなのだった。
 だいいち電話で声を聞いてはいても、相手が息災かどうか知るにあたって、実際に会って言葉をかわす以上の手段もないものだ。
 さすがに会いにいくのははばかられるにせよ、テレビ電話くらいなら時間を見つけて誘ってみても迷惑にならないかもしれない。
 そんなことを考えながら、いい加減歩きだそうとまずは前方に視線を戻した、その矢先だった。
 ゲストルーム棟を巨大な木に見たてるならその根元、丸く刈りこまれて立ちならぶ灌木の向こうから、白いものが歩みでる。
 光源にとぼしい道の上で、それがこの世のものではないなにかに見えて反射的にどきりとするが、何度かまばたきをして焦点を合わせてみればなんということもない、どうやら白い服を着た人間だった。少しずつ目になじんでいく暗闇の中、その人物は静かに、しかしどこかたどたどしい歩調で進んでくる。
 明日も早いというのに寝つけなかった挑戦者が、夜の散歩にでも繰りだそうとしているのだろうか。
 夜の散歩。
 場所と状況を考えればそう的はずれとも思えない予想なのに、妙に引っかかりをおぼえるフレーズだった。まとわりつく違和感を振りはらうように、前方の人物に向けて目をこらす。
 体格は小柄で、おそらく女性だ。寝間着らしいワンピースタイプの白い服がひざの下までを覆い、裾からは細い足がのびている……。
 その足の線をなんとなくたどったあたしは今度こそぎょっとして、無意識に片足を背後へ引いていた。
 人影は足もとになにも履いていなかった。ゲストルーム棟の入口から歩道へと合流するアプローチを、素足で歩いているのだ。この時間に、いや、そもそも道で目にする姿として、明らかに尋常ではない。
 あたしが息をつめているあいだに人影は歩道の中ほどまでたどりつき、こちらと反対側へくるりと体の向きを変えた。
「——っ」
 その一瞬、弱々しい月明かりにぼんやりと浮かびあがった横顔に、思わず凍りつく。
 彼女はやはりどこかぎこちない歩きかたで、それでも足を止めることなく遠ざかっていく。その背中が小さくなる一部始終を見つめながら、あたしは目をそらすことも、身じろぎすることさえもできずにいた。
 あれは。
 いや。そんな。まさか。
 けれど。
 見間違うはずもない。
 あれは、ヒカリちゃんだ。
 混乱して回転のにぶった頭の中、自分の見たものをようやく言語化するころ、白い面影はとうに見えなくなっていた。
 うしろ姿が視界から消えたとたん、体をいましめていた見えない縄がゆるんだように全身のこわばりがほどけるものの、すぐに彼女を追いかけなければという焦りとは裏腹に、足はその場で棒立ちになるばかりだった。
 今しがた目にした光景に、どうしても理解が追いついてこないせいかもしれない。ひとまずは順序だてて現状を整理しようと、立ちつくしたまま必死に考えをめぐらせる。
 ふだんバトルゾーンに足を運ぶ際は別の船着場を使うのであまりなじみはないのだが、記憶がたしかならこの道の先には、島に出入りする貨物船の荷揚げ場があるだけだったはずだ。
 しかし、彼女の行き先に悩む必要がないと安堵できたのは、ほんの一瞬にも満たない。この先に荷揚げ場しかないということは——彼女がまっすぐ水辺に向かっているということではないか。
 素足で夜の道をさまよう少女が、やがて暗い海へたどりつく。
 そんな不穏なイメージに肌が粟立って、怖気に背中を押されるようにおずおずと一歩を踏みだす。一歩、また一歩。歩きかたを少しずつ思いだすように、徐々に足を出す間隔がせばまっていく。気ばかりが急いて、全力で走るには遠く及ばない。それでもヒールが石畳を蹴るとむやみに硬質な音が響き、靴底からは音と同じく硬い感触が伝わってくる。彼女はこんな道を裸足で歩いていったのだと思うと、焦燥で足がいっそう重たくもつれるような気がした。
 やっとの思いでゲストルーム棟の前を通りすぎ、防風林を走りぬけると、ちょうど積みあげられたコンテナとコンテナのあいだへ白い裾がするりと消えていくところだった。残像を追ってもうひと息の距離を駆けると、視界にまず暗い海が開け、一拍遅れて、海を向いて波止場のふちに立つ少女のうしろ姿が飛びこんでくる。
 ヒカリちゃんはただそこに立っていた。夜の海には浮かぶ船もなく、波音もどこか遠い。世界がまるごと静止しているような静かな光景に、つい足が止まる。
 そのとき、なぜだか唐突に、いつかのシーンが脳裏にひらめいた。

