ムーンライト・マジック

 あたしには、夜のうちだけそなわる第六感がある。
 いつ得たものかは判然としないけれど、それはとにかく家にたどりついて玄関扉の前に立ち、ハンドルに指をかける瞬間によぎる二択のこたえを、あやまたず教えてくれる。ときには、二択のこたえにとどまらないものまでも。

 ハンドルをまわしてふみいった玄関で、扉の丁番がきしむにぶい音を背に、天井のライトを点けないまま靴を脱いだ。
 廊下からなだれこむ光の帯がゆっくりとすぼまり、視界が暗闇に侵食されていく。いまの位置なら腕をまっすぐ持ちあげるだけでスイッチにふれられるのは重々承知していたが、勝手知ったるわが家で、なによりもすぐに消すだけのものをわざわざ点けるのがおっくうだった。上がり框を爪先でなぞってさぐりあてたルームシューズを半回転させて足をいれると、そもそもほとんどたたない足音をさらにひそめて、リビングまでのみじかい廊下を慎重に歩いた。
 しのびよるような足どりをたもったままソファへちかづき、背もたれのむこうがわをのぞきこむ。カーテンのあわいからほころんだ糸のようにたよりなくさしこむ月あかりは、座面までたどりついてそこを照らしだしはしなかったものの、すくなくとも昨夜眠る前にぱらぱらとめくってから置いたままにしていた数冊の雑誌以外、なんの影もないことは見てとれた。
 足音のついでにころしていた息を盛大にはきだし、ここでなければ、と考えかけたところで、思いだしたようにほかのものを意識する。肩にかかるバッグの重みに、冬の夜を歩くうちに手指に得た、皮膚がひびわれそうなほどのかさつき。自分でもそうと知らないうちにはやっていた気が抜けてからっぽになった全身に、鮮明な感覚たちがここぞとばかりに押しよせてきたようだった。
 ——だれもいない家か、だれかの待つ家か。
 その二択をつねにただしくえらびとり、なおかつ今日のこたえは後者であるとつよくしめしてくる例の第六感。
 しかしそれは、『だれか』があたしをむかえてくれる状態かどうかまでを感知できるものではない。なのであたしはこれからこの家で、ひとあしはやくここへきているらしい、そしてすくなくともソファではないどこかで、眠っているのだかかくれているのだか、とにかく物音ひとつたてずしずかにしているらしい『だれか』をさがさなければならなかった。
 さがさなければならない、という結論だけ、声に出さずくりかえす。義務感にかられてしかたなくそうするような言いまわしをしたのがひどく奇妙に思えて、つい苦笑いがこぼれた。暗闇のなか、家を出る際に脱ぎすてたルームシューズを無感動にさぐりあてて向きをただすのとは、まったく話がちがう。広大なわけでもない家のなか、おおかたの場所に予想がついていて、さしてむずかしくもないあたりは共通しているのかもしれないけれど。
 横着に肩をかたむけてひじまですべらせたバッグを、ほとんど落とすようにソファの座面へ置く。きびすをかえしてコートの袖をまくりながらダイニングを横ぎり、キッチンの水栓をななめうえに押しあげる。水が温度をあげるまでの数秒間を待っておそるおそる指先を出し、あたたかさをたしかめてほっと息をついてから、手の全体をぬるま湯のながれにひたした。
 洗いおえた手をシンクのなかで何度かスナップさせておおかたの水分をはらいおとすと、のこりをキッチンタオルでぬぐいとりながら、顔だけを背後に向けた。廊下に焦点をあわせて、中断した予想のつづきへ考えをおよばせる。そうするうちに、なんの変哲もないはずの暗がりがぼんやりとかがやきだす錯覚をおぼえる。
 夜にだけあたしにそなわるもの。玄関に靴があるだとかないだとか、生活音が聞こえるだとか聞こえないだとかをうかがうのとはちがう方向から、けれどそうするよりもよほど正確に、二択のこたえをひろいあげる感覚。それはふしぎと今夜のような、よく晴れて月のあかるい日にとりわけ冴えわたり、こうしてまぼろしのようにゆく先をしめすことさえあった。
