ぬるくつめたく
廊下とダイニングをつなぐ扉をひらいてなかへはいったわたしを、だれかがあかるい声で呼んだ。
向いた先、左手のキッチンカウンターごしにナタネさんが「もうすぐできるよ」と笑うので、立ちいった瞬間鼻腔にみちた芳しいにおいの出どころ、それが彼女の手元の鍋であること、そして中身がほとんど完成している食事だということがわかる。シンクではつかいおわったらしい道具をスズナさんが洗っていて、わたしと目が合うとやはりにこやかに「お皿出しちゃおうか」と言った。
うなずいたのか、視野は一度縦にゆれてからダイニングテーブルのほうへ移った。そういった動作ひとつひとつには終始振りはらえない緩慢さがついてまわり、しかしわたしはそれに違和感を見いださないまま、リビングのソファから腰をあげるメリッサさんとスモモさんを見とめる。
スズナさんの言葉を聞きとどけていたらしいふたりは、彼女たちのうちに根づくやわらかな親切心だけをたずさえ、食卓の用意を手伝おうとこちらへやってくる。ソファでの談笑を引きとったものだろうか、メリッサさんが顔をかたむけてなにか言うと、それを聞いたスモモさんはおおきな目をいっそう見ひらいてかがやかせた。
いずれもしたしい年上の、同性の友人たち。あそびにきた彼女たちとひとつのテーブルをかこんで食事をたのしむための用意は、ほとんどととのいつつあった。
けれど五分と経たずはじまるだろうおだやかな時間、その予感をあたたかく胸に抱きしめるのと同時に、わたしはなにかの喪失を感じている。あまりにも自然につらなる日常が、とりこぼしてしまったものの落とす影をかえって鮮明に映しだすので、どこか落ちつかない気持ちのまま、だれにともなく訊ねた。
——あの、だれかひとり、たりなくはないですか。
なごやかにながれていた空気がひたりと静止し、間もなくとまどいをにじませてうごきだすと、ナタネさんが、スズナさんが、メリッサさんが、スモモさんが、それぞれべつの表情と動作をともなって口々に述べる。
——ひとりおおい、デスか?
——やだあふたりとも! こわいこと言わないで。
——こわいなんて思うの、ナタネさんだけだよー。
——ヒカリさん、だれか、ほかに呼びたかったかたがいたのですか?
時計の秒針がひときざみさえすすまないほど、みじかいあいだのことだ。想像のなか、肩からちからなくたれた腕が持ちあがり、胸の中心へそっとふれる。そこにはごくちいさな径の、しかしわたしのからだの幅をゆうにとおりこす、たとえ永遠に落ちつづけても底までたどりつかないほどふかい穴が口を空けている。
ありもしない穴の、冷淡な空気を吐きだしつづけるふちをくるりとひとなでする幻想のしぐさによって、わたしはつよくたしかめる。
この場にいたはずの、いなければならないはずの、穴を埋めてくれていたはずのだれかをうしなったこと。
そのひとがいた日々、きっとわたしはしあわせだったのだろう。
でも、もう思いだせない。胸の穴へと落ちていき、暗闇に尾を引いたかがやきのなごりさえ、とらえることはできない。
——ううん、なんでしょう、夢とまざったのかな。変なこと言ってごめんなさい。
友人たちがどこかほっとしたような顔になり、それぞれすべきことに手をつけはじめ、あるいは再開するのをながめるわたしの瞳に、なにかあついものがせりあがる。それはやがて表面張力の閾値をこえて目じりからあふれだし、頬を伝うだけにとどまらず床へこぼれたかと思うと、あっという間に室内をみたして水かさをまし、胸の穴へそそぎこむほどの水位になる。
それでもわたしのつま先どころか、とめどなくたどって落ちていく頬さえ、わずかばかりもぬらすことはない。
いなくなってしまってもなお忘れ得ない、かけがえのなかったはずの、大切だったはずのだれか。
そのためにながれるのがまぼろしの涙だけである事実は、わたしに自身へ対するひどい失望をいだかせ、落胆させる。
いっそおぼれてしまえたら報いることもできるのに、あなたのために涙のひとつぶさえ、わたしはながせない。