 ——聞いてほしいお話が。
 ——ここ一ヶ月くらい、ファイトエリアに……
 ——夜おそくに、白い服を着て……
 ——幽霊が。出るらしいんですよ。

 夜のファイトエリアをさまよい歩く、白い服を着た幽霊。
 ナタネから聞かされ、当時は気にもとめず流した話だった。その幽霊の正体が、彼女だったというのか?
 降ってわいたような謎の答えに、呆然としているさなかだった。
 吹きつけた潮風に体勢がゆらいだだけかもしれない。彼女の体が前に向かってゆっくりと傾ぎ、それがまるで暗い海面に落ちていこうとするように見え、
「——ヒカリ!」
 思わずふだんの呼びかたをかなぐり捨てて叫び、コンテナの陰から飛びだしていた。
 肩をつかむと彼女の体がわずかにはねたが、かまわずもう片方の腕を前に回して抱きよせる。最初にびくりとした以外はなんの抵抗もなく胸もとにおさまった子どもの体温に触れながら、自分の心臓が激しく脈うつのを感じた。
 やがて彼女の髪が鎖骨のあたりをすべり、腕の中で顔が持ちあげられる。もう少し間があって、シロナさん、とあたしの名を呼ぶ小さな声が波止場に落ちる。
「……ここに、どうして……」
 ぼんやりした口調だった。まるで、声に出すことで情報の整理をこころみるかのような。
 いや、事実そうなのだろう。一連の行動が、ふだんどおりの状態でなされたとは思えなかった。おそらく彼女は今このときまで眠っていて、意識のないままここまでやってきたのだ。当人からすれば、声と振動に目をさましてみればおぼえのない場所できつく抱きしめられているという、ひどく異様な状況にちがいない。
 夢遊病、という言葉が頭をよぎる。それらしいものすら目にするのは初めてで、うっすらとした知識しか持ちあわせていないものの、意識のないまま歩きまわったり起きているときの行動を繰りかえしてしまい、本人にその間の記憶や自覚はないという。
 なにはともあれ、まずは腕を離し、今夜見たものを説明しなければ。そう思って腕を浮かせかけたところで、先ほどの様子がうそのようにはっきりとした発音で彼女がつぶやく。
 ひとりごとのようなその言葉に、あたしは絶句した。
「……やっぱりわたし、寝ながらふらふらしてたんだ」

