かわいいひと
「そろそろやめておいたほうがいいのじゃないですか」
そちらを見もせず放りなげた言葉は、ぞんざいな軌道をえがいて、それでもきちんとシロナさんのもとまで届いたらしい。
ほのじろいブルーライトの明滅を受ける横顔、ながい指先に引っかかった透明なグラス、いつしか持ちこまれいつしかカップボードに定位置を得ていた、琥珀色の中身。ぴたりとうごきを止めるいくつかの色を視界のはしに見て、わたしはひざでひろげた本のページに指をかけた。
「えー、どうしてー?」
のんびり語尾をのばした声がそう反応するのと同時に、音もなく右肩がおもくなる。あわいクリーム色の紙のうえで指がぴくりとゆれた。安定する場所を探して身じろいでいる頭へ向こうとする意識を、いけない、と言いきかせてどうにか制した。
いけない。あまやかしては。
ページをめくり、息を吸った。
「もういい時間ですよ」
さまざまなものをはぶいて、それだけ言う。
つい小一時間まえ、肌にまとわりつく夏の熱をかきわけてやってきた恋人は、開口一番ため息まじりに述べた。「ああ、つかれた」と、ごく端的に。
彼女をむかえる玄関先に用意していったいらっしゃい、おつかれさま、のやりとりにも先んじてこぼすくらいなのだから、きっとシャワーでも浴びればすぐに眠ってしまうのだろう。
と、そんな予想に反してシロナさんは早々に口紅をぬぐいさり、色のない唇へ色のないグラスをどんどんはこび、キッチンへおもむいてグラスの中身を補充する足どりを、見る間にやわらかくとかしていった。
「まあ、そう……かな。でもちょっとくらい夜ふかししたって、べつに問題ないじゃない?」
わたしがいさめる言葉を口にする直前、正確には口にしようと決める直前。習慣で電源をいれたらしいテレビ番組へのコメントも、いよいよ要領を得なくなっていた。そんなありさまからすれば意外なくらいすらすらと、酔っぱらったひとは主張してみせる。
彼女がわたしのとなりでお酒を飲むこと、それ自体はさほどめずらしくない。ただ今日のように、アルコールのはいった状態でのふるまいかたに波があるのはまれ、というかはじめて目にする。わたしにまだわからないだけで、酔いの度合いとかそもそもの体調とか、いろいろな要因がからんでこうなっているのだろうけれど。
「それはそうですけど、さすがに飲みすぎ……」
「それにい」
「……それに?」
前夜だ。いったいなんのといえば、出かける予定もなく気がねする相手もいない、アラームもかけずに寝坊できる、恋人とふたりそろった休日の。
思うさまお酒を飲みほしていくさなか、まだふるまいに芯を残していたころのこのひとが、たのしそうに語って聞かせてくれたことだった。そのつもりで彼女をむかえたわたしも当然よく知っており、夜ふかしをしても問題ないという主張の根拠はそれだ。
だけど、それに、とつづきそうなところに心あたりがない。
虚をつかれて訊きかえすわたしを、シロナさんは肩にのせた顔の角度をかえ、目のうごきだけでしずかに見あげた。
あまり見ないでほしい。まつげがふれそうな、吐息のかかりそうな距離からまっすぐ頬を撫であげる視線が、まるで指先で実際にそうするような温度をもっていて、身勝手にそんなことを考える。
肩のおもみや視線の熱へ意識を向けてはいけない。まちがってもすぐそばのつむじに頬を寄せてはいけない。
あらためて自分に言いきかせることで跳ねる鼓動をかろうじて落ちつかせ、ページをもう一枚めくる。
実をいうとどこまで読みすすめたのか、自分の手元のことなのにまったく知らない。そろそろ、だとかさすがに、だとかいさめておきながら、シロナさんの口元へかたむけられつつあったグラスが、いったい何杯目だったのかも数えていない。横目でうかがうとなりへずっと、決して焦点を合わせないようにしていたから。
シロナさんの指先のグラスが空中でゆがんだ円をえがき、なかのロックアイスが二回、からからとすずやかな音をつれて半回転する。流れつづけるバラエティ番組のものと似かよったむやみにあかるい、もっとはっきりいえば浮かれた声で彼女は言った。
