待てば甘露の日和あり

 そばをはなれてゆくときはため息程度の音でしか存在を主張しなかったルームシューズが、ぱたぱたとせわしない気配をつれて廊下をもどってくる。あたしは目をとおしていたコラムの、ひとつふたつのこった段落へほとんどななめ読みに視線をすべらせ、どうにか最後の句点までたどりついてからおもてをあげる。
 論旨を理解しきるのに、どうも本棚のバックナンバーをあさって記憶と照らしあわせる必要がありそうだ。雑に読みとばしたのとは関係なしに。
 結論づけてひざのうえで学術誌をとじ、腰をひねってソファの背もたれにひじを置くのと同時に、読んでいた本の続刊を取りに書斎へ向かっていた足音のあるじが、飛びこむようないきおいでリビングに顔をのぞかせる。
「シロナさん、これ」
 息つぎのない平坦な早口で言い、つきだしてみせるヒカリちゃんの手には、あたしがそこにあると予想していたハードカバーよりも、格段にうすくちいさな物体があった。
 一葉のふるい写真であること、またそこに切りとられているもの。この角度からでは光の反射のせいでただの白い紙片と見えるそれを一瞥し、ふたつのことがらを把握する。あわせてヒカリちゃんがそれを手にしている理由にも、おおかたの見当をつける。
 彼女があきらかにふくらませているようすの、写真を見つけた場所やいきさつへの劇的な想像に、水をさしてしまうのはいささか気が引けた。けれどいくら待とうと呼びおこされる感動もないので、結局あきらめて、「ああ、そこにはさんじゃってたんだ」とだけ言う。
 あたしの口ぶりであじけない現実を察したんだろう、ヒカリちゃんはほのかに紅潮した頬をそのままに、「なーんだあ」とおおきく肩を落とした。
「えっと。そこまでがっかりすること?」
「だって、表紙をひらいたら落ちてきて。隠してあったのかな、ひみつの写真なのかなって、ちょっとどきどきしたのに」
「ひみつはひみつなんだけどね。家族以外で見るの、ヒカリちゃんがはじめてだし」
 これからもきっと、ほかのひとには見せない。
 そうつづけようとしたところでヒカリちゃんが、もう片方の手にさげていた本を胸のまえにかかえなおし、またたいた瞳を「ほんとうですか?」と期待にかがやかせる。
「うん、ほんとう。このまえおばあちゃんから、何枚か送られてきたの。納戸をかたづけてたらむかしの写真が出てきたとかで。へえこんな写真、あったのねってながめてる最中に、たしか電話かなにかがあって、そのへんにぽいっと……」
「ああ、その先もういいです、聞きたくないですー……」
 ひとえにあたしのずぼらな性格のせいなのだが、広大というわけでもないこの家のなかでアクセサリーやら化粧品やら、こまごましたものがゆくえ知れずになるのはしょっちゅうだった。忘れたころにひょっこりとあらわれ日の目をみるならまだしも、半永久的に発見されないと運命づけられたものが、そこかしこにどれほど眠っていることか。ヒカリちゃんの手にある写真は、埋没する場所に彼女が読んでいた本の続刊をえらんだことによって、発掘されたうえに経緯まで判明しているのだから、境遇としてはかなり幸運なほうといえるだろう。
 もっともらしく考えてみるけれど、もちろんばかげたへりくつだ。すでにあきれ半分という顔をしているしっかりものの恋人に、写真がえらんだのじゃなくて自分がぽいっとしたのでしょう、なんてよけいあきれられるのが目にみえているから、口にもしない。
 ものを持った両手で器用に耳をふさぐ彼女へ、ごまかすように腕をのばす。抵抗する手がふたつともべつの目的に専念しているのをいいことに、「ひどいなあ、最後まで聞いてよ」とわきばらをくすぐり、「きゃあ」だか「ひゃあ」だかの悲鳴をあげて身をよじる彼女と、背もたれごしにひとしきりじゃれあってから体勢をもどした。
「ひどいのはどっちですか、もう!」
 ヒカリちゃんはまだ笑いの抜けきらない声で抗議しながら、ソファをまわりこみ、もとの位置へ腰をおろした。持ってきた本をひじおきの横に寝かせると、手元を見て顔をうつむける。
 まっすぐにまなざしのそそがれる先、例の写真は天井の照明やら窓からはいりこむ自然光やらを千々に波うたせ、やはりここからその色をとらえることはできない。
 ただ前述のとおり、なにが写されているのかはわかっている。
 故郷に住んでいたころのあたしだ。そばには相棒がひとりいる。まだおさなく、将来自分たちが向かう先もたどりつく場所も知らないふたりの世界は、おそらく生まれそだった町と写真の背景に裾野を写りこませるテンガン山、それだけで完結している。
 相棒との出会い、進化、旅に出る、年をかさねる——どのできごとを記録、あるいは記念したものでもなく、そもそも相棒とあたしの視線はカメラのレンズへ向いてさえいない。トレーニングに精を出してもふざけあってはしゃいでもいないから、日常の愉快なワンシーンを切りとったわけでもない。
 たまたま手元にあったカメラをたまたま目のまえにいた相棒とあたしへ向け、合図やかけ声もなくシャッターを切ったものと思しい。ないないづくしの、ひかえめにいってもなにひとつ、とくべつな点を見いだせない写真。
 そんな写真へやけに熱心に見いる彼女がふしぎで、気づけば「そんなにおもしろい?」と訊ねていた。
「おもしろい、というか。シロナさんにも子どものころがあったのだなあって、なんだかちょっと、ふしぎで」
「そりゃあね」
 ヒカリちゃんはヒカリちゃんで、あたしはあたしで。それぞれちがうところに端を発した考えが、おなじようにふしぎだという帰結に行きつくのがおかしくて、ちいさく笑う。
