子どもはずるい

 あるものなのか。あまりにととのいすぎていて目のくらむような心地さえする、こんなことが。
 まずまっさきにそう考えたけれど、待てどもつづく言葉はなにもない。声にのらない感想をつぶやいたきり、止まりかけのオルゴールのようにはたらきをにぶくする脳内をぼんやりと俯瞰して、あたしはのんきな考えぶりのわりにおどろいているらしい自分に気がつく。
 快晴の休日、午後の陽光、手いれのゆきとどいた芝生とすこしくたびれたマフラー。
 目のまえの光景を構成するいくつかの要素があいまいな色のイメージになって飛びかい、やがて白みがかった青色へ収束していく。
 どこかで見たようなおぼえがあると思えば、それはなんということもない、つい今朝がた目にした色だった。起きぬけ、なにげなく引いたカーテンのむこうでのぞいた空の青さ。いままで幾度となく瞳に映してきたその色が、怠惰な休日をぞんぶんに満喫するつもりで目をさましたあたしの胸へ、さざなみのようにしずかな感動を呼びおこしたのだった。
 なんの変哲もないといってさしつかえないはずのその色に、今日にかぎってそんなふうに心がうごいた理屈を考える。そこがしばらく、いっぱいにふくんだ雨をときおりかんしゃくじみたはげしさで地表へこぼす、にび色のぶあつい雲におおわれていた反動か。あるいは室内へ追いやられている間にためこんだ情報たちの、あたしを外へいざなう手腕のたくみさか。
 ひとつだけたしかなのはたまっていた洗濯ものを干していくあいだに、あたしが目ざめた瞬間の自分へ、すっかり手のひらをかえしていたということだ。
 はじまったばかりのこんな日を、どうすればあまさず噛みしめられるか。ぬれたシーツやシャツの濾過する清廉な日差しを頬に受けながら思いをめぐらせ、そうしてベランダを久方ぶりに洗濯ものでひしめきあわせてしまうと、一秒さえおしい気分でヨスガへ飛んだ。まだ確固たるかたちを持たない今日という日を完成させる、未知のピースをさがすために。
 ひとシーズン先のコーディネートをまとうマネキン、焼きたてのパンのかおり、移動販売車にならぶパステルカラーのジェラート、話題の新作ポケモンフーズ——つぎつぎに訪う誘惑を振りきったり、ときになすすべなくつかまりながら通りをおよぎまわると、あたしの腕にはみる間に大量の紙袋がぶらさがった。ヨスガの街じゅうで光をはなつかけらのきらめきが、すべてそこへ収束したかのようだった。
 どこか袋小路へ行きつくまではと無作為に角をまがって歩きつづける、その一歩ごとに全身へうすくかさなっていく疲労感が、首すじをかすかに伝う汗が、充実のあかしのようで心地よかった。
 とはいえ帰るまえにどこかへ腰を落ちつけたい気持ちも、自覚なくおこり、そだっていたのだろう。
 知らずしらずくぐっていたふれあい広場のアーチ看板の先、点在する樹木のふとい幹を囲むサークルベンチに目をとめると、足は引力にあらがおうとするそぶりさえみせなかった。そのうちのひとつへなめらかに歩みよったかと思うと、空いたスペースへあたしをはこぶため、ぽつぽつと腰をおろす先客たちのまえをとおりすぎた。

 ——そうしていま、ひととき立ちつくしている。ベンチのもう半円にさしかかろうかという折、そこになじみの顔をひとつ、名前を呼ぶまえにつづけてもうふたつ、見つけたのをきっかけにして。
 とまどいと混乱がほどけきえるまでの停滞は、過ぎさってみればほんの一瞬のことにすぎなかった。
 ヒカリちゃん。
 名前を呼びかけ、反射的に飲みこんだ横顔の奥にはぴんと髪のはねたジュンくんの後頭部が、そのまた奥にはたしかコウキくんといったか、ナナカマド博士の助手をしている少年の、まえさがりぎみのまっかなベレー帽がのぞいている。最初に見とめた彼女がひとりでここにいるのならまだしも、三人の組みあわせをたしかめれば、このできごとがただ偶然の産物なのだと、理解はすぐに追いついた。
 そして追いついてしまえば、いつまでも声をかけずにいる理由もない。気を取りなおして言葉にしかけたあいさつは、しかしどこか気だるげなジュンくんの声にはねかえされて宙に浮いた。
「……やっぱりよくわかんねーんだよなー」
