ミルキーホワイト・ラプソディ

「そういえば、まえから思ってたんだけどね、それって」
 ふわふわゆらゆらとたゆたいながら高度をさげていた意識が、眠りへ着底する寸前、空間に反響するその声でゆるやかに水面まで引きあげられる。
 にぶく目をあけた。四方のうち一面だけがあかるいグレーのアクセントパネルになった壁、乳白色の波間に浮きしずみする、ペールピンクのいびつな島。ここはお風呂で、わたしはいま、思考もからだもあたたかいところへ沈んでいこうとしていた。ぼやけた視界から得られる情報と汲みとれる事実とをなぞり、脳内でのろのろとひとつずつ言葉にする。そうでもしてむりやり頭を回転させないとひらいていられないくらい、まぶたがおもたい。
 いびつな島は自分の両ひざ。おなじ色の腕がもたれているパールホワイトの直線は、湯気でかすみがかって見えるバスタブ。
 わたしのものではない、こまかな水滴に表面をぬらした腕の持ちぬしは。
「ここに置いておいていいものなの?」
 ——シロナさんは。わたしを引きあげた第一声につづけて訊ねながら、水面下に沈めていたもう片腕で乳白色に染まったお湯をかきわけ、背後からわたしの胴体を抱きしめなおした。声は白くたなびくぬくい粒子のすきまを縫い、ふだんよりもわずかにやわらかく、まるみのある波長で耳までとどく。
 それ。ここ。
 どちらもなんのことを指すのだかぴんとこないまま、思いだしたようにはたらきだす重力にあらがいきれず、頭をうしろへかたむけた。浮きでた鎖骨にかるくぶつかって止まり、自然と顔を見あげるかたちになったのが、それをねだるしぐさに映ったのかもしれない。吐息で笑った彼女が、口づけを落としてくる。
 意図したわけではなかったものの、ぬるい水気をふくんだ感触がやわらかくてあまくて心地いい。すこしのあいだ、顔の角度をかえて無心で唇を食みかえしていたけれど、二の腕のまわりでお湯がさざ波になってちゃぷんと音をたてた拍子、意識にかかった何重ものうすいベールが一枚、波にのってひらりと流れさった。
 回数をかさねるまばたきにあわせて段階的に焦点が合っていくたび、もう一枚、二枚とそれはつづいて、息をつくとともに唇を引きはなす。
「……どれ、どこですか」
「ほらあ、それ」
 寝おき同然の喉がまだひらききらないので、発音はおぼつかなかった。かえすシロナさんの口ぶりもなんだか抽象的だから、それ、を特定する手がかりは結局ほとんど得られない。
 とはいえ本人もそうとわかったようで、鼻先をしゃくって正面をしめしてくれたので、彼女の胸に頭をあずけなおすようにして顔をそちらへ向ける。特筆してひろくはない浴室のなか、それ、の指すところはすぐに知れた。
 円筒形の透明な瓶につめかえられた、白い粉。
 わたしたちのつかるお湯を乳白色ににごらせている、入浴剤だ。はみだしはしないまでもどこか窮屈そうなたたずまいで、壁からせりだしたバスタブのふちに腰かけている。中身は瓶の四分の一程度を埋めるばかりだった。ささった計量スプーンがささえをうしない、柄の根もとまでを露出させて寝そべっている。
 ああ、そろそろ買いたさないと、それともつめかえ用の在庫が、まだ半分くらいはのこっていたのだっけ。
 そんな実際的なことへ考えを向けたのが引きがねになったのか、とどまっていたベールの最後の一枚が、ついにはがれおちた。
 意識と視界に鮮明さをとりもどしてぴくりとゆれた頭を、そのまま彼女の胸からおこしてちいさく振り、まどろみの最後のひとかけらをはらう。眠気の置きみやげのような衝動がのぼってきて、とっさにおさえる手のひらもすりぬけ、ふあ、というあくびになって口から出ていく。
「……なあに。ぼーっとしてると思ったら、寝てたの」
