ミラージュ

 ぱちゃん、軽い音をたてて足もとに水が跳ねた。
「あー、悪い」
 大して悪いとも思っていなさそうな表情と声で、デンジさんが腕を振る。
 わたしはすぐそばに落ちたビーチボールを拾いあげて投げかえしてやった。ピンクとスケルトンの外装のなかに小さな鈴が入れられていて、ボールが動くのと同時に涼しげな音で鳴る。このファンシーさはどう考えてもデンジさんの趣味ではないから、きっとジムトレーナーのだれかから拝借してきたものなのだろう。持ち主候補として思いうかぶ顔がいくつかある。
 風にあおられて不格好な放物線を描いたボールを受けとめたのは、わたしのエンペルトだった。さながら人間が指先を使うように気軽なしぐさで、くちばしの先でボールをもてあそんでいる。潮風にのって、デンジさんの「すごいなあ」という感嘆の声が聞こえてきた。
 このひとは掴めない。
 世の中のすべてに興味がありません、とでも言いだしそうな醒めた表情をしているくせに、わたしがナギサにいると連絡すればわざわざやってきてくれて、最近暑くなってきましたねと言えば海での水遊びに誘ってくれる。かわいらしいビーチボールを借りてきて、パートナーであるわたし自身よりも熱心に、ポケモンが羽を伸ばすのにつきあってくれる。そんな、ナギサのスター。
 でも誰にでもそう親切だというわけではないらしい。
「ヒカリ見ろよ、きみのエンペルト。いつの間にこんなの教えこんだんだ?」
「見てますよお。教えたわけじゃないのですけど、もともと器用な子で」
 あらためて見れば褒められたことに気をよくしたのか、ボールを軽く跳ねあげる新しい動作に移っていた。
 エンペルトは程度の差こそあれ基本的には気位の高いポケモンで、それはもちろんわたしのエンペルトとて例外ではないのだけれど、今日はすこしはめを外しているようだ。ここのところフィールドワークばかりだったので、久しぶりの水辺が嬉しいのかもしれない。
 冷静であまり感情を表に出さないあの子があんなに喜ぶのなら、他の水ポケモンたちも連れてくるのだった。気づかなかった自分が歯がゆくて、おもわずくちびるを尖らせる。
 ボールをデンジさんにトスして、レシーブが返ってくるのを待たずにエンペルトは泳ぎはじめた。足を軽く動かしてわざと水しぶきをたてる。やっぱりはしゃいでいる。
 ざぶざぶと足で水をかきわけ、デンジさんが波うちぎわに戻ってきた。黒いスラックスを膝までまくり上げた甲斐もなく、その上まで濡れて色が濃くなってしまっている。濡れていること自体はあまり目立たないけれど、乾いてから大変なことになりそうだ。
「ふられた」
 冗談めかしていうのがおかしくて、笑いをこらえきれない。
 手のひらをメガホン代わりにして、デンジさんの肩ごしに離れていこうとするエンペルトに声をかけた。
「あんまり遠くにいっちゃだめよ。満足したら戻ってきてね!」
 心得た、とでも言いたげな鳴き声が返ってきた。
「水ポケモンもなかなかいいもんだ」
 首だけで振りむいてその様子を見ていたデンジさんが、こちらに向きなおってぼそっとつぶやく。わたしは首をかしげた。
「電気ポケモンよりも、ですか? あら、そういえばデンジさん、ランターン持ってますよね。水ポケモンがすてきなんて、今さらでしょう」
「あいつは電気タイプでもあるだろ。だからその魅力が先にきてるんだよ」
「そこは譲れないんですねえ」
「別格だな。ポケモンはみんないいもんだが、やっぱり一番は電気タイプだよ。……それに、俺のランターンと一緒に水遊びなんかしたら、テンションが上がって感電させられてしまう。あいつ、お調子ものだからな」
「ふふ、ポケモンと水遊びがしたくて、急にそんなこと言いだしたんですか?」