せめて泣きながら目をさましていればいいと思ったけれど、指先でたしかめたまつげはやはりというべきか、湿りけさえおびていなかった。まばたきをしてまぶたの裏側で感じた瞳の表面も、いたいくらいにかわききっている。
暗闇のなかでゆっくりとからだを起こすと、そこになにがあるのか、それともなにもないのか、知りたいような知りたくないような不確かな気持ちでとなりを見た。ベッドのシーツに落ちる自分のものではない影をじっと見つめて、おおよそのかたちがわかる程度に目が順応してきたところでようやく手をのばす。
最初にふれたのは髪だった。糸の束をなぞるようにさらさらとながれていく感触は、つめたくたよりない。わたしの指は場所をかえて、つぎは耳へたどりつく。こぼれた髪を耳のうしろにそっとかけて、こんどは頬へふれる。そんなことをつづけるあいだに、影のなかにあいまいだったそのひとの稜線は、カーテンのはしからにじみだしてきた夜天光によってすこしずつ浮きぼりにされていく。
夜の海を泳ぐように寄る辺なく、音にせず名前を呼んだのが聞こえたみたいにできすぎたタイミングで、「目がさめちゃったの」と声がした。
わたしの唇はとどこおりなくまわり、「夢を見て」と端的にこたえる。おどろきに息をつめたのもほんの一瞬のことでしかない。
それでもいままでの夜にこんなことはなかったから、すくなからず動揺はしていたんだろう。「どんな?」とつづいたシロナさんの声に、夢を見たなんて言えばそれくらいのことを訊かれるのは予想しておかなければいけないはずだったのに、かえす言葉を空白のうちに見うしなってしまう。
このうえなくこわい夢です。
だってどこにもいない。
あなたひとりだけが。
そんなことを言えるわけがないと、それだけ思いだせればじゅうぶんだった。あとはなめらかさをとりもどした口で「もう忘れちゃいました」と言うのに、さほどの労力はいらない。抱きよせてくれようとする腕をすりぬけてベッドのふちから足をおろし、ひとりごとのように喉のかわきをつぶやいて立ちあがった。
なにか言われる前に、言われても聞こえなかったふりでとおせるようできるかぎり早足で寝室を出ると、まっすぐ階下へ向かう。夜半の、そのくせ電気も点けない家は当然ふかい闇のとばりのなかにあるものの、足は歩きなれた道すじをまよいなくすすみ、からだをどこへぶつけることもないまま、わたしをキッチンまではこんでくれた。
喉がかわいていると言ったのはただの言いわけだ。シロナさんのそばからはなれて、はやがねを打つ鼓動をすこしでも落ちつけるための。口のなかは実際からからだったけれど、水を欲する感覚はちっともわかなかったし、そもそもむりやり飲んでかたちばかりうるおしたところで、奥底のかわきは癒えないと知っている。
自宅のベッドで彼女と眠るとき、夢を見て夜中に目をさます頻度は決してひくくなかった。ただし、たとえばポケモンの背や手を借りず空を飛ぶとか、どんな科学者もなしえなかった世紀の大発見に手がとどくとか、そういったいわゆる『夢のある』イメージにはまったく縁がない。かえすがえすもうんざりするくらいになまなましく、起きたときに一瞬どちらが現実なのだか判断をつけかねるような状況と場面ばかりを、わたしは夢に見た。
時期、場所、顔ぶれ。夢のバリエーションは、もしそうあらわすことがただしいとすれば豊富で、二度おなじ内容を見ることはない。ただなれしたしんだ登場人物たちのなかに彼女ひとりが存在しないこと、そして夢のなかのわたしがそれに気づかず、彼女を忘れてしまっていること、その二点だけがどの夢にも厳然と共通していた。ルールは粛々と適用され、風景を織りだした布に穴をあけ、そこにていねいな仕事で継ぎをあてたように、ほどんどほころびを感じさせなかった。
だから今夜見たものはめずらしい部類にはいるだろう。痕跡とは呼べないあやふやさであっても、彼女の喪失がかすかなひずみを残していくのは。幻想のなかでどこまでもつづく胸の穴や、まぼろしの海にしずむリビングも。
