じゅうぶんで適切な期間
画面のなかで濃密な視線をまじわらせるふたりの、陰影のきいた横顔が大写しになる。あたしはこんなものを貸してくれるなんて気が利いてるなあ、などと曲がりなりにも貸し主に感謝していた気持ちを瞬時にあさっての方向へ放りなげると、かたわらのヒカリちゃんのまぶたを手のひらでおおった。
なにかを察しただけの段階で行動したのは、結果的に英断だったと言える。ふたりはつい先ほどおたがいの顔と名前を認知したばかりとは思えないほどすみやかに距離をつめると、唇を合わせ、首すじをまさぐりあいもつれあいながらあっという間にベッドへ倒れこんだ。映像を際だたせる意図なのか、シーンが終始サイレントで進行するのだけがさいわいだった。彼女の目を隠したところで、あえぐ声など聞こえてきてしまったのでは、まさに目もあてられない。
劇中でこまやかに積みあげられてきた、運命的な恋の演出。その集大成となるシークエンスだ。こうなるのも理解はできる、とはいえ。
あきれ半分にテレビから視線をそらすあたしの腕のなかで、ヒカリちゃんがかすかに身をよじり、目元にあてられた手を指のはらでぴたぴたとこづいた。
「見えませんよー」
「……たしかこのシーン、映るわけのないものが映ってるって騒ぎになったのよ。当時」
あたしたちがソファにならんで観ているのは、ヒカリちゃんが生まれる何年か前に公開された恋愛映画だ。個性的な登場人物と世界観、そしてそれを惹きたてる音楽や美術との調和によって、封きられてから十余年が経つにもかかわらずいまなお有名であり、とくに世代を問わず、女性からの支持は厚い。
あたしは名前を知ってはいたものの、今日まで観る機会にめぐまれず、ほとんどとおりいっぺんの情報しか把握していない。彼女には借りてきたディスクをプレーヤーにセットして観はじめる前に、有名なので名前は知っているけれど観たことはない、という部分だけを告げてあった。
そんな前おきがあったうえでとっさに口にした出まかせは、われながらあきれてしまうほどつたなく不自然だったものの、それでもこの映画が公開された当時、すでにある程度の年齢だった人間が声をひそめて意味ありげなものいいをすれば、多少の説得力は持ったらしい。え、と声を漏らして絶句するヒカリちゃんに向け、無音のままゆれたりはずんだりしている白いシーツを横目に、心のなかで手を合わせて謝罪のジェスチャーをとる。
申しわけない気持ちはあるけれど、それを差しひいてもこれを彼女の目にいれるのはさすがにどうかと、
「……ちょっと見てみたい、かも」
――思っての、ことだったのだが。そもそも彼女が、どこかのジムリーダーほど心霊現象のたぐいにおびえるたちではないのを失念していた。
つぎはどう乗りきろうかと決めあぐねるあいだに、はじまったときと似たすみやかさでシーンが切りかわる。安心してヒカリちゃんを解放すると、少女は「あーあ」と嘆息して眉尻をさげた。
彼女は映画を観る際、一度きりの流れを大事にして、取りこぼしや見のがしのないよう画面を熱心に見つめるタイプだ。残念そうではあったものの、やはり映像を巻きもどしてまでくだんの場面を見かえそうという気は起きないようだった。ただ、すっかり仲のふかまったふたりが肩を寄せあって街へくりだしていくのが、いまのひと幕を飛ばしたせいでどこか唐突な光景に映るらしく、釈然としなそうな顔で画面を見つめている。
「ごめんね」
ささやいたひとことに、たった四文字には荷がおもいのではないかというほど、さまざまな意味をふくませる。
目をふさいだこと、出まかせを言ったこと、最後の最後で映画の展開をつかみにくくさせてしまったこと。
それから。
謝罪にこめるもうひとつを思いうかべたところで、急に腕を引かれて右半身が横へかしいだ。おどろいた拍子に彼女のほうへ向けた顔は、そのまますすめばほとんど完璧に唇がかさなる軌道に乗る。
しかし、たどりついた先で実際に唇がふれることはない。
あたしが腕を出し、距離がつまりきるのを未然にふせいだためだ。ヒカリちゃんはソファのひじ置きのほうへ背中から倒れこみ、あたしはそれに一瞬遅れて、彼女の頭を腕でかこんでおおいかぶさる体勢になる。と言ってもひじ置きにぶつかって受けるはずの硬質な衝撃は、ヒカリちゃんが背にしたぶあつくおおきなクッションにさえぎられ、あたしたちのからだに伝わらないまま、しずかに散って消えていく。
してやったりと言いたげにほそめられた瞳が、クッションについた腕とこぼれた髪のあいだからこちらを見あげてかがやいた。
「びっくりした」
「わたしはびっくりしたうえに、どうやら大事らしいところを見のがしましたけど」
「ごめん、ごめんってば。許してよ」
「えー、しょうがないなあ」
結論の見えすいた会話をもったいぶってかわしている、その事実におかしさをこらえきれなくなってふたりで同時にくすくすと笑いだす。ヒカリちゃんは目をほそめたまま「それで、さっきのところ」と言った。
「ほんとうに、なにか見えたんですか? こわいものとか」
「……うん」
髪を耳のうしろへかけながら、ある意味で、と声にせずつけくわえる。
