名前を知らない
その日も、スケジュールの空白をすりあわせて合流したヒカリちゃんと、手近な店に入ってお茶をしながら、とりとめのない雑談に花を咲かせていた。
ナナカマド博士の食への関心のうすさに手を焼いていること、しょうぶどころのご主人謹製の新メニューのこと。ナタネがお化けぎらいを荒療治で克服しようと通算何度目かの洋館突撃を敢行したこと、あえなく失敗したこと。
これを言うと周囲の人間は一様に意外そうな顔をするものの、彼女と過ごすあいだ、バトルについて話が及ぶことはまったくと言っていいほどない。
とくにそういった話題を避けている意識もないのだが、しいて言えばあたしが敗れたあのバトルで、たがいにトレーナーとして語るべきことをすべて語りあってしまったせいかもしれない、と考えることはあった。あのバトルを終えたあとで、もはやつくす言葉もその意味もないものだ。そして希望的観測を多分にまじえて言うなら、彼女も同じ考えを持ってくれているのではないかと思う。
彼女といるあいだの感情を、ひとことではあらわしがたい。
ひもといてならべてみると、一番上にくるのは想定し得なかった現状への驚きで、わずかな差を開けて新鮮さがつづく。そこからまたさらに下がり、しかし無視できないほどの存在感をしめすのが、胸のうちでなにかの噛みあう感触だ。
ひとつふたつどころではなく年のはなれた少女と、こうして気のおけないような仲になることに、あたしはどうしてか違和感のひとつもおぼえていなかった。
むしろ、現状のほうが本来あるべきかたちとさえ思える。まるで、知らぬ間になくしてしまっていたパズルのピースがやはり知らぬ間に戻ってきて、最後のすきまにかちりとはまりこんだように。
そうまで言うのだ、当然いくら話したところでなごりはつきないものの、彼女もあたしも予定の合間を縫うように顔を合わせているとあって、いずれは別れの時間がやってくる。
店を出て、ポケモンをボールから出せる広い通りまで肩をならべて歩くさなかだった。かたわらから、なにげない調子で名前を呼ばれた。
横を向いて目にした顔には、ふだんの彼女がおおかたそうであるように、おだやかな表情がのっている。
ヒカリちゃんは二度まばたきをしてから、「あの、わたし」と切りだした。
「シロナさんのことが、好きです」
「……うん」
「勝てたら言おうと思っていたのですけど、ずっとタイミングをのがしてしまっていました」
ずいぶん熱烈な親愛の表現だとは思ったが、それがうとましいはずもない。あたしが一方的に好意を押しつけているのではないとわかり、かえって安心したほどだった。
これはこちらも、それなりの言葉をかえさなければならないだろう。
そう思って口をひらきかけたところで店の前の短いアプローチを歩きおえ、通りに出る。数歩前に出たヒカリちゃんが腰のボールをアンダースローで真上に投げたので、なんとなく機を逸して、喉元までのぼった声をのみこんだ。
ボールからはなたれて空中でくるりと一回転したムクホークが、体躯とそれにともなう重さを感じさせないかろやかな動きで着地する。目の前に毛艶のいいとさかを突きだされ、それをくすぐるような手つきでひと撫でしてやってから、ヒカリちゃんはこちらを振りむいた。
笑っている。
その様子に、ふだんとなんら変わるところはない。
そのはずが、少女の笑顔を見ながら、あたしはなぜかのみこんだ言葉を口にしなおせないでいる。彼女といるあいだ、ずっと胸の中にあったあたたかいものが急に影をひそめ、かわりにボタンをかけちがえたような感覚が腹の底にわだかまる。
「でも、だからどうなりたいとかではないのです。ただ言っておかないと、と思っただけで」
「ええっと……」
なんだかおかしい。これでは熱烈な親愛どころか、まるで。
あたしが無言で混乱しはじめたのを知るよしもなく、ヒカリちゃんは体勢を低くしたムクホークにまたがった。座る位置の微調整など必要もなさそうなあたりは、さすが相棒と言うべきか。いや、今そんなことはどうでもいい。やはり混乱している。
「なので、お返事はいりません。それじゃあ」
笑顔のままきっぱりとそう言ったあるじにやさしく翼をたたかれて、ムクホークは飛びたった。見る間に小さくなっていく巨鳥の影を呆然と見あげていたら、その軌道から灰色のなにかがひとひら落ちてくる。