夢のなかでスズナさんがそこに立ち、洗いものをしていたシンクに手をついて、ふかい呼吸を何度かくりかえす。目をとじればナタネさんの手元からただよった料理のにおいや、メリッサさんとスモモさんがカップボードをあけて食器やカトラリーをとりだす音までも、ありありと脳裏に浮かぶ。今夜眠る前、ほんとうにそんなあつまりがおこなわれたかのように鮮明なそれは、夢に見たものをたぐりよせるというより、むしろ回想と呼んだほうがただしいように思える。
あまりにも現実味にあふれた、けれどシロナさんのいない夢を何度も見るわけには、なんとなく見当がついている。夢に理由なんていうものがあるとすれば、の話だけれど。
たぶん心は、バランスをとろうとしているのだ。逃げ道をつくろうと、わたしを喪失に慣らそうとしている——あまりにも、しあわせだから。いっそ信じがたいくらいのそれを万が一うしなったとき、そのまま折れてしまわないように。
自分の無意識がえらんだ手段を、もちろん決してうまいとは思わない。さりとて否定してしまうこともできないから、目をさますたびとなりで眠る彼女にふれて、そこにいるひとがまぼろしでないのを、そうしているのが夢でないのをたしかめていた。そのこころみが今夜ついに夢うつつの意識を揺りおこして、彼女の目をさまさせてしまったようだった。
かわりの手段は思いつかないけれど、なんにせよふれるのはもうやめておいたほうがいいだろう。
そう考えるころには気分も鼓動もだいぶ落ちついていたので、キッチンをはなれるとらせん階段のひややかなステップを一段ずつ踏みしめ、階をあがる。視線を落とした足元には濃い影があって、待ちかまえていたような位置だと思うよりもはやく、ただよってきた花のようなやさしいかおりでそれが彼女だとわかった。
「どうしました?」
「暗いのに、電気も点けないでいくから」
「ああ」
「ぶつかったらあぶないわ、ほら」
シロナさんはそう言って、まるでわたしの目の色まで見えているみたいにこともなげに手をとり、それを理由にしたわりには電気も点けないまま、まっすぐに寝室へとみちびいた。
扉に背を向けて廊下から見たベッドの奥側、いつものポジションへもぐりこむわたしのうえを、廊下で再会したときよりもずいぶん輪郭をたしかにした彼女の影がよぎる。そのまま肩を抱きよせてくれるかと思った手は、うなじにかかった髪の束を背中へそっとはらいのけただけで持ちぬしのもとへもどっていった。
「さっき見たの、こわい夢だったんじゃない?」
「かもしれません。でも、忘れちゃって」
彼女のささやきがまるで大事な秘密を告白する耳うちのような声量だったので、背骨を走ったくすぐったさに身をまるめながら、三分前の言いわけをもう一度くりかえす。それからふと、心配になって問いかえした。
「もしかしてわたし、うなされてましたか?」
「ううん」と否定がかえり、そのまま背後でちいさくつかれた息が、あらわになった首すじをかすかになでた。笑ったようにもため息をついたようにもとれて、けれど笑ったのでもため息をついたのでも、意図はうまくつかめない。
「汗、かいてるみたいだったから」
言われてみればいましがた肌のうえに落ちた吐息は、わずかにひんやりと感じられた気もする。べつの、もっと切実なことに意識をかたむけるあまり気にとめていられなかったものの、やけに口のなかがかわいていたのも、ほんとうはそのせいだったのだろうか。
夢の内容を夢見のわるさごとかくした手前、なんともこたえあぐねていると、こんどははっきりと笑ったシロナさんに、こんどこそ想像どおりの速度で肩を抱きよせられる。
「すごくくっついてたし、寝ぐるしかったのかもね」
からだの前へ腕をまわしながらそう言うわりには、やっぱり抱きしめるちからはゆるまない。けれどわたしはくるしさよりも、かえってあたたかなやすらぎを得る。決してあらあらしくはない、それでも今夜目をさましてからというもの心のうちにとめどなく押しよせていたさざ波の音が、胸のうえで輪になった腕の径がせばまるごとに、たしかにしずまっていくのを感じた。
日々を生き年月を経るうちに身につけた技術なのか、生来の素質なのかわからない。でもとにかくシロナさんは、言葉だけにたよらずやわらかなかたちの感情を伝えるのが、たとえようもなくうまい。しぐさやまなざしにのってそそがれるものはことごとくがわたしになじみ、指先がしびれたり目の前がくらんだり、ときおりは泣きたくなりさえするくらいの幸福をくれた。