あたしの声音や表情がひどく真にせまっていたため、かどうかはさておき、彼女は自分が目をふさがれた理由への興味をうしなったようでもなかったが、ひとまずそれ以上なにも訊いてこなかった。ふたつまばたきをしてから頭をかたむけ、映像へ視線をもどす。あたしもそれにならい、クッションについた右手を枕にしてソファへ横になると、時計まわりに九十度回転したテレビ画面を、目の前にあるせいでピントの合わない後頭部ごしにながめた。
ふたりがむすばれたことをきっかけに、停滞していた世界がなめらかにまわりだす。仲むつまじく連れだったカップルがなにげなく立ちよる先々、とおりすがるみちばたのあちこちで、ストーリーじゅうに散りばめられていたちいさな問題が解決へ向けた収束を見せる。要所要所で映りこんだ際はにび色にくもりがちだった空までが、雲間からやけにあざやかな色で陽光をそそがせる。まるで、たったいま生まれたひと組の恋人たちを祝福するように。
ささやかな翳りが、その存在をきちんと提示されたうえで、視覚的にも観念的にも取りのぞかれていく筋書き。彼女と鑑賞するにあたってあやうい場面はあったにせよ、総括すればすがすがしく幕をとじる、気持ちのいい映画だったと言えるだろう。
すっかり観おえたつもりで、そんな感想まで浮かべながらすぐ前の肩を抱きよせようとするものの、聞こえてきた「あ」というみじかい声にはたと手をとめた。
映画はどうやらまだ終わっていなかった。正確に言うならストーリーの部分はあたしが思ったとおりすでに完結しており、画面にも監督やスタッフのものと思しき名前がさまざまな書体であらわれては消えていく。ただしセピア色のフィルターがかかったその背景では、ふたりが足をはこんだカフェで顔を寄せて語らったり、そうかと思えばどこかへ急いでいるのか手をつなぎ、ときおりおたがいの足どりをたしかめあいながら街中を駆けぬけるようす――ふたりのその後をえがく、いわゆるデートシーンが断片的に流れているのだった。
たのしそう。
まったくおなじタイミングかつ抑揚で口にして、言葉がぴたりとかさなったことにふたりとも笑った。あたしよりもすこしだけ長びいた彼女の笑い声の終わりぎわ、最後のひと息が消えきるかきらないかというところで、ようやく空にとどめていた腕をまわして肩を抱きよせる。
されるがまま唇の表面にふれそうなところまでやってきた後頭部へ向けて、「こんど、行ってみない?」と訊ねると、ヒカリちゃんははじかれたようないきおいで振りかえろうとした。距離がちかすぎるので横になったままではうまくいかず、中途半端に頭をゆらすだけに終わった動作のあとで、結局起こした上体をひねってこちらを向く。まるく見ひらかれた群青色の瞳が先ほどとは反対に、昼さがりのうららかな影をせおってあたしを見おろしてくる。
「行くって、この」
振りかえったいきおいがあまったような早口でそこまで言い、画面に目くばせをしてこういうのですか、と平坦につづけた。一聴するとなんの感情もただよわない、ともすれば退屈を押しころしているようにすら聞こえる声に、しかしあたしは特段ひるむでもなく、ある期間を思いうかべる。
一年とすこし。
おどろいたとき、とくに好意的なニュアンスでもっておどろいたときほどそれを隠そうとかわいた口調になる、そんな彼女のくせを把握するにはじゅうぶんすぎるほどの期間だ。
「うん。ほら最近、どっちかの家ばっかりでしょう。べつにそれがだめなわけじゃないけど、たまには出かけるのもどうかなと思って」
「行きたいです。行きましょう!」
やけにくっきりした発音に折り目ただしい口調で、胸の前でこぶしまでかるくにぎりしめつつそう言う彼女に、ついどこかの小柄できまじめなジムリーダーのすがたがかさなった。単語そのものをつかわずにやりとりしているのも相まって、なんだか自分たちがデートについて話しているとも思えなくなってくるようだ。あたしが笑って手首のポケッチのスリープモードを解除すると、ヒカリちゃんもローテーブルに置いてある自分のそれに手をのばした。
カレンダーアプリを起動し、予定がはいっていることを簡易的に示すまるいマークのついていない日付を、直近のものから順に挙げていく。みっつめを数えたところで、画面に視線を落としていた彼女がぱっと顔をあげて反応する。
「一日あいてます」
「じゃあここね。つぎの日もそんなにはやくないから、ちょうどいいわ」
「わたしも、つぎの日はお休みで……あの、シロナさん、もしもとくに行きたいところがなければ」
提案らしいとわかったので、目線だけでつづきをうながした。ヒカリちゃんはポケッチを置くかわりにローテーブルのうえのリモコンを取って操作し、こんどこそ終わって停止した映画のディスクをプレーヤーから排出させながら、このまえ、と切りだす。
「ヨスガにあたらしくできたカフェを教えてもらって。すごく雰囲気のいいところみたいなのですけど、映画を観たらよけいに行ってみたくなっちゃいました。どうですか」
「これ、観たら? ……あ。ヨスガってもしかして、メリッサのジムのそば? スズナから聞いた?」