 *

 問いただしたいことはいくつもあったが、暗い埠頭がそのための場としてそぐわないのもたしかだった。
 しぼりだすように部屋まで送るとだけ告げて、さいわい額面どおりに部屋の前で別れを告げられるようなこともなく、今はふたりでテーブルをはさんで向かいあっている。
 部屋に戻る道ゆきで、ヒカリちゃんの様子はあたしとちがって落ちついたものだった。通りがかったひと気のないロビーを指して、「泊まっているひとはみんな早いうちに寝てしまうので、スタッフさんも夜はいなくなるんですよ」とすらすら説明したかと思えば、共用部のドリンクサーバーからココアまで淹れてきてくれる。ふだんから気のつく子ではあるのだが、それにしても今夜はただ友人の宿泊先に遊びにきただけだったかと錯覚さえおぼえるほどだ。
 ——けれど。
 視線をテーブルの下に落とす。
 テーブルランプしか点けていない部屋の中、なにも履いていない彼女のつま先がやけにくっきりと目に飛びこんでくる。少し目線をそらせば、ほとんど乱れのないシーツやベッドの下にきちんとそろえて置かれた部屋履きなどもうかがえる。整然とした様子は、彼女が眠っている最中にベッドを抜けだし波止場まで歩いていったのだという事実を、かえって生々しく想起させた。
 やはり、先ほどまでのできごとを意識の外に追いやることはできなかった。
 彼女も、あたしを部屋の前で追いかえしてもよかったところを、わざわざ中へ迎えいれてくれたくらいなのだから、今夜のことについてまったく口を閉ざしてしまうつもりではないと思いたい。
 どこから切りだしたものかと言葉を探していると、先に彼女が口を開いた。
「あの、シロナさん。きょうはごめんなさい」
「どうして謝るの?」
 予想外の言葉に虚をつかれて顔をあげると、ヒカリちゃんはゆっくり二度まばたきをした。
「びっくり、しましたよね」
「……驚いたのは、たしかにそうだけど。もし、迷惑でもかけたと思ってるなら、それはちがうわよ」
「でも」
「仕事の用事で、フロンティアに来てたの。帰ろうとしたところで、きみがはだしで歩いていくのを見かけたから、おかしいと思って追いかけた。それだけ。たまたまなのに、迷惑なこと、ないでしょう?」
 ほんのわずか、さらに言いつのろうとするような気配があったものの、実際に言葉にされることはなかった。納得はいかないまでも、あたし本人がそうまで言っているのを、むりに否定する必要もないと考えたのかもしれない。
 しばらく、ふたりとも黙っていた。テーブルの上のマグカップから立ちのぼる湯気が、部屋の空調に絶え間なくゆらめいていて、それに誘われるようにカップの持ち手に指をかけ引きよせる。甘いものを口にする気分にこそならないものの、陶器ごしのあたたかさとやわらかな甘い香りに安心して、喉がいくらか開くような気がした。
「訊いてもいいのかな」
 彼女が目の動きでうなずく。
「……さっきみたいなことは、何度かあった?」
 質問というよりは確認だった。ヒカリちゃんが波止場でぽつりと落としたつぶやきには、ずっといだいていた疑問に対する答えをようやく得た、そんな雰囲気があった。
 今度ははっきりと首を縦にふったヒカリちゃんが、ひとりで眠ると夢を見るんです、と続ける。
「夢?」
「はい。いつもおなじ夢です。……夜の湖、たぶんシンジ湖なのですけど、そこにひとりでいて、湖をのぞきこんでる。晴れた夜で、月がとても明るくて。湖はきらきら光ってるんです。でもわたし以外にだれもいないし、風も吹いていないし、なんの音もしない。まわりの森がざわざわする音も、ポケモンがどこかで鳴く声も、なにも」
 夢のこととわかって聞いていても、ひどく暗示的で、ぞくりとする不吉さを帯びた話だった。
「……その夢を見た次の日、起きたときに足が汚れていたり、部屋の鍵が開いていたりすることがあって。だから寝てるあいだに歩きまわっているのかなあと、なんとなく思っていたんです」
 一瞬、その説明になるほどと相づちを打ちかけるが、一度でぬぐいきれなかった汚れのように、かすかな違和感が残っていた。うっすらとしたもので、正体はつかめない。
「その夢は、いつから見るようになったの? まさか、旅のあいだも?」
「フロンティアに来てから、です。旅をしていたときはずっとポケモンセンターに泊まっていたので、大丈夫でした」
 ポケモンセンターに宿をとっていたことと大丈夫、のつながりが読めず考えこむと、ヒカリちゃんはそれに気づいたのか、あわてて付けくわえた。
「ああ、ええと。ポケモンセンターって、ゲストルームはどちらかというとおまけみたいなものですよね。夜でも急患のひとが駆けこんできたりして、完全に静かになるときがほとんどないから、ふつうに眠れていたのだと思います」
 近くにひとがいて、にぎやかで。
 いつか、リーグのゲストルームについてそう語った彼女の声を思いだす。どうやらあのとき言っていたことは、フロンティアのそれと比べて見おとりすることへのフォローでもなんでもなく、心底そう思っての言だったのだ。今しがた聞いた話をふまえるなら、そういう場所で眠らなければ夢を見ると知っていたから、というところなのだろう。
 だが、それではつじつまが合わない。フロンティアに挑みはじめてからのここ数ヶ月で見るようになったらしい夢だ。何度も見るからといって、その条件にまで見当がつくものだろうか。
 そもそも、体を休めるのに静かな場所ではいけないというのも妙だった。疲労や精神的ストレスが睡眠機能に影響を及ぼしやすいというのはよく知られた話で、断言はできないが、夢遊病の原因もさほど遠いところにはないだろうと思う。
 それなら、彼女が静かな夜に夢を見てさまよう原因は、いったいどこにあるのか。
 いよいよもってわからない。
 そこにシンジ湖のことが重なるので、要素が入りくんでよけいに混乱してくる。
 たしか、彼女の故郷のすぐそばにある大きな湖の名前だったはずだ。夢の中、それも夜の光景であってもそれとわかるくらいになじみがあったとして、そのこと自体になんら不思議はない。
 けれど故郷のそばの親しみぶかい場所が、どうすれば夢遊病の引き金を引くような不穏なイメージにつながるというのだろう?
 ふと『故郷』という単語が、ヒントを探して夢の光景を思いうかべていた頭の片隅から、流れていかずにとどまった。いぶかしみながらも、連想される言葉をなぞってみる。
 故郷。かたわらのシンジ湖。彼女のふるさと。フタバタウン……
 そこまでたどったところで、ひとつだけ足りなかったパズルのピースがようやく埋まるような感覚があって、思わず声ともため息ともつかない音がこぼれた。
 ヒカリちゃんがきょとんとした顔でこちらを見る。
「フタバにいたころに、なにかきっかけになることがあったのね」
 その瞳を見ながら、断定しているとわかるよう語尾をさげて問いかけると、ヒカリちゃんは表情を消して息をつめた。
 しばらく、たがいに黙ったまま見つめあう。
 ある瞬間、彼女の表情に濃い影が落ちたように思ったが、テーブルランプの光がつくる陰影が、わずかにうつむいた頬の上をすべっていっただけだった。つめていた息を細く吐いて、ふたたびあたしの顔を見あげる群青色の瞳からは、憂いのようなものは読みとれない。
 ただ、かえって不自然なほどに凪いでいた。
 彼女が夢に見る夜の湖も、こんなふうだろうかと想像する。波も立たず音もない、見る者を呑みこむような、暗くなめらかな湖面。
 その瞳もためらうように伏せられて、彼女の表情は陰の中に見えなくなる。