だから彼女のいない、そのうえそこにほころびを見いださないような夢ばかりを見るのは、かなしむよりもくるしむよりも、むしろひどく恥ずべきことだと思った。それはわたしがこのひとのうつくしい資質をむげに踏みにじっている、なによりの証拠にほかならない。
どうすれば、どうしたら。
ずっと考えつづけていることだ。思考はいきなりあらたな観点を芽ばえさせるでも、ましてやこたえを出すでもなく、ときたまほそいわき道へそれながら、どこへもたどりつかない往復をくりかえした。
どうすれば彼女がおしみなくくれるものを、とりこぼさずにきちんと受けとめられるのだろう。あまさず受けとれたとして、わたしはそれになにをかえせるのだろう。目をさましたらとなりでしずかに眠っていた彼女はいつ、わたしが汗をかいていると知ったのだろう。となりにいるわたしに髪や頬をなでられて、変に思っただろうか。
そのうち「おやすみ」と声がすると、それがなにかそういった効果をもつ魔法の呪文であるかのように、くっきりとまぶたがおもくなる。眠気の谷底に落ちる寸前、断崖のはしになんとか引っかかったような意識さえ手ばなす前に、どうにか気力を振りしぼって「おやすみなさい」と言う。
それからは朝まで夢も見ず、あるいは見ていても思いだせないほど、ただふかく眠った。
*
いいにおい。
夕食のしたくをすすめるわたしの手元を肩ごしにのぞきこんだシロナさんが、鼻歌みたいにかろやかな調子でそう歌いあげたきり、不自然に言葉をとぎれさせた。
つづきそうだったメロディを聴けず残念に思うのと、なにを見つけてそうなったのかわかってしまっておかしいのと、ふたつが競りあった結果、後者がわずかにまさる。
笑いそうになるのをこらえて、シリコン製のへらでフライパンの中身をかきまぜる手は止めずに、できるかぎりとりすました声で「もうちょっとです」と言った。それでもシロナさんがだまったままなので、おなじ声音で「どうしました?」とつけくわえる。おもしろがっているのがかえってあからさまにうかがえたようで、これはどうやら失敗だった。彼女がわたしの肩にあごをのせて唇をとがらせるのが、ゆがんだ像で視界のはしに映った。
わたしが別荘でつくる食事は、基本的にありあわせの食材をまとめて消費することに重点をおいた、これという名前のつかないようなものばかりだ。それでもシロナさんはおいしそうに口へはこび、実際においしいと言ってくれるものだから、わたしはこのごろしなければいけないからするだけでしかなかった料理というものに、いくばくかのたのしみを見いだしつつある。
いま手元で煮つめられているフライパンの中身は、そのたのしみの一環といえた。シロナさんが味というより食感を厭ってにがてにしている食材をいかに気づかれず、いかにおいしく食べてもらえるか。博士の実験を手伝い、器具や機材を準備するときのような心もちで食材のしたごしらえをはじめ、工程をおえたあかつきにはくだんの食材が煮くずれて外見上の存在感をなくし、食感の主張もほとんどしなくなる算段をつけていた。
当の本人がようすを見にきて発見されるイレギュラーが起こったのこそ、そうしてすすめていた料理がいよいよ終盤にさしかかった折だったけれど、見つかってしまったという落胆はおぼえていない。彼女がついつられて手元をのぞきにきてしまうくらいには、『いいにおい』のするものをつくることができた。このひそかなたのしみを実験に見たてるとすれば、それだってりっぱな結果のひとつといえた。
なので問題はシロナさん本人の気持ちの落としどころだけということになるけれど、これについてはしかたがないし、どうしようもない。頭で考える事実と心で感じる感情にはいつもほんのすこしだけずれがあって、わたしはそれをよく知っている。
「いじわるね」
「なにがです?」
「そうやってとぼけるところ、よ」
シロナさんはわたしの頬をひとさし指の先でやわくつつくと、まるでさそわれたみたいに身をのりだしてまぶたをふせ、フライパンからたちのぼる湯気と、そこに充満する透明なにおいをふかく吸いこんだ。