 まばたきをしてふしぎな空想を振りはらい、足をふみだす。こんどはとくに足音への注意もはらわずにダイニングと玄関を抜け、突きあたりにならぶふたつのうち、左側の扉のハンドルをゆっくりとまわして引きあけた。
 腰窓のカーテンがなぜか中途半端に引かれ、照明のたぐいがなにも役目をはたしていない寝室に、青みがかった夜天光だけがそそいでいる。壁ぎわのベッドはリビングのソファと同様、光のとどかない位置で影のなかにうもれているため、ここからではほとんど、直線的に吹きだまったくろいよどみのようにしか見えない。
 ただひとつだけ、そこをあとにした際は存在しなかったはずのものがある。具体的には、なにかをくるんでごくかすかに上下するブランケットの盛りあがりが。
 玄関からリビングまで歩いたときの慎重さをもう一度たぐりよせながら、すこしでも音をたてたとたん、ブランケットにくるまったものがおびえてにげだしてしまうかのように、むしろあたし自身がそれをおそれているかのようにひそやかにあゆみよった。ナイトテーブルの前で身をかがめる。のぞきこんだそこで、さがしもとめていた『だれか』がからだをまるめて眠っていた。しばらくぶりに会う恋人のかたちをとって。
 ほのかなしろさで浮かびあがる頬に、ふせたまぶたに、ながれからほつれた髪がすじになってこぼれている。まとめて耳のうしろへかけてやろうと出した手を、実際にそうする前にとどめてベッドのそばをはなれた。
 殊勝な動機からではなかった。合鍵をつかっていつごろここへきたのか、ベッドにもぐりこんで眠ってしまうまで、どうやって時間をつぶしていたのか。おたがいの仕事で都合がつかずに会えなかったあいだ、なにかかわった、できれば愉快なことがあったか。話題はなんだってかまわないから起きている彼女と話がしたいし、声を聞きたいと思っている。ただ、カーテンをしめきってしまおうという思いが意識の列に割りこんだのだった。
 横桟のなかほどでとまったドレープの片方を中心に向かって引くと、レールをはしるリング同士がぶつかってしゃらしゃらと音をたてる。ふだんなら気にならない程度のささいな雑音が、しずまりかえった室内ではやけに耳について、思わずベッドのうえを振りむいた。
 寝かせておきたいと考えていたわけでもない。そのはずなのに、いざ影が声をあげてもぞもぞとうごきだすのを見とめてみると、とたんにとりかえしのつかないひどいことをしでかしたような気分になる。
「ただいま」
 あいまいな気分がはっきりとした罪悪感へかわる前に、つとめてさりげなく口にした。
 左右のドレープを指でよせてすきまをなくし、ナイトテーブルのうえのライトへ手をのばす。円柱形のシェードごしに拡散する暖色の明かりには、照らしだす範囲の時間経過をゆるやかに錯覚させる効果があるようだった。ヒカリがぼんやりした表情で顔をかたむけてぎゅっと目をつむるまでの一部始終が、まるでスローモーションの映像をながめているように緻密に映る。
「……ごろごろしながら待ってようと思ったのに、寝ちゃってました」
 ふだんの彼女ならまずまっさきに、おじゃましてますだとかおかえりなさいだとかのあいさつを口にするところだ。だというのに目があってからの開口一番がそれだったものだから、どこかきまりのわるそうな口調に、起きぬけのふわふわとおぼつかない呂律も相まって、ベッドのふちへ腰をおろしながら笑ってしまう。本人もあたしが笑うわけに思いいたったのか、すがめた目をあかるさに慣らすように何度かまたたかせてから、いくぶん照れくさそうにおなじ表情になった。
「あっちのカーテン、しめておいてくれたのね。ありがとう」
「いいえ。きたときにはそこまでくらくなかったのですけど、いちおう」
「こっちはすこしあいてたけど、なにかあった?」
「……あ、いけない。電気をつけるのがめんどうで、ちょっとあけておけば見えるからと思って、そのままだったかもしれません。ごめんなさい」
「ううん、ぜんぜん。ありがとう……っと」