風にたよりなくゆられながら降りてくるムクホークの羽へ手をのばし、指先でつかんだ瞬間、ようやくはっきりと思いいたる。
彼女の言葉がつまり、親愛から出たものなどではなかったらしいことに。
*
先日、ヒカリちゃんに好きだと言われた。どうも友情の範疇ではなく。
試合の待機時間中、リーグのカフェテリアで端的にそのことを告げると、オーバくんは意外にもたいしたリアクションをかえさなかった。表情を変えないまま、まさに今口に運ぼうとしていたサイコソーダの缶を取りおとしただけだ。もっとわかりやすく、たとえば座っている椅子から転げおちる程度の反応は見せるかと予想していたのだが。
サイコソーダは大股を広げたオーバくんの足のあいだに当たってバウンドし、にぶい音をたてて白いリノリウムの床へ墜落した。ひとまず横だおしになった缶をおこしながらも、足元に広がっていく無色透明の液体にあたふたしているかれへ、つい一分前に自販機で買ったばかりのサイコソーダを放る。それから手近なテーブルにあった使いすてのダスターを手にとり、しゃがみこんで床をぬぐった。
とはいえ、うすい不織布一枚きりでは拭きとれる量もたかが知れている。あわててはいてもさすがの反射神経で缶を受けとり、「なっ」やら「ちょっ」やらの短い抗議らしき声を上げているオーバくんに目くばせすると、かれもはじかれたように別のテーブルからダスターを引っつかんできて、あたしの正面で小さな水たまりを拭きはじめた。
「なんでおれがやらかしたみたいになってんですかね」
「そんなこと言ってないでしょ」
「顔に書いてあんですよ顔に! あーもう、シロナさんがコーヒーじゃないなんて珍しいと思ってたら、こういうことかよ」
「でも、言うほど驚いてもいないみたい」
床を拭いているのだから、当然視界に入るのはせっせと動くおたがいの手とその下の布のみだ。そんな中でオーバくんの手がぴたりと静止するものの、すぐにまた動きだす。
最後の仕上げというにはいささか雑な動きで何度か手を往復させ、オーバくんは立ちあがった。くしゃくしゃのまま捨ておかれたダスターに、あたしが眉をひそめるのも意に介さない。
「拭いたって広げるだけなんだから、吸わせときゃいいんです」
投げやりにそう言って手を振り、どかりと椅子に座りなおす。
あたしはため息をついてから、放置されたダスターに自分の持っていたそれを近づけて、サイコソーダがこぼれた箇所をつつむように丸くととのえた。パステルピンクとライムグリーンの布はそれぞれ色をだいぶ濃くしている。
立ちあがってそばの椅子を引き、自分も腰かけると、かれがあらためて缶のプルタブを起こしながら「いただきます」などとりちぎに言うので、つい笑ってしまった。
「もう変なこと言うのやめてくださいよ」
「いつ変なこと言ったわけ、あたしが」
「それもそうか。じゃあ妙なタイミングでひとを驚かすの、やめてください」
「で。なにか、知ってた?」
オーバくんは頭の上に指をやった。他人からは頭頂部のふくらみをふわりとつかんだようにしか見えないそのしぐさは、もしかすると本人としては頭をかいたつもりだったのかもしれない。
「知ってたっつうか。おれ、リーグがはじまるまでナギサにいたでしょ」
うなずくかわりに目を合わせた。
かれの言う『リーグがはじまるまで』は、ギンガ団の件が収束するまで一時的に休止していたリーグが、いまだ公にはされていないアカギの『失踪』をもって組織が瓦解したものとみなし、公式戦の再開を決定してから、実際に再開されるまでの空白期間のことだ。オーバくんはそのタイミングで、ナギサシティに到達したヒカリちゃんと顔を合わせている。
だからこそ、話す相手にかれを選んだのだ。リーグの面々の中で、ここにやってくる以前の彼女と直接会って話したことがある人間は、あたし自身を除けばかれしかいない。
「ヒカリがデンジに勝ったあと、街中でばったり会ったんで、昼めしにさそったんですよ。そんとき、これからどうするとか、まあそういう話になって。ヒカリが、シロナさんに言いたい……あーいや、伝えたいだったかな。とにかく、そんなことがあるんだけどどうすればいいと思うかって訊いてきたんです」
「へえ、それで」
「おれ、そのときは今までのお礼とか、そんな話だろうと思ったんで。リーグにくればいいだろって言いました。なにか知らないけど、トレーナーが会話するなら方法はバトルだけで、それはシロナさんも同じだって」