 後頭部に唇をつけてささやくシロナさんの声が、ほのかに湿り気を帯びただけの髪のなかで熱い空気にかわる。湯面はまださかんに蒸気を立ちのぼらせ、わたしを抱きしめる背後のひとにもその温度が染みている。寒気を感じる理由はないはずなのにうなじからふるえが駆けおりて、反射的に背中を浮かせた。
「ん、ちょっとうとうと、してただけで。もう眠くありません」
「へえ、そんなにつかれてたんだ。心配だわ、なにかあった?」
 訊ねる口調はさも言葉どおり心配げな、それでいてあからさまにおもしろがっているのを隠さない、しらじらしくうそぶいたものだった。つられてこぼれかける笑いをこらえて、わたしもすました声音をつくった。
「そう、だれかさんのおかげで」言う途中で抱きよせられ、密着した肌どうしのあるかなしかのすきまを、音もなくお湯が逃げていく。「たいへんな目に遭っちゃって、くたくたです」
「あらほんと。でも、あたしが思うに」
「思うに?」
「そのだれかさん、言うほどたいへんそうには見えなかったし、むしろ気持ちよさそうでかわいかったって、考えてるんじゃないかしら」
 説得力のある反論がひとつも出てこないやら、そもそも図星をさされているから反論のしようがないやら、それでもあらためて言われるのは、やらで、もはや笑うことしかできない。
 おなじタイミングで肩をふるわせはじめて語尾をすぼませるひとの、やわらかい頬をひとさし指でかるくつついてから、そのひとのからだのぶん奥行きの足りなくなった水中で、ゆっくりと足をのばした。
 バスタブの対岸に到達した爪先が、湾曲した人工大理石の壁面をなぞって止まる。ペールピンクの島が乳白色の水面下に隠れると、芯に凝りかたまったよどみが溶けだして浄化されていくような、えもいわれぬ、この日二度目の充足感が全身をみたす。
 二度目なら、一度目はいつだったのか。
 意識がおぼろげになるまえ、熱めの温度でためたお湯に、肩までつかりきった瞬間だ。お風呂にはいるのはいつだって気持ちがいいのだけれど、今日のその感覚はとりわけ格別だった。
 それくらい、それこそ心地よくあたたまりながら眠りかけてしまうくらい、ほんとうにくたくただったのだ。さんざんしがみついてゆさぶられて、鳴いて鳴かされたあとだったので。
 ぜんぶおわった直後だった。まだ熱のくすぶるベッドのうえで肩を上下させて息をととのえながら、そっとそばをはなれていくシロナさんを見て、給湯器が操作される電子音と、バスタブにお湯がはられはじめる音を聞いた。
 もどってきたシロナさんは、テーブルにこぼれてひろがる水みたいにでろんと輪郭をなくしているわたしの頬をなでて、なにげなく言った。
 ——お湯、たまったら、先にはいっててね。
 先にはいってね、よりもひとつおおい文字が『あとで行くから』の意をふくんでいたのだと、いまのわたしは当然知っている。
 けれど残念ながら当時のわたしから、言いまわしがこうだとか、浴室へ向かう順番がどうだとかへ注意をはらえるだけの気力は、すっかり枯渇していたのだった。
 快感の余韻、恋人の周到な気くばりにおぼえた感動、お湯の心地よさ。湯気でくもった入口の折れ戸ごしに彼女のシルエットを見た瞬間、どれも吹きとばして、おおあわてですみに置いてある瓶のふたをあけた。すりきってほどほどの量にする時間さえおしく、山もりのまま投入してしまったから、お湯の乳白色はいつもより濃い。
 手の指をこすりあわせ、こころなしかとろみもいつもよりついているみたい、と考えて呼びおこす。なにか訊ねられたのをきっかけに、眠りのふちからはっと立ちもどったのを。
「そういえば。ごめんなさい、入浴剤がなんでしたっけ」
「やっぱり寝て」
「ないですー」