 文脈をつかみかねるその切りだしに、ほかのふたりはとくに動じたようでもない。あたしが三人を見つけたのは、どうやらもともとそこにあった会話に、ひととき空白の生じたタイミングだったとみえた。
「ジュンくんにわからないもの、観てないぼくらにわかりようがないよー」
「だいたいわたしたち、どういうお話なのかも知らないのに」
 ジュンくんのものいい。つづいたコウキくんとヒカリちゃんの、気心知れた仲にしてもすこし投げやりな口ぶり。よく見れば横ならびに腰をおろす三人のたたずまいからも、なんとも形容しがたい疲労感がただよった。手はベンチの座面へだらんと投げおかれ、肩や背すじも張りなく鈍角にまるまっている。
 声をかけそびれたままながめる彼女たちの、友人同士の子ども三人とふれあい広場という、あまりにもなごやかな取りあわせには一見そぐわないようすに、やがてある推測をみちびきだす。おそらく三人は手持ちのポケモンたちとひとしきり、くたくたになるまで遊びまわったあと、ここで憩っている最中なのだろう。
 おのおのが巻くマフラーや衣服の三者三様のくたびれぶり、どうすればそんなところにそんなやりかたで引っかかるのか、ほかのふたりは指摘しないのかはたまた気がついていないのか、おおきな葉をまるで髪かざりのようにぺったりと貼りつけている、ジュンくんの髪。風体のはしばしから数十分まえまでのほほえましい光景が立ちのぼり、眼前に鮮明な幻像をむすんだ。
 ささやかな疑問が解消され気をよくしているあいだにも、会話は滔々とつづいている。あたしは声をかけるタイミングをますます見うしなっていくかわりに、三人(というよりジュンくん)の話の主題が、昨今ちまたで人気の恋愛ドラマにあるらしいのを知った。
 いや、なんで?
 すくなからずタイトルを耳にする機会があるから名前とジャンルを知っているだけで、観たことはないしこれからそうする予定もない。そんなドラマのあらすじをおおかた把握していきつつ、手ばなしにそういぶかしんだのも、われながら無理からぬことといえた。
 くだんのドラマが放送されるたびにあれやこれやと盛りあがっているのは、あたしの知るかぎりナタネやスズナ、ごくまれにそこへメリッサやスモモがくわわる(あるいは引きずりこまれる)くらいで、要するにわかい女性ばかりだ。
 同年代に比してもおとなびたふしのあるヒカリちゃんならまだしも、年相応に子どもらしいふるまいをみせる、制作側の想定するターゲット層からもはずれていると思しいジュンくんが、こうまで恋愛ドラマの話に熱をあげる理由とは。
 こんどばかりはかんたんに解けそうもない謎に頭をひねっていると、ジュンくんの口から直近、おぼえのある名前が飛びだす。
「だってしょうぶどころでナタネさんたちがさ。すっげえ盛りあがってて、いくらバトル申しこんでも、あとでねちょっと待っててねって、ぜんぶ聞きながすんだよ。そんだけの話、なんなのか気になるだろ、なっちゃうだろー。だから善はいそげって、訊いてみたわけ」
「最後のはなんだかちょっと、ちがう気がするけど……そうしたらジムリーダーさんたち、ドラマの話だって?」
「そーそー。オレ、なんだそんな話かって思ったっていうか、言ったんだけど。ナタネさんとスズナさん、それ聞いたら『ジュンくんにはまだはやいかもね』とか言ってにやにやすんの。失礼しちゃうだろ、ひとを子どもあつかいしてさあ」
「子どもでしょう。それにナタネさんたちはにやにやじゃなくて、にこにこしてたんだと思う」あたしが思ったことをヒカリちゃんがもうすこしすげなく代弁し、それはさらにつづいた。「どうして観る気になったのかは、うん、わかった。それでジュンは結局、なにがそんなにわからないの」
 とたんにジュンくんが「よっくぞ訊いてくれた!」とこぶしをにぎりしめ全身に覇気をみなぎらせたものの、側頭部に貼りついたままの葉は、はがれおちるどころかうごく気配さえみせずにとどまりつづけた。
 もしかするとほんとうに、そういう髪かざりなのかもしれない。そんなことを考えるうちに声をかけようとするこころみは、すっかり忘却のかなたに追いやられている。
「だれとだれがキスするとかしないとか、だれがだれに好きだって言うとか言わないとか。ナタネさんたちがしてたの、そういう話なんだよ。あったまきたからドラマ、観てみたけど。キスなんかむかしは寝るまえ、ダ……」
