きらきらひかる
深呼吸してからインターホンを鳴らし、余韻を残して消えていく音の向こうがわに耳をすませる。応答はなく、玄関のほうへやってくる足音も聞こえない。あたしはすこし迷ってから、ジャケットの内ポケットを探って一対の鍵を取りだした。
こんな形をしていたか、あるいはこんなに小さなものだったか。
銀色の鍵をまじまじと見つめて訝ってみるが、そもそもずいぶん前に渡されていたにもかかわらず、自宅の鍵と一緒くたに持ちあるくばかりで、あえてこの鍵を選んで手に取るのはこれが初めてなのだ。違和感があるほうが自然といえた。
ほのかな温度を帯びているキーリングを指先に引っかけ、くるくると回してもてあそんだあとで、ようやく小さな金属を鍵穴に挿しこむ。
どこかで、扉が開かないことを期待する自分がいた。この使いなれないディンプルキーが、微動だにしないままであってくれたなら。そうすれば鍵を間違えたのを言いわけに、今日のところは引きかえせるだろう。いったん帰って頭を冷やしたあたしは、後日なに食わぬ顔でここを訪れる。今度は気にかかることなどなにひとつない、ただ家に招かれた恋人として。
けれどそんな往生際の悪い願いもむなしく、手首を返せばシリンダーは小さな音を立ててあっさりと回ってしまった。つい出そうになったため息を押しころして、もうひとつの鍵も同じように回し、ドアの取手を引く。帰るにしても不在を確かめてからでなければ。そう考える自分の妙なりちぎさが、今はかすかに疎ましく思える。
足を踏みいれた別荘の中は静まりかえり、ひとのいるような気配はない。家主やポケモンたちと過ごす際のにぎやかな雰囲気をよく知っているせいか、静かだというただそれだけのことが、まだ昼さがりで日も高い時間の家の中を、どことなくうす暗いようにすら感じさせた。
玄関ホールを通りすぎながら、ここ最近家主と交わした会話を改めて思いかえす。今日は在宅だと聞いたように思うし、だからこそ急に足を向けたのだが、どうも別の日と勘違いしていたらしい。自分の間違いには拍子抜けしないでもないものの、それよりも彼女と顔を合わせずに済みそうだとほっとする気持ちのほうがまさった。
あとは廊下とダイニングをへだてる扉を開け、奥のリビングに家主の姿がないかうかがう、ただそれだけだ。それだけであたしのすべきことはすべて終わる。そうすれば玄関ホールへ引きかえし、別荘をあとにできる。
そのはずだったのだが、扉をそっと押しあけたところで、思わず動きを止めた。
結果としては大きな物体にさえぎられ、ダイニングの入り口からリビングはほとんどのぞめなかった。
――室内へそそぐ陽光を反射してつやつやときらめく、白いグランドピアノ。
前回この別荘を訪れたときにはなかったと断言できるそんなものが、むかしからそこにあったと言わんばかりに堂々とした様子で、視線の先に鎮座している。呆気にとられてしまったのもわれながら無理からぬ話だ。しばらくそのまま固まっていた。
しかしいくら存在感があるとはいえ、アイボリーホワイトの楽器は白を基調としたほかのインテリアから浮くことなく、よく調和している。もとより調度品としてなら特別奇妙なものでもなく、見なれないというだけの驚きはそう長く続かない。
初見の衝撃が通りすぎれば、美しい楽器は外見に見合って強烈な引力を発揮した。まるで見えない糸で動かされるあやつり人形のように、あたしの足は知らず知らずリビングのほうへ引きよせられる。
今の今までほとんど思いだす機会もなかったのだが、実は子どものころ、近所の女性からピアノを教わっていたことがあった。
習いはじめからほどなくして彼女が結婚のためにカンナギを出ることになり、ごく短い期間で終わってしまった経験だ。それがふとはっきりした色や音、鍵盤の重さの記憶さえともなってよみがえった。忘れていたのがふしぎなほどの鮮やかさで。
