レイター・レター
お元気ですか?
なんて、ありがちなことから書きだしてみたりして。そういえばお手紙を書くのは初めてですね。書かなくてはいけないほど、離れたことがなかったものだから。
この間、こちらでは春一番が吹きました。それでも空気は相変わらず冷たくて、草ポケモンたちにはまだまだ厳しいみたいです。イッシュはどうですか? 四季は同じだと聞いたけれど、地図を眺めていてもあんまり遠いので、いまいち実感がわかないのです。
そういえば、さっそくこうしてお手紙を書いているのは、無事にそちらへ到着したって、カトレアさんが連絡をくれたからなんですよ。カトレアさんとはずいぶん久しぶりにお話した気がするけれど、お仕事が充実しているみたいで、 電話越しでもわかるくらいとっても生き生きとしていました。コクランさんが相変わらずうるさいのよって、全然うるさくなさそうに言うんです。わたし、おかしくって――
――ごめんなさい、手紙ってあまり書きなれていなくて。思いつくことをそのまま書いていたら、なんだか自分の話ばかりになってしまいました。
最後になってしまいましたが、体に気をつけて。無理はしないでくださいね。
*
メールボックスの把手を引くと、『イッシュ・タイムズ』の朝刊と一緒に、ミントブルーの封筒が手もとまですべり落ちてきた。
朝刊といっても時刻はもう昼前だ。この時間に手に取ったという事実に、あたしの怠惰ぶりが如実にあらわれている。ひとりで気恥ずかしくなっていると、背中から「この時間に朝刊かい?」という笑いまじりの声がかかった。あたしはいたずらを見つけられた子どものようなきまり悪い気分で、年上の友人を振りかえる。
「おはよう、と、こんにちは、を区切る時間にも、個人差があるじゃない? それなら朝の新聞を読む時間にもいろいろあって、昼前に朝刊を読むひとがいても……いや、なんでもないわ」
つらつらと述べながら、あまりにばかげた言い分に自分でも笑えてきて、しまいには軽く吹きだしてしまう。ダイニングテーブルに学術誌を広げたアロエは、もはや隠しもせず笑っている。
「そりゃあ違いない! なら昼に新聞を読みながら目覚めのコーヒーを飲んだって、ちっともおかしくはないね。どう? あたしもいただきたいし、一杯淹れようか」
彼女の訪問で起床したばかりの身としては、断るべくもない魅力的な提案だ。インスタントしか買い置きしていないことを告げた上で、顔の前で手を組み『お願い』のジェスチャーを取ると、アロエは学術誌に栞をはさんで立ちあがり、きれいなウインクをひとつ残して颯爽とキッチンに消えた。
朝刊を読む、とは言ったものの、今朝の一面に躍る見出しのうち、際だって目を引くものはない。椅子に腰かけ、中身をぱらぱらと流し読んでもその感想が変わらなかったので、結局早々にテーブルの上へ放ってしまう。
ミルクと砂糖をどうするか訊ねるアロエの声が聞こえ、キッチンのほうに体を向けてミルクをひとつ、と答えた拍子に、視界の片すみにミントブルーの物体が見えた。
そういえば、とその存在を思いだして封筒に手を伸ばす。ここはあくまでもカトレアの別荘をイッシュ滞在中の仮住まいとして借りているだけなので、あえて住所を伝えてある相手は少ないし、新聞以外の郵便物が届いたのも初めてのことだった。
指で持ってみるとあまり厚みはなく、宛先のていねいな筆致にもひとまず見覚えはない。しかしそのまま手首をかえすと、裏面の片隅に小さく書かれた文字の並びを見つけた。
なじみの薄い英字が故郷の言葉に変換されて、少しずつ頭に沁みこんでくる。ナナカマド研究所、マサゴタウン、シンオウ……むこうのやり方で、最後にひときわ小さく添えられた差出人の名前を、あたしは口の動きだけでつぶやいた。
イッシュに発つあたしを見送ってくれた姿はつい昨日のことのように思いだせるのに、文字だけでは彼女だとわからなかった。そういえば連絡を取りあう手段がもっぱら電話ばかりだったせいか、彼女の書く文字を目にする機会は今までほとんどなかったように思う。
それにしても、手紙をくれるひとといったら一番に思いつかなければいけない名前だったのに、筆跡になじみがなかったとはいえ、とんだ不義理をしてしまったものだ。