 ダ、は単に言いまちがいだったようで、ジュンくんはあわてついでにむせでもしたのかちいさくせきこみ、「じゃなくて」とうめいた。
「……オヤジがおでこにしてくれたし、オレだってしたし、好きだなんてなおさら、ポケモンにだって家族にだって友達にだって、言うだろ。だからわかんないんだ。そんなことで、なんであんなに盛りあがるのかがさ」
 ぽつりと生じた言葉の切れ間に、あたしは気がつく。会話を見まもる理由がいつしか置きかわっていることに。ヒカリちゃんの背中を見つけたとき、自分がおどろいているのを思考の停滞でようやく知ったように、その発見が意識の表層までのぼってくる速度はひどくにぶかった。
 ジュンくんの疑問にこたえるのはコウキくんだろうか、ヒカリちゃんだろうか。彼女がこたえるとすればなにを、どんなふうに。
 頬の横を午後の風が吹きすぎて、青々としげった葉をざわめかせる。葉音のおわりにヒカリちゃんが先よりもわずかに口調をやわらかくして、「うまく説明できるか、わからないのだけど」と言った。
 ついひそめた息は彼女とおなじものかどうか、うまく説明するすべのない感覚に由来した。ふだんはその習慣を先おくりにしたり、ともすれば忘れてしまうことさえめずらしくはないのに、今朝にかぎっては目ざめてまっさきにカーテンを引いた。なにげなくかかったおおいのむこうに見た、あたしをヨスガへ連れだしたもの。それに似た予感が、そうさせるのかもしれないと思う。
「家族に友達、それからポケモンといっしょにいるのがたのしくて、安心して好きだっていうのと、ナタネさんたちが言ってるようなことは、言葉はおなじだけど、中身はすこしちがってて」
「うーん?」
「キスもそう。クロツグおじさんがジュンのおでこに、おやすみってしてくれる」
「い、いまはしてない!」
「はいはい、わかってるから。……そういうのとはちがう、そういうのじゃないキスなの。ちがうキスを、家族でも友達でもポケモンでもないだれかにしたくなる。ナタネさんたちはたぶん、そういう『好き』の話をしてる」
「どういうのかわかんないけど。したいなら、すればいいだろ?」ジュンくんがけげんそうな声をあげるのを聞きながら、足元へ目線をさげる。うつむきかげんになった拍子、おぼえず腕がゆれて、ぶらさがった紙袋同士がかわいた音をたてた。「なにをそんなに、もだもだすることがあるわけ」
 ふたりのやりとりに口をはさまず聞いていたコウキくんだけが、葉ずれとは異質な音に気づいて背後に目をやり、やがてそこに立つあたしを見とめてぽかんとする。表情がにじんだようにすなおな「あ」という声が、ヒカリちゃんがなにかこたえかけるのにかさなり、サークルベンチの座面へこぼれた。
 同時にかれを見たふたりが、やっぱり同時に自分たちの背後を振りむく。三対の瞳が寸分たがわずおなじ色を浮かべるものだから、顔のつくりもちがうのに、なんだか三つ子のようにも見える。
「シロナさん」とヒカリちゃんが、「おわ」とジュンくんが言い、後者の頭にずっと貼りついていた葉が、ひらりと芝に落ちる。結局髪かざりではなかったようだ。そう思ってあたしは、自分があんがい真剣にその可能性を検討していたらしいと気がついた。みっつめの遅滞だった。

 *

 全身をつかって腕を振るジュンくんのとなりで、コウキくんがちょこんと低頭してみせる。ふたりの肩にさがった紙袋の撥水加工された表面が、それぞれ波うつように日の光をはじきかえすので、ほとんどとじてしまうのにひとしく目をほそめた。
 まぶしさから立ちかえりながら手を振ると、きびすをかえして歩きだすふたりがどうにか視界におさまる。ふたつの背中が芝におおわれたなだらかな丘をくだり、頭の先まで隠れるのを待って、「じゃましちゃったかしら」とつぶやいた。
「なにがでしょう」
 ひとりのこったヒカリちゃんはさらりと言い、ベンチのしたへ身をかがめる。五分まえまでジュンくんの髪をかざっていた葉をひろいあげると、葉柄をはさんだ指のはらをこすりあわせて往復させた。葉は彼女の手元でおどるようにおもてうらをいれかえた。
「あそんでたのよね。三人で」
「ああ。帰るって自分から言いだしたのだし、だいじょうぶですよ。むしろごめんなさい、なんだか気をつかわせてしまったみたいで」
「いいえ、それはぜんぜん」
