目には見えない
どうしよう。
玄関ホールであっけなくふたりきりになり、ポーチの飛び石を踏む四人ぶんの足音も決定的にとおざかり、そうして空白になった頭に、そのひとことだけが浮かんだ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
声に出さず連呼する間に、となりのシロナさんが寄りかかっていた壁から肩を浮かせる気配がある。つい目を向けた先で唇がひらかれて、やっぱりつい、身がまえる。
けれど彼女はわたしが予想して固唾をのんだような、たとえばなにかを訊ねるとか追及するだとかいったことはせず、ただ「コーヒー、まだ残ってるから飲んでいくわね」と指で前髪を流しただけだった。
「……はあい」
気のぬけた間をはさんで気のぬけた声でうなずき、サンダルを引っかけてたたきへおりる。背後で足音が、リビングにむかってきびすをかえしていく。室内の空気にやわらかくはねのけられたドアの機構が、きちんと噛みあう音をたてるまで引く。
頭をかたむけ、扉にひたいをあずけて順に思いかえす。レバーハンドルにかかったナタネさんの手が、いましがた閉めきったこの玄関ドアをそっと押しひらくまでのことを。
百八十秒まえ。メリッサさんにスモモさんにスズナさん、それぞれの口調で、それぞれのしぐさで別れをつげて去ってゆく三人の背中を見おくった。百二十秒まえ。上がり框に腰をおろして編みあげブーツを履いていたナタネさんは四人目で、最後のひとりだった。
六十秒まえ。ほとんど夜に寄った夕暮れを背景にナタネさんが振りかえり、目が合った。彼女がショートヘアをゆらしてにこやかに手を振り、シロナさんとわたしがそれぞれ手を振りかえしたり会釈をしたりすると、別荘に訪ねてきた友人たちとの時間に、ひとまず幕が引かれた。
そうしてゼロ、現在まで時間がもどる。
どこかわたしが席をはずしたタイミングで、そういう会話がかわされていたんだろう。みんなが帰宅のための身じたくをととのえはじめるなか、ひとりだけ上着を手にとるそぶりもないシロナさんへの疑問をだれも口にせず、四人ともあたりまえみたいにわたしたちふたりへ別れをつげた。だから最後までなにも言わなかった。言えなかった。
いまだってそうだ。言わなかったし、訊かなかった。コーヒーが飲みかけだなんてことは言われるまでもなく知っていた。さめかけたホットコーヒーが飲めたものじゃないことも、飲めはしないけれど予想がつく。それでも言わなかった、残していいのにとも、残して帰ってよかったのにとも。同様に訊かなかった。どうしてみんなといっしょに帰らなかったのですかとも、コーヒーを飲みきったらこんどこそ帰るのですかとも。
——ああ、でも。
そう考えをくぎってドアから頭をはなし、ホールへ向きなおる。サンダルを脱いでたたきのはしへそろえ、半透明な背中のイメージを追ってみじかい廊下を歩きながら、背中のあるじの言葉を反芻した。
コーヒー、まだ残ってるから飲んでいくわね。
文面以上にふくむものをうかがわせない、まったくふだんどおりのやわらかい口調。何度再現してみても、その印象はうごかない。
考えすぎなのかもしれない、ううんきっとそうだ。自分がずっと考えているから、意識を向けているから、あれこれひもづけてしまうのにきまっている。シロナさんはたとえほんの数口程度でも、飲みさしのカップを残していくのに気がとがめただけ。そういうひとだ、それだけだ。
言いきかせながらくぐった扉をうしろ手にとじて、キッチンへはいる。
正面のダイニングをはさんだ先、リビングにいるシロナさんはローテーブルからソーサーごとカップを取りあげ、立ったまま口元へかたむけていた。ソファへ腰を落ちつけずにいるくらいだから、まちがいなくすぐに飲みおわる。そう判断して視線を落とした。
シンクには無色透明のプラスチック・グラスがひとつだけ、所在なさげにたたずんでいる。アイスティーを飲みほしたわたしのグラスだ。手持無沙汰にとりあえず洗うにしてもひとつきりなので、これもまちがいなくすぐに終わってしまう。そしてその先でとっていて自然な行動は、ひとつも思いつかない。
結局なにをするでもないまま、水きりかごの受け皿あたりへ視線をおいた。どうするという方向性もないまま、帰宅した四人の洗ってくれたグラスやカップからこぼれつづける水滴を、ひたすらかぞえた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そうしているうちにぼんやりをとおりすぎ、無心になっていたらしい。音もなくしたたるしずくとまばたきのリズムがいつしかそろっているのに——コーヒーを飲みおえたらしいシロナさんがカップを持ってすぐそばまでやってきていることにも、同時に気づいた。
しまった。反射的に息をのんだ拍子、ぴくりとうごいた手がグラスをシンクへ倒す。割れたり傷ついたりするようないきおいはなく、そもそもプラスチック製なのでその心配もいらない。けれどごろんというにぶい音がいやにおおきくはっきり聞こえて、心臓がいやなぐあいに飛びはねる。