当時使っていたのはアップライト・ピアノで、グランドピアノの実物など目にするのは初めてだ。その初対面がまさかめったに見かけない白いものとで、おまけに楽器にふれなくなって久しい今、後ろめたい気分で訪れたこの別荘でのできごとになろうとは。思いがけないことがよくこうも重なるものである。
最大限に開かれた屋根のかたわらを通り、鍵盤の側へ回りこんだところで、ダイニングの入り口からは死角になっていたソファに人影を見つけて、ぎくりと肩がはねた。
リビングをのぞいた目的を、グランドピアノのインパクトのせいですっかり失念していた。
ソファへ近より、つい声をかけそうになったものの、すんでのところで吸った息を押しとどめる。人影の正体は当然家主ではあったが、彼女は目をふせて規則的に肩を上下させ、眠っていた。
ソファの前のローテーブルにはレポート用紙と筆記用具が置かれて、というより明らかに使っていた最中らしい状態で散らばっている。彼女がレポートを書きながらうつらうつらとして、そのまま眠りに落ちる光景が目に浮かぶようだった。
しかしあたしがとっさに感じたのはほほえましさではなく、背中を粟立たせるかすかな寒気だ。船をこぐでもなく、ソファの背もたれに頭をあずけてかすかな寝息を立てる姿から、それなりに深く寝入っているのだろうと推しはかれる。インターホンに気づかないわけだと納得する一方、この訪問をなかったことにする二度目のチャンスが転がってきた事実を、認識しないわけにはいかなかった。
今なら気づかれないのだから、このまま帰ってしまえばいい。
玄関先で鍵を挿しながら思いうかべたことを、今度はもっとストレートに考えた。彼女がなにかの拍子に目を覚ます前に、そそくさと出ていく。それはずいぶんみっともなく、けれどみっともなさを加味した上でも、今のあたしにとってはひどく魅力的な選択肢に思える。
時間にして数秒間、なぜか息さえもつめながら検討したものの、結局息を吐いてその考えを打ちけした。
こんなにも明白なことに今になってようやく思いいたるくらいなのだから、どれほど動揺していたか知れるというものだが――今も胸の底で澱のようにわだかまっている考えを、必ずしも彼女に明かさなければならないわけでもないのだ。
この家に来てすぐに彼女と顔を合わせるはめにならなかったおかげか、混乱のただなかにあった頭の中はいくらか整理されていた。先ほどまでならとてものぞめなかったが、今なら「フロンティアに用事があったからついでに寄ってみた」程度の不自然でない口実をすらすらと口にできるだろう。
気分を切りかえるようにかぶりを振ってから、ピアノのそばへ戻る。
間近でさらりと眺めただけでも、記憶の中のアップライト・ピアノとはずいぶんおもむきが異なるのがわかった。前板がないぶん、当然ながら足元には開放感があり、譜面台の位置も高い。背もたれのついたピアノ椅子ばかりはさすがに目にしたことのあるものだが、座った際の感覚や見える光景はまったく違うのだろうと想像できる。
すると今度は実際に腰かけてみたくなって、慎重に椅子を引いた。あたしが座るには見るからに低すぎるので、座面のうしろのロックを外し、レバーに指をかけて力をこめると、音が出ないよう注意をはらったかいもなく、ばねが無頓着にきしんだ。
一瞬の沈黙ののち、なんともあらわしがたい短い声が聞こえ、おそるおそるソファのほうを見やる。家主がゆっくりとまぶたを開き、焦点のあいまいなまなざしと目が合った。
「おはよう。お邪魔してます」
つとめて冷静を装い明るく言うと、ヒカリちゃんは緩慢なしぐさで目をこすりながら立ちあがり、こちらへやってきた。ピアノ椅子のレバーにかけたあたしの手元を無言のままじっと見つめるので、無性にどぎまぎしてしまい、指を離す。