「いえ、しょうぶどころでお会いしたときにナタネさんから。でもヨスガでジムのちかくだって言っていたなら、たぶんおなじお店ですね」
雰囲気がいいということは初耳だったが、先日リーグでスズナと顔を合わせて雑談していたさなか、たしかそんな話を小耳にはさみはしたのだ。スズナはスモモと行く予定だと話していたし、ヒカリちゃんはナタネから聞いたと言うから、おそらく地元のジムリーダーであるメリッサは言わずもがな、女性ジムリーダーたちのあいだで共有されている情報が、それぞれべつの経路をたどって彼女とあたしのもとまで流れてきたのだろう。
「スズナさん、どんなお店か言ってましたか?」
「言ってなかった、というか。スモモと行くって聞いて、パンケーキおかわり自由のサービスでもあるのかしらと思ったくらいで、あまりふかく掘りさげなかったのよね。もっといろいろ訊いておくんだったわ」
彼女はかろやかな笑い声をあげ、胸の前でぽんと手のひらを合わせた。
「パンケーキおかわり自由……は、あるかどうかわかりませんけど。なんとそのお店、この映画を内装とかのモチーフにしているらしいのです!」
へえ、と率直に感嘆の声をこぼした。ヒカリちゃんがソファから腰をあげてローテーブルをまわり、プレーヤーから排出されたディスクを取りあげる。指先にそれを引っかけたまま、「どうですか?」とあらためて言って小首をかしげた。
映像のそこここに配置されていた、印象的な色づかいの小物やインテリア。それを内包する世界観。そういったものをモチーフにしているというカフェ。
この映画の世界を共有した彼女と、そんな場所をいっしょに訪れる日を想像する。
きっと充実したひとときになるはずだ。
「うん、行ってみたい。気になる」
「じゃあ決まりですね。ナタネさん、映画を観たことなくても楽しめると思うよって言ってましたけど、やっぱり観てよかったです。デンジさんにもお礼、言わなくちゃ」
文脈からすれば唐突に出てきたとも思えるナギサのジムリーダーの名前に、しかしあたしはおどろかなかった。彼女が手にする、世代を問わず女性からの人気を博している恋愛映画のディスク。その貸し主は実のところ、この数分間で名前の出た女性ジムリーダーたちのうちのだれでもない、ほかならぬかれなのだ。
貸してもらったので今日はこれを観ましょう、と言ってパッケージを取りだしたヒカリちゃんが、話の流れで貸し主の名前を訊ねたあたしにデンジくんの名前をこたえたときは、思わず目を剥いた。先ほどはそれきりなにも訊かなかったけれど、いまならこのいかにもフェミニンな映画がかれから貸しだされた経緯に、なんとなくあたりのつく気がした。
「デンジくんもその場にいたんだ。ナタネからカフェの話、聞いたとき」
「そうなのです。わたしがその映画を知らないからどうしようって話していたら、ひとが置いていったのが家にあったはずだから、貸してやろうかって。……いまさらですけど、これってまた貸しですよね。借りてもよかったのかなあ」
これもまたなんとなく見当のつくところなのだが、デンジくんの家にこのフェミニンな映画のディスクを置いていっただれかがそれを取りにもどり、ディスクが本来の持ち主へ返却されることは、この先もうないのだろう。
そのあたりについては言及しないまま、指先を唇にそえて考えこむヒカリちゃんにちいさく手まねきをする。彼女はテレビボードのうえでひらかれたままだったパッケージにディスクをしまい、ぱちんと軽快な音をたててふたをとじると、それをローテーブルに置いてソファへもどってきた。
寝そべっていた体勢から身をおこしてひろげた腕のなかに、背を向けて腰をおろした彼女のからだがするりとおさまる。ちょうどいい場所をさがす身じろぎがとまるのを待って、腕をまわす。
一年とすこし。その期間がふたたび脳裏をよぎった。
彼女がなにを言わずとも、あたしの胸元のほどよい位置へおさまってくるようになるまで。そしてあたしが、横ならびに座るよりもこうしているほうが自然だと感じるようになるのに、じゅうぶんな期間。
「来週、会議でデンジくんに会うし、あたしからかえしておくわね。そうだ、そのときナタネたちに、お店のことも訊いておく」
「ありがとうございます。じゃあいろいろ、お願いしますね。時間とかはそれから決めましょうか」
ヒカリちゃんはにこやかに言いながら背後のあたしへ体重をあずけ、そのままおもてをあげる。
目を合わせてくれようとしてのことだろうそのしぐさと同時に、首を折りまげてきゃしゃな肩口へと顔をうずめた。彼女がくすぐったがって笑い声をあげたので、それは昼さがりの別荘のリビングでごく自然に、ただのじゃれつきへと見かけをかえる――実のところ、せばまった唇と唇の距離をうやむやにしようとしたものであるそれが。
ヒカリちゃんとあたしは友人ではない。
いわゆるおつきあいというものをしている。なのであたしたちはいわゆる恋人同士ということになり、恋人同士であるため、という順序ではないものの、予定が合えば今日のような映画鑑賞や読書をして時間をともにすごす。