「世界でいちばんおいしいものって、なんだか知ってる?」
「いちばん」
「正解はねえ。お休みのまえの日、ヒカリちゃんといっしょにのむおさけでーす!」
さほど真剣に考えるつもりもなかったのでかまわないのだけれど、内容もろれつもどことなくふにゃふにゃとあやういのだけれど、とにかく考える間を与えずこたえを教えてくれた声の主は、こきざみにグラスをゆらし、言葉をはやしたてるみたいに氷を鳴らした。
「……そう、ですか」
あきれている、よってにべもない態度でいる。そう聞こえるよう、わたしはことさら神経をつかって唇を引きむすばなければならなかった。そうしなければたぶん、しょうがないひとだなあ、なんてぽろりとこぼしてしまっていただろう。そっけない無表情なら、すげない棒読みならまだしも、あけすけにあまったるい態度でいるこのひとに負けずおとらず、あまったるさを隠しもしないゆるんだ表情と声音で。
意識を向けてはいけない、焦点を合わせてはいけない、あまやかしてはいけない。
くりかえし言いきかせるのは、ほんとうはそうしたいからだ。意識を向け、焦点を合わせ、あまやかしたいからだ。
今夜だけじゃない、たくさんかたむけたグラスの中身に酔っているいまにかぎったことじゃない。いつだってこのひとをかわいいと、かわいいからかわいがりたいと思う。ひいてはいつまでもどこまでも、ずぶずぶにあまやかしたいとさえ思う。
そうかといって、いまこのときはともかくふだんは凛としている、わたしの知らないものをいくつも教えて世界をひろげてくれる、そんな年上の恋人をただしくかわいがる方法も適切にあまやかす方法も、わたしの引きだしには見つからない。そもそもふだんは手を引かれるばかりのわたしが、彼女に対してそんな感情をいだくことがただしいのか、適切なのかどうかのこたえも。
だから結局手づまりになって、進むことも戻ることもできずにいる。
いまわたしがまっさきにすべきことは、あいさつも差しおいてそう訴えるくらいくたびれている恋人からグラスを取りあげ、むりやり寝室へつれていってベッドに放りこむことだ。それはわかっているのに実行できないまま、文章に集中する片手間であきれているふうを装いながら、一文字たりとも頭にはいっていない本のページを一定の間隔でめくりつづけているのだった。
図書館で同時に借りてきた冊数。すでに読みおえた冊数。貸しだし期間。兼ねあいを考えれば今日じゅうにもうすこし読みすすめておきたかった。このぶんでは明日からの時間配分を、かなりタイトにしなければならない。
現実逃避で読書スケジュールを逆算するうちに、肩のおもみがふっと消える。またキッチンへ行くようならさすがに、と考えたところでひざのうえまでかるくなった。あっけなく取りあげられた本が片手のスナップでぱたんと閉じられ、グラスといっしょに、ローテーブルへそっと置かれた。
「あっ、ちょっと、しおり、はさんで」
「読んでないからいいでしょう?」
「よ」
「読んでない。ページはめくってるのに、目、ぜんぜんうごいてないもの」
さっきよりもいっそうなめらかに、確信をもった調子で的確に事実を指摘され、わたしは無防備にたじろいでしまう。そろそろと顔をあげてとなりをうかがうと、おぼえのある温度の眼光に射ぬかれた。
「……あのお、もしかしなくても酔ってない、ですか?」
シロナさんは「まあね」と唇の片側を持ちあげ、得意げな表情をみせる。
「さすがにまったくのしらふではないけど」
口角をあげた頬はいつもより血色がよく、いつもよりうるんだ瞳の表面に、ぽかんとした表情のわたしが映りこんでいた。アルコールはシロナさんに、たしかにいくらか生理的な変化をもたらしているらしい。
だけどその変化にどうやら、彼女からふだんの思考能力や観察眼を完全にうばいさるような強度もない。だから今日のこのひとのふるまいには、わずかな波があった。
