大人はずるい
規則的なさざ波の音の間になにかを聞いたような気がして、顔を上げる。
その日は晴れて雲ひとつなく、風も吹かないおだやかな夜だった。
翌日に差しせまった予定はなにもなかったが、さりとて夜ふかしをする理由もない。たまには早く眠るのもいいだろうと、時計の短針が九を回るころには寝室の暖房を入れ、部屋が暖まるまでの時間つぶしに適当な本を取ってリビングへと降りた。
ところが五感をさまたげるものがないと、本を読む手というのはやたらによく進む。電灯をぎりぎりまで落としてソファに腰かけ、一節、一ページ、一章と読みすすめていくうちに、気づけば寝室もとうに暖まりきっただろうと思われるくらいの時間が過ぎていた。
音を聞いたと思ったのはふと壁掛け時計を見て驚き、これでは早めに寝支度をととのえた意味がない、と本に栞紐をはさんだまさにその折だ。
そのまま数秒、耳をそばだてていたが、続く音はない。
静かな夜だから、遠くであがったポケモンの鳴き声かなにかが耳に届いたのだろう。そう結論づけて本を閉じたとたんにもうひとつ音が鳴り、それが案外近くで聞こえたので、今度は音の正体がはっきりとわかる。外構に敷かれた砂利を踏みしめる音だ。
人間の、それも後ろめたいたぐいの侵入者だとしたら、音の鳴る砂利の上をわざわざ歩く道理はない。どうやら夜行性のポケモンが迷いこみでもしたらしい。
それにしては、耳ざとい相棒たちが警戒して騒ぎたてる様子もないのをふしぎに思ったけれど、住み処へ帰してやるにしろなんにしろ、ひとまず確認してみないことにはどうにもならない。本を置いて掃き出し窓に近より、そろりとカーテンのはしを引いた。
遮るもののない月の光に、黒い影が浮かびあがる。
けれど影、と思ったのは一瞬で、それはすぐによく見知った形をとった。ガブリアスをかたわらに連れたシロナさんが、どこか遠くを見るようなぼんやりした表情で、実際に室内ではなく上空を見あげてそこに立っていた。
どうりでわたしのポケモンたちが大人しくしていたわけだ。やってきたのがなじみの顔だと、気配で察したのにちがいない。
納得はしたものの、いつもと違う佇まいのシロナさんになんとなく声をかけあぐねていたら、カーテンのすきまから様子をうかがっているわたしの気配に、ガブリアスが先に気づいてひと鳴きした。
シロナさんはそれからさらに一拍遅れてわたしを視界に入れ、やわらかく笑った。白い息がこぼれ、夜の中にほどけていく。
カーテンを半分だけすっかり引いてしまってから、クレセントをはずして窓を開けた。寝間着の足もとを鋭い冷たさが撫でて、たとえおだやかでも紛れもなく冬の夜だということを教えてくれる。
「こんばんは。ポケモンの迷子さんかと思いましたよ、玄関からきてくれたらよかったのに」
「寝てるだろうと思ったんだけど、リビングの電気がついてるのが見えたものだから、つい。……お邪魔しても?」
どうぞ、と答えるかわりに体を引いて、人が上がれるだけのスペースをつくる。
シロナさんが靴を脱ぐために窓枠に手をかけてかがんだところで、思いだしたように吹きこんできた風が彼女の髪を揺らした。ふわりと漂ったのは慣れしたしんだコロンの花のような香りと、それから恐らく、アルコールのにおいだ。
鼻を鳴らしはしないまでも、反応でわたしがそのにおいに気づいたことがわかったのだろう。シロナさんはからりと笑いながら「オーバくんたちと飲んでてね」と言った。
「そのうちになんだかヒカリちゃんの顔が見たくなって、途中で抜けてきちゃった」
なんとまあ。
のんびりした言いかたと鷹揚な笑顔についごまかされてしまいそうになるが、言っていることの無計画さはなかなかに看過しがたいもので、わたしは腰に手を当てる。
「もう。わたしが本当に寝てしまってたら、どうするつもりだったんですか? だいいちこんなに寒いのに、海の上なんて飛んだらいけませんよ」
「まあ、それは痛感したかな。途中で何度凍死すると思ったかわからないもの、っと」
さらりと壮絶なことを口にして、シロナさんはリビングに上がってくる。ガブリアスの頭をいたわるように撫でてやり、ボールに戻した。
その背中から腕を伸ばして窓を閉めていたら、彼女がなにかつぶやくのが聞こえた。言葉の終わりしか聞きとれずに問いかえすと、琥珀色の瞳と目が合う。
なんだかさっきとは打って変わって、やけに冷静な表情に見えた。彼女は目を合わせたままわたしの頬に指先を寄せ、ゆっくりと言いなおした。