申し訳ない気持ちにまかせて差出人の名前を親指のはらでなぞったタイミングで、湯気の立つカップをふたつトレイにのせたアロエが、コーヒーの香りとともにキッチンから戻ってきた。あたしが持っている手紙を見とめて、いかにもほほえましいというように目を細めた。
「あら、手紙」
「うん。……ああ、ありがとう」
彼女が手前にことりと置いてくれたカップを、礼を言って持ちあげ、ひとくち飲んだ。どういたしましてと返してきたアロエも先ほど座っていた席には戻らず、その場で立ったままコーヒーカップを手にする。
「近ごろはあまり書く機会もないような気がするけど、たまにもらうと新鮮で嬉しいもんだわね」
「そういえば近ごろどころか、しばらく書いた覚えがないわ。ちゃんと返事、書けるといいけど」
「ふうん。つまり、手紙の書きかたを気にするくらいの相手ってこと?」
そう訊いてきたアロエの声音がもし茶化すようなものだったなら、おそらくあたしも冗談まじりに切りかえしただろう。しかしそんな色はまったく感じられなかったので、唇に指を沿わせて言葉を探した。
差出人をあらわすための言葉を。
「そうね。むこうに残してきた、大事なひとなの」
アロエはにっこりと笑い、「それなら問題ないよ」と言った。
ノー・プロブレム?
あたしの顔に疑問符が浮かんだのにもかまわず、あるいはその反応を見こしていたように、彼女は思慮深くまぶたを伏せて続けた。
「大切な相手に向けて書くなら、自ずとそういう気持ちの入った手紙になる。だから、ちゃんと書けるかどうかなんて、気にすることないんだよ」
*
お元気ですか。
手紙なんてずいぶん長いこと書いていなかったのに、いざ書いてみると無意識にこの書きだしになってしまうのだから、不思議なものです。
まず最初に、手紙をありがとう。本当は電話してお礼を言いたいのですが、夜中や早朝に起こすことになってしまってもいけないので、こんな形でごめんなさい。
こちらに着いてからしばらく経ちました。正直にいうと、シンオウと同じところを探すのが難しいくらいに何もかもが目新しい土地なので、まだ何をするにも戸惑うことのほうが多いです。でもカトレアやコクランくんは言わずもがな、他にもたくさんの人に助けられて、どうにか毎日つつがなく過ごすことができています。できている、と思います。
*
「ヒカリさん、ヒカリさあん」
のんびりした声に呼ばれて振りむけば、声の主は顔なじみのふくよかな郵便配達員だった。制帽のつばをちょこんと下げて挨拶してくれたので、こちらも立ちどまって会釈を返す。
彼はコトブキの大きな郵便局に所属する配達員で、マサゴとフタバに振りわけられた郵便物の配達をまとめて担当している。ふたつの町をまとめて、というので大変な範囲に聞こえるが、どちらも当の住人さえ、町と言うよりは集落と言ったほうが的を射ていると思うような規模だ。これくらい小さな地域だと、まとめて受けもったほうが人を割かずに済むのでむしろ効率的らしい。
以前聞いたそんな話を思いだしている間に、その話をしてくれた本人は赤い自転車を漕ぎだし、わたしのそばまで来てサドルから降りた。進行方向からいって目的地は同じなので、どちらからともなくそのまま並んで歩きだす。
「どうも、お疲れさまです。研究所に戻られるところですよね」
「はい。わたしだけちょうど区切りがついたので、みんなのぶんも軽食を買いだしに行ってきたところなんです」
手に提げたフレンドリィ・ショップのビニール袋を持ちあげて軽く振ってみせる。
配達員はちょうどよかった、とつぶやいてから、すぐにはっとして口もとを手で隠した。
「ああいえ、ご相伴にあずかろうという話ではなくてですね! これから配達に伺うところだったので、ちょうどいいという意味でして」
あわてて顔の前で手を振るのでつい笑ってしまい、その笑いをこらえようにも「そんなこと思ってませんったら」と咳こみつつ言うのが精いっぱいだった。それでも配達員は心底安心したように息をつき、それから照れたように頭をかいた。
