過日のこと
とじたひざを割ったシロナさんの手が、いりぐちにあてられる。ほそくながい指のかたちを教えるようにそこをなぞってから、そのままなかへはいってくる。その瞬間はいつも唇をかみしめ、意識して吐息をのどの奥へのみこむようにしていた。そうでもしないとこぼれてしまいそうになる、できれば自分では聞きたくない、なさけなくうわずった声を押しころすために。
けれどきょうは、それでも危うかった。なんだかまずい予感がしてあらかじめ口もとを手でおさえていなければ、おそらくだめだっただろう。
はじめのころ、なかにふれられるときに、こうまでしなければやりすごせないほどの感覚はおぼえなかったはずなのに、近ごろはなにかがおかしい。以前のわたしは——わたしのからだはこんなふうではなかった。
こんなふうではなかったといったら、彼女だってそうだ。
こうしてベッドのうえで抱きあっているときだけ、まえとは別人になってしまうように思えるそのひとは、わたしがようやく息をつくのを見おろしながら、だいじょうぶよね、と言ってかすかに笑った。
そこがどんなにやわらかく潤んでいるのか、わたし自身よりもむしろそうさせた彼女がいちばんよく知っているはずなので、わかりきっていることをたしかめるような軽い口調なのはべつにかまわない。そもそも耐えられないほど苦しかったり、痛いようにされたことは今までに一度もないから、ほんとうはそんな確認だって最初から本来の意味をうしなっている。
それでも、はじめのうちはこうではなかった、と考えてしまうのだ。
わたしが慣れない圧迫感にどうしてもとまどって、今のそれとちがった意味で息をのんでからだをこわばらせていたら、シロナさんはそのたびに手をいったんとめてくれた。わたしの頬や髪をなで、知れた事実の確認ではなく気づかわしげな口調で、だいじょうぶかと訊いてきた。わたしが息をつめたまま首を縦に振ると、そこでようやくゆっくりと指をすすめた。
——まさかそういった意図をもった動きではないだろうけれど、まるでそんなことを思いだして散漫になっていた思考を呼びもどそうとするようなタイミングで、なかに沈んだシロナさんの指が、くるりと円をえがきながらはいりこんでくる。まわった指の根もとにいりぐちの輪郭を押しひろげられ、反射的にひざをあわせて彼女の腕をはさみこんでしまう。
「ん、うっ……っ」
思わずもれたうめくような声が、おおいかぶさって顔をよせてきたシロナさんの口内にからめとられてくぐもった。同時に足がたおされて指がより深いところをえぐり、つま先がびくりとはねる。
シロナさんは最後にわたしの舌をやわくひと噛みしてから唇をはなすと、寝間着のワンピースのすそからあいた手を差しいれ、ずいぶんまえに彼女自身によって下着の金具をはずされたせいで、なにも引っかかるもののない背骨をなぞった。うえまでたどりついた手が、嫌悪ではない感覚に粟だった首すじをなでて、うしろから肩を握りこむ。
そうする理由に、なんとなく察しがついてしまった。たぶん、腰が逃げないように。逃げてもすぐにつかまえられるように。
察したとたん、指がいったん浅いところまで引いていった。それをとがめるように、あるいは追いすがるようにひびいた水音に羞恥心をおぼえるひまもなく、戻ってきたそれがこんどは壁をなぞりながらいちばん奥まではいってくる。
声をあげて浮いたからだが、案の定やさしく肩をおさえられて引きもどされた。逃げ場がないのを悟って、それでもなお逃げたがる腰が無意識に動き、かえってシロナさんの指をなかに深くのみこむ格好になってしまう。一連の衝撃に弛緩した頭の片すみで、こんな答えあわせはいらない、と思った。
「ヒカリ」
いつもより低くひそめた声に名前をささやかれる。みだれた呼吸をととのえたくても、自重をささえる骨と筋肉がとけて消えたようにからだが重くても、彼女に名前を呼ばれるとわたしの意識はそちらへ向いてしまう。視線をあわせると、かすめるだけのキスを唇に落とされた。
「動かしてもいい?」
「……だめって、言ったら、やめるんですか」
「やめないけど。いちおう、確認」
やめないならどうして訊くんですかとか、そもそも訊くまえに動かしたでしょうとか。言いたいことはまだいくつもあったけれど、口をひらいてそのうちのどれかひとつでも音にするまえに指を動かしだされ、油断して吸いこんでいた息が、まるごと高い声にかわった。
ほとんど出ていく寸前まで引きぬかれ、また奥まで突きたてられる。それを何度も、いつのまにか指をふやしてくりかえされるうちに、出したくも耳にしたくもなかった声や音にかまう余裕が、だんだん削れてなくなっていく。
やっぱりおかしい。こんなふうじゃなかった。苦しくも痛くもなくて、たぶん気持ちいいのだとは思うけれど。熱にうかされてあえぐ自分の声ばかりが脳髄にひびくなか、このままだとまた知らなかったことをおぼえてしまう、いったことのなかったところまでたどりついてしまう、それだけが漠然とわかって心もとない気持ちになる。
つながってかきまわされている部分の熱が、目をそむけられないほどふくれあがるのを感じながら、苦しさも気持ちよさも知らなかった最初のころのことを唐突に思いだした。いや、やめて。未知の感覚や勝手に飛びだす知らない声がこわくてついそう言ったら、そのたび手をとめて、あやすように頬や髪にふれてきた彼女のことを。
