いつかの花

 書きおえた内容を最後にもう一度読みかえし、ノートを閉じるのとほぼ同時に、しょうぶどころの入口でからころとドアベルが鳴った。反射的に向けた視線の先で、なじみの顔が颯爽と店内にはいってくる。
 知人を見とめたのは相手にとっても同様だったらしい。顔のたかさでちいさく手を振ったハクタイのジムリーダーは、カウンターでグラスをみがきながらいらっしゃい、と声をかけたご主人に、
「こんにちは。さっそくですけどブレンドコーヒーひとつ、お願いしまあす」
 と注文を告げ、まっすぐこちらへやってきた。
「おつかれさまです。いっしょにいいですか?」
「おつかれ。おことわりするわね」
「まあまあ、そう言わずに。わるいようにはしませんから。ね?」
 わるいようにはしない、と言いつつどんな恩恵をもたらしてくれる心づもりなのか、明かされたことはいまだにない。
 もはや恒例となっているふざけた応酬を切りあげてあたしが「はいはい、どうぞ」と笑うと、ナタネもいたずらを成功させたエイパムのように屈託ない笑みを見せて椅子を引いた。だがテーブルのうえを目でさらったとたん、なぜかぎくりと固まって肩を落とした。
「ああ。あたしも日誌というか日報を書かなきゃいけないの、思いだしちゃいました……」
 ため息まじりの言葉に、そこはかとなく認識に齟齬の生じた気配を察する。ノートの表紙には使いはじめの日付が書いてあるだけだ。誤解の理由はうなずける。とはいえ手元のこれが日誌、あるいは日報のようなものであるのもたしかなのだ。たいした食いちがいとも感じないけれど、いちおうは正しておくべきだろうか。
「持ってきてるの?」
 結局、話の腰を折るより会話をスムーズにつづけるほうを選んでそう訊くと、ナタネはいくぶん投げやりな所作で椅子に腰をおろし、げんなりとした表情であたしを見かえした。
「持ってきてないから書けない、と、言いはりたいところなんですが。オンラインだから、ネット環境さえあればどこでも書けちゃうんですよねえ。これが」
「あら」
「技術の進歩を感じます。すばらしいことです」
「すごい棒読み。ねえ、ほんとに思ってる?」
「もちろんですよー。大人ですからー」
 要するになにかふくむところはあるらしい。しかし、仕事の合間の息ぬきにおとずれたはずの店でまた仕事のことを思いだしてしまうとは。責任感という美点も場合によっては考えものだ。
 そんな会話を耳にはさんでふびんに思い……というのでもないのだろうけれど、カウンターのむこうでご主人がなにか用意しはじめる気配がある。もとより、ランチタイムには少々おそくティータイムにはまだはやい店内は閑散として、あたしたち以外に客のすがたはない。ナタネが入店直後に注文したブレンドコーヒーは、ほどなくしてこのテーブルへ提供されるはずだった。
「というか、ひとのことは言えませんけど、アナログなんですね?」
 スペースを空けるためにノート以外の文房具類を片づけはじめる、その手元をながめていたナタネが、ふいにつぶやく。背もたれにかけたバッグにペンケースを放りこんで正面へ向きなおったあたしは、直前の話と食いちがうものいいに思わず首をかしげた。
「そっちはオンラインなんでしょ。ひとのこと言えなくないじゃない」