「いらっしゃい。レポート書いてたらなんだかうとうとしてきて、寝ちゃってました。……なにしてるんですかあ」
彼女はようやく口を開いたかと思うと、まだ眠気が残っているのだろう、いつもよりのんびりと語尾の伸びた口調で首をかしげた。
「起こしてごめんね。用事ついでに来てみたら急にピアノがあるから、びっくりして。見せてもらってた」
「ふふ、すごいでしょう。ついこのあいだ届いたばっかりなんですよ」
「また思いきった買いものしたじゃない。でも白いグランドピアノなんて、まわりとも合っててすてきね」
「んー、弾くだけなら、グランドピアノじゃなくてもべつによかったのですけど。カタログに載ってるなかだと残りはこれくらいだったので、奮発して買っちゃいました」
「カタログの、残り?」
意味をとらえかねておうむ返しに訊ねると、ヒカリちゃんはそうです、と言ってうなずいた。
「別荘の……なんでしょう。提携してる家具屋さん、なのかな。毎月、家具のカタログを送ってきてくれるんですよね」
「ああ、そういう……それで?」
「わたし、インテリアコーディネートなんてぜんぜんわからないけど、載ってるものを注文してとりあえず置くだけでそれなりに見えるので、最初のうちはとっても助かってたんです。でも、さすがにもう十分というか。だから載ってる大きなものを全部買って買うものがなくなれば、家具屋さんもカタログを送らなくなってくれるのかな、って思って」
リゾートエリアの別荘が提携しているようなグレードのインテリア・ショップなら、顧客から要望の電話があればカタログの発送など即日止めてくれるだろう、とか。
そのためにグランドピアノまで購入する発想に至るあたり、さすが野良バトルで賞金を荒稼ぎしているだけのことはある、とか。
すこし前に突如ニャルマーの像がリビングに置かれたのはそういう理由だったのか、とか。
思うところはいくつかあったものの、あたしがもっとも引っかかったのはそのどれでもなく、彼女自身が知るはずのない、また意識できるはずもない部分だった。
――残りはこれくらい。
遅れて意味を理解したその言葉が脳内でリフレインし、隠しようもなく顔が引きつる。
どう言い訳したものかと考えたが、さいわい彼女はすでに、先ほどあたしが高さをいじろうとしていたピアノ椅子のほうへ視線を移していた。ひそかに安堵するあたしの胸中を知るよしもなく、「そういえば」と下唇に人さし指を当てる。
「シロナさん、この椅子の高さの変えかた、よく知ってましたね。もしかしてピアノ、習ってたとか」
なるほど、たしかに別段迷う様子もなくこの椅子のレバーに手をのばす人間を見れば、使ったことがあり、また使う機会があったと考えるほうが自然だ。
今日は自然さや不自然さについてよく考える日だと思いながら、ヒカリちゃんがこちらへ向きなおる前に、こわばった表情をどうにか引きもどした。
「習って……いたんだけど」
「けど?」
「弾けるかといわれると、弾けないわね」
「ええ。どういうことですかあ」
笑いを噛みころそうとして失敗したらしいヒカリちゃんが、口もとを手でおさえてくすくすと声を漏らす。
「ほんとうに短いあいだだけだったの。近所のお姉さんから教わっていて、でもそのひとが結婚してカンナギを出ることになって」
「ああ、なるほど」
「先生、最後まで教えてあげられなくてごめんねってずいぶん気にして、初心者用の教本、たくさん残していってくれた。だからしばらくは独学でやってみたんだけど、あたしも結局そのあとすぐ旅に出ちゃったから、それっきり」
「それっきり。……教本、どうなったんです?」
「せっかくもらったのに先生に申し訳が立たなくて、かといって使わないし、まさか捨てられないし。どうしようかと思ってたけど、妹がピアノを習いだしたから。活用するあてができてよかったわ」