 ひたいのうえでもつれた髪を指先でながしてやりながら言う、その語尾をきちんと発音しおえる前に腕を引かれて体勢をくずす。とっさに頭の両側へひじを突いて、彼女のうえにたおれこみかけた上半身をどうにか押しとどめる。
「あぶない。つぶしちゃうじゃない」
「シロナさんくらいじゃつぶされませんよ」
「くらい?」
「先週……うーん。先々週、だったかな。大量発生の調査でバネブーたちとなかよくなって、空き時間にあそんでいたら、みんながいっせいにじゃれて飛びついてきたのです。あやうく生きうめになりそうに」
 語られる事態の深刻さに見あわないコミカルな光景を想像して、相づちに笑いがまざった。
「やだ、なんともなかったの」
「間一髪でしたけど、どうにか。……だから」
「だから」
 つぶれませんから。
 ささやきはライトに照らされて停滞した時間のなか、やけにゆっくりと耳までとどき、そのせいかどことなく懇願のようにも聞こえた。
 言いながら頬にそえられた指に手のひらをかさねて、もちろんのしかかったりはせず、顔だけをちかづける。唇で目じりのまつげの生えぎわに、つづけて頬にふれると、ブランケットの外に出ていた二か所からは心地のいいひややかさが伝わった。
 頭を持ちあげる。いつごろここへきたのか、なにをしてすごしていたのか。いくつかあげた話題の候補から、まずはいまの話のつづきを、とえらびとってひらきかけた唇を、ふいにやわらかいものがかすめる。これも錯覚だったのだろうか、とさえ考えてしまうようなみじかい接触に目をとじるすきもないまま、ふれてくるために浮かせたヒカリの頭があおむけに枕へしずむのを見た。
「おかえりなさい」
 そう言った唇に、つぎはあたしからふれる。紙ひとえ程度の距離をはなしてもう一度「ただいま」と言い、彼女の背中と枕のあいだに腕をいれる。身を起こそうとする本人のうごきに助けられてからだを抱きおこすと、また唇に唇があたった。
「ちょっと待って」
「ん」
「足。脱ぐから」
 なにか履いたままでいるのが、どうにも落ちつかなかった。いったんベッドに背を向けるとヒカリがそれを追い、頬をこすりつけるようにして背中へ寄りそってくる。動作をさまたげるほどではないものの、こそばゆいのはたしかだ。笑いながら待って、とくりかえそうとしたところで頭がはなれていったかと思うと、いれかわりに髪をかきわけたぬくもりが、夜気にひえたままの耳の外縁を食んだ。笑いも言葉もひとまとめにぎょっと息をのんだ拍子に、脱ぎかけていたルームシューズが足先から落ちて、かわいた音をふたつ、ほとんど同時にたてる。
 自分自身がいつもある意図をもってしていることを彼女がなぞる、そこにうまれる意味は冴えた第六感に問いかけるまでもない。だからといって、つねには目にしないものへのおどろきがそれで消えてなくなるわけではなかったし、なによりひざをまげてベッドに乗りあげてもまだ、あたしはどこかで自分の理解に対して懐疑的なままでいた。
 向かいあうなり、しなだれかかるようにあずけられたささやかな体重を上半身で受けとめると、手ぎわよくくつろげられたコートの正面から腕がはいりこみ、腰に沿って背中へまわった。角度をかえた口づけが、唇のかたちを測量するようなこまやかさとりちぎさでくりかえされた。
 唇の温度がまざりあって境目があいまいになるころには、もはやうたがう余地も、物理的な距離もなくなっていた。にげるように頭をうしろへ引き、なおも追いすがってくるヒカリの、頬や目じりと同様に気持ちのいいつめたさをたたえる鼻梁に、かるく音をたててキスをする。多分に制止の意図をこめて。
「ヒカリ」
「はい」
「つかれてないの」
「いいえ?」
 至近距離から見あげてくるきょとんとした表情にはあからさまに、なぜそんなことを言われるのかわからない、と書かれている。
「どうして?」
「寝るつもりじゃなかったのに、寝ちゃったんでしょう」
「ああ、だから。くらくて、あったかくて……そうですね、それで眠くなっただけです。シロナさんこそ、つかれてますか」
「そうじゃないわ、でも」
