恋のはじまる日

 数メートル先の波打ちぎわによく知った人物の横顔を見て、思わず足が止まった。性急な停止に追いつけなかったかかとが小さな砂の隆起を蹴りあげて、靴の中にぱらぱらと砂を降らせる。
 相手は目線ほどの高さに持ちあげた手首のあたりを注視していて、あたしという他人がいることにも、もちろんその他人が足を振って靴の砂を落としていることにも、いっこうに気づく様子はない。体勢からポケッチのカメラアプリで写真を撮っているのではないかと推測したが、はたしてここに撮るべきものがあるのかどうか、という点については疑問に思うところだった。
 しかし、ひとの行動にとやかく言うほどの正当性が自分にあるとも思えない。なにせ思いかえせばかえすほど、今日の行動は行きあたりばったりばかりだ。
 そもそもなぜここにいるのかといえば、ナギサでの会議を終えたあとで、ふと今年の夏は一度も海を見ていないことに思いいたり、浜辺へ足を向けたからだった。
 ところがいざ近くまできてみれば、シーズンのすぎた海は景観の盛りをすぎているというだけならまだしも、雲の多い空を反射して灰色にくすみ、吹く風も心なしか冷ややかで、ひと気のなさにも頷ける侘しさをたたえている。
 ただでさえ短いシンオウの夏がいつまでもそこに留まっている道理はない。それは分かっていたし、夏の間のような美しい海が見られるなどと甘く考えていたわけでもなかったが、それでも防波堤にのぼった際、眼前に広がったうら寂しい光景につい落胆をおぼえてしまったのは不可抗力だろう。
 そうかといってあっさりきびすを返してしまうのも、まっすぐ帰路につきたがる足をねじ伏せてまでやってきた労力をむだにするようで、気がすすまない。そう思い、せめて少しは砂浜を歩いてから帰ろうと考えをあらためたのだ。
 折りよくというべきか、降りたって見わたした砂浜の先にはひとつだけ人影があった。海岸線がゆるい弧を描いているせいか距離感がつかみづらく、背格好さえも判然としなかったが、そこまでの距離はかえって『少し歩く』という漠然とした目標にふさわしいのではないかと思えた。
 そうしてしばらく歩いてきたところで、勝手に目標地点とさだめた人影が思いもよらない相手の名前を得た、というのがことの次第だった。
 ――回想してみても、ここで邂逅する理由にこれという心あたりは浮かばなかったものの、相手を見とめた瞬間の驚きは少し整理されてくる。
 あたしたちは、行きあった際に声をかけるか迷うような遠い関係ではないと思う。
 それに、これは本当に偶然なのだけれど、次にどこかで会えたら訊ねてみようと決めていたこともあったのだ。広大なシンオウのどこかで連絡先も知らない相手に出くわす『次』が、こうも早く訪れたのは僥倖だった。
 残りわずかの距離を歩いて詰め、声をかける。
「久しぶり、ヒカリちゃん」
 はじかれたようにこちらを振りむいたその子は、ぽかんと口を開けていた。自分ひとりと思っていた空間に急に他人が現れれば驚きもするだろう。
 そのうえ相手が相手ときている。
「シロナさん」
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんだけど」
 いいえ、と小さく首を振ってから、彼女は顔の前に持ちあげていた腕を体の横におろした。手首につけた端末の液晶画面が淡い光を放っているのを見るに、やはり推測どおり写真を撮っていたようだった。ポケッチをほぼ電話機能つきの腕時計としてしか活用できていないあたしにとっては驚くべきことだが、最近のものは下手なカメラよりもよほどいい写真が撮れるという。
 それはさておき、彼女の驚きはさほど持続しなかったらしい。すぐに笑顔になってお久しぶりです、と頭をさげ、顔をあげると笑顔のまま「この前はありがとうございました」と続けた。
 この前。
 ありがとうございました。
 一ヶ月前、旅を終えた彼女とリーグの頂点でぶつかり、そして負けた。
 だから言葉自体に意外性はなく、むしろその類のあいさつが返ってくるのを予想しながら声をかけたふしもある。
 ただ意外だったのはその表情だ。もちろんそうあれかしと願っていたなんてことはないが、幾度か目にした彼女の礼儀ただしい性質を鑑みるなら、たとえばあたしと顔を合わせる気まずさや、居心地悪さのようなものがその顔に浮かんでいても不思議はないと考えていた。なんならそんな感情をおぼえる必要はないと告げる用意さえあった。勝負の過程にも結果にも、遺恨や引っかかりはなにもなかったのだから、と。