あわてて起こしたグラスを水栓の直下へ寄せて、ぎくしゃくとレバーに指をかけた。いかにもぎこちなかっただろう一部始終を見ていたシロナさんは、横を向けないせいで必然的に顔も見えない、だけどそうとわかる程度のかすかな吐息で笑って、ソーサーとカップをシンクのそばへ置いた。
「だいじょうぶ?」
「……ちょっと、ぼーっとしてて。びっくりしちゃいました」
照れたような、苦笑するような声音はよく再現できていたはずだ、内心はともかく、そういうふうに聞こえたはずだと思う。
シロナさんだってさほど変に感じなかったから笑ったんだろうと、それなりの安心をおぼえてつい肩のちからを抜いた。だからなんのそなえもできなかった。玄関ホールとおなじ、なんでもないことをつぶやくためのやわらかな口調で、核心をつかれるのに。
「びっくりするくらい、いや? あたしとふたりでいるのは」
一転して硬直した全身のなか、指だけが不随意にゆれてレバーをわずかに持ちあげる。ましたに置かれたグラス目がけ、洗いものをするにはたよりない量の水がそそぐ。
「……いや」
いやじゃない、いやなわけがない、唇までいくつものぼってきているつづきが、どれもたった二文字目までしか発音できない。彼女がひとり残った理由、それがやはり考えすぎなどではないのだと鮮明に確信して、喉がしまる。
いまさらシロナさんと自分の立場を置きかえて、いまさら自分勝手に胸がいたんでたまらなくなった。わたしはここしばらく彼女を避けていた。急に調査がはいって。そんな建前で予定をキャンセルしたのを皮きりに、その後のつごうを訊ねられても、あの手この手で『しばらくいそがしい』を押しとおして。
でもジムリーダーの女性陣をまじえた今日のような場まで、そうして避けるのはむずかしい。きっとなにか訊ねられる、しかしふとした瞬間の会話や態度にぎこちなさはない、もしかしてとくに気にしていないのか、ああやっぱりそんなわけはないから理由をつけて残るんだ。そんな目まぐるしい内心の二転三転を経てたどりついたのが、現在の状況だった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。その言葉がもどってきて、頭のなかをはねまわる。もっと時間が必要だった。結論を出すのに要したのとおなじだけ、ううん、もしかするともっとたくさんの。
「いや? それともいやじゃない?」
「い、やじゃ」
「そんなに言いづらそうにされたら、むりやり言わせてるみたいね」
喉はひらかない。たどたどしく言うわたしにシロナさんはさらりと笑って、かわらずやわらかな、そしていかにも軽口めかした調子で「ちょっと傷ついちゃうなあ」と付けくわえた。
その言葉が、よくなかった。それがなければどうなったのかは想像もつかない、ただとにかくよくなかったということだけわかった。思わずそちらを振りむいて、彼女の表情を見て、かるく唇を噛む。
しまった。グラスを倒したときとは比にならないほどつよく感じながら、ナタネさんの声をとおくに聞く。今日、談笑していた最中のまあたらしい記憶ではない。シロナさんを避けるようになる直前、しょうぶどころで顔を合わせた際のものだ。
いったいどういう流れのすえそんな会話へ行きついたのか、経緯はうまく思いだせないけれど。あの日、わたしの話に「ほんと仲がいいんだね」とほほえんだナタネさんは、飲みものの氷をストローでひとまぜして、のんびりと語ったのだった。
——自分の話になっちゃうけど、友達同士でも、なかなかおなじベッドで寝たりできないよ。やっぱりどこかで、遠慮しちゃうから。
——ああごめんね、それが変とかやめたほうがいいって言ってるわけじゃなくてさ。それだけ仲のいい相手がいて、うらやましいなってこと。
——だってシロナさんの家は知らないけど、ヒカリちゃんのところはゲストルームもあるのに、あえていっしょに寝てるわけでしょ……おーい、ヒカリちゃん? 急にかたまっちゃって、どうしたの。
からかうとかいぶかしむとか、そんな調子ではなかった。それ以上でも以下でもなくただ言葉のとおり、好意的にとらえてくれたのだろう。そうわかって、けれどナタネさんの言葉を受けたわたしがまずまっさきに、考えてしまったことは。
「ねえ。ほんとうにいやなら帰るし、もう会いにもこない。だから、せめて言ってほし……」
「ちがう、ちがいますっ。わたし、シロナさんのおうちに泊めてもらったり、反対に泊まってもらったりしますよね。そういうときおなじベッドで、寝ますよね?」
たたみかけるように言って語尾をあげるわたしに、シロナさんはおずおずとうなずいた。困惑とも呆然ともつかない色が表情へにじんでいる。なんでもいい。先ほどのあの顔でなければ、なんだって。
「そういうことをナタネさんに話したら、仲がいいねって言われたのです、それで、そのとき」