まるでトレーナーがバトルしかコミュニケーションの手段を持たないような言いぐさだが、そうかと言っていっしょにしないでと一蹴できる内容でもないので、なにも口をはさまずにおく。
「納得したみたいに見えましたよ。それからほんとうにリーグにきたし、勝負したあともシロナさんとは仲よくやってるみたいだったから、言いたいことは言えたんだろうと思ってましたけど」
オーバくんはいったん言葉を切り、「あれがまさか、そういう話だったとはなあ」とつぶやいて缶を口元へ持っていきながら、横目で胡乱気にこちらをうかがった。あたしがまたかれの言うところの『妙なタイミング』で『変なこと』を口ばしるのではないかと警戒しているようだった。
あたしは肩をすくめて、テーブルに頬杖をつく。
タイミングをのがしていた、と語ったあの日のヒカリちゃんの言葉を思いだしていた。
ナギサでオーバくんにリーグ挑戦をすすめられた彼女は、リーグの頂点までやってきて、最終的にあたしを下した。けれど彼女はそれからしばらく、あたしのおぼえているかぎりでは殿堂いり後の事務処理やらなにやらに忙殺される、怒涛の日々をすごしていた。伝えたいことを伝えるひまなど、実際なかったはずだ。
それなら彼女は、あの日までどんな気持ちでいたのだろう。
ようやくゆるやかな流れに戻った日々の中、あたしがのんきに年下の友人との逢瀬を楽しんでいるあいだ、いったいなにを思っていただろうか。
喉を鳴らしてサイコソーダを流しこんでいたオーバくんが、ふいにこちらを向いた。
「それで、なんて返事したんです」
「してない」
「はあ?」
片眉を上げるオーバくんに、してない、ともう一度くりかえし、頬にあてていた手で目をおおった。
「そういう意味だと気づかなかったから」
「でも、さっきは」
「わかったのは、ヒカリちゃんが行ったあと。別れぎわに返事はいらないって言われて、それでようやく」
「ならなんで今、おれにこんな話してるんですか」
「……リーグにくる前からあの子のこと知ってるの、オーバくんしかいないから、と思って」
声のまざった長いため息が聞こえ、目元から手をはずしてかれのほうを見る。
オーバくんは中身のすくなくなったらしい缶のふちを指先で持って、空中でゆるやかな円をえがきながら、視線を合わさずにあたしの名前を呼んだ。
「なにを困ってるんです?」
「困る?」
「困ってないんだったら、動揺してる」
どちらにせよ、まったく身におぼえがない。かれがなにを言わんとしているのか読めないので、ただ言葉のつづきを待つ。
「だってそうじゃなきゃあ、そんなデリケートな話題、よりにもよっておれのところに持ってきますかね」
「だから、前からヒカリちゃんのことを――」
「いくら前から知ってるったって。それを言うならジムリーダーの女の子たちとか、適任はほかにいくらでもいるでしょ。……だいたいシロナさん、そういう大事なことを他人に相談するタイプでもないだろ」
頭をしたたかに打ったような衝撃だった。
組みたてたと思っていた論理が、音を立ててくずれていったあとに、ふしぎとなにかの腑に落ちる感覚が残る。
そうか。あたしは動揺しているのか。好きだと言われて、自分でも自分の感情や思考を把握できないまま、オーバくんにこんな話をしにくる程度には。
「……どうすればいいんだか」
だれに言うでもなくつぶやき、前髪に指を差しいれてかきみだす。
サイコソーダの最後のひとくちを飲みくだしてからもう一度、今度は短く息をついたオーバくんが、気だるげに椅子から立ちあがった。
「さあ、おれにはわかんないですけど。とりあえずは、一度話でもしに行ってみたらどうですか」
言いながら足元の缶とサイコソーダを吸ったダスターを拾いあげ、二本の缶を顔の横でかるく振ってみせる。
「ごちそうさんっす」
あたしが片手を上げて応じると、オーバくんはきびすをかえして歩きさった。
すこし間をおいて、缶とダスターをごみ箱へ放りこんだらしい音が聞こえる。かれの腰からぶらさがったサスペンダーの立てるかちゃかちゃとした音が遠ざかり、やがて聞こえなくなっても、あたしはまだ椅子に座ったまま、彼女と話すべきことについて考えていた。
*
時間を見つくろい、マサゴタウンへ飛んだ。