ヒカリちゃんもよかった、とあたしの言葉を繰りかえした。その口ぶりにはどことなく、自分の渡したものの使い道が見つかったかのような安心がにじんでいる。さまざまな教本を使ってきたのだろうから、それが無為に埃をかぶっているかもしれないことが気にかかったのかもしれない。
結局のところ、あたしはピアノが弾けない。
わずかな間ピアノを習っていた、その事実はたしかに手元に残り、譜面にならんだ音符や記号がなにを言わんとしているのか、すこしは読みとれるようになった。それでも、読みとったものを音楽として表現できるほどの技量は身についていない。
「今はたぶん、『きらきら星』を両手で弾くのもせいいっぱいね」
空中で指を動かしてピアノを弾くまねをすると、ヒカリちゃんはその手を一瞬じっと見つめた。それからにこりと笑ってピアノ椅子のロックを戻し、音もなく腰かけた。
「あ。これくらいの高さのほうがちょうどいいかも」
感覚をたしかめるようにペダルを踏み、左右の足元をそれぞれのぞいてつぶやく。
鍵盤の蓋を開け、フェルトのカバーを椅子の背もたれにかけると、こちらを見てどこかいたずらっぽい表情で言った。
「わたしも『きらきら星』、弾けますよ。聴いてくれますか」
あたしがきょとんとして答えにつまっている間に、反応を気にするふうでもなく指を置いた。
小さく息を吸い、鍵盤をたたきはじめると、聴きなじみのあるメロディが奏でられていく。
しかし、なにか様子が違うようだった。知ったものよりも細かく軽やかに装飾された主題。これはなんと言ったのだか――そう、きらきら星変奏曲、だったはずだ。
たしかにきらきら星なのには違いないが、この曲を「弾ける」のとあたしの言う「弾ける」とではレベルに差がありすぎる。ずいぶん芸術的な、彼女なりのジョークというわけだ。
思わず笑いが漏れそうになったタイミングで、ヒカリちゃんはふと演奏をやめてこちらを見あげた。
「あの。ついでじゃなくて、なにかあったから、来たんですよね」
唐突で、それなのに核心をつく問いだった。
『なにか』がなかったと言えば嘘になるし、『ついで』と言ったのはそもそも嘘だ。けれどいくら紙一重だったとはいえ、それを悟らせるような言動は彼女に見せていないはずだ。動揺のあまり顔から笑いが引き、「どうして」と硬い声で訊きかえすのがやっとだった。
「さっきインターホン鳴らしたの、シロナさんでしょう? なにかのついでで寄ってくれたのだったら、わたしが出ない時点で帰るでしょうし、鍵を使ってまで入ってくる理由がありません」
「起きてたの?」
「寝てましたよ、ほとんど。なんとなく聞こえた、くらいです。眠かったしだれか来る予定もないし、シロナさんなら鍵を持ってるから鳴らさないだろうし。つい居留守して、また寝てしまったんです」
「……うん」
「でもだんだん頭が冴えてきたら、そこからわたしがもう一度起きるまで、ほかのひととシロナさんがすれちがうほどの間はあいてないなあって。だからインターホンを鳴らしたのもシロナさんのはずだけど、じゃあどうして、ついでなんて言うんだろうと思って。かまをかけちゃいました」
かまをかけるなどと言いつつも、どうしても知りたがっているようではなかった。案の定、彼女はあっさりとピアノへ向きなおる。
すこしふしぎに思ったから訊ねてみる。答えがなければそれでもいい。そんな気軽な雰囲気に、適当なことを言ってごまかそうとした自覚のあるあたしは、かえって罪悪感をいだいてしまう。
今さら考えても仕方のないことではあるが、みっともなくともなんでも、そうできたときに帰っておくべきだったのだろう。
フラットな表情の横顔を見つめて、どこから切りだしたものか悩みながら、心の中で先ほどの彼女の言葉になぞらえたつぶやきをこぼす。
思いかえせばかえすほど、取るに足らない話だ。
それでも、聞いてくれますか。
*
断言するが、他人の会話に耳をそばだてるような趣味はない。