この関係になってからほどなくして、ついぞだれもいれたことのなかった自宅へのはじめての来訪者として、彼女をまねいた。なのでいまではふたりですごす場所が彼女の別荘になることもあれば、あたしの家になることもある。おたがいの翌日の都合に差しさわらなければ、日中をのんびりとすごしたあとそのままどちらかの家に泊まり、おなじベッドで眠った。
夜をこえてすごすのであってもなくても、いっしょにいるあいだ、あえてそうしようと意識するのでもなくごく自然に、あたしたちのからだはどこかしらで接点を持っている。指、手のひら、肩、頬、くるぶしの先、ひざのうら。
一年とすこし。
それはあたしたちが恋人と名前のつく関係になってからの期間であり、あたしたちが恋人である、その事実がおたがいの内側にうごかしがたく根を張るのにじゅうぶんな期間だ。
それでも。
映画のなかのふたりが積みあげたよりもながいはずの期間を経て、おなじ空間ですごすあいだはほとんどつねにからだのどこかを接しながらも、あたしたちの唇だけは一度もふれあったことがない。映画のなかのふたりが、出会ってすぐそうしたようには。
一年とすこし。
それがいわゆる恋人同士であるふたりにとってながすぎるのか、はたまた適切なペースと期間なのかどうか、あたしにはよくわからない。この関係には当然、このタイミングでこうしてしかるべきという指標などないのだ。
不安や焦燥に駆られているのとはちがう。ただわからないからこそ、見える目印がないからこそ、むやみに意識してしまう。
ふいに、ちいさなせきばらいが聞こえた。
くすぐったさに由来する笑いがようやくおさまったらしいヒカリちゃんが、前を向いて「たのしみです」と言う。噛みしめるようにつぶやかれたその言葉にはっとして同意の声をかえし、彼女の肩を抱きしめなおすと、思考がゆるやかに方向をかえていくのがわかった。
いますぐではない。この先いつなのかわからない。先ほど終わった映画のストーリーのような練られた展開も運命的なきっかけも、きっとない。それでもいつか、いまがそのときだと悟る瞬間がくるのだろう。映画のなかのふたりが、脚本に沿ったものであるとはいえこまやかなきっかけを積みかさねたように、あたしたちもまたそこに至るまでの、時間とはべつのなにかを積みかさねている最中なのかもしれない――。
すすむ先をかえた考えは、いくぶん楽観的なそんなところへ着地する。
ふたりですごすうちに、あたしたちのあいだにはさまざまなものが定着した。急いだのでも焦ったのでもなく、おそらくそうなるのにじゅうぶんな期間を経たうえで、ごく自然に。
彼女の口ぶりが、そのことを思いださせてくれた。
たのしみです、と言った彼女の言葉を、たのしみね、と語尾をかえてくりかえす。昼さがりの別荘のリビングに、あたしのはずんだ声がかすかに反響する。
*
当日、空は雲ひとつなく晴れわたり、待ちあわせ場所にきめた広場の噴水が、映画の結末でそそいだようなあざやかな日差しをなないろに反射していた。
気温も体感では天気にたがわず、薄手の上着さえいらないほどあたたかい。きなり色の石畳の照りかえしに目をほそめて歩きだし、いきおいよく噴きあげられる水の流れの向こうにそれらしい人影を見て外周をまわりこむ。人影の正体は案の定、噴水のへりにあさく腰かけたヒカリちゃんだった。
彼女は声をかけるまでもなくあたしに気がついて、座ったままちいさく手を振ってくる。おなじ動作をかえしながらちかよると、スカートの布地のほこりかなにかを手でかるくはらって立ちあがった。
その目の前で足をとめ、かすかな違和感に首をかしげる。見あげてくるまなざしが、妙にちかい位置にある気がしたのだ。
「ずいぶん背がのびたわね」
あたしが言うと、彼女は「はい」とこたえてから、すぐに口元を両手でおおって肩をふるわせた。
「冗談です。あたらしい靴、ちょっとヒールがたかいのです」
「ああ、そういうこと。てっきり、ちょっと会わないあいだに急な成長期がきたのかと」
「ずっと成長期ですけど」
とぼけた会話に笑いつつ、ヒカリちゃんの足元に目をやった。ふくらはぎのなかほどまでを隠すスカートの裾から、くるぶしの位置にまわるストラップつきのラウンドトゥ・パンプスがのぞく。丈のみじかい、シースルーの白いソックスがよく合っている。
目くばせで目的地のほうをしめすと、彼女は笑ったまま小きざみにうなずき、片足をすこし引いて爪先でとんとんと石畳を打ってから歩きだした。あたしも歩調をそろえてそれにつづいた。
「それ、いいじゃない。あたらしく買ったんだ?」
「こういうときに履いていける靴、あんまり持っていなかったので。この前用事があってヨスガにきたとき、目についたのを買いました」
「あら、ヨスガで? もしかして、お店もそのときに下見ずみだったりするの?」
「うーん、場所くらいは見ておいたほうがいいのかな、とも思ったのですけど」
たのしみはとっておかなくちゃ。
のんびりそうつづける彼女の声を聞きながら、あたしはちらりと別の方向を見る。