のどかで牧歌的な町だ。起伏のない平坦な地形の上に似たような色あいの家々が立ちならび、ポケモンセンターとフレンドリィ・ショップまでもがどこかこじんまりとしている。
大きな建物はひとつしかなく、目的の場所はすぐにわかった。
玄関脇のインターホンを鳴らすと、応答のかわりに中からぱたぱたという足音が聞こえて、扉が開けられる。
「すみません、インターホン、調子がわるくて。音は鳴るんですけど……あれ、シロナさん」
顔を出したのはヒカリちゃんとジュンくんの友人で、もともとナナカマド博士の助手をしていたという少年だった。
名前はたしか、なんといったか。
あたしの目がおよいだのを見てとったか、少年はパイン材の扉を肩で大きく押しあけてから、にこりと笑って「ナナカマド博士の助手の、コウキです」と名のった。
「ああ、コウキくん。ごめんなさい」
「気にしないでください。ぼくはふたりみたいに、バトルはしないですから。――あの、博士は今カントーの学会に出かけていて、あさってまでは戻らないのですが」
「いえ、今日は博士じゃなくて、ヒカリちゃんに会いにきて……」
きれいに上がっていたコウキくんの口角が、わずかに下がったように見えたが、おそらく気のせいだろう。少年はなぜかあたしの目的が意外だったらしく、小さく首をかしげた。
「ヒカリちゃんですか。ええと、ソノオタウンに、ミツハニーの生態調査をしに出かけてますよ」
「ソノオ。たしか、花畑のあるところだったかしら」
「そうです。帰ってくるまではもうすこしかかると思いますけど、よかったら中で待ちますか?」
数秒考えてから、首を横に振った。
「ありがとう。でも、どうせ時間もあるから、ソノオまで行ってみるわね」
コウキくんはそれ以上中で待つようすすめてくることもなく、頭を下げた。礼儀ただしい子だ。とはいえ、あたしの知っている子どもはたいていこうだった。大人よりもよほどしっかりしている。
会釈をかえし、研究所の玄関をはなれて通りに戻った。
ポケッチのマップアプリを起動し、ソノオタウンのくわしい場所を確認する。ピンがしめしたのはコトブキからもさらに北のあたりで、さすがに徒歩でいくには無理のある距離だ。いったん町のはずれまで出てから、また空を飛んでいかねばらないだろう。
マップアプリを終了し、ポケッチの画面を見るためにまくった袖を戻したところで、背後から足音が近づいてくる。振りむくと、コウキくんが玄関の扉を開けはなしたまま、通りまで出てきていた。
「あの、シロナさん」
「なあに?」
コウキくんはばつがわるそうに視線を落として、しぼりだすように言う。
「……ヒカリちゃんと、なにかありましたか」
とつぜんの質問に、あたしが虚をつかれて反射的になにか、とくりかえすと、かれは視線だけであたしの顔を見あげた。
「えっと、その。けんかした、とか」
単に『なにか』なら、たしかにあった。けれどこの様子では、すくなくとともかれがヒカリちゃんから『なにか』について聞きおよんでいるということはなさそうだ。
腰をすこしかがめて、少年と目線の高さを合わせる。
「してないけど、どうして?」
コウキくんの表情がほころびかけ、しかしすぐにそれをいましめるように引きしめられた。
「けんかしたわけじゃないのなら、それでいいのです。ただ」
「ただ?」
「ヒカリちゃん、急にシロナさんの話、ぜんぜんしなくなったから。もしかして、なにかあったのかと思ってしまって……」
なにを言ったものかわからなかったが、ひとまず彼女のことを心配する少年に向けて、表情と声だけはあかるく取りつくろってみせる。
「最近はいそがしくて、なかなか会えてなかったの。だから元気かなと思って、顔を見にきたのよ」
「そうでしたか。それなら、よかったです。ごめんなさい、いきなり変なこと言って」
はっきり照れくさそうな笑顔になったコウキくんは、ふと気づいたように「引きとめてすみません」と頭を下げ、研究所へ引きかえしていった。建物の中へ入りぎわ、こちらを向いてもう一度会釈をしてくれたので、小さく手を振ってかえす。
玄関がぱたりと閉まってから、手を下ろして深々とため息をついた。
やはり子どものほうがしっかりしている。
大人――いや。あたしよりも、よほど。
*
ソノオタウンはマサゴに引きつづき、はじめて訪れる町だった。