「うん」
おぼえず出した水を、意識して止めた。声にするための息を、はずみをつけるようにつよく継いだ。
「……友達を。家に泊めたら、だいたいのひとはおなじベッドで寝たりしないとも、聞いたのです。わたし、シロナさん以外のひとを家に泊めたことがないので、知らなくて。……だからシロナさん、もしかしてほんとうはずっといやだったのじゃないかと、思ってしまって」
知らなかった。そういうものなのだと心の底から思っていた。どちらもうそいつわりなく事実だった、けれどたいていのひとは友人を自宅に泊めてもひとつのベッドで眠らないと知り、わたしがまずまっさきに、感じたことは。
「……うん」
「思ったら、気になっていく一方で……」
「それであたしを、避けた?」
「……ほんとうにごめんなさい。だんだん、どうしたらいいのかわからなくなってきてしまって」
ほんとうなら経緯のひとかけらさえ明かさずに黙っておきたかったけれど、もっと時間をもらって考えをめぐらせて、どうするか決めたかったけれど。このひとにあんな顔をさせておくくらいなら。こまってとまどって、まぎれもなく傷ついているのに、それをひたかくしにして、へたな軽口を言わせるくらいなら、どうでもいい。ささいなことだ。だいいち、すべて言うわけでもなんでもないのだから。
「なら、あたしのことがいやになったわけじゃ、ない?」
いやになった。いやだと思った。
このひとを、ではない。
枕元で顔をつきあわせ、おたがいがとおくにある眠気をつかまえるまで、とりとめもなく語らう時間。わたしがのんきにたのしんでいたあの時間は、シロナさんの遠慮のうえに成りたっていたのかもしれないという事実が。
そして。
シロナさんの自宅には、寝室とそこへ置かれたベッドがひとつずつある。ベッド以外の場所で眠るというなら、きっとリビングのソファをつかわせてもらうことになるだろう。わたしの別荘なら、ナタネさんも言及したゲストルームを。
そうしてべつべつの場所にわかれて眠ることによって、あの時間をうしなってしまうのが、いやだ。シロナさんに気をつかわせていた可能性を厭うより、もっとつよくかたくそう思ってしまった自分が、なによりも、いやだった。
「……まさか」
ひとことだけつぶやき、首を横に振る。
コーヒーを残して帰ってよかったのにと言わなかった、どうしてみんなといっしょに帰らなかったのですか、そう訊かなかった。すこしだっていっしょにいたいと思ってしまうからだ。帰らないでいてくれて、どんなかたちであれふたりでいる時間がふえれば、身勝手にもうれしく感じるからだ。それなのにいやになんて、なるわけがない。なる余地がない。
シロナさんはキッチンの天板に置いていた手で前髪をかきあげ、同時に声をのせておおきなため息をついた。表情はよくうかがえないまでも、うんざりだとかいきどおっているだとか、そういう感情に由来するしぐさではないのがわかった。
「よかった……ほんとに、よかった」
あきらかな安堵をにじませて落とされた言葉の終わりに、ようやく目が合う。彼女の顔に浮かぶのがなんとも名前をつけがたい感情であるのにかわりはなく、それなのにわたしを向く虹彩はふしぎと、きらきらかがやいて見えた。
いやだ、いやだ。そんな思いが寝てもさめても頭をはなれなくなって、自分はこんなに身勝手で自己中心的な人間だっただろうかとおどろいて、とまどって考えて悩んで。そのすえにもう見まがいようもないくらい、目をそむけようもないくらい、たしかな結論が出てしまったから。だからこんな錯覚まで、おこすのだろうか。
「あたし、てっきりなにかしちゃってきらわれたものかと思ったの。はあ、情けないわね、気をつかってくれただけだったのに」
ちがいます。
なんて、言えない。ちょっと傷ついちゃうなあ、そう言いながらいつになくよわよわしい表情を浮かべた、友人にきらわれたわけではないとはっきり理解していまふかい安堵をみせている、このひとに向かって。
ナタネさんに言われたことをきっかけに自分の気持ちを洗いなおしてみたら、あなたのことを友人だと思っていないと気がついて、どうしようもなくなり、合わせる顔も同様になくなったからです。
なんて、口が裂けても言えない。
「……ごめんなさい」
あらゆる意味をこめてうめくと、首を横に振ったシロナさんが唇に笑みをのせた。
こうなる以前はあたりまえに目にしていた、ひさしぶりに目にする、今日はじめて目にする、友人への笑顔。その表情をわたしに向けてくれるひとをまえにして、自分がいまいったいどんな顔でいるのかわからない。けれどすくなくとも友人が友人を見る、そんな顔くらいは取りつくろえているんだろう。
より具体的には好きだと気がついたからです。キスをしたいような意味で——なんて、ますますよけいにことさら、死んでも言えないわたしは思う。ああ、よかった。恋というものが目に見えなくて、ほんとうに。