それでも店内で注文したカフェラテを片手にその席にすべりこんだとき、隣の席に座る三人組の少女たちの会話が盛りあがっていることにはすぐ気がついた。けれど気にはとめなかった。
当然だ。
相席だったわけでもなし、隣のテーブルがどんなに盛りあがっていようと関係はない。そもそもカフェは混みはじめた頃あいで、屋外の席は彼女たちのまわり以外に空きがなく、選択の余地もなかった。
店内はどうかといえば、こちらには座れる席がいくつもあったものの、そもそも選択肢からは除外していた。
シンオウのこの季節にしては気温が高く、からりと晴れた日だ。カフェのテラス席でひと休みするのが気持ちよさそうだと思って足を向けたのだし、実際空きもあるというのに、わざわざ室内にとどまる理由はない。そう考えた。
だが今にして思えば、あらゆる行動がことごとく悪いほうへ収束してしまった気がしてならない。
隣の彼女たちの声は日よけのパラソルの下で反響し、そうでなくても若い女性の高い声というのはよく通るもので、あたしは別段かたわらへ意識を向けずとも、三人組が恋愛の話に興じているらしいと知ることができた。
ひとりが言う。
「やっぱり返事が来ないと気になって。なにか変なこと言ったかなって。だから『変なこと言ったならごめんなさい』ってつい送っちゃうんだけど……」
それを聞いたふたりが、それぞれ「そんなの絶対だめ」やら「相手だってそんな感じじゃあ返しづらいでしょ」やらと畳みかける。それに対して最初のひとりが返し、もうふたりの片方が「それ聞いて思いだしたんだけど」と話を派生させ、それにまたふたりの意見が出て――万事そのような調子で、一瞬たりとも途切れることなく会話が続いていく。
最初のうちはリーグの女性ジムリーダーたちの会話を思いだし、古今東西ガールズ・トークは似たような経過をたどるものなのだな、とほほえましく聞きながしていた。
ところが少女たちの会話は次第にヒートアップする様相を見せ、声もとめどなく大きくなるばかりだった。それがすぐ隣で、しかもまったく切れ目なく続けられるとなれば、内容がかわいらしいものであったとしてもいささか辟易してくる。
わりあい早い段階で、あたしが考えていたようなのんびりとしたティータイムはのぞむべくもないと悟ったが、あとの祭だ。ホットで頼んだ淹れたてのカフェラテは、ほどよい温度に落ちつくまでまだかかりそうだった。一気に飲みほして席を立つこともできない。
せめてわずかでも滞在時間を縮めようと、カップの蓋の飲み口から少しずつ息を吹きかけていると、にわかに話の風むきが変わったように思えた。
「ねえ、そういえば。今のひとはどうなの?」
そう訊かれて、どこか笑みをふくんだような声で「うーん」と応じたのは、どうやら三人組の中でただひとり恋人がいるらしい少女だ。
たった十数分隣に居あわせただけにすぎない、赤の他人の恋愛事情を把握できてしまっている。その事実にげんなりするが、会話はなおも耳に飛びこんでくる。
「どうだろ?」
「ええ。なにそれ。だってあんなに、ねえ」
「そうそう。あんなに……」
あんなに、の先は結局言葉にされない。きゃあきゃあと黄色い笑い声が響き、さざなみのようなそれが引ききるか引ききらないかのうちに、話を振られた少女が言う。
「だって。同い年も年下もいまいちだったから、残るは年上だと思うじゃない?」
その言葉に、細く吹いていた息がつい止まった。
「そこに彼と会って、ちょっといいな、って。だからがんばったんだけどお」
「けど」
「けど?」
あの子が年下で、あたしが年上で。それくらいの共通点を持った組みあわせなど、履いて捨てるほどあることは百も承知だ。もちろん、横のテーブルで話している少女はあの子と似ても似つかない別人だということも。