だというのに今度の目的は町でもっとも大きな建物ではなく、きゃしゃな少女ひとりだ。はたして首尾よく見つけられるかどうか不安だったが、町へ足を踏みいれた瞬間、それが杞憂にすぎなかったのを悟った。
見わたすかぎりポケモンセンター以上に背の高い建造物はなく、民家や施設が寄りあつまって建っている区画から柵でへだてられた先は、ときおり思いだしたように見られるなだらかな隆起まですべて、あわい色あいの花々におおいつくされている。
色とりどりの花びらが風に舞うどこか非現実的な光景の中、探しびとはすぐに見つかった。
視界をさえぎるものがないので、ぽつぽつと生えた木のそばにいた彼女からも、こちらのすがたはずっと見えていたらしい。あたしが歩いて近づくよりも早く、少女が花畑の中を小ばしりに駆けよってくる。
「シロナさん。どうしたんですか」
柵ごしに向かいあった彼女の声も表情も、あまりにもふだんどおりだった。丸くした目や声音を見れば驚いているにはちがいないはずだが、その驚きはただ友人と意外な場所で出くわしたから、という域を出ないように思えて、あたしは一瞬面くらってしまう。
経験がないので聞きかじった話を総合するしかないものの、先日好きだと告げたばかりの相手と顔を合わせたら、多少なりとも気まずさをおぼえてぎこちない態度になったりするものではないのか。
だが降ってわいたその考えは、そもそもここへこようとした理由を思いだしたことによって、あっけなく霧散する。
前提をすっかり失念していた。一度咳ばらいをしてから、口をひらく。
「研究所に行ったら、きみはこっちにきてるって言われたから」
「研究所に? でも、博士は学会でカントーに……」
「それ、コウキくんからも聞いたわ」
自分に会いにきた、という発想はちらともうかばないらしい。苦笑しながら「きみに会いにきたの」と言うと、感情の読めないフラットな口調と表情で「そうなんですか」とかえされた。
子どもの腰ほどの高さしかない、木の柱のあいだにロープをわたしただけの簡素な柵をまたいで越え、花畑に足を下ろす。
「調査って、あとどれくらいで終わるの?」
ヒカリちゃんは脇にはさんだバインダーを体の前へかかえなおし、わずかに首を横にかたむけた。
「もうすこしで」
「それなら、ぶらぶらしながら待ってる。ソノオにくるの、はじめてだし」
わかりました、という返事を背中に受けながら歩きだすと、何歩か進んだところで、背後から名前を呼ばれた。
「ごめんなさい。そことあっち、まだデータを取りおわってないんです。待っていてくれるなら、奥のほうでお願いします」
そことあっち、のあたりで目印になるものがあるらしいと横を向けば、どうやら点々と生えた木のことを指しているようだった。コウキくんはミツハニーの生態調査だと言っていたから、幹かどこかに蜜を塗った際の反応でも調べているのだろう。
じゃまになるのは避けたかったので、もともとこのあたりで待つつもりもなかった。それを告げるかわりにひらひらと手を振り、できるだけ土がのぞく部分を選んでふたたび進みはじめる。
そのまましばらく歩いていくうち、花畑の中にぽつぽつと、かがみこんで花をつんでいる人影が見えてきた。数はすくなく距離もそう近くはないが、一面パステルカラーにおおわれた地面からときおり伸びる人間のすがたは、はなれていてもよく目立つ。
いくつもの道具がのぞく作業用のポケットを腰に巻き、片腕にあまるほど花をかかえた風体を見るに、観光客ではなく地元のフラワー・ショップかなにかの人間だろう。これほど花にあふれた土地なのだ、そういった店が産業の中心になっていてもふしぎではない。
なんとなく足を止め、その光景をながめていると、にわかに風が吹きつけて、あたり一帯の花やら木の葉やらを大きくゆらした。あたしの位置からもっとも近くにいた女性が飛ばされそうになった帽子のつばをおさえ、かわりに彼女がたった今つみとったばかりの数本の花が、伸ばした手をすりぬけて飛んでいく。
高く巻きあげられたうちの一輪が上空で風の後おしを失い、放物線をえがいてこちらへ落ちてきたので、反射的に前へ出て受けとめた。
ついキャッチしてしまったが、これは渡しにいくべきだろうか。そう思って女性のほうへ顔を向ければ、彼女もこちらを見ている。