広場には、あたしたちが合流地点にしたもの以外にも、おなじタイプの噴水が点々とならんでいた。そのうちひとつのちかくでは大道芸人がジャグリングを披露して、ボールやらリングやらが空を舞うごとにそれを囲むひとびとが歓声をあげている。べつの噴水のまわりでは駆けまわるポケモンを、パートナーらしい子どもがけらけら笑いながら追いかけている。
快晴の空とおだやかな気温。やわらかく降りそそぐこがね色の日差し。今日のために靴を買った彼女。
見るもの、聞くものすべてに平和が満ちていて、なんだか世界そのものがこの休日の午後を祝福しているようにさえ感じられる。あたしはこのうえないデート日和だ、と月並みなことを思って、それは言わずに飲みこみ、そうねえ、とのんきな調子の相づちを打った。
広場を抜けて通りへ出れば、市街は広場とはまたちがった、休日らしいほどよいにぎわいをみせる。
あたしたちは広場よりも落ちついた色の石が敷かれた歩道を、周囲にだれもいないのをたしかめ、つないだ手を前後に振ったりしながら歩いた。正面からやってきたりうしろからあたしたちを追いこしていくだれかをとおす際は、あえて片方に寄るのではなく道の両端にわかれ、とおりすぎたあとは飛びこむようないきおいで手をつなぎなおす。花屋、書店、家具店、路面のディスプレイだけではなにをあつかうのか見当もつかない店。どちらかの目についたショーウィンドウの前や軒下には、ふたりで足をとめて見いった。立ちならぶ店のほぼすべてが、すくなくともあたしたちどちらかの興味を引いたので、もしもとおったあとに線が引かれるならとうてい線とも呼べない、歩道を塗りつぶすようなものができあがっただろう。
そんなふうに浮かれさざめきあいながら歩くうちに、広場にいたときから建物の合間に見え隠れしていた瀟洒な丸屋根が、いよいよ視界のおおくを占めてくる。
目的地の目印として教えられていた、ヨスガジム。
そろえた指を眉にあてて目のうえに影をつくり、ちかくなってきたわね、と声をかけようとしたところで、ヒカリちゃんが「あ、あそこ」とつぶやいて手をはなした。
そのまま小ばしりに駆けだしたかと思えば十メートルもいかず立ちどまり、こちらを振りかえって手まねきをする。気持ち足早に歩みよると、そこはブティックだった。
どんなコンセプトなのかはわからない、ただなにやら洗練されているのだろうということだけは伝わるポーズでセッティングされた何体かのマネキンをながめて、それらが身につけているものに共通してただよう雰囲気と、そこはかとない既視感とのつながりにぴんとくる。
「そのパンプス、ここのなんだ」
「そうです。靴だけなのに、わかるんですね」
「なんとなくだけどね。……ね。ここ、カフェのあとで見にこようか」
「はい。なにか気になるもの、ありました?」
「ちがうちがう、あたしじゃなくて」
苦笑して腕をのばし、「ヒカリちゃんのよ」と言いながら彼女の手を取る。ショーウィンドウからだけでもうかがえるガーリーな雰囲気は、あたしの趣味からはすこしはずれている。
「靴、持ってる服とよく合ってるみたいだから。靴以外でもいいものが見つかるかもしれないでしょ?」
「わたしですかあ? でも、お買いものはこの前したばっかりですし……」
「見るだけだっていいじゃない。そういうのもデートっぽいと思うけど」
デートという言葉がなにかとくべつな効果を発揮したらしく、ヒカリちゃんはひかえめにとはいえしぶっていたのがうそのようにあっさりとうなずき、じゃああとで、と笑った。からめた指にちからがこめられたので、あたしも約束のためにかわす指きりにかえて、おなじように握りかえす。
歩きだそうとすると、彼女が片足を浮かせて爪先でかるく石畳を打った。そうして足をとめたことに対してだろう、すみませんと言うのにあいまいな声をかえして、進行方向へ向きなおる。
広場からつづいた通りは休日のため門をとじている、ひと気のないヨスガジムの正面通りへと合流した。道路を横断せず角を曲がり、いびつな縦長に切りとられた快晴の空を見あげて、ジム前のメインストリートながらめったに足を踏みいれないほうへすすんでいけば、やがて目的地が見えてくる。
ヨスガのあかぬけた街並みのなかでもなお目立ち、すぐにそれとわかる外観だった。
あの映画をモチーフにしたカフェ。
と、いうよりは。
「あのカフェそのまま」
つい口にした印象がとなりの彼女とかさなり、あたしたちは顔を見あわせ、一拍の間をおいて笑いだす。ヒカリちゃんの靴の爪先が、もう一度とんとんと打たれた。
カフェはさすがの盛況ぶりをみせてはいたものの、ちょうどいいタイミングにすべりこめたようで、待ち時間もなくふたり用のテーブルにつくことができた。
店内のひろさ自体はさほどでもないが、天井がたかいので、空間にはどことなく開放感がある。そのせいかほとんどの席がうまっているにもかかわらず、ひとがひしめきあっているというよりはあかるくにぎわっている印象をうけて、なんとなく気持ちがいい。