「はいはい、うとうとしてた。そういうことにしておいてあげますー。……だいじょうぶなのかなって、思ったのよ」
 後半を言いながら、シロナさんはバスタブの長手方向にそってのばしていたひざを、わたしのももの裏へするりともぐりこませた。足が足にのって持ちあがり、湯舟の一角で抱きかかえられているようなかっこうになる。
「だいじょうぶ? ですか?」
「お風呂に置いても」
「ああ、湿気とか」
 高温多湿の場所を避けて保管してください。
 入浴剤のもともとはいっていた、東西のカラナクシをかわいらしいイラストであしらった容器に、目につきやすい字体とおおきさでそんな注意書きがされていたのを思いだす。
 浴室、しかも湯気の直接あたるバスタブのふち。たとえきっちりふたをしめたとしても、避けるべき『高温多湿の場所』の条件は十二分にみたしている。だから入浴剤をここに置くのが適切なのかどうかという、シロナさんが気にかけていることは至極まっとうな内容だといえた。
「うん、そう、思ってたんだけど、ふたもちゃんとしまってるものね」
 まっとうだ——それでも一瞬こたえあぐねるあいだに、彼女はひとりで腑に落ちたような、やけにきっぱりとした言いかたをする。違和感がまさって、言葉をかえすのにさらに一拍をおいた。
「……だいじょうぶ、……んっ」
 その間をのがさずかぶせるように、あるいはあいまいににごそうとした返答をいさめるように、といっても自覚があるからそんな気がするだけで、実際のところ後者である可能性はかぎりなくひくいのだけれど、とにかく肩から耳たぶまでを唇でゆっくりたどられる。
 だいじょうぶ、じゃない。どのみち最後まで口にするつもりのなかった語尾を、うわずった声にまぜて喉の奥へのみこんだ。
「ちょ、っと、もう。自分で訊いたんでしょう」
「そう、なんだけど。ヒカリにこたえてもらえないあいだに、自分で納得できちゃったから。寝おきにがんばってこたえてくれようとしたのに、ごめんね?」
 すこしもわるびれていなさそうな笑いまじりの声が、鼓膜に直接そそがれる。びりびりした感覚が耳を起点に全身の末端にまでひろがって、寝おきじゃないと訂正することもできずにかたまっていたら、くるりと向きをかえられてバスタブの壁面に背中があたった。
「それはそうと。これ、切らしてるの見たことない。そんなに気にいってるんだ」
「あの」
「でもわかるな、いい香りだし」
「そうじゃなくて」
「しっとりするし。あたしも好き」
 どうにか言葉になろうとする抗議を、場所をかえ強弱をかえ点々と降るキスが、乳白色の波間へ押しながしていく。
 でも、すっかり真相は知れてあとは裏づけばかり、という口ぶりのシロナさんとわたしのあいだには、決定的な食いちがいがある。彼女はかんちがいをしている。わたしがよほどこの銘柄をこのみ、切らさないよう注意してつかいつづけているのだと思っている。
 彼女が言うとおりの、やさしい花の香りや肌の表面がなめらかにうるおう感覚、そういうものを気にいっていないのではない。ただこれでなければならないというほど、特段のこだわりもないだけで。
 浴室に置くべきではないと知っている、こだわりもない、それなのにわたしはかたくなに瓶をここからうごかさないし、けっして中身を切らすことのないように気をくばる。
「う、待って、待ってください」
「たいへんな目に、遭ったんじゃなかったの」
「な、に」
「それなのに待って、って。待つだけでいいのね」
 たまに考える。わたしにはもう、ほとんどのこっていないんじゃないだろうか。このひとに一度もふれられていない場所も、見られていない表情も、聞かれていない声も。
 そうかといって羞恥心が、煙のように消えてなくなるわけもない。だから入浴剤が手のとどかないところにあるのも、瞬時に残量をたしかめられない純正の容器にはいったままなのも、こまるのだ。