 ヒカリが首をかしげて「でも」とあたしの口から出た接続詞を復唱する。おなじながれにつなげて彼女がささやいた言葉は、ある種の懇願のように聞こえた。それならこれからあたしが言うことは、彼女の耳にどうひびくのだろう。まさか懇願ではないだろうけれど。
 背中をなでる、というよりカットソーごしにまさぐるしぐさに移行していた手をとって、コートの外へ出す。
「……まだ帰ってきたばっかり」
「そうですね」
「シャワー、だって……あー、その」
 熟考のうえで言いつのった言葉ではなかった。それどころか、彼女があまりにもこともなげにあっさりとかえしてくるのに面くらい、おなじスパンでなにかつづけなければならない気がしてとっさに発してしまった、くるしまぎれのようなものにすぎない。
 そしてこの状況であたしが口にするには、もっとも不適切と言ってさしつかえない返答だった。切りだしてすぐ、そのことに気がついてしまったので、あとの態度はまるきりしどろもどろになる。手をはなし、明かりのとどかない部屋のすみへ視線をさまよわせてから、彼女の顔を、より正確には不自然なほどきれいにあがった口角を横目で見やって、ついふたたび目をそらした。
 それがまずかったのかもしれない。解放された手をあたしのもものうえにかさねて頭を押しあげ、おとがいのしたへすりよってきた唇が、問いかけるように語尾をあげてあたしの名前をこぼす。ひびきはやわらかくやさしい、おそらく表情もまだ笑っているのだろうけれど、その実それはあまえているのともポケモンへ語りかけるのともちがう、彼女が発するもののなかではもっとも剣呑なたぐいの声だった。
「……うん」
「帰ってきたばっかりで、シャワーが。なんですか。つづきは?」
 ああ、確実に、あますところなく読まれてしまっている。あたしがなにを考えたか、自分の発言にいったいなにを思いおこしてしまったか。ポーカーフェイスを旨にすべきトレーナーとしては、なんとも格好のつかないことに。
 もう眠気のかけらさえものこさないたのしげな声が、しらじらしいほどゆっくり「もしかして」とささやいた。並行して首元のファーの留め具をはずす指は、頬どころか肌のどこへもいっさいふれてこない。だから顔の向きをかえるようにうながされているわけでもないのに、ひしひしと伝わってくる。
 待っている。さそいこんでいる。ていねいに逃げ道をふさぎながら、あたしがみずからそうするのを。
「シャワーを浴びてないから? わたしがおなじこと言っても聞いてくれないのに、まさかそんなこと、言いませんよね」
 かえす言葉もない。帰宅したばかりのくたびれてほこりっぽい状態は、まさにたったいまくぎを刺されたとおり、ふだんの自分がそれをほとんど押しきっているのだから、こばむ根拠とするにはいくぶん薄弱だった。けれど、そうかといって口先だけの謝罪などのべてみたところで、ふだんの行状についてわるびれていないことをしめしてしまうだけで、なにも好転させないだろうとわかる。
 だまりこむあいだにも、ヒカリの唇があたしの首すじを点々とついばみ、なにか言うよりもよほど雄弁に返答をうながした。脳のどこか、思考をつかさどるはずの部分が、寝おきの体温にのって立ちのぼる彼女の香りにとろけて、ゆるやかに回転速度を落としていく。
 けれど考えてみれば——考えるまでもない。それをさとった瞬間からいまにいたるまで、あたしが口にしたのはたてまえばかりだった。当然だ。そもそも彼女の無言の提案への忌避も拒絶も、胸中のどこをさがしてもまったく見あたらないのだから。
 あたしの欲に張ったうすい膜を、恋人がほそい指でなぞり、時おり思いだしたようにつついている。やぶってしまえばいいのにと笑いながら。あたしはそれをながめている。わるい気はしない、と生唾をのみこみながら。
 あらがう理由がどこかにあるのだろうかと考える。きっとそれはどこにもないと、間髪いれずに結論をはじきだす。
 だったら。
 もう、いいのではないか。
 するりと抜きとられたファーがライトの足元へ置かれる。あいかわらずのスローモーションじみた速度でおこなわれるそれを目で追いながら、ひらきなおってしまおうと決める。