今やとおいむかしのことに思えるその記憶に飛びついて、どうにかこうにか口にする。おぼれているさなかに見つけた、水面をただようたよりない藁を、それでも必死につかむみたいに。
「あ、ぁ、シロナさ、まってっ……そこ、いや……」
「そこって、奥?」
「おく……っおく、なにか、へんでっ……」
「変? いたいの?」
冷ややかなわけでも、やさしくないわけでもない。でもはじめのころそうだったのとも、ベッドの外で聞くのともどこかちがう、こうしているときしか聞けないふしぎな温度で訊ねられる。
とめてくれはしないまでも、行き来する指があきらかに速度を落とした。いつ終わるかわからない、きっとまともに言葉をつなげられないわたしのために一瞬譲歩しただけの、長くはないだろうそのすきを逃すまいと息を吸う。芯をなくした声で、いたい、やめて、とうわごとのようにくりかえす。
それが聞きいれられたのか、抽送の速度がゆるやかに減衰していき、やがて奥をゆっくりと突いたところで完全にとまった。最後に喉から押しだされた声が、自分でもひどくなごりおしげに聞こえてしまってとまどう。やめてと言ってやめてくれたのだから、一度息をつけることに安堵すべきなのに。
シロナさんはじっとりと汗をかいた背中と寝間着のあいだから腕を引きぬき、わたしの肩の横にひじをついて上体をすこし振った。体のまえにかかった金髪を背中へながすと、手なぐさみのようにわたしの髪をもてあそびながら言った。
「腕、まわして」
端的な言葉で、どこに、どうしてそうさせたいのかもわからなかった。けれど数秒前までの余韻が頭に吹きだまったままで、それはまだろくな考えをめぐらせられるほど引いていない。結局言われたとおりに、いちばん手をのばしやすかった首へ腕をまわした。
自然と抱きよせられるかたちになった彼女の頭が、鼻先がふれるくらいの距離までおりてくる。あいだにとどこおった自分の息が熱くて顔をそむけると、シロナさんはそれを追いかけるように首をかたむけた。そうしてくれると思ったとおりに唇をあわせて、それから完全に気をゆるめていたわたしのなかにうずめたままの指で、からだの正面へ向かって壁を突きあげた。
悲鳴じみた声が口内で反響して鼻へぬけていく。危うくシロナさんの舌を噛んでしまうところだったけれど、そのまま抽送を再開されたので気にするひまも余裕もない。後頭部を枕におしつけてそらせ、むりやり唇をはなしてできたすきまで、嬌声のあいまを縫って叫ぶ。
「やだ、ぁ、うご、かさないで、おく、やめてって……っ」
「いたいから?」
「いたい、いたいですっ、からぁ」
シロナさんはちいさく笑ったようだった。空気をすこし揺らすだけのかすかな吐息が顔にかかって、それが熱いのに今さら気がつく。彼女はあくまでも冷静で、わたしのからだばかりが熱をもっているのだと思っていた。でもそう見えたり聞こえたりしたのは彼女が熱を巧妙にかくしていて、なおかつわたしにそれを悟るゆとりがなかっただけのことなのだ。
もちろん、わかったところでなにがどうなるわけでもない。ただ、わたしのことを熱のふちへ駆りたてながらシロナさんも興奮しているのだと思ったら、ただでさえぎりぎりまで高められたからだのうずきが、よけいにひどくなる気がした。
「うそ。いたくないでしょう?」
「や……ぁ、んっ、だっていたいって、シロナさんが、いったのに……っ」
頭のはしがしびれてきて、もう自分でも自分がなにを口ばしっているのか、ほとんど意味をひろえない。とまらない自分の声もわざと鳴らされているような水音も、あいだに紗幕を張ったようにとおざかっていく。
「だいじょうぶ。ほら、もうちょっとだけ、がんばってみて」
そのなかで、シロナさんの声だけがまっすぐ落ちてきて鼓膜をふるわせた。名前を呼ぶだけでわたしの意識を惹きつけるみたいに、彼女がそう言うならそうなんだろうと、無条件でわたしに信じさせてしまう声が。
だいじょうぶ、もうちょっと。その言葉で頭がいっぱいになったら、知らないところまで連れていかれる感覚におびえていたのも、身をゆだねすぎないように耐えていたのも忘れた。腕でつくった、彼女の首をかこむ輪をせばめてしがみつくと、シロナさんがキスでこたえて、わたしたちのあいだに横たわる最後のすきまを埋める。
すこし力をつよめた指でほんの何度かいきどまりをかすめられただけで、今までもちこたえていたのがうそのようにあっさりと、きつくとじた目の奥が白んだ。外側にふれられたときに感じるよりもずっとつよくてながい波がよせて、声も出ない。
なかが収縮して、わたしにもかたちが伝わるくらい、彼女の指をきつくしめつける。それこそいたいのではないかと頭の片すみでぼんやり考えたけれど、顔をはなしたシロナさんはそのことについてなにも言わずに、ただわたしの髪をやさしくなでた。
まだ波にさらわれたままの頭にそこだけはっきりと、もうこの感覚を知らなかったころには二度と戻れないのだ、という実感がうかぶ。それがいいのかわるいのか考えられる力までは残っていなくて、腕をほどいてシーツに沈んだ。