 だが、どうやらその考えは杞憂にすぎなかったのだ。彼女の表情にも口調にも後ろ暗い感情はかけらもうかがえないので、それを知る。
 少しほっとして、「どういたしまして」なんて言葉が口をついた。彼女はいささか気の抜けたせりふを笑うでもなく、おだやかな顔でこちらを見ている。
 今だ、と思った。
 ジムをめぐる旅のさなか、あるいは世界の裏側、そして最後にはリーグで。
 手にした図鑑の懐かしさについ声をかけた少女は会うたびに加速度的な成長をとげ、どんどん目を離せなくなっていった。
 けれどそれは、あたしが特別彼女に惹きつけられたというわけでもないような気がするのだ。
 心のない世界を求めて闇の中に姿を消したあの男でさえ、たとえあたしと好悪のベクトルは違えど結果的に彼女の存在を無視できなかったように、彼女と会ってある程度関わった人間なら誰しも、彼女の中に目をそらしがたい可能性を見るのだろう。
 その一端にでも関われたのなら幸いなことで、このうえ彼女の行く先を見とどけられたなら、もはやいうことはなにもない。だから彼女がチャンピオンを引きつがないと聞いたとき、まだ旅を終わらせる気はないのだとうれしく思い、同時に、どこへ向かうのか知りたいとも思った。
 まさかその機会がこんなに早く、こんなかたちで訪れるとは予想だにしなかったのだけれど。
「……これからはどうするの?」
 さすがにすぐ答えられるほど軽い内容ではないせいか、彼女はあごに指をあてて考えこむようなそぶりを見せたものの、案外間をあけず口を開いた。
「特には、なにも。お昼がまだなので、ちょっと遅めですけど、ナギサで食べていこうかなと思ってるくらいで」
 お昼?
 思いがけない話の展開に、今度はこちらが考えこむ番だった。
 ナギサ、お昼、遅め。今しがた聞いた単語たちが頭の中をぐるぐると回り、ほどなくして自分の投げた質問があまりにも要点をそぎ落としすぎていたことに気がつく。
「あの、あたしの言いかたが悪くてごめんね。リーグを制覇したあとで、なにかやろうと思ってることはあるのかなって訊きたくて……」
 一瞬きょとんとしたあと、少女は見る間に頬を赤くして視線をさまよわせた。
「わあ、やだ、ごめんなさい。わたし、てっきり今日、これからの予定のことだと思って。そうですよね、もう」
 これまで目にしてきたのが大人びて落ちついたふるまいばかりだったので、あわてる少女をあたしはひどく新鮮な気持ちで見つめる。
 彼女は赤くなった頬に手をあてて消えいりそうな声でもごもごしたあと、最終的に胸の前で所在なさげに指をからめてうなだれた。
 一連の様子ばかりは年齢に似つかわしく、ほほえましさについ笑いがこぼれてしまいそうだった。しかしそもそもは自分の訊ねかたの悪さが招いた状況であり、彼女も元凶に笑われるすじあいはないだろうと思い、どうにかこらえる。
「はあ、恥ずかしい……」
 ため息まじりに押しだされた言葉と同時に、目の動きで彼女が海の方へ視線を向けたのが分かった。
 なんだか質問の答えをうながすような雰囲気でもなく、彼女にならって同じ方向に視線を移す。波の間に遊泳区域を示すブイが点々と漂い、そのさらに沖合いで漁船か遊覧船か、小さな船が白波を立てながら通りすがっていくのが見えた。波に揺られるブイはどれも日に焼けて色褪せたオレンジ色で、どこか夏の置き土産じみた風情がある。
 ぼんやり眺めていると、ふいにそんな風景をあえてフレームにおさめていた横顔が想起された。
「そういえばさっき、写真を撮ってたよね」
 特別話題を変えようと思ったのでもなく、単に思いだしたまま口にしてかたわらを見た。うつむき気味だった顔をあげた彼女とちょうど目が合う。
「えっ。あっ、はい。ナギサの近くまできたので、撮っていこうと」
 どこかふしぎな理由だった。
 ナギサシティの海辺はもとより景勝地として有名であり、夏ともなれば観光パンフレットにずらりと写真が並ぶけれど、それはあくまでも真夏の盛りの美しい景観に限った話だ。たしかに今に至っても海水の透明度は高く、砂浜の清掃も行きとどいて整然とした景色ではあるものの、ほかに眺めいるようななにかがあるかと問われれば、個人的にはうなずきがたい。
「そうなんだ? でもここ、写真とか撮るなら夏のほうがきれいみたいだけど……」