 *

 ……ごめんなさい。
 シロナさんが、どうしてそう思ったのかは、わかりませんが。きっかけというか、これだろうと思っていることは、たしかにあります。
 隠しておきたかったとか、そういうわけではないんです。
 どんなふうに言えばいいのか、そもそもお話するようなことなのか、わからなくて。

 まだ旅に出ようと考えてもいなかったくらい、むかしのことです。
 夜中になにかの拍子で目がさめて、なんとなくリビングへおりたんです。たぶん、お水でも飲もうとしたのでしょう。
 廊下に明かりがもれていて、すこしだけ物音もしたので、お母さんがいるのがわかりました。
 なにも考えず中へ入ったら、お母さん、やっぱりそこにいて、ダイニングテーブルについていて。
 泣いていたんです。
 肩がふるえて、目が真っ赤になってた。
 お母さんがそんなふうにしているのをはじめて見たから、わたし、固まってしまって。動けなかったし、音もたてなかったと思います。でもしばらくして、わたしがいることに気がついたお母さんが、こちらを見ました。
 そのときのお母さんも、やっぱり見たことのない顔をしていました。
 いつも明るくて、にこにこしているひとだったけれど、そのときはなんて言ったらいいのか……。
 ぽっかり穴があいた、ような。
 もちろん、たとえ話です。そういうふうに見えたっていうだけの。
 でも、とっさに、見てはいけないものを見たんだって思いました。
 怖かったんです。お母さんが、全然知らないひとみたいに見えて。

 どれくらいだまっていたのかな。きっと、そんなに長い間じゃあなかったはずです。
 お母さんが。
 ……笑ったんです。まだ泣いてるのに。
 にこにこしながら、見つかっちゃったわね、って。

 それよりも、もう何日か前だったと思います。
 旅に出たお父さんのことで、家に警察のかたが訪ねてきて、少しだけお母さんと話して、帰っていかれました。
 お母さんはわたしに、お父さんがもう帰ってこられなくなったみたい、と言っただけでした。……どんな顔、してたんでしょう。思いだせない。でも印象に残っていないくらいだから、きっといつもどおりの、ふつうの顔をしてたはずです。