「ああ、それならよかった。近ごろはお会いする方みなさん、色々とくださるので。いかにも食い意地が張っていそうな風体なのだなあと、これでもちょっとは恥ずかしく思っているのです。いえ、まあ、実際に食べるのは好きなのですが」
彼はこういうあけすけで屈託のない人柄で、この辺りの住民からは人気者だった。研究以外のことには口が重いナナカマド博士でさえ、彼と顔を合わせればなにごとか話しこんでいるのを目にするくらいだ。
「このあいだナナカマド博士にお会いしたときなんて、出会い頭に白衣のポケットからチョコバーを出して、無言で渡してくださいましてね」
「博士ってば、口下手なんだから。びっくりしたでしょう?」
「いえ、私も私で、反射的に受けとって数秒経ってからようやくお礼を言ったくらいなので、博士のことをなんとも言えないのですよ」
そのあとも二、三たわいないやりとりをしながら角を曲がれば、狭い町なのですぐに研究所の建物が見えてくる。わたしは自転車よりも少し前に出て、彼を振りかえった。
「お手紙、ここで預かってもいいですか?」
「ええ、もちろん。少しお待ちくださいね」
配達員は自転車の荷台に載った配達物のボックスではなく、肩に斜めがけした黒革のショルダーバッグをごそごそと探り、やがて太い輪ゴムでまとめた封筒の束を取りだした。
「では、こちらが研究所宛てのぶんです。サインの必要なものはありませんので」
「ありがとうございます」
束を受けとって輪ゴムを外し、一番上のものから検分していく。実験データの分析を依頼していたカントーの研究機関からの返信と思われるもの、定期購読している科学雑誌、オフィス用品の請求書に、ダイレクトメールらしきものが数通。特段珍しいものはない。
それでは、と別れようとしたところに、配達員がもうひとつなにかを差しだしてきた。
「それとこちらは、ヒカリさん宛てですね」
条件反射的にそれを受けとってから、そういえば先ほど彼が、普段はわざわざ言わない『研究所宛て』という付け加えをしていたのを思いだす。遅れて納得しつつ、渡されたものに初めて目をやった。
それはさほど大きくない白地の封筒で、赤と青の太い斜線で縁どりがされていた。単語を言えば誰もが連想する封筒で送られてきた、疑う余地もないエアメールだった。
わたしは差出人の名前を読みもせず、腕に抱えた郵便物の束の上にその手紙を重ね、もう一度配達員に礼を言った。
手紙をそんなふうに扱ったのは軽んじたからでも興味がなかったからでもなく、マサゴタウンのナナカマド研究所の、さらにその中のわたしに宛ててエアメールを送ってくる相手なんて、およそ世界にひとりしかいないことをよく知っていたからだ。
配達員はわたしの礼に制帽を少し持ちあげて応じると、自転車にまたがって走り去っていった。きっとこのあとも、マサゴとフタバの家々に手紙を届けてまわるのだろう。
わたしは真っ赤な荷台が研究所の前を通りすぎ、その先の角を曲がって見えなくなってから、手紙の束を抱きしめなおしてようやく研究所の玄関へと歩きだした。
手紙が誰から届いたのかは、名前を見なくてもわかる。
けれど知らなかった、と思った。
差出人のわかりきった手紙で、こんなにも心臓が跳ねるなんていうことは。
*
「ごきげんよう」
はるばるやってきたイッシュで、故郷の言葉で声をかけてくる人間といったら、そもそも多くはない。その上そんな言いまわしで挨拶をする人間とくれば、候補はひとりにまで絞られる。
だから誰に声をかけられたのか、姿を見て確かめるまでもなかったのだが、あたしは最低限の礼儀としてサングラスを外してシャツの胸もとに引っかけ、玄関からウッドデッキのほうへ回りこんできたらしい少女に顔を向けた。
「カトレア。お世話になってるわね」
「まあ。シロナさんったら、いつからそんな殊勝なことおっしゃるようになったの?」
「あたし、自分より謙虚なひとはそうそういないって自負してるけどなー」
「謙虚なかたにしては」
華奢な日傘を差したカトレアはくすくす笑って言葉を切り、デッキの上のガーデンテーブルに資料やらルーズリーフやらが雑然と散らばっている様子を見わたした。
「ずいぶんなくつろぎようだこと」
あたしは肩をすくめる。