 五分まえ。邂逅のおどろきから復帰したコウキくんはまず、『自分とジュンくんは』そろそろ帰らなければならないというむねを口にした。友人の肩を、なにか強制力のこもったつよさでにぎりしめながら。
 名前をあげられた当人にとっても唐突な話だったのだろう。きょとんとしているジュンくん同様、ようやく顔を合わせたとたん帰宅を宣言されたあたしもそれなりに面くらったものの、それ以上に声もかけず友人同士の会話を立ちぎきしていた負い目がある。腕にさげた紙袋から、ちがう店のポケモンフーズがはいったふたつをとって押しつけると、ジュンくんは「いいの?」と目を見ひらき、コウキくんはある程度予想していたとおり、いただけませんとおよび腰になった。
 購入したフーズは自宅へとどけてもらう手配をすませてあること、これは一定の量を購入したのでおまけにどうぞともらった試供品であること、試供品とはいっても人気のフーズ・ショップのため品質は折り紙つきということ、受けとってもらえれば荷物が減り、あたしもあたしの腕もたすかること。つらつらと説明したすえようやく、ささやかな手みやげを持ちかえることに同意してもらったのだった。
「ヒカリちゃんもいっしょに帰らなくてよかったの?」
「いっしょにって思う間もなく、おいていかれてしまいましたから。コウキくんも、気をつかってくれたのかなあ」
 なじみの顔とはいえ、あくまでも友人の友人という距離感にとどまる自分やジュンくんがいては、会話にさしさわるとでも思ったのだろうか。まったく年齢にそぐわず遠慮ぶかい少年だ。
 コウキくんがつかってくれたらしい『気』をぼんやりそう解釈するあたしのまえで、ヒカリちゃんは回転を止めた葉で口元を隠し、肩をちいさくゆらしてくすくすと笑った。
 つられてゆるみかける頬をどうにか引きしめ、「座っても?」と訊くと、そろえた指先でどうぞとうながされる。手元にのこった紙袋たちがいま、コウキくんの座っていたスペースを埋めている(ベンチをあとにするまえ、少年ふたりがそうしてくれた)ので、おあつらえむきにぽっかり空いた彼女のとなりへ腰をおろす。
「きょうは、お買いものでヨスガにきていたのですか?」
「そう、起きたらすごくいい天気だったから、どうしても出かけなくちゃって気分になって」
「やだシロナさんってば、けさのジュンとおなじこと言ってます。コウキくんとふたりして引きずりだされて、もうくたくた。ポケモンたちもたのしめていたようなので、それはよかったのですけど……シロナさんは満足、できました?」
「うん、すごく。帰るのがもったいなくてそのまま歩いてたら、たぶん無意識に休憩したくなってたんでしょうね、いつの間にかここまできてたわ。それで、きみたちのこと」
 ヒカリちゃんを、あるいはきみを、とは言わなかったけれど、その欺瞞もすぐに意味をなくす。
「見つけて……見つけたけど声をかけるタイミング、なんとなく見うしなって。うしろで話、聞いてたの」
「そうだったみたいですね。ちっとも気がつきませんでした」
「ぬすみぎきになっちゃった。ごめんなさい」
「いいえ、聞かれてこまるような話は、なにも」
 なにも。その声を反芻したとたん、無難な会話をつづけるためにはたらいていた回路が眠りにつき、言葉が喉の奥にわだかまるのを感じた。ごめんなさい、いいえ。柔和な、しかしからっぽな言葉のわたしあいをやめなければ、きっとこのつかえはとれない。
 足を組むと、フラット・パンプスのとがった爪先がいかにも所在なさげにゆれる。まるで持ちぬしの気分をあらわすように。
「ねえ、わかってたんじゃない、ヒカリちゃん」
 ヒカリちゃんは腕の位置を落とし、ともなってさがった葉ごとちいさく首をかしげる。あたしはうすくひらいた唇がかえそうとするものがなにか、知るまえに言葉を継いだ。
「『好き』に種類があるってこと」
 彼女がほほえみの曲線に目をほそめたまま、表情とは不つりあいに平坦なトーンで「ああ」とだけ言う。それでふたりきりになってからの一連の会話が、相手にとってもまた、見えない境界線のさぐりあいだったのだとわかる。
 先ほど彼女が、ナタネたちを盛りあがらせるものを理解しかねるのだというジュンくんへ、やわらかい口調と平易な語彙、訥々としてはいたけれどまぎれもなく本質をとらえた表現で、ていねいに説明してみせたことは。