受けとめた花を頭上へかかげてみせると、女性はゆっくりと首を横に振り、顔の下あたりで手のひらをこちらへ向けた。かえさなくていい、のジェスチャーのようだ。
ありがとう、という声を届かせるにはそれなりの労力がいりそうなので、こちらも手を振る動作で応じた。
さて、花を一輪手に入れて、どうしたものか。なんだかそれ以上先へ歩く気にもならず、すぐそばの木の影へ入り、根元に座りこむ。
そうしてぼんやりしていると、にぎりしめたままの花茎のほそくやわらかな感触に、ふと想起される記憶があった。あたしは基本的に町なかの遺跡へくりだして入りびたるのを楽しむ奇妙な子どもだったが、さすがに近所の少女たちと花をつんで遊んだことも、まったくないわけではない。たしかつみとった花の茎を編んで、花の冠や腕輪を作ったりしていたはずだ。
思いだすとなつかしさがこみあげて、一輪だけでできるものを作ってみたくなるが、当然やりかたなど忘れさっている。茎を輪のかたちにしたり指に巻きつけてみたりと試行錯誤し、ようやくそれらしい筋道を見つけて完成までこぎつけたところで、ふいに正面の草むらがかさりと音を立てた。
顔を上げる。ヒカリちゃんがバインダーを両腕で抱いて目の前に立ち、ふしぎそうにあたしを見おろしていた。
「お待たせしました。……それは?」
「むかし作ったなあって、なつかしくなっちゃって。はい、どうぞ」
どうにか指輪の体をなしたものを、指先に持って差しだす。だが彼女は、不格好なおもちゃのようなそれをまばたきもせずにじっと見つめるだけで、手に取ろうとはしなかった。
とはいえ、うすうす受けとられないだろうという気はしていたので、驚きや動揺はない。腕をゆっくりとひざの上に下ろし、彼女がなにか言うのを待った。
花を飛ばしたときにはおよばない、地表を撫でるだけの弱々しい風が吹いて、おたがいの髪をゆらす。彼女は顔の前に流れる髪を気にもとめず、あたしの名前を呼んだ。
「……こういうものをシロナさんからもらってしまうと、たぶんわたし、ずっと大事にしてしまうんです。それは、困るでしょう?」
会いにきたと言ったあたしに、そうなんですかとかえしたのと同じ、おだやかでフラットな声と表情を前にしながら、オーバくんとコウキくんがそれぞれ語ったこと、彼女自身の言葉や表情、そういったものたちがあたしの頭の中で入りみだれている。
きっとこんな過程は今さらなんだろう。ずっと前からひとりで考えをめぐらせ、あるいは悩むうちに、あたしを好きだと言うその先を求めないかたちで完結してしまった、この少女にとっては。
先日、あたしのことを好きだといった彼女が去りぎわに笑ったとき。あのときはえもいわれぬ違和感を持っただけだが、今ならその理由にも見当がつく。あの表情はおそらく拒絶とかあきらめとか、そういったたぐいのものだった。
「困らないわ」
ヒカリちゃんの表情が、よく見ていなければ気づけなかった程度にゆらいだ。
混乱している。そう感じた。目の前の大人がなにを言いたいのかわからないのだろう。
けれど、彼女から言われてはじめて、自分の感情につく名前があることを知ったあたしに、とてもそれをあげつらえる資格はなかった。
彼女があたしの言おうとしていることをわからないように、告げたところで今さら間にあうのかどうか、あたしにはわからない。
ただ、だからこそ、言わなければならないと思う。今言わなければ、もう二度と言えないまま終わっていくだけのような気がする。
「好きだから、困らない」
ただしく伝わっている確信が持てなかったので、顔をすこしうつむけてつづけた。
「あたしもきみのことが好きだから、ずっと大事にしてもらえるなら、うれしいわ。そういうものじゃない?」
口にしたことなどないはずなのに、ずいぶん引っかかりなくすらすらと言えるものだ。まるで幾度も練習をかさねてきた言葉のようだった。
立ちあがり、彼女の顔を見る。
その顔にわかりやすい表情はのっていなかった。ただすこしだけ見ひらかれた群青色の目の中、あたしが映っている。
「それとも、もう遅いのかな」
言いながら、もう一度手を出した。
永遠のようにも、一瞬のようにも思える間をおいて、ヒカリちゃんがおずおずと伸ばした手が、あたしの指先の花弁にふれる。
ほそい指のふるえが、花の指輪を通じてあたしの指へ伝わった。それきりたがいになにも言わずに、しばらくそうしていた。