「のびのびお過ごしのようでなにより、とでも言ってほしいわ」
「その言いかたのほうが、かえって嫌味ではなくて?」
知りあったころの静かで無表情で、どこかビスクドールじみていたカトレアとなら、天地がひっくり返ってもこんな会話を交わすことはなかっただろう。まさか、この少女が笑いながら軽口を叩く姿を目にする日が来ようとは、かつての自分に言っても信じたかどうか怪しいものだ。
あれもこれも制限されていたのは彼女自身を守るためだったのだから、この変化が果たしていいのか悪いのかというのは判断をつけかねるところだが、あたし個人としては今の彼女のほうが付き合いやすくて助かっている。
席を立ち、いささか段差のきついステップを上がってくるカトレアに手を貸すと、彼女の肩ごしのさらに後方で、直射日光が照りつける中でも隙なくきっちり燕尾服を着こんだコクランくんの姿がのぞいた。どうやら玄関のほうに車を停め、本人もそこで待機しているらしい。彼の主人に差しのべたのとは反対の手を振ると、ひかえめなほほえみとともに一礼が返ってくる。
「ありがとう。ここにいて、なにか不便なことはありません?」
「なーんにも。こういうこと言うのもどうかと思うけど、我が家より快適なくらいよ」
潮風にもつれた髪を手ぐしで梳き、あたしは本心からそう言った。
別荘の窓から見える異郷のビーチは美しく、気候はシンオウの春よりもだいぶ温暖で、なおかつ観光やバケーションのメインシーズンは外れているので、街中の人の数もそれほど多くない。おまけに完璧なハウスキーピング付きとくれば、研究拠点の環境として文句のつけようがないし、ここ以上を見つけるのは難しいだろう。
カトレアは「それならいいのだけれど」とつぶやき、後ろのコクランくんを一瞥した。
「なにかあったら、すぐコクランに申しつけてくださいな。手ずからおもてなしできないのがずいぶん残念だったようですから、頼まれごとがあればきっと喜んでお世話を焼くと思うの」
その言葉があながち社交辞令でもないのだろうと思わせるのが、コクランくんのホスピタリティのすごいところだ。事実、コクランくんはイッシュに到着したあたしをサザナミタウンまで送ってくれる道すがら、別荘の掃除は仕事の都合で部下に任せざるを得ないのだと、それはそれは残念そうに話してくれたのだった。
でも彼の代わりに別荘をきれいに保ってくれる、彼にハウスキーピングのいろはを叩きこまれたらしい部下たちの仕事ぶりに、今後も不満がわくことなどありそうにない。あたしは喉の奥で笑って「なにかあれば、ね」と返す。
笑いが引いていくうちに、バトルを申しこみにきたのだか暇をつぶしにきたのだか、いずれにせよ彼女が別荘まで足を運ぶに至った用件をまだ聞いていないのを思いだす。しかしそれを口に出して訊ねようとするのと同時に、カトレアがなにか言いかけた。ふたりで顔を見合わせて苦笑し、結局あたしのほうから、話を続けるよう手ぶりでうながした。
カトレアは日傘の持ち手をくるりと半回転させ、別荘の建物を振りあおぐと、日光の照りかえしに目を細めて言った。
「あの子はどちらにいらっしゃるの?」
一瞬、質問の意味をはかりかねる。
いや、それは正確な言いかたではない。
先ほど声をかけてきた相手がカトレアだとわかったのとほとんど同じ筋道で、誰のことを訊かれているのかは瞬時に察することができた。けれど、どうしてそんなことを訊ねてくるのかという疑問の答えには、皆目見当がつかなかった。
「……シンオウに」
十中八九期待されたものとは違うのだろうと思いつつ恐る恐る答えると、案の定カトレアは目を丸くした。
「え?」
「え」
「ええと、だって。……どういうことかしら」
カトレアが自分のこめかみを人さし指のはらで軽く叩き、混乱したようにひとりごとを漏らしてから、怪訝そうな表情を顔にのせてこちらを見るころには、あたしもおぼろげながら、彼女と自分の認識になにかしら食いちがいがあるらしいのを察することができていた。
「連絡があったでしょう?」
「手紙をもらったわ」
「てがみ」
カトレアは妙に抑揚のない発音でその単語を繰りかえし、続けて「それで?」と訊いてきた。