 あたしが彼女に何度か——何度も、もっと婉曲な言いまわしで言ってきかせながら、そのたび彼女があいまいに「よくわかりません」という態度をしめした内容そのものだった。
 別荘を訪う際、手みやげに人気店の焼き菓子をたずさえていく。おいしい紅茶とそれに合うケーキを出してくれるカフェを、ボールベルトをながもちさせる手いれのしかたを、ミオ図書館でふしぎといつも空いている、穴場の席をおしえる。どれもさほどとくべつな行為ではないはずだ。友人と友人がそろったならどこにでも発生しうる、感謝ひとつのべればすぐにつぎの話へ移行する、ごくありふれたかんたんなやりとりのはずだ。
 けれどいつからかあたしたちのあいだでそういったものがかわされるとき、ヒカリちゃんが「ありがとうございます」のひとことで会話を完結させることはなくなった。彼女はほぼ、そう、ほぼ、かならずといっていい頻度で。
 はれやかな笑顔で、目をかがやかせて、唇のまえで両の指先を合わせて。日常のささいないろどりをあけわたしただけにすぎないこちらまで胸の底があたたまるような、ほんとうにうれしそうな声をあげる。
 ——わあ、ありがとうございます、シロナさん大好き!
 ありがとうございます、につづく先をまったく想定していなかった一度目。あたしはかたまりたじろぎ引きつり、それでもどうにかわれにかえり、よろこんでくれたあまり口がすべったと思しいそれを聞きながした。
 予想だにしなかった二度目。反応自体はほとんどかわりばえしなかったものの、かろうじて硬直時間だけは一度目よりみじかくすんだ。
 二度あることは三度あるのか、三度目の正直なのか、とにかくほどなくしておとずれた三度目。ようやく、ため息まじりに「そういうの、ちょっとどうかと思うの」と言った。どういうのですかと訊ねるヒカリちゃんに、言葉を探りさぐり説いた。

 ——最近。

 最近ヒカリちゃん、よく『大好き』って言うわね。
 はい。うれしいですし、好きですから。
 そこまでよろこんでくれるっていうのは、あたしもまあ、うれしい。でも言いかたはもうすこし、えらんだほうがいいかもしれない。
 好きって伝えるのにそれ以外の言いかた、あるのですか?
 好きにも種類があって。
 うーん。食べものの好ききらいと、ポケモンや友達に好きだって思うこと、みたいな種類でしょうか。
 とりあえず、それでいいかな。たとえばなにか食べものがおいしくて好きだって思うのとおなじように、ポケモンやひとに『好き』って思ったら、こまったことになるじゃない?
 おいしく、食べたくなってしまうから?
 そう。だから……。
 よかった、そういうことならだいじょうぶですね。
 え?
 ふふ、だっていくらうれしくても好きでもシロナさんのこと、ケーキみたいにかじりたいとは思いませんよ、わたし。
 ええと、うん。まあ、そうね。そうよねえ。

 かえりみれば説いたというより、うまく論点をずらされ聞きながされただけに思えてならない。
 そしてそんなふうになあなあですませた初回が、この会話の方向性を決定づけてしまったのだろう。あれこれ言いまわしをさがして二回目、三回目、それ以降とつづけたやりとりもヒカリちゃんに言葉えらびをあらためさせるにはいたらず、彼女はことあるごとに「シロナさん大好き」を口にしたし、あたしはそのたび口角を引きつらせ、手ごたえのあるようなないような説明をくりかえした。
 動機も、いまそれをあたしに知られて気まずく感じているのかどうかも、にこやかな表情からは読みとれない。ただ、どうやらそれらは、すべて。
「さっきの説明、あたしよりよっぽどじょうずでびっくりしちゃった、もう。シロナさんをからかっても、そんなにおもしろくないと思うんだけどなあ」
 この子のことなので、悪意をもっての言動とも思わない。だからできるかぎりかるい調子で冗談めかして言うけれど、とにかくどうやら、そういうことではあるのだ。
 話しだす合図のようにひざのうえへ置かれる葉、緑色でのこされるその軌道を無意識のうちに目が追う。しかしなにか理由を語ってくれるのではないかと思った声が、「やっぱり、なにがでしょう」とのんびり訊ねてくるだけで終わったので、あたしは愕然として顔をあげた。