 正直に言うと。
 わたし、お父さんのこと、おぼえてないのです。
 ああ、いえ、写真があったので、顔は知っています。
 でも知っている、だけで。
 わたしがものごころつく前に旅に出てしまったので、どんな声でどんなことを話してくれたか、いっしょにどんな場所へ行ったか。そういうことは、実感として思いだせないのです。
 わたしはお父さんを、どこか遠く……物語の、登場人物のように思ってた。お母さんが話してくれる、物語の中の。
 だから帰ってこられないと聞いても、それが悲しいのか、さみしいのか、よくわかりませんでした。わたしにとってお父さんは物語の中のひとで、いつか家に帰ってくるのかもしれないひとで。
 家族では、なかった。
 そのころのわたしにとって、家族はお母さんひとりでした。
 でも、お母さんにとってはそうではなかった。
 あたりまえのことです。
 それなのに。あの夜、お母さんが泣いているのを見るまで、わたしはそれに気がつけなかった。
 お母さんはわかっていたはずです。どんなに話して聞かせても、わたしがお父さんをおぼえていないこと。
 そんなわたしの前で、さみしいと口に出したり、泣いたりは、できなかったのでしょう。
 だから夜中にひとりで、わたしから隠れて、泣いていた。
 それをあの夜、見つけてしまった。

 ……悲しかった、です。
 たぶんそのとき、お父さんがいなくなってからはじめて、悲しかったんだと思います。
 でもそれはお父さんのためでも、お母さんのためでもない。ただ自分がお母さんになにもしてあげられないことが、悲しかっただけ。
 怖くて悲しくて、つい泣いてしまったら、お母さんはあわててわたしのそばまで駆けよってきて、抱きしめてくれました。
 しばらく泣いて、それからふたりで、二階へあがって。
 お母さんが、今夜は一緒に寝ようと言いました。
 悲しくても、ヒカリがいるとよく眠れるのよ、って。

 *

 静かな声で、しかしよどみなく話していた彼女がふと口ごもり、言葉を探すように視線をさまよわせる。続けてなにを言おうとしているのか、なんとなく感づいてしまう。
「……結局その夜だけではなくて、毎晩、お母さんと一緒に眠るようになりました。ベッドにふたりで横になりながら、お母さんはことあるごとに、わたしがいるとよく眠れると言ってくれて、そのたびになんだか、救われたような気持ちになったのをおぼえています。必要とされてる。わたしにも、できることがあるって」
 それは。
 裏を返せば、彼女はひとりで眠る自分に、価値を見いだせなくなったということだ。
 そんなはずはないのに。
 そう思っても、言葉は喉の奥で渦まくだけで、声にはならない。
「しばらくは、なんともありませんでした。でも、お母さんが用事で家をあけたときに、ひとりだとまったく眠れなくなっていることに気がついて。
 いつからかそういう夜、家を抜けだしてシンジ湖へ行くようになりました。
 シンジ湖ってぐるっと森に囲まれていて、森には夜行性のポケモンもいるので、ほんとうなら夜でも、わたしの夢みたいに静かなところじゃない。そういう場所だから、ひとりでいてもひとりじゃないような気がして、眠れはしなかったのですけど、ただ湖をながめているだけで気持ちが落ちついたのです。
 そうやってやりすごしていたから、フロンティアに来てこの部屋に泊まるようになったときは、不安でした。ここは夜、とても静かになってしまうし、シンジ湖だって近くにはありません。
 でも昼間のバトルでくたくたになってここに戻ってきて、気づいたら眠っていて、朝になっていました。……だからもう、大丈夫になったんだと思ったのです」
 話していて自分で気になったのか、ヒカリちゃんは「まとまりのない話でごめんなさい」と眉尻を下げた。
 波止場で目をさましてからの彼女が動揺した様子を見せなかったわけも、凪いだ目をしていたわけも、今ならわかるような気がした。
 ヒカリちゃんの中で、フタバタウンでのことはとうに完結した、ただの過去なのだ。ときおり振りかえりはしても、そのために感情をゆらすことも、自分のいびつな結論に疑問を抱くこともないのだろう。寝ながら歩きまわってしまうことさえ、うすうす気づいてはいても、とくに治そうとしていたふうではなかった。今夜あたしに見とがめられたのでなければ、むかしとちがい、曲がりなりにも眠れるのだからという考えで、ずっとそのままにしておいたのかもしれない。
 この場であたしがなにを言っても、それは表面をなぞるだけで、本当の意味をもって彼女に届くことはないだろう。
 あたたかい部屋の中で、背筋にたしかな寒気を感じて、もう一度マグカップに手をのばす。
 けれど冷めたカップは、もはや気休めにもなってくれない。