「それにしたって不用心、って言ったの」
はて。文脈を読めずにわたしが首をかしげると、シロナさんはため息まじりに続けた。
「いま、あたしだってわかる前にカーテンを開けたでしょう。もうちょっと警戒してほしいな。もしあたしが泥棒だったら危ないところよ」
言葉の意味を飲みこむまでに数秒かかって、我慢しようと思ったもののこらえきれず、わたしは吹きだしてしまった。冷えきった指が頬から離れていき、シロナさんが目を丸くする。
「え、ちょっと、なあに? そんなに面白いことは言ってないと思うけど」
「ふふふ、あは、ごめんなさい。だって、こんな遅くにリビングから上がってきた本人が、そんなこと言ってるって思ったら、おかしくって」
「あら。言ってくれるわね」
「ふふ、でも、心配してくれてありがとうございます」
「そうよ、こんなに心配してるのに。……ああだめだ、眠い」
苦笑いしていたシロナさんが言葉の途中であくびをして、そのままわたしの肩に腕を回してくる。抱きしめられる形になって、驚きで思わず体がこわばった。
今日のシロナさんは、やっぱりいつもと違う。言動は脈絡なくふわふわしているし、スキンシップも妙に多い。わたしたちは恋人同士というわけではないので、普段は一定の距離を置いて接しているけれど、お酒というのはその距離をこうも簡単に踏みこえさせるものなのだろうか。
わたしにその答えが分かるのはこれから何年も先のことで、それはフェアじゃない、と不満に思う。
そのくせ彼女のそういう態度に喜んでもいるのだから、心底始末が悪いのだけれど。
「ヒカリちゃん、泊まっていってもいいかな」
身長差のせいで、シロナさんはほとんどわたしのつむじと話しているようなありさまだった。その一方で、シロナさんのおとがいに頭の動きをさまたげられて、わたしからも彼女の顔は見えない。マフラーを巻いた首もとに向かって「そのつもりでしたよ」と答える。
「寝る前に、あたたかい飲みものでも入れましょうか?」
頭の上で、小さな声がううん、と応じる。
「いらないから、今日は一緒に寝てくれる?」
続いた言葉と同時に、背中に回った腕に少しだけ力がこもった。
*
いつもならシロナさんにはゲストルームのベッドを使ってもらうところを、今回ばかりは暖まった寝室に案内した。
急な訪問だったとはいえ、寒い中を飛んできたひとに冷たいままの部屋をあてがうのは気が引けたし、なにより当のシロナさんが一緒に寝ると言って譲らなかった。偶然にしてもよくできた流れで、もはや彼女を迎えるために寝室を暖めて、本を読んでいたような気さえしてくる。
薄いお化粧を落としたシロナさんは、わたしの腰に抱きつくような体勢で目を閉じたきり、静かな寝息を立てている。
何時間か前、早く床に入ろうと考えたときには、まさかシロナさんと同じベッドで眠ることになるなんて夢にも思わなかった。
わたしはわたしと彼女の距離感を適切だと思っていたし、その距離がいつか縮まる可能性はあるにせよ、しばらくはこのままなんだろうとどこかで決めつけていたからだ。
でもそうではなかった。
わたしたちは踏みこんでもいいし、踏みこまれてもいい。今夜、顔が見たくなったからと海を越えてきて、今わたしと一緒にベッドにいるシロナさんを見て、それが分かった。
もともとあってないようなものだった眠気は、気づけばもうすっかり吹きとんでいる。
手持ち無沙汰にまかせて、シーツにちらばった金髪をシロナさんの耳にかけると、指が触れた瞬間に彼女の体がぴくりと震えた。
あくまでもひそやかなひとりごとを装って、でもシロナさんが起きていればはっきり聞こえる程度の声でささやいた。
「来てくれてありがとう、シロナさん。嬉しいです」
友人としておいた距離が、いつか縮まることはあるとしても。
こんなに急なのは完全に想定の外だったからもちろん戸惑っていて、たぶんどこかで拗ねてもいた。お酒を理由にする大人のような、うまい距離の詰めかたを知らない自分に。
だからちょっとした意趣返しくらいのつもりだったのだが、あらわになったシロナさんの耳がぱっと紅くなったので、思いのほか効果を発揮したのだと知る。
窓の外はあいかわらず静かで、気を散らすものはなにもなかった。
わたしは目を閉じる。
ふたりのこれからについて考えを巡らせながら、眠気が戻ってくるのを待つ。
それはまったく、悪い気分ではなかった。