 あかるい浴室へ、なんのまえおきもためらいもなくするりとすがたをみせる恋人と、なにひとつへだてるものなく向かいあったら。熱があがって、あがりすぎて、仮にお湯が冷えきっていたってのぼせてしまう。たぶんでもきっとでもおそらくでもかもしれないでもなく、ぜったいにのぼせてしまう。断言できる。
「……言葉のあやです」
「たいへんな目が。それとも待ってほしいのが」
 比喩ではない目と鼻の先で訊ねる声は、反響のためにしてもひどくやわらかく、そのくせ抑揚がない。それはどちらにせよ関係がないからだと、意識のはっきりしたいまのわたしにはわかっている。
 反射的に距離をとろうと引いた後頭部がバスタブのふちに接するよりはやく、枕がわりの腕を差しこまれて逃げきれなくなった。すぐに追いついてきた唇にうながされるまま舌をからめるあいだに、指先がまるではっきり見えているような正確さで点と線をつなぎ、乳白色に隠れた道すじをおりていく。
 押しいるのでも、こじあけるのでもなかった。いつもよりとろみのついたお湯と、たぶん流れきらずのこっていたうるおいに助けられて、指は三十分まえまでそれがうずめられていた内側へ、なんの苦もなくもどってくる。おなかの底から呼びさまされる、とっくに燃やしつくしたとばかり思っていた感覚に腰が浮きかけ、唇をはなして息を吐きだした。
「っ、あ、あ……っ」
 わかっている。
 抵抗はかたちのうえだけだと、自分がいちばんよく知っている。すぐにつかまえられてシロナさんの喉にひたいをこすりつけ、彼女の鎖骨のくぼみを吐息でみたす、裏側でそう思う。
 逃げ場がないからしかたなくあきらめているわけじゃない。彼女が勝手で、強引だからこうなっているわけでもない。目をあわせて言えば聞きいれてくれるはずのひとに、わたしはいやだともだめだとも言わない。
 だって、このひとが。
 その先を考えかけるところでながい指の身じろごうとする気配を感じ、どうにかおもてをあげた。
 だって、このひとが——毎回ではない、けれどまえおきもためらいもないかわりに、抱きあったあとだけという規則性はたずさえて、わたしのいる浴室にあらわれる、このひとが。
 これ以上幸福なことはないというみたいに、その日一番うれしそうな、やさしい顔をする。今日の、いまのように消えた火をもう一度ともしていても、あるいは眠らせたままおだやかに語らうさなかでも、おなじように。
 からだとからだのあいだで所在なくちぢこまっていた腕を這いださせ、まとめた髪からほつれて瞳を隠す束を、ぬれた指でそっとはらう。くすぐったそうにまばたきをした彼女が、脳裏に浮かべたままの表情をのぞかせる。
 この表情、本人さえ知らない、このときだけ、わたしだけが見られる表情を見たい。見のがしたくない。だから言わないし言えない、たとえのぼせてしまうのをさけるため、入浴剤の残量に注意をはらう必要があるとしても、眠りかけてしまうほどくたくただったとしても。いやだなんて、だめだなんて、思ってもいないことを言えない。
「……かわいい。なあに、そんなに顔、見たかったの」
 きっと自分の言葉どおりだとはみじんも考えていないシロナさんが、こたえを求めないそんなささやきを落とすから、正解ですとも言わないまま、言えないままその背中へ腕をまわす。
 ほのかな乳白色にゆらめく視界へ、しずかに影がさした。ほとんど唇の表面をなでるだけの、けれどもうぬるくもおだやかでもないキスが、いくつもかんちがいをしているひとの、けれど決してふれる場所をまちがえない指先が、寒気もしびれも、ふたりのあいだもないまぜに境界線をおかしていくのを、ただ感じていた。