 *

 雲ひとつない夜空に、月が煌々とかがやいている。
 背中を街灯にあずけながら空を見あげていると、仮にこの瞬間、まわりの明かりがすべて落ちたとしても、周囲を見るのになんら不便はないだろうとさえ思える。
 ——あの夜、彼女になにを言うべきだったのか、あるいは自分がなにを言いたかったのかと考えこむうちに、足は自然、一週間とおかずにゲストルーム棟の真下まで向いていた。
 ヒカリちゃんが今夜もさまよい出てくる保証はなかったものの、それならまた日を改めればいいことだ。自分でも、なにを言いたいのかすらわからないのに大きく出るものだ、と呆れないでもなかったが。
 夜のファイトエリアはあいかわらずひと気がなく、耳鳴りしそうなほどの静寂に満ちている。そうしょっちゅう来ているのでもないが、それでも昼間のにぎわいを多少なりとも知っていると、とうてい同じ場所とは信じがたい。
 静まりかえった歩道には呼吸ひとつさえも反響するようで、無意識に息をひそめる。
 そのせいか、モーターの低い駆動音にもすぐ気がついた。ゲストルーム棟のエントランスドアがふたつに割れてスライドし、そこからだれかの出てくる光景が、視界のはしでぼんやりとにじんでいる。あたしはそちらを見ずにまぶたを伏せた。
 足音と衣ずれの音が、この時間の道ばたにひとがいることにとまどって足を止める気配もなく、目の前を通りすぎていく。
 数秒おいて、目を開ける。
 うしろ姿はやはりヒカリちゃんのものだった。
 枯れ尾花ならまだしも、生きた人間を幽霊と見間違うなどあるものか。そう思っていたが、こうして正体を知った上だと、眠っている人間というのは思いのほか実在感や存在感のようなものが希薄なのだとわかる。知らずに見かけただれかがおびえたのも、無理はない話だ。
 彼女はあの日と同じように進んでいく。ぎこちない歩みで、それでも迷いなく、暗い海へ。
 ある程度距離が開けるのを待ってから、あたしも歩きだした。頭の中は、ああだこうだと考えこんでいた先ほどまでと打って変わり、いざ歩きだしてみればいたってクリアになっていた。
 意識して歩調をゆるめても、前を行く背中との距離はすぐ縮まってしまう。足を止め、彼女が進むのを見はからってこちらも一、二歩だけ進む。そんなことを何度も繰りかえしているうちに、防風林を抜ける。
 積まれているコンテナが前回よりも少ないのと、月が明るいのとで、今夜の荷揚げ場は先日の印象よりもいくぶん広々として見えた。ヒカリちゃんはやはりコンテナとコンテナのあいだを進み、海のほうへ抜けた。
 まるで起きていて、まわりが見えているようだ。さびついた船留めの横でぴたりと足を止める。
 あの夜はこのタイミングで、彼女が海へ倒れこみそうになったと勘違いして、声を上げた。けれど今にして思えば、あれは夢の中でシンジ湖の湖面をのぞきこもうとするしぐさだったのかもしれない。
 そんなことを考えていたので、彼女が海に向かって上半身を傾ける光景をふたたび目のあたりにしても、反射的に腕がのびかけるのをどうにかこらえられた。
 やはり彼女は見つめている。夢の中のシンジ湖を。眠れない夜に、安らぎを与えてくれた場所を。
 彼女の話でひとつだけ、どうしても腑に落ちない点があった。
 眠りながら見るシンジ湖が、どうして実像とは違う、異様と言っていいほど静かな情景としてあらわれるのか。
 夢は、起きているあいだに得た情報を整理しようとする脳のはたらきだという。もちろん整理される『情報』には、感情や記憶も含まれているだろう。
 それならシンジ湖が静かなのは、彼女の感情が反映されているためなのではないか。