「……そうね。言わない」
 ようやく彼女と視線をあわせて押しだしたため息には、かすかな諦念とそれ以外のものがいりみだれてとけあっていた。高揚と期待。どうしていままでこらえていられたのだろうと、自分でもうんざりするほどの。
 すこし顔をよせるだけで、本来のかたちへもどるように自然に唇がかさなる。かすめるだけでいったんはなれ、あいた距離をつめてくる彼女の唇に、もうわずかだけいきおいをつよめて噛みつく。くりかえして徐々に口づけをふかめていきながら、腕を自分の背後へまわした。待ちかねていたようにふれてきたヒカリの指が鎖骨をたどって布地のはしにかかり、袖を抜こうとする動作に沿わせて、コートの襟元をひじまで引きおろした。

 *

 肩甲骨の稜線が、暗がりにうすあおく浮かびあがっている。あさい上下を断続的にくりかえすなだらかな隆起の側面へ唇を落として、ふとおぼえた違和感を口にした。
「そういえば」
「……ん」
「ライト、いつ消したの?」
「いつって、さっき……っ、あ」
 枕にひじをついたヒカリが、肩のむこうからのろのろとこちらを振りかえろうとする間に、腰のくぼみにあてがっていた手で肌のうえをすべる。苦もなくさぐりあてたいりぐちへ指先をしずめると、唇のしたで背中がはねて波うった。
「気づかなかった」
 さらりとつげた言葉に、とがめる視線も声もかえらない。かわりに暗闇を透かして、上体がちからなく枕元へくずおれる気配と、シーツのうえをはしった足がたてるひかえめな衣ずれの音だけが伝わる。
 位置と姿勢をたもったままでも、ライトにはどうにか手がとどきそうだった。もう一度点ければさすがに抗議されるだろうかと考えて、しかし実行にはうつさずにおく。
 目のこまかい網のように張りめぐらせた第六感、そのはしに引っかかりつづけているものがあった。終始従順、もしくは貪欲とさえ言っていい態度でゆだねられる恋人のからだをほどき、ひらいていきながら、あたしはそれを問いただしてつまびらかにすべきなのか、ずっとまよっている。まよいながら、いったいどこまで受けいれられるかという範囲を、境界線をたどってすこしずつ押しひろげていくようなやりかたでたしかめている。
 もちろん、それをまったくたのしんでいないと言いきればうそになるだろう。とはいえたのしみはあくまでも副産物でしかなく、本意とは呼べない。その証拠にたったいまの一連の行動も、特段すきを突こう、あるいはことさらとぼけてみせようという動機のもとにとったものではなかった。
 点けたはずのライトがいつのまにか消えていたのをふしぎに思ったからそう訊いて、あれていた呼吸もそれなりにととのってきたらしいと判断したから手をうごかした。ヒカリいわくの『さっき』におぼえがないからそう言った。心底から他意はなく、それぞれにそれ以上の意味はふくませていない。さすがにそのみっつがかさなったのには、まぎれもなくたのしみを見いだしてしまっているがゆえの、多少のできごころがはたらいたとみとめざるを得ないけれど。
 まどう考えなどどこ吹く風といったようすで、手は本体から切りはなされて独立した器官のようによどみなくうごいた。なにかをにがそうとするようにまるくちぢこまっていた肢体の、シーツに投げだされてかさなった両ひざをとらえ、くるりとあおむけにして目をあわせる。息をのむ喉のした、なにかからにげるようにはなれていきたがる足のあいだを、あさいところをおよがせていた指で追いかける。
「あっ、ん……う」
 耳と髪と頬をいっしょくたにして手のひらをそえる。たかいあえぎをこぼして、すぐさまとじていこうとする唇の中心をそっとなぞる。条件反射的に吸いついてくるやわい感触の奥から、声のまざった息がひとつあふれて、指先をぬるく湿らせた。
 もう片方の手へ意識を向ける。指を伝ってこぼれてくるものを親指ですくって、それがわきでてきた場所へ——指を根元までのみこんでいる場所へ塗りこめるようにすると、空気と水気をふくんだ音が鳴り、同時に腕のしたの腰が声もなくそりかえってびくびくとわなないた。