その上、前向きな話につながりそうもないのが文脈からありありと読みとれているのに、続きを聞こうとしてしまう自分を止められない。ここへ来て初めて、少女の口から発される言葉を待った。
「でもやっぱり、思ってたのと違うの。魔法がとけた、みたいな?」
「えー。うそでしょ、ひどおい」
「そうはいうけど、年上の余裕なんかどこいっちゃったのって感じで、いつもせかせかしてて。もう、ほとんど幻滅してるっていうか……」
魔法がとけた。
年上の余裕。
幻滅。
ひとことひとことが頭に沁みこむごとに、カップを持つ指先から血の気が引いていくのがわかる。
関係ない。あたしとあの子には、いっさい。必死にそう言いきかせ、カフェラテのほうへ意識を集中させる。さすがにもうそろそろ、舌を火傷せず飲める温度だ。一秒でも早く飲みほして、ここをあとにしたい。
思って、一気にカップをかたむけたあたしに。
「――まあ。要は、飽きちゃったのかも?」
言っている内容に見あわない、あっけらかんとした口調で。
本人は意図していないだろうとどめの一撃が、深々と突きささった。
*
カフェテリアでのできごとをあたしがぼそぼそと語るあいだ、ほとんど相づちを打たなかったヒカリちゃんが、かすかな笑いを漏らす。
そのままのんびりとした声で、なんだそんなことですか、と言った。
たしかに自分でも取るに足らないことだと思ってはいたものの、思うのとひとから言われるのとでは、また話が違う。あたしが言葉につまって短くうめくと、ヒカリちゃんはほほえんだまま、困ったように眉を下げた。
「そのひとの話を聞いて、わたしたちに重ねて、不安になっちゃった。そういうことですよね」
「うん、まあ、そうね」
「そのひとにとっては、相手のかたがどうこうというより、まず年が上だっていうところが大事だったんでしょう。でも、だったらわたしたちと同じところ、全然ないと思うのです。だってわたしは、年上だからシロナさんのことを好きなんじゃあなくて、シロナさんだから好きなので」
どうしてそんなものが怖いの、大丈夫。そう言って、大人にはわからないものを怖がって泣く幼い子どもをなぐさめるような、やさしい声だった。言外に、どうしてそんなことがわからないんですか、と諭されている気分になる。
けれど彼女が迷いなくそう言えるのは、きっとカフェテリアの三人組と同様、彼女自身が子どもだからだ。
子どもの感情や興味がどんなに移ろいやすいか、子どもだったことのあるあたしはよく知っている。
あのころ、たしかにピアノが好きだと思っていた。先生の長い指や、楽譜に音符の名前を書きこまずにすらすらと楽曲を奏でられる目がうらやましかったし、自分もいつかそうなりたいと願い、なれるものだと信じていた。
ところが現実はどうか。今日ここでグランドピアノを目にするまで、ピアノを習っていたことさえ忘れていたではないか。
これでヒカリちゃんの言葉に不安をおさめるのは、理屈に合わない。
そう思うのに、両腕は勝手に伸びて、ピアノ椅子ごしに彼女の肩を抱きしめる。鍵盤のカバーがぱさりと床に落ちるが、お互い見向きもしない。
「……ばかね、あたし」
「そこまでは言いませんけど」
「じゃあどこまで?」
「それは。うーん、内緒です」
今がそうだからこれからもずっとそうだ、などというなんの根拠もない希望に愚直にすがりつけるほど、あたしは幼くないはずだった。それでも、腕の中で笑いまじりにささやかれる声が、大人の心を波だたせる軽薄さをはらんでいないことに、ここへ来たときの心境が嘘のような安堵をおぼえている。
「ね。さっきの続き、弾いてよ」
「離してくれなくちゃ弾けませんよ」
「このまま」
「はい、はい。しょうがないなあ」
いったいどちらが大人なのだか。
彼女が鍵盤に指を置いて、『きらきら星変奏曲』をもう一度奏ではじめる。
リビングに音の粒が満ちてまたたき、そして消えていった。