 たとえば、このままではいけないと、ヒカリちゃんが無自覚に感じているとすれば。彼女が眠っているあいだに脳はその感情を拾いあげ、夢というかたちにして本人に見せる。
 だから夜のシンジ湖が、夢の中で彼女をなぐさめることはない。
 もちろんそれはあたしがこうあってほしいと願い、むりやり理屈をつけようとひねりだした仮説にすぎない。
 しかし、まんざら的はずれでもないように思えた。
 子どもと一緒だとよく眠れると言った母の意図と、ひとりだと眠れなくなった子どもの結論。そのふたつがすれちがったときから、彼女は自分を許せずにいる。けれどその一方で、やさしい母がこんなことを喜ぶはずがないと、だれよりも彼女自身が理解しているはずなのだ。
 伝えたかったことが、ようやくわかった気がする。あたしは海をのぞきこむ背中に向けて近づき、ひと呼吸ののちに口を開く。
「……だれも、悪くないの。お父さんもお母さんも、もちろん、きみも。お母さんはたしかに、ひとりで泣くしかなかったかもしれない。でもそれ以上に、自分のためになにもできないと悲しんでくれるきみがいて、きっと救われたでしょう。きみが必要とされていないなんて、そんなはずはない。それだけは、どうかわかってほしい。まわりのひとにも、きみのポケモンたちにも……なにより、あたしにも、きみが必要なのよ」
 言いおえて、波止場にまた、耳が痛くなるほどの静けさが戻ってくる。
 彼女に言葉が届くとすれば、それは眠っている最中だろうという確信めいたものがあった。だから目に見える反応があろうがなかろうが、肩をゆすって起こしてしまう気にはならない。
 ふいに、下を見る姿勢のままほとんど微動だにしていなかった彼女が頭を上げたかと思うと、力が抜けたかのようにゆっくりとうしろへ倒れこんでくる。もう一歩前に出て、その体を受けとめた。
 いったんしゃがみこんで彼女の体を支えなおそうとして、あたしの耳に届いたのはかすかな寝息だった。か細く規則的なそれがひどく平和なものに感じられて、泣きたいようなほほえましいような、奇妙な気分になる。
 彼女の首とひざのうしろに腕を入れ、横抱きの体勢で立ちあがると、細い体は見た目どおりの重さしか返さなかった。部屋まで運ぶくらいは苦にならなそうだ。
 ひとをひとり抱えていても、立ちどまらずに歩くぶん、帰り道はひどく短く感じられた。腕の中の彼女は寝心地のいい場所を探すようにわずかに身じろぎした程度で、行儀よく眠りつづけている。
 ゲストルーム棟の暗いロビーを抜けてひとつだけ階を上がり、あっという間に記憶している部屋の前までやってくる。
 どうやってドアを開けたものかと一瞬考えたが、見れば彼女が閉めずに出てきたのか、部屋の入り口は開いていた。不用心だがこのときばかりはありがたく、肘で扉を押しあけて中へ入る。部屋の電気は当然点いていなかったが、すでにある程度暗闇に目が慣れていたので、奥へと進みいるだけならカーテンごしにぼやけた月明かりだけでこと足りた。
 彼女をベッドに横たえて布団をかけると、さすがにどっと体が熱くなるのを感じた。顔を手であおぎながら窓へ近づき、カーテンとサッシをすこし開く。夜風が火照った頬を気持ちよく撫でていく。
 そのまま熱が引くのを待ちながら、ぼんやりと外をながめていると、ふと背後で布のこすれる音がした。
 彼女が目をさましたかと思って振りむくが、どうやら寝返りをうっただけのようだ。近づいて、体を動かした拍子にずれたらしい布団をかけなおす。
 寝顔はおだやかだった。暗いものにおびやかされることのない眠りに、ただ身をゆだねている。
 それだけでいい。安らかに眠って、すこやかであってくれたなら。
 前髪をはらい、あらわになった額にくちびるを落として、声に出さずささやく。
 おやすみなさい、よい夢を。