「ああ、でも、やっぱりいいにおい」
「味見してみますか」
「んー……」
ひらいてあらわれた瞳に、ほとんど選択肢の一方へかたむきかけた、ひとかけらの逡巡がまたたいている。
わたしはもう一度味見を提案するかわりに、コンロの火をよわめて手元の引きだしを引きあけ、木製のスプーンをとりだす。フライパンの中身をスプーンにひとすくいし、何度か息を吹きかけてから、肩にのった彼女の唇へさしだした。
シロナさんがスプーンをくわえ、たったひとくちぶんだけなのにもかかわらずゆっくり咀嚼するのを見ながら、巣にかえってひなに生きる糧をあたえるムクバードの気持ちを想像する。
彼女はわたしよりずいぶん年上だし、もちろんわたしの子どもでもないのだから、実際にはいまの状況とかさなるところなんて、ほとんどあってないようなものだ。それでも「おいしい」と言って喉を鳴らす彼女を見ているこんなとき、わたしは自分の手によるものがいとおしい相手をはぐくむ、いかばかりか知れないそのよろこびへと共感の想いを馳せずにいられないのだった。
「ほんとにおいしい。見なかったら……見ても、はいってるって信じられない」
「ふふ。どうにかおいしく食べてもらえないかなと思ったのですけど。今日はめずらしく見にくるから、ばれちゃいましたね。もうちょっとなのに、おしかったです」
「あらためて言われると恥ずかしいなあ。おなかすいてたところにいいにおいがしたから、ついのぞきにきちゃったのよ」
ぼやく声も内容もかわいらしいやらおかしいやらでこらえきれず、シロナさんがいるのとは反対側の唇のはしが持ちあがってしまう。すると彼女があんまり深刻そうに「知らないままでいれば」とため息をつくので、胸の奥からささやかないたずらごころが顔を出した。
「もう。おいしいって言ってくれたでしょう」
「それはそうだけど。おいしいけど」
「けど?」
「えっと、ほら。こういうのってやっぱりね、心理的なものというか」
「……せっかくつくったのに、かなしいな」
「う」
「決めました、文句のあるひとには食べさせてあげません。そのほうが夕ごはんにとってもしあわせでしょうし」
「ちが、あの、文句なんてないの。ごめんなさい」
もうそろそろ、わるふざけも切りあげていいころだろう。悲嘆をよそおっていた声音をがらりと切りかえ、わざと尊大に「よろしい」と言いはなつ。
からかわれたのをさとったらしい彼女は、もう一度頬をつついてきて抗議をしめすと、正面へ腕をまわしてわたしを抱きしめた。
夕方と夜のはざま、どちらに染まろうか決めかねているキッチンでふいに生じた愛情のしぐさは、振りかえっておなじだけのつよさで抱きしめかえしたい衝動に、わたしをかりたてる。けれどあいにく両手はへらとスプーンとでそれぞれふさがっていて、そうしたいとのぞむように彼女の体温をとじこめることはできない。
「ふざけすぎちゃいましたね」
言って、抱擁のかわりになるようにと願いながら背中のぬくもりへあずけた体重を、芯のとおった背すじのしなりが苦もなく受けとめる。腕のちからが一瞬つよまり、わたしは胸の中心を起点にわきだした感情がからだじゅうをしびれさせるのを感じながら、どうにか彼女の名前を呼んだ。
「お皿の用意、おねがいできますか」
「もちろん」シロナさんはわたしの肩口へこころよくささやきを落とし、味見につかったスプーンを指先からとりあげた。「味見はもうじゅうぶんよね」
「わたし、いつのまに味見したのでしたっけ」
「もしかして、あたしの味見が信用できないっていうの?」
話に聞く、『自分のついだお酒が飲めないのか』とせまるたちのわるい大人のような口ぶりで彼女が言うので、信用しますとこたえるのと笑いだすのとがかさなり、声はおかしなゆがみかたをする。そういう、まるきりふたりで遊んでいるだけのような手順で、わたしたちの食卓はととのっていく。