 もういいだろう。
 あたしが意味のある言葉をひとつもかわさないままそう判断したのと同様に、ヒカリもまた、なにも言われずともそれをさとったようだった。あきらかに意思をともなったうごきでふたつにわかれた足が腕をはさみ、かすれた声がちいさくあたしの名前を呼ぶ。聞こえないだろうと考えたのか、わすかに声量をあげ、逼迫した声音でもう一度。
「っ、シロナさん」
「なに」
「……待って、まだ……うごかさないで」
 だめ。いや。やめて。ほんとうはだめでもいやでもない、やめてほしくもないとわかる。熱くなった全身もあまくとろけた瞳もせつなくかすれた声も、言葉以外のすべてがうったえかけてきてそれをおしえるから。だからあたしはふだん、追いつめられてどうにもならなくなったときのヒカリがうわごとのように口にするそのたぐいの言葉を、ほとんど聞きながす。
 そのはずが、このときはなぜか言われたとおりに手をとめた。きれぎれな制止にさえみちるふだんとちがうものが、あらがいがたい強制力をもってうごきをにぶらせるようだった。
 ——とはいえ、だ。
 呼吸を落ちつかせたいらしいヒカリがふかく息を吸っては吐く、そのたびにゆれる爪先があたしの腰骨のあたりや足の付け根をかすめる。それがどうも言葉とは裏腹な、つづきをうながすしぐさのように感じられてしまう。べつの方向に意識を向けようとすれば、待って、と言われ、まだ、とも言われたその意味をあらためて考えなおし、かえって鳥肌をともなうふるえが背すじを駆ける。
 そんな状態で、あまりながくはとどめていられそうもない。いられるわけもない。
 待って。まだ。
 いったい、いつまで。
 訊ねるかわりに頭の横へ顔をよせ、耳のなかへ吐息を吹きこむ。おおきく肩がはねるのにはかまわず、外耳のひだを唇で何度かかすめると、そのたびにふるえるからだから両腕がのばされて視界を横ぎった。いつもならシーツや枕をにぎりしめて熱をやりすごしたがる手が、あたしの背中をかき抱いてすがりつき、いつもなら口をふさいで声をおさえたがる指が、えりあしの髪をかきみだして首と肩へくいこんだ。
「もういいの」
 目の奥で焦げつきだした熱を押しころそうとするあまり、ひどくそっけなく落ちた問いかけへ、せばまる腕の輪と、おとがいのしたでちいさく振られる頭だけがこたえた。
 待ってと言われて待ったのはヒカリのためにも、あたしのためにもならなかったのかもしれない、といまさら思う。
 ほとんどぶらさがっているような体勢のせいで不安定にぐらつく頭をささえようとして、ヒカリのうなじから後頭部へ指をさしこむと、たったそれだけのことが刺激になったのか、腕のなかから芯のない声があがった。たったそれだけのことに背中を押されて、目の奥でくすぶっていた熱があっけなくはじけた。
 いったんいりぐちのふち、出ていく寸前まで指を引きぬく。いかないでと言うようにうねってからみついてくる内側、もうなんの抵抗もなくあたしをむかえいれる場所、その奥の奥まで突きたてる。
「や、ぅ、あ……あっ」
 放埒、奔放とまでは言えない、ただ確実にいつもより箍のゆるんだ無防備な嬌声がすぐそばでひびいた。このために抱きついてきたのかと錯覚しそうなほど鮮烈に耳をうがつ悲鳴は、角度をかえ、深度をまし、なかをたどる指をふやすごとにどんどんうわずって、際限なく、毒々しいまでにあまったるくなっていく。
 鼓膜をふるわせて侵入する声に脳ごと焼ききられそうで、意識をそらすためにむりやりヒカリの口をふさいだ。直接鼻腔へはいって抜けていく振動が、からだの芯を打ちすえてしびれさせる。それでも耳で感じるよりはよほどやりすごしやすい。
 舌をつよく吸ってから息をつぐために頭を引く、その拍子にわずかにできたすきまさえ惜しんで距離をつめるように、ひらいたひざがあたしの腰をとらえる。なかにうまったものをよりふかくのみこむかたちになって、喉から引きつった音をもらす本人だけでなく、まるであたしまでおなじ衝撃をうけたように息をのんだ。