そしてなによりもあたしたちをおどろかせたのしませたのは、店がまえからの想像をうらぎらない、映画の再現度のたかい内装だった。調度品といい壁紙や床材の配色といい、要所で登場してスタッフロールの背景ではデートの場所にもつかわれていたあのカフェが、そっくりそのまま現実にあらわれたようだ。さすがに店内の間取りはわずかにちがうものの、映画の登場人物がいまにもすがたをあらわしそうな雰囲気すらあった。
「ナタネさんが言ったとおりでした。たしかにここ、映画を知らなくてもすてきなお店ですねえ」
ヒカリちゃんが顔の前で指先を合わせてにこにことそう言うのに、うなずいて同意する。
意外というべきか、映画のポスターは、ひかえめな枚数とおおきさのものがめだたない額縁にはいってかざられているきりだ。映画を観た人間なら再現度のたかさや、映画との共通点さがしをたのしむことができる。そして映画を知らない人間の目になら、おそらくはすみずみまでこだわりのいきとどいた、感じのいいカフェとして映る。どちらにせよ、だれがおとずれてもたのしめそうなのはたしかだった。
ほとんどの席を占めている女性客たちと同様に、あたしたちもあたりを見まわし、あれはこのシーンの、これはあのときの、などともりあがっていると、ほどなくして注文した飲みものとケーキがはこばれてくる。
ごゆっくり、と愛想よく言う店員にふたりでほほえみかえし、その背中がはなれていくのを見とどけてから、ケーキに目を落とす。視線をあげると、ヒカリちゃんも困惑したような顔でこちらを見ている。
ヒカリちゃんはショコラ、あたしはフルーツというちがいはあるものの、あたしたちはそろってクリームたっぷりといううたい文句に惹かれ、ミルフィーユを注文していた。そしてメニューに写真のなかったミルフィーユは、想像以上に繊細で精巧なうつくしいかたちで世に生みだされ、ほこらしげにあたしたちの前へやってきている。うたい文句にはひとつのいつわりもない。
それさえもデコレーションを構成するいち要素であるかのようにそえられたフォークを取りあげ、カットされたフルーツの載ったいちばんうえのパイ生地を、ほとんどちからをいれずに押してみる。
ひとつしたの層とのあいだにおしげもなくしぼりだされた生クリームが、わずかにつぶれて生地のふちからはみだす。
「……これ、どうやったらきれいに食べられると思う?」
「……わかりませんね」
こたえを見つけられないまま、ひとまず湯気をたちのぼらせるカップを手にすると、ヒカリちゃんもとまどいつつシュガーポットとミルクピッチャーを引きよせ、砂糖とミルクを紅茶にいれてティースプーンをまわしはじめる。あたしはコーヒーにほそく息を吹きかけて液面をゆらしながら、目線だけであたりをうかがった。
視界の範囲をひととおり見まわして、最後に透明なアクリル板の間仕切りでへだてられた奥のテーブルへ目をとめる。四人組の女性客が会話に興じながらそれぞれのケーキを食べすすめている、その手元を見てから、口の横に手をたててヒカリちゃんにささやきかけた。
「ヒカリちゃん、あそこ、見て」
「ん。ああ、そっか。倒してもいいんだ」
視線の先でおなじものを食べているひとりがそうしているのをまねて、ミルフィーユを食器のうえで横だおしにする。格段に食べやすくなったそれをひとくち大に切りとり、口へはこんで噛みしめると、舌のうえでかるくこわれてほろほろとくだけるパイ生地のあいだから、クリームとフルーツの甘さと甘ずっぱさがひろがった。
ちらりと視線をはしらせ、ヒカリちゃんがうれしそうにミルフィーユを切りくずしていくのを見る。
きっとあたしも似たような顔でこのケーキを堪能しているのだろうと考えると、ふいに、しあわせだ、という思いがあたたかく胸を満たす。
それはミルフィーユの格別なおいしさに感動しているからそうだというのではない。いや、それも多少はふくまれているのかもしれないけれど。たぶんもっとこまやかで、かたちのないあいまいなものだ。外は天気がよくて、映画のなかから切りとったような店内は気持ちよくにぎわい、あたしはそこに座って食べにくいケーキのうつくしさを、どうにか完全にはそこなわないまま味わえている。
彼女と、そうしている。そんな幸福を、クリームやフルーツといっしょに噛みしめる。
けれどその甘い味は、ながくつづかない。
はたとフォークを置いたヒカリちゃんがテーブルのした、手荷物いれのバスケットがあるのとは反対側に身をかがめる。すぐに体勢をもどすと、ちょっとお手洗いに行ってきますね、と言いおいて席を立った。あたしはうなずいて、はなれていくうしろすがたを目で追う。それが見えなくなってからひとつ息をついて、シーリングファンのまわる天井をあおいだ。
四枚羽の回転数がひとつ増えるごとに、今日、これまでのことがひとつずつ脳裏でまたたいては消えていく。広場の噴水のそばで待ちあわせ、手をつなぎ石畳の道を足あとで塗りつぶすみたいに歩いて、目的のカフェのあとは彼女が靴を買った店に行こうと約束した、今日のこと。すべてのシーンでたのしそうに笑っている、彼女のこと。
ちょっと、と言っていたとおりさほど経たずにもどってきた彼女が、やはり笑顔で椅子を引いて切りだした。