シロナさんは味見に多大なる自信をのぞかせたのをすっかり忘れて、はじめて口にしてそう感じたみたいに「おいしい」と感嘆の声をあげたし、これならいくらでも食べられるからまたつくって、とまで言った。そうしてわたしは彼女に見つかるトラブルをのりこえて実験が成功裡におわり、およそ考えられるかぎり最良の結果を得られたのを知る。自分の手による名前のつかない料理は、なんともすばらしい味わいに感じられた。
そんなふうによろこびにみたされた家に、夜は音もなくやってきてわたしたちをつつむ。あいかわらずすきまなく抱きしめられて眠りにしずむと、いつにない数の夢を見た。
両開きの扉がおごそかにひらかれると、地をゆらすような歓声と色とりどりのきらめきのなか、バトルタワーのスタジアムが目前にひろがる。スタジアムの真向かいに立つクロツグおじさんはおさななじみの未来を予感させる顔だちに、頂点に立つもののきびしさと近所のやさしいおじさんの柔和さの、ちょうど中間の表情をたたえてチャンピオンの肩書きを名のった。きみがここまで来てくれてうれしい、でも手かげんをするつもりはない。そう言って唇の片側をもちあげるかれにほほえみかえし、もちろんですと言ったわたしの声は、たぶんスタジアムをみたす歓声のすきまを縫い、かれとわたしの耳だけにとどいた。
熾烈をきわめるバトルはその決着を見る前につぎの夢へとつながって、わたしは駆けつけてくれたジムリーダーたちにキッサキ港からの船出を見おくられたかと思えば、しょうぶどころでバトル談義に花を咲かせ、別荘ではかろやかに踊るメリッサさんのダンスに見とれた。
筋道だったストーリーも関連性もない、たったひとつの共通点だけを軸にして無数につらなる映像をながめるうち、意識はしだいに自分をとりまくものが、ふせたまぶたの向こうにうすく現実を感じながらすごすまどろみとは、決定的にちがうのをさとりはじめる。
それはいままでにないことだった。いままでになかったからこそ目ざめる方法にもおぼえがなく、気がついたわたしは途方にくれた。
きっとこれは、揺りかえしなんだろう。一見なにげなくながれていくだけのようでいて、その実こっそりとセピア色のフレームに切りとられたいせつにしまっておかれる、彼女とのいとおしい時間。その揺りかえし。バランスをとるための自己防衛反応。
それはわかっても、いまはこの光景のどこにもいない彼女に会いたかった。抱きしめ、抱きしめかえされたときに胸をみたす、あのたとえようもないよろこびにとけてしまいたかった。名前を呼んだわたしを見かえす瞳にまたたく、ふかいいつくしみの光に照らされたかった。
肉体をうしない寄る辺なくただよう意識はむきだしで、欲求は乱暴なまでに直接的な波長となってわたしの周囲をゆるがせる。それでも夢の世界そのものにはなんら干渉せず、とどこおりなく演じられつづける光景からは音飛びした映画のフィルムのように、ただひとびとの声と音だけがときおりうしなわれた。
このままずっと、ここにいるのかもしれない。ぬくもりと光に満ちみちながら、彼女だけをおいてすぎていく世界に。ちいさな穴がぽっかりと口をあけ、どこまでもつづいている夢のなかに。
いつしか浮かびはじめたそんなあきらめも、やはりだれにかえりみられることもなく消えたころ、つめたいものにまぶたをおおわれる。
音もなく、二度目の夜がくる。
急な覚醒と同時に息を吸いこんだ喉を、たかい音をともなって夜気が落ちていく。ぞっとするようなつめたさに思わず咳こむと、目をあけるまでまつげのうえに感じていたかすかなおもみがなくなり、黒一色だった視界は誤差か気やすめ程度に明度をあげた。
「……シロナさん?」
そのひと以外そこにいるはずがないからかすれた声でそう呼んだのに、暗闇からはなんの声もかえらない。まだ夢がつづいているのかと冷や汗がにじんだところに、ようやく「うん」とこたえてくれるのを聞く。
となりに横たわっているのではありえないたかさからごく落ちついて平坦なトーンで降ってくる声は、彼女が身を起こしていた時間を思わせ、そこからみちびかれるひとつの可能性をしめした。
「わたし、やっぱりうなされて」
「ううん。そういうわけじゃない」
「じゃあ」
どうして。
つづけた言葉にかさなった衣ずれが、ほとんどあえぐような疑問の声を結果的に打ちけした。