「ヒカリ」
 押しあてられたいきどまりにふれたまま、行き来させるのではなく、あやすようにゆっくりとなかをゆらしてさぐりながら、つづけて名前を呼ぶ。三回目の呼びかけにおくれて、生理的な涙で湿って束になったまつげが頬をかすめていく感触があり、かたくとじられていた目がひらくのがわかった。
「ふ、あ」
「ねえ、今日、どうしたの」
「ん……んっ、いや、ですか」
「そんなわけないじゃない、ただ」
 いつのまにかおとずれていた暗闇に、いつのまにか目が慣れていた。汗がにじんでしっとりとしたひたいに、おなじように汗の浮いたひたいをあてる。まぶたをふせる。皮膚の裏の晦冥が、ぼんやりとした色で明滅している。
「……あんまりかわいくて、びっくりしちゃう」
 ささやいた瞬間、意識してこめているとも思えないちからに指をきつくしめあげられて、もとめられていることへのよろこびよりも先に胸をみたすものがあった。いくらさがしても見つからなかったパズルのピースを、ふとしたきっかけでずらした手のひらのしたに、あっさりと発見したときのような。くやしがればいいのか、よかったと安心すればいいのか、判断をつけかねるような。
 ——いつもとちがうもの。なにか。なにもかも。
 ヒカリがこの家であたしを待っていてくれるとき、リビングのソファでうとうとと船をこいでいたことはあっても、寝室のベッドで眠っていたことはなかった。ふかくなっていくキスに息をみだしながら、待ちきれないと言いたげにあたしの上着に手をかけてくることも、羞恥心や理性がほどけてぐずぐずになるまでゆさぶってもいないうちから、必死にしがみついてくることも。
 目をひらく。くらい視界に彼女だけが映っている、それがわかる。たとえ薄雲がかかっていても、その奥に月があることをたしかめるのにはさしつかえないように。
「……ね、もしかして」
 つづけて口にしかけた言いまわしを、声にする前にいったんのみこんで、はじめから言いなおす。
「もしかして。さみしいって、思ってくれてた?」
 首のうしろに爪先がつよく食いこむが、いたみを感じるすきもなく、はっとしたようにすぐゆるめられてしまう。
 なごりおしいと思う。もっとそうしてくれたらいいのにと思う。ありえない仮定を現実に持ちこむ意味はない、それでも考える。もしも恋人が、さみしいときにたださみしいと言える性分だったなら。そのうえに築くあたしたちのかたちは、どんなものになっていたのか。
「……思わないときなんて」
 まるで悪事でも告白するかのようなおもおもしさで口にのぼる、あいまいに語尾をにごしてなにを言いきるでもないそれが、さみしいときにさみしいとは言えない恋人にとって、あたしの手を引いて自分のからだへみちびくより、あたしの肩へすがりつくより、よほどむずかしく覚悟を要するせいいっぱいの言葉なのだとわかっていた。わかっていても、わかっているからたまらなくなって、あたしも、とつぶやく。まだひとりでそのさみしさをかかえているつもりの恋人にとどけばいいと、ほとんど祈るような気持ちでつづける。
「あたしもね、毎日、ヒカリがいないとさみしいの。知らなかったでしょう」
「ん……」
「だからもう、この際、いっしょに住んじゃえばいいと思うのよね」
「えぇ?」
 先ほどまで脳を焼いていたあまい嬌声とは似ても似つかない、場にそぐわないへたな冗談を唐突に聞いたみたいに気の抜けた声をあげて、ヒカリがかたまった。あたしは笑って、まるくあいたままの彼女の唇へかるくキスを落とす。ちいさな音をたててはなれる。
「どう?」
「ど、どう、って。その話、いまなんですか?」
「しょうがないじゃない、言いたくなっちゃったんだもの。だれかさんがかわいいから」
「——っ」
 鼻先をふれあわせながらつけたした言葉で、彼女のなかがねらいどおりにきつくせばまった。奥にしずめられたままの指の存在を急に思いだし、自分で自分を追いつめていくようにわきおこるふるえは、浮かんだものを浮かんだまま、ヒカリ、ねえ、すき、かわいい、と無秩序にひとつずつならべたててささやく、そのたびにくりかえされた。
