十七時四分
「……ありがとね。朝はやくに」
映像におくれること数秒。音声が追いつくとシロナさんはまずそう言って苦笑した。だからわたしはいいえと首を振りながら、よっぽど寝ぼけて映っているんだろう画面のむこうがわの自分を想像して、すこしばつがわるくなった。
ああ、でも、へんだな。はずかしいようないたたまれないような気持ちはすぐに引いていくのに、のみくだせないかすかな違和感が喉の奥で引っかかる。たしかに起きたばかりではあるけれど、ちゃんと顔は洗ったし何ヶ所か頑固にはねた寝ぐせだって直して、そのとき鏡のなかで向きあった顔は、そこまでひどいようすじゃなかった。それに……。
「おはようございます……じゃなくて、こんにちは? それともこんばんは? どれがいいんでしょう」
「たしかに迷うわね。とりあえずそっちに合わせようか。おはよう」
「ふふ、おはようございます。それに、おつかれさまです」
あらためてかわすあいさつの合間に、液晶のひだりうえをちらりとうかがう。ゼロと六、コロンがひとつはさまってゼロと四。六時四分——接続に手間どって四分過ぎてしまったけれど、午前六時。ふたりでまえもって決めておいた時間だった。
寝室のそとの景色は、洗いながされきらない夜の気配をうすあおい煙のようにぼんやりまとっている。でも、フィールドワークの行き先によっては朝陽がのぼりきらないどころか、まだ顔さえ出さないうちに出発することだってざらだ。そういうしだいで早おきには慣れているし、とくにはやい時間だというわけでもないし、現に眠気もおぼえていない。だからなおさら、寝ぼけて見えてしまったのをふしぎに思う。
まあなんにせよ、彼女から一度そう見えた事実がなくなるのでもなかった。不毛な考えをやめて、視線を液晶の中央へもどす。
道を歩きながら通話しているらしいシロナさんの肩ごし、だいだい色と紫色のまじりあった夕焼け空が画面の奥へ向かってゆっくりと流れていく。むこうは夕方、こちらは早朝。画面のむこうとこちらで半日ほど時差があるのは、シロナさんが現在イッシュに滞在しており、一方でわたしがシンオウにのこっているからだ。
「ホテルにもどるところですか?」
「ううん。一度帰って、また出てきた。背景が部屋のなかじゃ、ちょっと味気ないでしょ?」
「そんなことは」
言いながら、ふいに『そんなこと』があるのかないのかよくわからなくなってしまって語尾がしぼんだ。シロナさんがすこし首をかしげたので、はっとして口角をあげる。
「……味気ないっていうなら、わたしもそとに出ようかな」
「いいのいいの。ほんと言うとそれはたてまえでね、あたしが散歩したくなっただけ。だからむりしないで」
まただ。矛盾にまでは育たない、かすかな違和感が顔を出す。こんどはわたしが首をかしげる番だった。
「うーん。べつにむりはしてないのですけど。わたし、そんなにねむそうに見えますか?」
「ねむそう、っていうより……」
すこし歯ぎれわるく言ったシロナさんは、そこに落としたなにかを探すように画面のすみを見やった。
「……そうね。きのう、夜ふかしでもした? あまり元気、ないように見えるから」
いいえ、という否定の声は自分でも意外なほどすんなり出る。実際、昨夜は翌日にそなえてはやく眠ったし、けさ顔を洗いながら、寝ぐせを直しながらたしかめた洗面所の鏡にだってちゃんと映っていたのだ。午前六時からの通話を、ちゃんとたのしみにしているわたしが。
それだけに元気がないようだと言われ、うすらさむい感覚が背骨を駆けのぼってくる。シロナさんの見せるこういうするどさが、わたしはときどきこわい。バトルの最中なら、相手が彼女でさえないのならおくびにも出さずにしまっておけるはずのことを、このひとはいともかんたんに見すかしてわたしに突きつける。そうしているという自覚もないまま。
「ちゃんとはやく寝ましたよお。寝坊したらいけないと思って」
「そう? 気のせいなら、よかったわ」
歩調とおなじゆっくりとした速度で後景をうしろへ流しながら、シロナさんの視線はまだ彼女自身の足元あたりにとどまっている。それもかさなってか、声音はひどくあいまいに伝わった。書かれた文字を起伏なく読みあげただけのように、言葉にのせられた感情がつかめない。
すくなくとも、彼女が一度いだいた印象をぬぐいさるふるまいはできなかったんだろう。そう思ったけれど、それでもせめて画面ごしでよかった、せめて目を合わせていなくてよかった、そんな不幸中のさいわいをかきあつめてどうにか自分を安心させる。