ベッドからおりたシロナさんの気配は、さほどはなれないどころかすぐそばにとどまり、なにやらごそごそと音をさせはじめる。そのあたりにはナイトテーブルとそこに載ったテーブルランプ、それからランプの脚に立てかけて置かれたちいさなハンドバッグがひとつあるだけだ。寝間着、歯ブラシ、基礎化粧品——ひととおりの日用品をこの家に持ちこみおえて、ほとんど身ひとつで泊まりにくるようになった彼女の。
やがてもどってきたシロナさんは、シーツのふちに乗りあげたらしくスプリングをきしませながら、「手、出して」と言う。
どこまでもつづくかに思えた夢、おわらない旅路、やはり今回も出会えなかった彼女。それらをとおりすぎて消耗したわたしは、なにかを考えるにあたってはすこしくたびれすぎていた。暗闇にまぎれてすがたの見えないまま語りかけてくる彼女の声は、まだながい夢のふちにとどまっているような錯覚をあたえて、ただでさえすりへって底をつきそうな気力と意思はよけいにぼやけた。
シーツに手をついてのろのろと上体を起こす。こう暗いのでは出したところで見えないはずだとか、結局どうして起きていたのだとか、そういう疑問をすべて振りきって言われるまま出した手のひらに、なにかがぽとりと落ちてきた。
それはちいさく細身の、だいたい棒状とあらわせる物体で、氷のかけらでも落とされたのかと一瞬肩がはねてしまうような、硬質なつめたさをおびている。もちろんそんなわけもないから、うまくまわらない頭のかわりに皮膚感覚があてはまりそうなものをさがしはじめ、たった一秒のあいだに目まぐるしく検討していく。
針金、ペンダント、どこかのねじ、イヤリング。
——鍵。
おおよその形状と、手ざわりから推測できる材質。シロナさんのちいさなハンドバッグからとりだされ、あえてわたしに手わたされる。条件をみたしそうな名称、そしてそれがどの鍵穴にさしこまれるべきものかという考えにいきついた瞬間、思考はわずかな流動性さえうしなって完全に停止する。
反対にからだはどこからか電気的な信号を発し、もっときちんとかたちを把握するべきだとうながした。そうして無意識のうちににぎりこまれた手のひらで、わたしは物体の表面をはしるこまかな溝やふちの隆起、いずれも硬質でひややかな感触をたしかめ、よけいにぽかんとした。
「合鍵。もらってくれる?」
風に摘みとられて偶然手のなかへ落ちてきた花でもわたすような、ささやかなたからものをくれるときの言いかたをするシロナさんの声だけが、闇のなかにやわらかい軌跡をえがいた。それを聞くと頭はようやくなにか言葉を発するのに足るだけの、最低限のはたらきをとりもどしてまわりはじめる。
「な、なんで」
「夜中に起きるのは、ヒカリちゃんの家に泊まるときだけ。ちがう?」
そうだともそうじゃないとも、こたえることができない。目をきつくつむり、ただ口をついて出てくるなんでとかどうしてとかの言葉を、まるでそれしか記録されていないレコーダーみたいに単調にくりかえしながら、わたしは察した。
いつ、なにがきっかけだったのかはわからない。けれどとにかく、あの夜はじめて起こしてしまったのだとばかり思っていた彼女は、実のところそれよりずっと前から気がついて、知っていたのだ。わたしが夜中に目をさまし、自分の頬や髪にふれることがあるのを。
もうひとつ、訊ねるかたちをとりながらそれと確信している、まよいのない問いかけの先に彼女が言うだろうことをさとって、だれにともなく願った。かくしおおせているつもりだった行動を知られていた、そんないたたまれなさやうしろめたさもかすむくらい切実に。
その先を。
「そうなんでしょう。だったら眠れないときね」
言わないで。
どうか。
「——うちに、きたらいいと思って」
やはりなにげないことをなにげなく提案するときの声であえなく散った祈りは、暗闇にくだけて星のようにまたたいた。ひらいた目に無数のうちのひとつが落ちてくると、それはまなじりでせりあがる、温度のないなにかへかわる。