「手紙を……もらって。返事を書いて」
「返事を書いて。ということは、電話はしなかったのね」
「そうね」
「どうして?」
これではまるで尋問だ。
そう思っても、現状では彼女の意図する帰結がまったく読めないので、とりあえず質問に答える以外に取れる選択肢がない。
「時差があるし、変な時間になっても悪いもの」
あたしのその答えが脱力するスイッチだったかのように、カトレアはウッドデッキの手すりに後ろ手でふらふらと寄りかかり、深くため息をついた。
一連の動作をぎょっとして見ているばかりのあたしを、『呆れた』とはっきり書いてあるような顔が見かえしてくる。わけがわからないまでも、こういう顔をされるのはそれだけでけっこう心に来るものがある。
「私の都合なんて訊かなくてもいいから、シロナさんにだけ連絡して、いつでも好きなときにいらっしゃいなって言ったのに。きっと変に気を回したんだわ」
「たしかにこっちへ来たいだとか、そういうことは書かれてなかったけど」
「シロナさんもシロナさんです。妙なところで気をつかわずに電話していたら、むこうだって言いだしやすかったでしょうに。……ああ、とうにこちらへ来ているものだとばかり思っていたのに。なんてことかしら」
それが『なんてこと』という驚嘆に値するほどの内容かどうかはともかく、ひとまずカトレアがなにを勘違いしていたのかだけは理解した。
しかし思うに、それであたしが呆れられるのは八つ当たりというものではないだろうか。
「あの子にだって都合があるし、単純に忙しくて来られないから言わなかったのかも。それに、ねえ。いくらあたしがダメな大人だからって、間借りしてるところに無断で人を呼びこんだりしないわよ?」
「そういうことを言っているのではないのです。シロナさん、わかっているくせに」
至極妥当だと思って口にした言い分は、 まるで裾についたほこりでも払うかのようにぴしゃりと跳ねのけられる。
わかっているくせに。
いや、まったく。
仮住まいの主はすでにすこぶる不満げだ。そんな彼女の機嫌をこれ以上そこねるのは賢明な判断と言いがたいので口にこそしなかったが、しかし実際問題としてわからないものはわからない。
遠く離れた場所で、声も聞かずにいると、わかりきっていると思っていたことの輪郭も不明瞭になってくる。
今のあたしには、あの子が気をつかってこちらに来たいと言わなかったのか、あるいは本当に都合がつきそうもないので話をせずにおいたのか、それさえも判断がつかない。
あたしが黙りこくったのをどう見たか、またいちだんと深いため息をついて、カトレアがつぶやいた。
「……ふたりして、なにをそこまで遠慮し合っているのだか。変に気をつかってさみしくなるのだったら、声くらい聞いたらいいのに」
それはできない、とあたしは思って、その言葉もまた飲みこんだ。
声を聞いたら、会いたいと言ったら、あるいは手紙に書きでもしようものなら、たぶん本当にそうしなければ気がすまなくなってしまうだろう。
それでいて、あの子も同じ気持ちで、連絡手段として手軽な電話でなく手紙という方法をあえて選んだのではないか、とどこかで期待する自分がいる。
そんなことをカトレアに吐露するわけにもいかない。だからなにも言えないでいるのだ。
ふいに軽めのエンジン音が聞こえて顔を上げると、通りから別荘の玄関へ向かう一本道を、郵便配達の赤いバイクが走ってくるところだった。
それに気づいたコクランくんが、玄関に停まったバイクに向かってなにか声をかけると、おそらく別荘の管理人として顔が通っているのだろう、配達員は彼に郵便物らしきものの束を渡し、来た道をUターンして走りさっていった。
コクランくんは受けとった郵便物をぱらぱらとあらためてから、小走りでこちらへ近づいてきた。
「お話の邪魔をして申し訳ありません。ほとんどが別荘を管理する側へのものですので、わたくしどものほうでお預かりさせていただきたいのですが――」
そう言いながら何通かを選りわけて脇に抱え、残った一通を差しだしてきた。
「こちらは、シロナさま宛てです」
ミントブルーの封筒だった。