「おとなの状態で地面からはえてきたわけじゃないもの、あたし」
 もちろん冗談のつもりで口にした言葉を聞いて、彼女が唇へ指先をあてる。そのままだまりこくるものだからまさかと心配になり、あわてて表情をのぞきこむ。
「え? ねえ、うそ、ほんとにそんなふうに思ってるわけじゃないわよね?」
「ふふ、まさか。ちがいますよ、でも」
 つづく先を待って首をかしげた拍子、学術誌がひざのうえから座面へすべりおちる。書斎でのバックナンバー探しを忘れないように。ぱさりと鳴るかわいた音が意識のはずれに、そんなささやきを落としていく。
「わたしの知ってるシロナさん、ずっとおとなだから。実際にこうやって写真を見ていても、子どものころがあまりうまく想像できないのです。それこそ最初からおとなだったのって言われたら、そうなんだって納得しちゃうくらい」

 関連する論文の載った号をさがして、本棚の一角にならべた学術誌の背表紙を順に引きだしていく。この表紙だったか、いやこちらだったか。無心に指をうごかすさなか、ふと書斎へやってくる直前、ヒカリちゃんが言ったことを思いだして、祖母のわかいころを想像してみた。
 そうして、すぐに断念する。ヒカリちゃんの言うことはなるほど、もっともだった。
 なにしろたどることのできるかぎり最古の記憶ですら、多少の差異はあれども現在のすがたをして、祖母はそこにいた。かつての祖母は写真などにまったくのこっていないわけではないのだろうけれど、たとえ目にしたところで、あたしの知るいまの彼女とむすびつく気もしない。仮に祖母がはじめから祖母という状態であったのだとしても、たしかに飲みこめてしまうかもしれない。
 想像を断念したのと同様、適切な号だけをよりわけるのも結局あきらめ、背表紙をごっそりと取りだす。脇の本がたおれてこないように空いたスペースのはしへブックスタンドを寄せながら、将来自分がどうなるのかをつゆほども知らないころの祖母へ、想いをはせる。
 会って、話をして。知りたいと思う。日々なにを感じ、考えたか。
 たとえばみじかく猛烈な夏を越え、すずしくなりはじめた秋の朝。目をさまして、ここちよい気温にどんな表情をしただろう。その冬はじめて降る雪を見あげたとき、暗灰色の雪雲のむこう、かなたに眠る春を頭のすみへよぎらせただろうか。いったいどんなたのしみに胸をはずませて扉を引きあけ、家の外へ飛びだしていっただろうか。
 ——リビングへもどるとまっさきに、「ねえ」と声をかけた。ページをめくりかけていたらしい手を止め、ヒカリちゃんが振りかえる。
「もし、もしもよ。子どものころのあたしに会えるとしたら、会ってみたいって思う?」
 書斎で考えたことが尾を引いてはいた。それでもあたしにとってはまだふたりの会話の、なんでもない糸口にすぎなかった。
 しかし彼女は即答せず、ゆっくり一度まばたきして視線をさげ、思いのほか真剣に考えこむそぶりをみせる。ずいぶんながいことそうして、あたしがひとまず背もたれのうえから腕をのばし、座面にバックナンバーの山を置くころ、ようやくぽつりと口をひらいた。
「見てみたい、気持ちはあるのですけど」
 そこまで言い、ローテーブルに置かれたままになっていた写真を取りあげると、「好奇心みたいなものかもしれません」とつづける。
「それで『見てみたい』なの? 会ってみたい、じゃなくて」
「そうですねえ。……やっぱり、いまがいいかなって」
「うん?」
「わたしが会ったのは、いまのシロナさんだから。いまのシロナさんがいいです、やっぱり」
 のんびりとした、けれど明瞭な発音でそう言ったヒカリちゃんが、写真を口元へ引きあげて照れくさそうに目をほそめる。だからあたしは訊ねたときのなんでもない気楽さのかわりに、そうせずにはいられない想いで胸をみたして、身をかがめた。
 隠れてしまった唇のかわりにふせられたまぶたへ、おなじように目をふせてキスを落とす一瞬、写真のはねかえす光じみた白一色の幻影がいくつも脳裏にひらめき、つぎつぎに背後へ流れて過ぎさっていく。
 わかいころの祖母。子どものころの相棒。かつて存在し、いまはもう会えないひとびとのむこうにひとりだけ、たしかな色を持った背中を見る。だれよりもとおい位置で振りむきかける彼女の像は、まぶたをあげると同時に粒子となってとけきえ、その顔をあたしが目にすることはない。
 いまは、まだ。
「あたしは、会いたいなあ」
 顔をはなしてささやくと、ヒカリちゃんはきょとんとした色を浮かべた瞳のうごきで、あたしを見あげた。
「……だれに?」
 いつかかならず、会える相手だ。
 リーグのスタジアムへ歩みでて、千の秋をのりこえたような心境で彼女と相対したときからずっと、あたしはそれを知っている。
 きみはけっして、とおりすぎていかない。たとえどんなに待たせても、いつかかならずやってくる。
 あたしのまえに。
「おとなになったヒカリちゃんに」
 待てばかならず、会えると知っている。だからまぼろしのなかで会えなかったのを惜しみはしないけれど、そうかといってはやる気持ちがないわけではないのだ。
 だっていまはキスひとつするのにも、身をかがめなくちゃいけない。
「はやく、会いたい」
 付けたしたあたしに、ヒカリちゃんは手元の写真をさげると、笑ってこたえた。
「待っててください」
 もう一度腰をまげて、顔をかたむける。
 世界で一番信頼している言葉だと、そう伝えるかわりに。