まばたきで押しだすまでもなくあふれ、たしかに頬をぬらす現実の涙は、すずしい夜気にさらされてさがった体温でもそれとわかるくらいつめたかった。そういえばこの家でむかえる夜、シロナさんのとなりで見る夢はどれもぬくもりやはっきりした熱にみちていた、と気がつく。指にかけては落とした彼女の髪、はだしで踏みしめた階段のステップ、首すじにかかった吐息、まぶたにのった手のひら——現実の夜でふれるものたちがやどす、いずれも夢にはないひややかさを意識した手のうえで、鍵のひくい温度とおもみが急に存在感を増した。
「もちろん寝るためじゃなくても、いつでもきていいから。……ええと、掃除はがんばるつもりよいちおう。だからむしろ、油断するひまもないくらいしょっちゅうきてもらえたほうが、部屋をきれいにしておけていいかも、なーんて」
シロナさんは矢つぎばやにそこまで言ってから、かすかに息をついた。吐息にこめられた機微をあの夜とおなじく判断しかねているあいだに、「ねえ、もらってくれないの」とつづけた彼女の指は頬へふれ、ぬれた線をあやまたずなぞる。
声を出してもからだをゆらしてもいないけれど、こんどはもう、どうしてとは考えなかった。わたしが夜中に目をさまし、自分の頬や髪にふれることがあるのを知っていたこのひとは、たぶん喉がかわいたと言ってキッチンへおりたあの夜、わたしが水なんて飲まなかったことも知っている。それなら音も声もうごきもなく、暗闇でながれる涙の線を正確にたどる芸当だってできるのだ。きっと難なく、当然のように。
わたしはそこでようやく「ほしいです、ください」と言う。実際はどもりながらだったし声もふるえたけれど、とにかくシロナさんの差しだすものを受けとる、受けとりたいのだという意思をしめした。言葉にたよらず感情を伝える、そのたくみさにあるのだとばかり思っていたこのひとの資質が、どうやらもっと広範にまでおよんでいるらしいことをかみしめながら。
ぶかっこうな意思表示に「うん」とみじかくこたえたシロナさんが、頬から手をはなし、鍵をにぎったわたしの指を手のひらでつつんだ。手のうえとなか、つめたい指同士と鍵はそれぞれの境目を溶かすようにすこしずつ温度を分かちあい、けれど決定的にはまざりあわない。
まるで彼女の家の扉をひらくためのちいさな鍵が、あるいはその先にいて、いまこうしてわたしをとらえている彼女自身の手が、現実につなぎとめるみたいだと思う。いまがしあわせで、そのしあわせをうしなうのがたまらなくこわいから夢に逃げようとする、わたしの心を。
ふいにもう一本の腕が背中へまわり、彼女の手ごとわたしを抱きよせる。鍵をつつんだふたりぶんの指が、ふたりぶんの鎖骨のあいだでゆるくおしつぶされるのを感じていると、「でも」とささやく声が耳にすべりこんで、見えもしないのに顔をうえに向けた。
「泣くひとには、あげられないなあ」
眠る前のことをやりなおすように既視感をおぼえる言いまわしをした彼女が、あの夜をやりなおすように既視感をおぼえるタイミングではっきりと笑うから、涙はかわくいとまもなくあふれてくるけれど「さっきのしかえしですか」とかるい口調で言いかえすことができた。
ちいさな鍵をひとつもらっただけでなにが決定的にかわるわけでもなくて、このひとがおしげもなく、それでいてごく自然にくれるものを、わたしは声をふるわせるようなつたないやりかたでしか受けとめられないままだ。もしもいつかすべてまぼろしだったと知る日がきても折れずにいられるよう、わたしの無意識はこれからも彼女がいない世界を夢に見せ、わたしはきっとそのたびに目をさますだろう。
それでもいまは、夜のなかでも涙のとおり道を見うしなわないこのひとの手が、わたしをぬるい夢から引きもどしてつなぎとめるのだと知っている。
だからあなたのくれるものをじょうずに受けとれるようになるまで、きちんとそれをかえせるようになるまでもうすこしだけ待っていてほしい。
きっとあたえただけのなにかをかえしてほしいとも、とくべつなものを差しだしているとも思っていないシロナさんへそう伝えるかわりに、わたしは「もうぜったいにかえしませんから」と言う。彼女に読みとられているはずのなさけない顔で、せいいっぱい笑ってみせる。