手紙を受けとりはしたものの、あまりのタイミングに、言葉がのどにつまって出てこない。
そうとも知らないカトレアが、小首をかしげて「どなたから?」と訊いてくる。手紙自体に興味があるふうではなく、目の前で渡されたので話の流れとしてとりあえず訊いてみる、といった口ぶりだった。
「ヒカリちゃんから、返事」
平坦な声でかろうじて質問に答えると、彼女は一瞬ぽかんと口をあけて、すぐに引きむすんだ。
そしてそのままビーチのほうへ顔を向け、凪いだ海になにかを探すようにじっと見つめた。まるで今しがたそこに、あの子が現れでもしたかのように。
「噂をすればなんとやら、だったかしら」
あたしも同じ言葉を思いだしていた。
噂をすれば影がさす。
あまりいい意味で使うことわざではなかったような気もするが、これ以上にしっくりくる言葉を見つけられそうになかった。
*
これで五回目だ。
わたしはナナカマド博士が譲ってくれたランチセットのデザートの、最後のひとくちを口にはこびながら、博士がなにか話を切りだそうとしてやめた回数に、カウントをひとつ足した。
今日のナナカマド博士はどうやらなにかおかしい。もっとはっきりいうなら、変だ。ただでさえ、博士が言うべきことを口ごもっている姿なんて見たことがないのに、それが五回も続いている。
でもそれをいうなら、ランチに誘われた時点で違和感をおぼえてもよかったのかもしれない。
なにせ博士は、わたしやコウキくんが引きずりだしでもしないと、研究の片手間に栄養補助食品をかじっただけで「食事はすませた」なんてのたまってしまうようなひとだ。そんなひとにランチはどうかなんて誘われて、本当ならなにかあると気づいてしかるべきだったのだろう。
しかしいままでコウキくんといっしょに、博士にほんのすこしでもまともな食生活を送ってもらいたいとさんざん苦心してきていたわたしは、誘いを受けた瞬間に『博士が食事に興味をもった!』と舞いあがって、ふたつ返事で了承してしまったのだ。
そして、そういう経緯のすえにランチの場所に選んだこのレストランで、席に通されてメニューを選ぶあいだから、わたしがメインのボンゴレ・ビアンコをフォークに巻きつけているときまで、何度も言葉を飲みこむ博士を見て、ようやくこの誘いになにか理由があったのかもしれない、という考えにいたったのだった。
「はかせ」
「なんだね。ああ、食後の飲みものはどうする。コーヒーか、紅茶か」
「紅茶にします。……そうじゃなくて、博士。わたしになにか、お話でもあるんですか?」
「……なぜそう思う?」
博士は思いもよらないことを言われたように目を見ひらいたが、わたしはわたしで、どうやら博士があの様子でうまく隠しおおせているつもりだったらしいことに衝撃を受けていた。
ひと呼吸おいて衝撃から立ちなおると、博士は自分の挙動を省みようと思ったのか、白い口ひげをなでてななめ上を見つめている。
「えっと。何度も何度も、なにか言いかけてやめているみたいだったので。それに博士からランチに誘ってくれるなんて、珍しいを通りこしてますし。いろいろ合わせて考えてみると、わたしになにかお話があって誘ってくれたのかなあって」
「ふむ。なるほど論理的だ。自然な流れだと思ったのだが、ふだんの言動があだになったというわけか」
「あだになったとまでは言いませんけど。博士がふだんからちゃんとごはんを食べてくれるひとだったら、ちょっとは違ったかもしれませんね」
それでなくても動作だけで筒ぬけでしたよ、とは言わずにおく。
博士は「まいった」と何度かつぶやき、後頭部をぽりぽりとかいて苦笑いした。
「……私はこういうことに向かんのだな」
「こういうこと、というと」
博士がこんな回りくどい手段をとって伝えざるをえないような内容を想像してみると、思いうかぶものはいくつかあったが、どれも決め手に欠けた。
そして博士は、納得のいく案を考えつくのを待ってはくれなかった。テーブルの上で手を組んで「ヒカリ」とわたしの名を呼ぶ。
「見やぶられたとあっては仕方がないので、単刀直入に言うが。しばらくイッシュへ行く気はないか」
「イッシュ、イッシュですかあ。……へ?」