「使いこなせてれば、そうでしょうとも。でもうちのジム、はずかしながらデジタルにうとい筆頭があたしですから」
「そうなの?」
「そうですよお。スズナちゃんのとこみたいに、ジムリーダーが率先しておしえてあげられたらかっこいいんだけどなあ。キッサキは学生さんがおおいし、スズナちゃん以外の子たちもじょうずに使いこなしてて、ほんとに見ならいたい……学生といえばそのノート、学生っぽくてちょっとなつかしい気がします」
「学生っぽい、かしら」
「規格っていうのかな、おおきさとか。あと色も、かわいらしい感じで」
 机上に残したうすピンクの表紙をまじまじと見つめる。使いなじみすぎて、もはや客観的な印象をとらえるのはむずかしい。けれど、思えば最初のころはデザインの凝ったものを選んだりしていたのが、つづけるうちに書きやすさ重視の方針へシフトしていき、最終的にこのノート——老舗文房具メーカーの、学生向け定番ブランドに行きついたのだ。ナタネが述べた感想は、ある意味原点に立ちかえっていると言えた。
「ああ。まあ、これならそうそう廃番にもならないだろうし。見た目も、ばらばらよりはそろってるほうがいいでしょ」
「なるほど? それもそうですよね。……そういえばしょうぶどころにひとりなの、めずらしいじゃないですか。これからヒカリちゃんのとこ行くとか?」
「行くというか、待ってる。フロンティアで用事を済ませてるから」
 あたしの返事を聞いたナタネは、ノートとあたしの顔のあいだで視線を行き来させ、なにやら呑みこみ顔になってうなずいた。かと思うと、口元を手で隠してくすくすと笑いだした。
「ああ、だからここで書いてたんだ。ほんと、なかよしさんなんですから」
「『だから』って、なに?」
 なかよしさん、がヒカリとあたしを指していること。いやなたぐいの言葉や笑いではないようだということ。長年の付きあいからそれぐらいは読みとれたものの、それだけだ。
 問いかえすあたしに、ナタネは「それですよ」とノートを指さした。
「ふたりでいるときに持ちこみたくないんでしょう。仕事のこと」
 そう言われてようやく、会話の流れを優先してかんちがいを擦りあわせなかったと思いだす。途中から、おそらくアナログなのかと言われたあたりからすっかり失念していてことごとく流してきたが、やりとりのはしばしにあった、うっすらとした違和感はこのせいだったらしい。
 ちがうちがう、と首をよこに振る。
「ヒカリにこれを渡すから、いまここで書いてたのよ。まとまった時間がとれなかったんだけど、仕事のほうにやっときりがついたから」
 言うと、ナタネは笑いを止めてきょとんと目をまるくした。
「これ、リーグの日誌じゃないわよ」
「え。……え、じゃ、じゃあなんですか。ヒカリちゃんに渡すって。なんで?」
 ああ、これでもぴんとこないのだから、どうやらまったくおぼえていないらしい。せっかくほかでもない彼女と、このノートについて話す機会がめぐってきたというのに。
 くすくすという表現は当てはまらないにせよ、こんどはあたしが笑ってみせる番だった。見当もつかないと言いたげな困惑顔を横目に、氷を抜いてもらったアイスカフェラテをストローでくるくるとかきまぜ、
「交換日記」
 と、ノートの正体を告げた。
「交、換……」
「日記。ナタネがおしえてくれて始めたのに。わすれちゃった?」