「ポケモンとなら、悪くないと思ってな」
 真面目くさった顔でいってから、ふっと息をついてくちびるの片側を持ちあげた。
「……この年になっていうことじゃないか。ヒカリ、一旦あがるぞ。服を乾かそう」
 わたしは靴下を脱いで素足になっているので、服を乾かす必要があるのは厳密にいえばデンジさんだけなのだけれど、ひとりで水遊びを続けるというのもなんだかむなしいので、砂浜を歩いていく彼にならうことにする。
 波の届かないぎりぎりのところに、パラソルとシートが設置してある。デンジさんがビーチボールと一緒に持ってきてくれたもので、本格的な夏はまだ少し先でも、そこだけ見ればまるで海水浴といった風情だ。
 正午をすぎて、日差しはそこまで強くない。海辺とはいえ水着できているわけでもなし、そこまで長くいる予定はないのに、日よけを気にすることもなかったのでは――そんなようなことをいうと、デンジさんは顎に手をあててわたしを見た。
「ん。まあ、日焼けはしないに越したことはないだろう」
 そういうとシートに腰をおろした。
 パラソルはそこまで大きなものではなくて、いいところでひとりぶんの陰しかできない。デンジさんは迷うそぶりもなく、シートの端のほうに腰かけた。ほとんど砂に座っているような位置だった。たしかに服は陽にあたるけれど、彼が日よけをするのは望むべくもない。日焼けは、なんていっておいて、気にするのは自分のことではないらしい。
 そういう気づかいができるのに、どうして街を停電させても平然としていられるんだろう。いろんなことが噛みあわなくて、彼がどんなひとなのかということが、よくわからない。
 だからやっぱり、掴めないひとだと思う。
 わたしはデンジさんに甘えることにして、パラソルがもたらす日陰のなかに座りこんだ。
 波の打ちよせる音と、穏やかに空を飛んでゆくペリッパーたちの声を聞きながら、ちらりと彼の横顔を見る。
 長いまつげと蒼い瞳、まっすぐな鼻筋、うすいくちびる。すべてのパーツに調和がとれていて、控えめにいって端整な顔だちをしている。女の子たちが日夜追いかけてやまないのも、当然といっていい。
 でも彼は、そんな女の子たちにほとんど見向きもしない。曰く、ポケモンバトルが得手でない人間にはあまり興味が持てないのだという。性別ではなく生物としての単位でひとくくりにしてしまうあたり、いかにもデンジさんというところだ。
 そして彼に勝ったわたしはどうやら、彼に興味を持ってもらえる条件を満たしているらしい。
 それはきっといいことなのだ。いろんなひとが彼の親切をほしがっている。たくさんのひとがほしがるのはいいものだと一概にはいえないけれど、彼が『いい』ひとだというのはわかる。バトルが強く、優しく、美しい顔をした、ナギサのスター。そのひとに興味を持ってもらえるのは喜ばしいことで、嬉しいと思うのが普通だ。
 そのほうが楽に決まっている。
 掴めないひとだって、こっちを見向きもしないひとよりは、ずっとましだろう。
 でもデンジさんが電気ポケモンが好きなのを譲れないように、わたしももう戻れない。たぶん感電させられたって、デンジさんはランターンを嫌いにはならない。不合理でも、しかたがない。
「ずいぶん楽しそうだ、あいつ」
 だいぶ遠いところでひときわ高い水しぶきがあがったのを見て、デンジさんがいう。
「デンジさんこそ、楽しそうですよ」
「そうかな」
 声だけで笑った。
 彼の楽しそうな声を聞きたいと願う女の子に、なれたらよかったと思った。そのほうが楽だから。普通だから。頭ではわかっている。
 けれど理屈に合うことはなにもない。
 わたしはデンジさんといるこの砂浜で、あのひとに会いたくなっている。