言葉を聞きとったあとから意味だけが遅れて処理されるなんていう、コントみたいなことが実際にあるものだ。
わたしが固まっているあいだに、博士は胸のつかえが取れたようなすがすがしい顔でウェイターに声をかけ、コーヒーと紅茶をひとつずつ、てきぱきとオーダーした。
わたしは空になったデザートの食器がさげられるすきにひとまず深呼吸して、革のソファに腰かけなおす。
イッシュ。
言葉も違う、海のむこうの地方。
半年前のわたしなら、もしイッシュについて訊かれても、それくらい通り一遍のことしか答えられなかっただろう。
けれど二ヶ月前、冬の真っ只中だったあの日、特大のキャリーバッグを引いて旅だつ背中を見送ってから、その名前はただの知らない土地を指す以上の意味を持つようになった。いまやテレビやラジオでむこうの話題が流れると、周囲がどんなに騒々しくても聞きとれるくらいだ。
それだけ意識の中心にある場所なので、本来なら博士の口から出るにしては唐突な単語であっても、博士がなにを言わんとしているのか察するのは、さほど難しくなかった。
ただ、気をつかわせたのだろうとだけ思った。
「わたし、いつもどおりでいたつもりでした」
自分の声が思ったよりも沈んで聞こえて、内心すこし慌てる。これではまるで、行きたくない場所に無理やりねじ込まれているようではないか。
顔をあげると目が合い、博士はすこし伏し目がちになって答えた。
「ああ。そうだろうとも。誤解しないでほしいのだが、きみは以前から助手としてよくやってくれているし、当然ここ最近だって、仕事ぶりには文句の付けようがない。だから仕事に身が入っていないようなので息抜きをしてこいだとか、そういうわけではないのだ」
「なら、どうして」
「あまりにもいつもどおりなので、きっと頻繁に連絡を取りあっているのだろうと安心していたら、手紙しかやりとりしていないという。それがすこし気にかかって見ていたら、たまに手を止めて、ひどくぼんやりしている時がある。今までそんなことはなかったので、これはまずい、おかしいと思った」
「自分では、ぜんぜん……」
「きみ本人も無意識のうちのことなのだろう。恥ずかしい話、私も、意識して観察してみるまではちっとも分からなかった。だがジュンとコウキにも相談してみると、ふたりはもっと前から心配していたようだったぞ」
コウキくんはともかく、ジュンまで。
後者本人に聞かれたらぷりぷり怒りだしそうな感想をいだいていると、コーヒーと紅茶がはこばれてきた。
博士はコーヒーになにも入れないので、シュガーポットとミルクピッチャーを自分のほうへ引きよせる。ミルクを注いで、砂糖をふたつ入れると、立ちのぼる湯気のむこうで茶色い瞳が二度まばたきをして、言葉を続けた。
「それで話しあい、どうにかイッシュへ行くようにすすめようということになった。そのときは、私から切りだすのが一番自然だろうと意見が一致したのだが。まあ結果は、このとおりだ」
ティースプーンでカップの中身を無心にかき混ぜながら、博士が肩をすくめるのを視界のはしに見る。
「それらしい理由を、いろいろと考えてはいた。生態調査。届けもの。だが今さらこうして下手な策を弄するくらいなら、そもそもはじめから休みをとって、シロナくんと一緒に行ってもらうのがよかったのだろう。あのとき、きみがなにも言わなかったので、さすがに差しでがましいかと思って言えなかった。私の失敗だ」
「そんな。そんなこと、ないです」
あのとき。
シロナさんが現地の古代史研究に取りくむために、イッシュへ発つことを決めたとき。
ついて行きたいと言わなかったのは、自分の意思だ。
決まった時期がシーズンオフになるリーグの面々とは違い、ナナカマド博士の助手をしているわたしに、たしかに固定の休日というものはない。でも博士に話せばお休みをくれるだなんて、訊ねるまでもなくわかりきったことだった。
にもかかわらずついて行きたいと言わなかったのは、シロナさんがずっとその研究に本腰を入れたがっていたのを知っていたので、無理やり同伴するのに気が引けたのと、年中一緒にいるうちの何ヶ月か離れるくらいのこと、耐えられないものでもないはずだと思ったからだ。