「だから……」
 言いつのろうとするあたしの浮ついた声を、それとは反対に落ちついた調子の「だって」と笑顔がやわらかくはねのける。
「わからないって、はっきり言ったことはなかったと思いますし」
 あ、のかたちに口をひらいて絶句したのは、そういえばそうだと気がついたからで。
「だいいちシロナさんをからかったこと、一度もありませんから、ぜんぜん心あたりがないのです。どうしてからかったなんて思われちゃったのか、ふしぎなくらい」
 聞いているとしめすための相づちさえ打たずにいるのは、ヒカリちゃんの言葉を咀嚼しながら、それはそれでまずいという思いがよぎるからで。
「もしかして、シロナさんはこまりますか。どんな意味でも、わたしに好きだって言われると。いやだとか?」
「えっと……」
 押しだすようにひとこと発したきりなにもつなげられずにいるのは、言えるわけがないからだ。
 親愛ではない愛情をまだ知らないのだと、恋愛という意味はそこにふくまれないのだと肝に銘じてさとすようにしながら、例のせりふを聞くたび、厭うどころかまんざらでもない気分になっていたとは。
 彼女を見つけたとき、おどろくだけにとどまらず目がくらむような心地にさえなったのは——これ以上のぞむところはなく満ちたりていて、完璧と呼ぶにふさわしいまま暮れていこうとする休日の終端、彼女に出会うみちゆきに、あまりに運命的な様相をみたせいだとは。
 明確な返事を待たずにベンチを立ったかに思えたヒカリちゃんが、風がひざから吹きあげた葉を追っただけだと気づいて、なにを言いたかったのかも判然としない声が檻のように喉へ貼りつく。彼女はしなやかにのばした腕で苦もなく葉をとらえたのに、ベンチに座りなおすことも振りむくこともなかった。
 頬のたかさでふたたびくるくるとまわされだす緑色の先端だけが、肩ごしに見える。一秒、二秒とかさなっていく沈黙にたえかねたのはあたしのほうだった。
「……いやなわけじゃないわ」
 いやなわけじゃない。いやなわけがない。そんなことを、感じるはずがない。
「そうですか」
 葉の回転が止まる。あっさりしているようでも、やけに余韻をもってひびくようでもあるひとことのあと、彼女は歌うように「いやがられているのだったら、かなしいなあと思ったので」と言い、あたしを振りかえった。
 ヨスガへきてから、ふれあい広場に足を踏みいれてから、サークルベンチに彼女の背中を見つけてから、どころかおそらく今日一番の速度で思考が回転して、実際に聞く一秒さき、あたしはすでにつづく言葉を予想している。およそ確信めいて。
「よかったです。好きですよ、シロナさん。大好き」
 いつもと語順がちがっても大意に差はないし、言えるわけのない事実におおきなちがいが生じることもないのだ。
 あたしを、おとなをあまりからかわないでほしいとあわよくばくぎを刺すつもりでいたこの場で、ふたりきりでいることに、言葉のうえだけであっても好きだと言われていることに、否応なしに鼓動がはやまっていく。所在なく置いた指先が熱をたかめて、ベンチの座面を焦がしていく。
「……今日は、なにがそんなにうれしいの?」
「約束もしてないのに、会えたので」
 おなじことを思っている。目がくらむくらいに、思考が止まるくらいに。
 とは言わないし、言えないから、頬を引きつらせてあたしはうめく。
「ねえヒカリちゃん。ほんとうに、あんまりだれにでもそういうこと、言ったらだめよ。意味がわかってるなら、よけいに」
「だれにでもなんて言いませんし、シロナさんこそ」
 言いながら、彼女はもう一度顔の前へ葉を持ちあげた。
「だめですよ、あんまりずっとわたしのこと、子どもあつかいしてたら」
 いくら父が子のひたいに落とすそれとはちがうキスをしたいような意味で、あたしが彼女を想っていようと。いくら彼女が葉にへだてられたむこうがわに、まるきりおとなのようなうつくしいほほえみをたたえていようと。
 この子をおとなのように扱えるはずがないし、扱っていいはずがないのだから、あたしにはできることがひとつもない。
 まったく、始末に負えない。この期におよんでいたずらっぽくそんなことをのたまう子どもも。にくらしくてずるいその唇を、いっそふさいでしまいたいと思っているあたしも。