 *

 だれかにそっと抱きしめられるような、やさしい夢を見た気がする。
 目をさまして最初に感じたのは、カーテンのすきまから射しこむ朝の光が顔に当たるまぶしさだ。
 しかし、まぶしいと思ってすぐ、その感覚に違和感をおぼえてひとり首をかしげる。
 昨晩眠る前に、カーテンを引いたような気がするのだけれど。いぶかしみながら起きあがり、窓へ近づいてみると、サッシがわずかに開いていて、そこから吹きこむかすかな風にカーテンがゆれている。
 窓のほうは、そもそも室内の空調がととのっていて、ふだんから開け閉めすることがほとんどないせいか、あえて戸締まりをしたかどうかの記憶もあいまいだった。気づかず開けたままにしていたので、夜のあいだに風でカーテンが動いてしまったのかもしれない。
 納得してカーテンを開くと、外は朝日がまだ昇りきっていないどころか、空の色に夜明け直後の青白さがうっすら残っている。そういえば目覚ましアラームの音も聞いていない。ずいぶん早くに起きてしまったらしい。
 そのわりには眠気もなく目がさえていることに、すこし驚く。
 いつもくたびれて部屋に帰ってきて、倒れるように眠りにつく。そして気がつけば朝になっていて、ほとんど休んだ気のしないまま一日がはじまるのが常だった。こんなすっきりとした目覚めにはあまりおぼえがない。
 おぼえがないといえば、起きる直前まで見ていた夢もそうだ。夜のシンジ湖以外を夢に見ることなど、しばらくなかったような気がする。
 あまりにも久しぶりだったせいか、夢の内容は遠くへかすんで、ほとんどなにも思いだせない。ただやさしくあたたかい、そんな夢だったという実感が、胸の片隅に残っているだけだった。
 おぼえてもいない夢にそんな感想を持つなんて、妙なことだ。
 けれど、今朝の目覚めがこんなにもすがすがしいのは、もしかするとあの夢のおかげなのかもしれないと思えて、その上ふだんなら荒唐無稽だとすぐに打ちけすだろうそんな考えを、どうしてか捨てきれなかった。
 今朝はまったく、不思議なことばかりだ。
 それでもなにか悪い気はせず、すこしだけ開いた窓に指をかけ、からからと開けはなつ。
 わずかに潮のかおりのまざった風が、髪をゆらして部屋の中に吹きこんでくる。
 一日がはじまっていく。

 *

「シーロナさんっ」
 定例の会議が終わり、ジムリーダーをはじめとする出席者たちがぞろぞろと席を立ちはじめる中、自分もその流れに乗ろうとしていたあたしの背中に、やけに弾んだ声がかかる。
 あたしが目線だけをあげるのと同時に、体を回りこませるようにして視界に入ってきたのはナタネだ。もっとも相手がだれかは声だけでわかっていたので、驚きはない。
「おつかれさま。なにかあった? ずいぶんごきげんじゃない」
「おつかれさまでした。うふふ。わかります? やっぱりシロナさんにはお見とおし、なんですね」
「……うん?」
「ちょっと、そんな『ナタネがまた変なこと言いだした』みたいな顔しないでくださいよお。自分で言ったんでしょう、おぼえてないんですか」
「……それで、どうかしたの?」
 おぼえのないものはしかたがない。ナタネはくちびるをとがらせたが、そこを追及するのはむだと判断したらしく、すぐに表情を切りかえた。
 顔の前で指を組んで、にこにこと笑う。
「ねえ、聞きましたよ。あたしが頼んだとき、あーんなにつれないふりしてたのに、結局行ってくれたんですね。もう、かっこいいことしちゃうんだから」
「行く? ……どこに?」
 文脈がまったく読めず首をかしげるあたしに、ナタネはなおも明るく続けた。
「ファイトエリアですよ、ファイトエリア! 幽霊、どうにかしてくれたんでしょう。噂になってますよ。シロナさんがファイトエリアで目撃されて、そのあと、出なくなったって……」
 一瞬、息を止めた。
 それに気づかず、感謝の言葉だかこの世ならざるものへの恐怖だかを滔々と語りつづけるナタネの声が、あいだに紗幕をへだてたようにうっすらと遠くなる。
 あたしは夜の湖のことを想った。風の吹かない、生きものの気配もない、静かに月光を映してきらめくだけの湖面のことを。
 彼女はまだあの夢を見るだろうか。
 その答えを知るすべはない。ただ、あたしの言葉のどこか一片でも彼女に届いていてほしいと、願うばかりだ。
「——その、シロナさん。あんまりくわしく話してくれなくても、ぜんぜん構わないのですけど。幽霊、どんな感じだったんですか?」
 さっきまでの勢いをなくしておずおずと訊いてくるナタネの声が、急に耳に入る。
 あたしは笑って、「さあね」ととぼけてみせる。