「シロナさんこそ」
間をもたせるために言葉を探して、思いついたのはほんとうに気にかかっていたことだった。なにか言わなければならないのと、はやく訊きたいのと。ふたつの気持ちに急かされて舌がもつれる。
「そっちはどんなところなのですか。気温、あつかったりさむかったりしてませんか、たりないものはなにか、シロナさんもポケモンたちも、みんな、ごはんはちゃんと」
「ちょっと、ちょっと待って」
「は、い」
「心配してくれてうれしいけど、質問はひとつずつ、ゆっくりお願いします。ホテルから出ちゃったせいかな、通信のぐあいがあんまりよくないみたいなの。さっきからなんだか、タイムラグがね」
最初の接続に手間どっただけで、以後問題はない。そうわかっていたけれど、やつぎばやな質問にシロナさんがちいさくふきだしたので、通信状況には引きつづき濡れぎぬをかぶったままでいてもらうことにする。つられて笑ったふりをすると、それはやがてほんとうになった。
「どんなところか、見てみる?」
うすく唇のはしをあげたままそう言ったシロナさんが、液晶の四方をゆらしてふっと画角のそとへ消えた。さっきまで背景だった、いまは画面のすべてを占める街が、一分まえよりいちだんと濃くふかくとろりとした残照のなかに沈んでいる。
正確な時差は何時間だったのだっけ。いままでほとんど意識してこなかったせいか、通話の時間をすりあわせるときにきちんと教えてもらったはずの数字を、とっさに思いだせない。
これまで時差を意識する機会がなかったのは、彼女がリーグのシーズンオフにバカンスがてらイッシュをおとずれ、カトレアさんの別荘を拠点に現地の古代史研究にとりくむ際は、なんだかんだでわたしも同行させてもらっていたから。今回そうしていないのは、シロナさんの今回のイッシュ訪問が考古学者としてではなく、シンオウリーグの関係者という立場によるものだから。
建ちならぶビル群の窓にぽつぽつと明かりが灯りはじめ、夕暮れの空に人工の光があわくにじんで溶けだしている。境目のないさまに焦点を合わせると、知らない街の光景と同化するみたいに自分の輪郭がすうっとうすれていく。なにかをとりつくろおうという理性がほどけて、心がむきだしになっていく。
ホドモエシティ。
耳なれない名前の街は、ちいさな額縁に切りとられた街並みの一角を垣間見るだけでも、リゾート地であるサザナミタウンとまったくおもむきのちがうのがわかった。秩序と計画をもってととのえられた、きれいであたらしい、便利な街。そんな印象。
だけど。
「きれいなところですね。過ごしやすそうでよかった」
本心だった。心の底から感じて口にした。
だけど、それだけだ。ただ事実をならべる以上の、好意的な感情を、興味を、関心を、わたしはもつことができない。どうしても。
顔を見て話したくなんてなかった。だって距離を埋めるためにまっすぐ向かいあっても、時間帯のちがいが、見しらぬ街並みが、そばにいないことをよけいに実感させるだけだ。
だけどそんなこと、言うわけにはいかない。さとられるわけにはいかない。だから画面ごしでまだよかった、せめてシロナさんのすがたが見えていなくてよかった。そう胸を撫でおろすのと同時に、画面のそとから「ねえ」と聞こえる。
思わず肩がはねたのはそれが唐突だったからじゃない。直前まで笑っていたのが信じられないくらい、感情のそぎおとされたしずかな声だったからだ。
「はい」
「お願いがあるんだけど」
反射的に持ちあがった手のひらが口元をおおう。なにか声に出ていた、また見すかされた——思いうかべたどれがどう的中していたってとっくにとりかえしはつかなくなっているのに。しぐささえも知られているような錯覚に、じわりと汗がにじむ。
明けていく朝のなか、夕暮れを白く染める人工の光を見つめながら、わたしは暗闇で降りはじめるつめたい雨におびえるように彼女の声を待った。
しばらく間があった。
「……さみしいって、言ってくれない?」
冷や汗で湿った手のひらとは反対に、起きぬけに水を飲んでうるおしたはずの喉がたちまちかわいていく。
——言ったら、帰ってきてくれるのですか。いますぐ。
よっぽどそう訊こうとしたけれど、あんまりよわよわしく「うそでもいいから」と言葉をかさねられて、声になんてできなかった。乞われたことを言うために手をはなして息を吸いながら、シロナさんがホテルの部屋を出たわけを考えた。