「夏の間も、たくさん見にきました。でもこの時期はまたちょっと違う感じで、写真に残しておきたいな、って」
 あたしが場当たり的経緯でここにたどり着き、勝手に落胆をおぼえたのとはまったく対照的に、彼女の言葉からはこの場所で、なおかつこの時期でなければだめなのだという、ある種の熱意さえ感じられた。
「……もしかして海、好き?」
「はい!」
 思いあたって水を向けてみると、まだ少し残っていた恥ずかしげな色が消え、表情がぱあっと輝く。
「わたし、大きな湖のそばの町に住んでいて。水辺に出かけるといえばその湖のことだったので、旅に出るまでテレビでしか海を見たことがなかったんです。……はじめて浜辺に行ったとき、言葉が出ませんでした。波が大きくて、向こうがわが見えないくらい広くて……」
 後ろ手を組んであたりまえなんでしょうけどね、とほほえむ彼女に向けて、首を横に振った。
 そういう理由だったのなら、夏の間のほうがきれいだなんてずいぶん野暮なことを言ってしまったものだ。なにか気の利いたことを言えればまだよかったのだが、どうしてか間をつなぐ言葉がひとつも浮かんでこなかった。
 今日はなにやら質問のしかたひとつとってみても、話はこびがおぼつかない。妙な焦燥をおぼえ、それでも沈黙が重く感じられなかったのは、好きなものの話で気を取りなおしたらしい彼女が、明るい表情に戻っていたおかげだろう。
 少女は波にさらわれて色の濃くなった部分に大きく一歩足を踏みだすと、落ちつきを取りもどした声で「さっきのお話なんですけど」と言った。
「うん」
「実は、シロナさんに声をかけられるまで、ほんとうにそのことを考えてました。これからどうしようかなってこと。まさか今の今まで考えてたことをそのまま訊かれるなんて、そんな偶然あるわけないと思って、勘違いしちゃいましたけど」
 最後のあたりを口にするときだけは照れくさそうに苦笑する気配があって、続けた。
「……いろいろ、迷ってました。やりたいこととか、わたしにできることとか。そんなふうに同じことをずっと考えてたら、頭がごちゃごちゃしてきちゃって。でも、今こうやってお話していて、ちょっとは考えがまとまったような気がします。――えっと。バトル・フロンティアに、行こうと思うんです」
 他でもないあたし自身が知りたがったことへの答えなのだ、相づちを打つべきかどうかなんて考えるまでもない。けれどあいかわらず適当な言葉を見つけられないまま、「そう」というひと声だけが唇からこぼれ落ちる。声音のそっけなさに自分でもうろたえるほどだったが、彼女の語り口が本人の言うとおり話しながら考えを整理しているような訥々としたもので、あまりこちらの反応を気にとめる様子がないのが救いだった。
「なりゆきみたいになんとなくはじまった旅でしたけど、いろんなトレーナーさん、ジムリーダーさん……シロナさんとも、出会って、戦って。バトルのこと、もっと真剣に考えてみたいと思うようになりました」
 声が、どこか遠く聞こえる。
 バトル・フロンティア。
 彼女のバトルの腕前と将来性を思えば、おそらく取りうる最善の選択肢だ。
 頭では理解しているのに、そもそも彼女の旅が続いていくことを願っていたはずなのに、なぜ送りだすフレーズのひとつさえ言えずにいるのか。なぜ、そこに自分が携われないことを寂しいだなんて感じているのか――。
 唐突に、するりと、腑に落ちた。
 旅の道中は先んじてトレーナーになった身として、リーグで相対したときは挑戦者を待ちうけるチャンピオンとして、彼女に接した。
 けれどこの瞬間ここにいて、言葉に詰まっているのは、今初めてなんの立場もなく彼女と向きあう、ただの人間なのだ。そんな簡単なことにようやく気づくような、肩書きが意味を成さなくなったとたんに自分自身がなにを感じているかさえ見うしなうような、なんてことないひとりの。
 ふと、現実に視界が開けたような気がして視線の焦点をずらすと、灰色の雲の切れ間からひとすじだけ陽の光がさして、周囲はほんのわずか明るくなっていた。
「……ごめんなさい。わたしばっかり、長々とお話しちゃいましたね」
 少女が波打ちぎわの一歩先で、顔をこちらに向ける。
 空が差しのべた光の道が、影をつくって彼女の表情をあいまいにした。
「あたしは……」
 喉の奥から絞りだすようにそこまで言って、結局黙りこんだ。どうあらわしたものか、見当もつかない。
 灰色の海と空の中で、ただきみだけがまぶしい。そんな情景を。そんな感情をおぼえる自分を。