きっとぜんぶがうそだというわけじゃない、ある程度は浮かれているし、ほんとうにたのしい気持ちでいるんだろう、それでもわたしが本に視線を落とすポーズをとっていたように、そういうそぶりを演じていただけだ。すこしだけぼろを出しつつも酔ったふりをして、横目で彼女の一挙手一投足をうかがっていたつもりのわたしを、反対に観察していた。
でも。
「なんで酔ったふり、してたのかって?」
湧いた疑問はよっぽど色こく顔に出ていたのか、吐息で笑った酔っぱらい、ではなかったシロナさんに言いあてられる。訊きたいことがひとつにとどまらなくて、わたしはあいまいにうなずいた。
「それもそうですし」
「なんで急にやめたのかも?」
「もう。ほんとうに、よーくおわかりで」
「だって。酔ってるふりしたからってヒカリちゃん、本読んでるふりもやめないし、かまってくれないみたいだから。それならいっそのこと方針転換して、真正面からいこうかと」
のるもののなくなった肩のかわりに、本のなくなったもものうえがおもくなる。そこへごろんと頭をよこたえ、恋人はわたしを見あげた。微笑に目をほそめたまま、色のない、ぬれた唇をおどけたようにとがらせている。
「そっちこそ、なんで本読んでるふりなんてしてたの?」
「だって、つかれてるって言ったから……むしろあんまりかまわないで、はやく寝かせたほうがいいんだと思って。……つかれてるのも、ふり、ですか?」
「ううん」
ももの皮膚ごしに背骨がうごく。首をよこに振りながら、シロナさんは目をふせた。
「ちょっと、ほんとにちょっとだけだけど、つかれてるの。だからかまってほしいっていうか、やさしくしてほしいなあって」
「わたし、そんなにやさしくないですか。いつも」
「うーん、そういうわけじゃなくてー、なんて言えばいいのかしら。やさしくして、じゃなくて、世話を焼かれたい、でもなくて……ああ。あまやかされたい?」
方針転換とはいうものの、実際はわたしが彼女をかわいいと、かわいがりたいと思っていたのを見すかして、ゆるして、酔ったふりで誘いこんで、でもわたしがいっこうに気がつかないからやめたふしがあるのではないか。内心組みたてていたそんな考えを打ちけしながら、「あまやかされたい」とくりかえす。
まわりくどい、なんて思わなかった。だってわたしも言えない。あなたがかわいくて、かわいいからかわいがりたいと、あまやかしたいと言えない。このひとが、つかれているからあまやかして、とたったそれだけを言えないように。
でもこのひとが、望みをかなえる方法をひと足先に見つけたから、つられるようにわたしもやりかたを知った。
——真正面から。
「……わかりました」
「ふうん?」
「でも、それにしたって飲みすぎですから、そろそろやめないと。せっかくのお休みなのに、ぐあい、わるくなりたくないでしょう?」
「ああ、うん、それについてはだいじょうぶ。きっと明日のあたしが、どうにかしてくれるはずだからー」
よこになるとお酒がまわる。酔ったふりをやめたはずなのに急におぼつかなくなった恋人の話を聞きながら、すこしとろんとしだした恋人のまなざしを見ながら、いつだったか当の恋人がしてくれたおぼえのある、そんな話を思いだす。
「明日のシロナさんはすごいですね」
「うん? なにが?」
「だって、二日酔いになってもどうにかしてくれるんでしょう」
「ま、まあ」
「すごいですよ。……いまのシロナさんとは明日、いっしょにゆっくりできないみたいだし。明日のシロナさんのほうを好きになっちゃいそうです。わたし」
言ったとたん、シロナさんの上体がはじかれたように起きあがった。
「ちょっと、やだ。そういうの、冗談でもだめよ」
かわいがりかたもあまやかしかたも、知ってみればひどくかんたんだ。したいようにするだけ。
わたしは起きた拍子にみだれた恋人の前髪を頬から払いのける。ほそい毛束を指に巻きつけ、焦った顔をした彼女に向かって「はあい」と笑った。
息をついて、安心しきった顔で色のない唇を寄せてくる、あなたはやっぱりかわいいひとだ。