「びっくりしちゃいました。お手洗いまで映画そっくりなんですよ」
あたしはそうなの、と打ちかけた相づちが音になる前に喉の奥へ飲みこんで、ごめん、と口にする。
腰かけた椅子の位置を微調整しながら、聞きまちがいだろうかと言いたげに首をかしげるヒカリちゃんへ、それも飲みこんでしまいたくなる前に目をそらして、押しだすようにつづける。
「ごめんなさい。やっぱり食べおわったら、帰りましょう」
にぎやかな店内から、急にほかのすべての音がうしなわれたように、その声だけがやけにくっきりと落ちる。
*
前を歩いていたヒカリちゃんが、別荘の玄関ポーチへ点々とつづく踏み石の最後のひとつに置いた足を、はたととめた。ひらたくととのえられた石のうえで両足をそろえ、後ろ手に指を組んだ背中ごしに、感情の起伏をそぎおとしたしずかな声が聞こえてくる。
「あしたのお仕事、はやくなっちゃいましたか」
ううん、と否定する。歩きだしてちかづき、おなじ飛び石に足をのせると、肩がわずかにゆれた。立ち位置をかえられたり距離を取られたりすることはないまでも、背後から両腕をまわして抱きよせれば、腕のなかで全身が緊張するのがわかる。
「……じゃあ。あまり、たのしめなかったですか?」
目を伏せ、つむじに向けてささやく。
「まさか」
上空を飛んでいるあいだはむずかしいとはいえ、それを差しひいてもカフェを出てからの帰途で会話はほとんどなく、あたしが目にする彼女といったら、考えこんでいるのがありありと伝わる背中や横顔ばかりだった。
自分の言葉えらびが、今日という一日に濃くぬぐえない影を落としかねない、ひどくまずいものだったと気がついたのは、帰ろうとつげた直後だ。
だから弁明する機会を得たというのではないけれど、問いただされたことにたしかな安堵をおぼえている。
「すごくたのしかった。あっという間だったわ」
「ならどうして、帰るって。まだ時間、たくさんあったのに」
「靴ずれ」
息をつめたような音だけをさせて、ヒカリちゃんはなにも言わない。もう一度、ゆっくりとくりかえす。
「靴ずれ、してるでしょ」
彼女は言われたことを飲みくだしかねたようにしばらく押しだまっていたが、やがてほどいた指を自分の肩へまわされたあたしの腕にかけると、ぽつりと落とすように「どうして」と言った。
こんどのそれは、どうして帰ると言ったのか、ではなく、どうしてわかったのか、という意味であるはずだ。抱きしめる腕にすこしちからをこめて、彼女の髪が首元でくしゃりとたわむのを感じながら、慎重に言葉をえらぶ。
「履きなれてないあたらしい靴だと、どうしてもね。……急に帰ろうなんて言って、びっくりさせちゃったわよね」
今日のために新調したのだというパンプスの爪先は、ことあるごとに地面をとんとんと打っていた。合流してすぐのうちからなんとなくそのしぐさが気にかかってはいたものの、理由が決定的につながったのはあのカフェで、なにか落としたわけでもないのにテーブルのしたへ、それもバッグを置いてあるのでもないほうへかがんで、足元に手をやるすがたを見たときだ。かかとの部分かストラップの部分か、いずれにしてもこすれている部分を皮膚からとおざけたかったのだろう。
「……ごめんなさい」
「あやまること、なにもないじゃない」
ヒカリちゃんがなにか言いかけるが、吸った息に音が載るのを待たずに腕をゆるめ、肩をかるくたたいて「こっち向いて」とうながす。彼女はわりかし素直にこちらへ向きなおりはしたものの、身の置きどころのなさそうな表情で下方へ目線をさまよわせ、あたしの目を見あげてはこない。
「ほら、座って。あとはなかにはいるだけなんだし、ストラップ、はずしちゃったらいいわ」
一段たかくなっているエントランスポーチを手ぶりでしめすと、その指先を追ってヒカリちゃんの視線が背後へ向いた。おずおずといったようすであとずさり、スカートのうしろをはらって腰をおろす彼女の前に、向かいあってひざをつく。
ほそいストラップをとめているスナップボタンに指をかけて、なにも言われないのをいいことにそのままはずす。かかとからくるぶしにかけてがシースルーのソックスごしにあらわになったが、そこに先ほどたしかめたもの――席を立った彼女のかかとに見えた、ちいさいけれどいたいたしい赤い痕跡は見あたらなかった。
お手洗いへ行くのを口実にしてぬぐいとられたのだろうそれにはふれないまま、ボタンのささえをうしなって垂れさがってくるストラップのしたから指を引きぬき、ひざに置かれた彼女の手のうえにかさねる。
「……痛かったでしょう」
「ごめんなさい」
「だから、なんであやまるの」
「だってわたし、シロナさんのせいにしたし、それに」
「それに?」
「シロナさんだって、ちゃんと今日のこと、たのしみにしてくれてたんですよね。それなのに……せっかく、行けたのに」
たったあれだけのことで、それもあたしの切りだしかたが性急にすぎたからだというのに、『シロナさんのせいにした』とはまたずいぶんな言いようだ。苦笑して、かさねているだけだった指を彼女のそれにからめる。