 こきざみな圧迫感を飽きずに味わううちに、ヒカリの全身からちからがとけるように抜けおちて、首にかかるおもみがどんどんましていく。引きよせられて彼女と彼女が背に敷くシーツとの距離をつめながら、おとなしく横たえているだけだった指をそれぞればらばらにうごかして内壁をなぞりあげると、くたりとしていた腰がいきおいよくはねて、にげだしたがるようによじれた。そのしぐさにもあたしの指のうごきひとつひとつにも、わずかに粘度をもった水音が渦のようにまとわりついた。
「んっ、は、ぁ、それ」
「それ?」
「おと、や、やだ、あっ……」
「そう。それで?」
「っ、な、に……っ、や」
「訊いたでしょう?」
 そう言うくせに、快感に浮かされて発するうわごとじみたせりふにさえ、いやともだめとも聞きたくないと思っている。そんな自分をずるいとも思っている。けれど手はとめないまま、むしろ言葉に思考を割く余裕をけずりとるように抽送をはやめた。あたえられる刺激を全身でうけとってすすり泣くようにほそくあえいでいる、もう声もあまりとどいていないのかもしれないヒカリの耳へ直接、いっしょに住むのはどうかって、とつづきをささやく。
 単語として成立するにいたらない、散逸した声ばかりが口からこぼされつづけるなか、髪が動作に追随して首すじや胸元をはしっていくくすぐったさで、ヒカリが頭をたてに振ったらしいことに気がついた。いいの、と意味も目的もあいまいな言葉をかさねれば、首肯のいきおいがこすりつけるようなはげしいものへとかわった。
 うわごとにいや、だめ、と言われるのと実態はたいしてちがわないはずなのに、現金にも幸福な予感に胸がつまってしかたがない。衝動にまかせて思うさまゆさぶり、ふれられるところへ手あたりしだいに口づけを落としていくと、恋人はあたしの背中をつよくかき抱いて、それまでがうそのように声もなくしずかに、ただあらゆる筋肉をきつく引きしぼらせて達した。
 幾度かの収縮の波を経て、にぎりしめた指を一本ずつひらくように時間をかけて、腕のなかのからだが弛緩していく。ヒカリの後頭部から手をよけて枕元へ横たえると、余韻を色こくのこしたままのうっとりした吐息のあいだで、もごもごとなにかつぶやかれるのが聞こえた。
 ひたいのうえの前髪をはらってやりながら、なあに、と訊ねる。
「……もっと、ちゃんとしたときに、話したかったのに」
「ああ、聞こえてたの」
 ヒカリは口ぶりだけ不満そうに「聞こえてないと思うのに訊いたんですか」と言って笑った。
「ちゃんとしたときに話したいなら、いますぐでもいいわよ」
 そんな気もさらさらないのにうそぶいて引こうとする手首を、熱をもった内ももがはさんで引きとめる。
「もうやめる?」
 そんな気はさらさらないから、不随意に波うって不規則に痙攣する内側へ、手首をゆらしてひかえめな振動をおくりこんだ。みじかくよわよわしい声があがる。ヒカリが上体を起こして唇にふれてくる。はなれぎわに息をついて笑う気配がある。
「……もっと」
 ひそめられた声の出どころを追いかけて顔をよせる一瞬、意識の一片だけをべつの方向へ向けた。
 だれかが——ヒカリが、この家であたしを待っているかどうかをおしえてくれる第六感。いつ得たものか、どうやってそのこたえをひろいあげているのかも判然としなかったそれは、もしかするといままでずっと、彼女のかかえるさみしさを感じとっていたのかもしれない。
 もしもそうだったなら、と考えた。あたしの第六感がおとろえ、月のあかるい夜に冴えわたることもない、そんな日がいつかおとずれればいい、と思った。だから空想じみた推測を、くらい廊下に見たまぼろしのようには振りはらわなかった。
 幸福な予感が、ふたたびあふれてくる。胸をみたすこの気持ちはあたしだけのものだけれど、それでもほんのすこしでいい、からだの外へにじみだして彼女に伝わりはしないだろうかと願い、祈るように唇をあわせた。