実際、今の今まで自分では平気なつもりでいた。
だが、それで博士やジュンやコウキくんにここまで気を揉ませているのだから、失敗だったというなら失敗したのはわたしのほうだろう。
「……きみが。もしも仮に行きたくないのなら、もちろん無理強いはしない。だが、誰にもなにも、気をつかう必要などないのだけは、どうかわかってほしい」
そこまで言ってくれる相手に、この期に及んで失敗をくり返すことなどできようか。
「わたし――」
言葉尻は、店内の少し離れたところで上がった、なにかの転がる音にかき消された。
驚いてそちらを見ると、どうやらトレイを取りおとしたらしいウェイターが、お騒がせして申し訳ありません、と謝っている。にこやかな態度を見るかぎり、なにかをこぼしたとか誰かにかかったというような被害はなさそうだ。
店内のほとんどの客と同じように、博士も音の原因に気を取られていた。わたしは、博士がこちらへ向きなおるのを待って言いなおす。
「わたし、行きます。行きたいです」
なんだ。
こんなに簡単なことだったのか。
ついて行きたい、会いたい、さみしい。その類の言葉を口にしたら最後だと、その気持ちでいっぱいになって身うごきできなくなってしまうと、それこそ無意識のうちに思っていた。だから彼女に連絡する手段にもすこし迷って、下手なことを言ってしまいそうな電話でなく、文章を考えて書ける手紙を選んだ。
けれど実際口にしてみれば、その言葉があまりにもすとんと胸に落ちてきたことによって、かえって本音ではそうしたがっていたのだとわかる。
博士はわずかに目を細めて、何度か小さくうなずいた。
あまりにも安心したような表情に、こちらまでほっとさせられる。
気がゆるんだのか、安心した拍子になぜか目頭まで熱くなって、それをごまかすために急いで紅茶を飲んだ。
*
ヒウンシティの港は人でごった返していた。
一瞬、もう下船が終わってしまったのかとあわてたものの、船旅の大荷物を抱えている姿はまだちらほらとしか見えない。この人混みは出迎えの家族や友人が多くを占めているらしいと判断し、すきまを縫うようにして歩きだす。
そこかしこから聞こえてくる、再会を喜びあう会話の中には、故郷の言葉で交わされるものが混じっていた。シンオウのみならずカントーやジョウトにも寄港してくる船なので、当然といえば当然なのだが、ここ数ヶ月でこちらの言葉にすっかり慣れていたらしい耳が、やたらと敏感にそれを拾いあげる。
視界が客船の白い船体で埋まるほど近づいたころ、ようやく渡船橋の出口のすぐそばに、見覚えのあるまるい後頭部を見つけた。
まばたきするほどのあいだ息をつめて、足を止める。
キャリーバッグによりかかることもなくまっすぐ立つ後ろ姿が、モノクロの画面の中でそこだけ色づいたように、はっきりと見えた。
このまま見ていれば、おそらくそのうち彼女が振りかえるなりあたりを見まわすなりして、こちらに気づくだろう。しかしそれを待たずに、あたしは結局もう一度歩きだした。
一歩。スーツ姿の男性が出口から降りてきて、腕のポケッチで時間を確認し、歩きながら電話を掛けだす。
二歩、三歩。人混みのどこかで久しぶり、というような、ほとんど歓声に近い声が上がる。
四歩、五歩、六歩。あたしは渡船橋の出口にたどり着き、ふたたび足を止める。あと一歩踏みだせば肩を叩けるくらいの距離にある、小さく薄い背中を見ている。
彼女が気づくのを待ってもよかった。
けれど、先に手紙をくれたのも彼女で、こちらに来たいと言ってくれたのも彼女からで、この上迎えに来たあたしを先に見つけるのが彼女だなんて、あまりにも格好がつかないではないか。
「ヒカリちゃん」
そう大きな声を出したつもりはなかったが、彼女が顔を上げ、ぱっと振りむいた。
目が合う。
ヒカリちゃんは困ったような、泣きだしそうな、どちらともつかない表情になったが、あたしも自分がうまく笑えているかどうか自信がなかったので、人のことは言えない。
周囲の音が耳鳴りのように遠くなる中、あたしは最後の一歩を踏みだす。
彼女がなにか言う前に、こちらへ来ようとする前に、彼女を抱きしめるために。