「たのしかった。たのしみにもしてた。それはほんとうよ。でも、だからってヒカリちゃんが痛い思いをしてるのはいやだし、それを言わないでがまんしてるのは、もっといやだな」
「……ごめんなさい」
「あやまらない。それに」
「……それに?」
こんどは彼女が、つづく言葉をうかがって顔をあげた。久しぶりに目が合う。
「カフェにはちゃんと行けたじゃない。あのお店でヒカリちゃんの服をさがせなかったのはざんねんだけど、それだってまた行けばいいわ。そのときはまたおなじカフェに行って、べつのケーキを食べてもいいかもね。こんどはもっと、かんたんに食べられるケーキ」
「ごめんなさ」
「もう。あやまらないの」
「……ありがとう、ございます」
「はい、それでよし」
ふざけた口ぶりに、彼女が眉をさげたまま、それでもようやく笑った。
その表情を見た。
それであたしは、理解する。
白く清潔なシーツの敷かれたベッドの前でも、こがね色の陽光がそそぐ広場でも、なないろにきらめく噴水のふちでも、落ちついた色の石畳がつづくみちばたでもない。とくに感嘆すべきいろどりもなく、玄関のひさしが落とす灰色の影と、さかりをすぎて夕方に差しかかる日差しのはざまで彼女と向きあっている、いま。
いま、この瞬間がそのときなのだということを、理解する。
腰を浮かせてすこしだけ前にのりだし、顔をかたむけた。
彼女の顔がちかづき、パーツも表情もぼやけるのに、何度もそうしたことがあるみたいにまよいのないみちすじで、そこにたどりつく。
正確なところはわからないけれどおそらくは一秒程度、やわらかいものにふれて、はなれる。
比喩ではなく目と鼻の先で、ヒカリちゃんは瞳をまるくしていたが、それは単にタイミングにおどろいたのであってキスされたこと自体におどろいたのではなく、さらに言うならあのカフェであたしが帰ろうとつげたときほど、手ばなしにおどろいてもいないように見えた。
――そう見えたものの、念のため、言うだけ言ってみる。
「いやだった?」
「ちが、ちがいます。ぜんぜん、いやとかじゃなくて。あの、びっくりしたのですけど。なんというか。いままでしてなかったんだな、って。そう思ってる自分にもっとびっくりしてる、というか。えっと」
落ちつきなく話しながら、指がからんだままの手をあたふたとうごかすので、彼女のひざのうえであたしの手がせわしなく振りまわされる。そのさまがかわいらしくて愉快だったのと、理屈を説明できないのはあたしもおなじだったのとで、なにも言わずそのままにさせていた。
やがて振りまわしたのを気にしたようでも、それどころか気がついたようすさえなく、手ぶりはとまる。
そっとあたしの手からはなれ、つなぐものもなくひとりきりになった指で下唇にふれて、彼女はぽつりとつぶやく。
「……あ、わかったかも」
「うん?」
「この前、わたしに見せないようにしたじゃないですか。映画の、こわいものが映ってたっていうあのシーン」
まさかこのタイミングでその話が出てくるとは思わなかったあたしは、ついあさっての方向へ目をそらした。さいわいヒカリちゃんはまなざしごと顔をななめしたに向けながら、わかったのだというなにかを言葉にしていくのに集中していて、それには気づいていない。
「ふたりが急になかよくなってたの、最後の最後でどんなことがあったんだろうって、ふしぎでした。でもいま、納得できたような。……キス、してたんですよね」
「どうして」
彼女の言葉に視線を引きもどされて、そんなつもりはなかったはずなのに、いつの間にか訊ねている。
「どうして、そう思うの」
「いま、その……してみて。はじめてしたのに変ですけど、知らないうちになくしてたものが、もどってきたような感じがしたのです。だからあのふたりに足りなかったのもこれだったのじゃないかって、なんとなく」
単にラブシーンへの気まずさゆえに出まかせまで口にして彼女の目から隠したあのシーンは、最終的にキスよりもっとすごいことになったのだけれど、あたしはなにも言わなかった。知らないうちになくしていたものがもどってきたよう、と彼女が語るその感覚についても、似たものをおぼえているのはたしかだったけれど、なにも言わない。
あのシーンのことをヒカリちゃんが納得したのならいいと思ったし、キスをしていたというのもまちがいではないし、そもそもいろいろと、言えるわけがない。
なによりも、いまはそうするべきときではないと思ったのだ。
その、かわりのように。
「……でもそれはそれとして、いまのはやっぱりよくわからなかったから、もう一度してください」
ヒカリちゃんが頬をほのかに赤くし、その色とおなじくらいかすかにほほえんでうながすのが、胸のなかのどこかに、自分でもおどろいてしまうほどしっくりとはまりこむ。
するからこんどは目をとじて、と言うと、ヒカリちゃんは「シロナさんも」と言ってはっきり笑い、目をとじた。
あたしも言われたとおり、まぶたをふせる。
そうしてとおくない将来、あたりまえのように定着しているのだろうキスのたった二回目をするために、比喩ではない目と鼻の先にある恋人の唇へ、もう一度顔を寄せる。