 *

 ——交換……。
 ——日記。交換日記ですよ。知りませんか?

 そう、あのときはたしかいまと反対に、あたしがくりかえした言葉のつづきをナタネが引きとった。
 もう何年もまえの、ごくささいな会話だ。わすれてしまったかとからかいはんぶんに言いはしたけれど、当人がおぼえていないのもむりはないのかもしれない。
 交換日記。まったく知らずに訊きかえしたわけではなく、名前と概要程度なら幼い時分どこかで耳にしたことがあり、たのしそうだと思っていたおぼろげな記憶もあった。
 けれどあたしが幼かったころというのは、旅に出る子どもの数が現在に比べてずっとおおかった時代だ。十を越えた子どもが、それぞれの相棒といっしょにわれ先にとばかりに家を、生まれ故郷を飛びだしていく、そういう時代。テンガン山のふもとのちいさな町に生まれそだったあたしと相棒も、例外ではなかった。
 故郷を出て、旅を経て、ポケモンと、ひとびとと出会って。結局あれからずっと、相棒たちとあたしは年齢も年代も関係ない勝負の世界に身を置きつづけている。だから、そういった同年代の友人間の文化を知識として知ってはいても、実際にふれる機会はついぞもたずじまいだったのだ。
 そのあたしが、そもそもなぜナタネと交換日記について話すに至ったのか。
 きっかけをかいつまんで言うなら、交換日記相手のヒカリとの関係が名前を変えたことだ。紆余曲折とたったひとことで片づけてしまうにはおしいような道のりを経て、あたしたちの関係は友人から恋人と呼ぶべきものへ変容した。言葉にして想いを伝えあった。態度からも、気持ちが通じあっているとわかっていた。きっと、おたがいに。
 とはいえ、想いあっているだけでは立ちゆかない諸般の問題があった。なにせあたしたちはそういった経験のないものどうしで、そのうえ年数は異なれど、人生の大半をポケモンと勝負に費やしてきた無骨なものどうしでもある。そんなふたりがいくら力を合わせたところで、恋人といっしょになにをしたものか、そもそも恋人とはふつうなにをするものなのか、というはじめて突きあたる難題のまえにはひどく無力だった。ポケモンか、そうでなければ考古学で埋めつくされた頭の引きだしのどこをどうひっくりかえしても、はいっていない答えが見つかるはずはない。
 定例会議かなにかのタイミングで偶然顔を合わせたナタネに、世間話程度のかるい気持ちで話を振ってみたのは、そうして考えこんでいたある日のことだ。
 すると返ってきたのが『交換日記とかどうですか』という、当時のあたしにとっては予想だにしない言葉だったわけである。
『聞いたことくらいは。……でも、友達と、しかもグループでやるものじゃないの?』
 ぞんざいに返事をされているわけではないことくらいはわかる。それでも困惑ぎみに首をかしげると、やわらかな口調で言われた。
『だいたいはそうだけど、決まりがあるわけじゃありませんし、だれとだれがやったっていいものですよ』
 なじみがなさすぎるせいか、いまいち呑みこめずに考えこむ。
 相手がぴんときていないのを見てとったらしいナタネはからりと笑い、『それに』と言葉を足した。
『話すことと書くこと、メッセージと手書きの文字も、それぞれ意外と気分がちがってたのしいと思いますよ。あたしはおすすめするなあ、交換日記』

 *

 ほんとうに?
 そういうものだろうか。訊いておいて、おしえてもらっておいて申しわけない気持ちはもちろんおぼえる。それでもあたしは当初、交換日記なるものの効果に対してわりと懐疑的だった。なにしろ、あまりにもなじみがない。
 ところがヒカリに話してみたとたん、彼女が『やってみたいです!』と声をはずませ目を輝かせ、かなり乗り気なそぶりを見せたので、事情が一変してしまった。
『交換日記。聞いたことがあって、あこがれていたのです』
 ほんとうに?
 もちろんほほえましい文化だと好感を持ってはいるけれど、あこがれまでいだくようなことだったのか。
『フタバにはおなじくらいの年の子、あまりいませんでしたから。ジュンは誘っても、めんどうくさがってやってくれなかったですし』
 ほんとうに?
 もし当時、あの子が交換日記に応じてくれていたとすれば、あたしはむしろその事実のほうにおどろいたにちがいない。
 ヒカリは後日さっそく、何種類ものノートをたずさえて現れた。無地のもの、方眼、罫線の引かれたもの、リングノートに綴じノート。ひとくちにノートと言っても、あらためて意識してみるとこんなに種類があるものなのか。内心驚嘆するあたしのまえで、ノートは展示品のような几帳面さでテーブルへならべられていく。
『どれにしましょうか。フィールドワークでも研究所でも使いみちはいくらでもありますし、日記に使うの以外もむだにはなりません。ああ、それと、最初はわたしからでもいいですか?』
 ほんとうに?
 メンバーはたったふたりだ。順番はすぐにめぐってきてしまう。ひとづてのうっすらした情報しか知らず、またそれでよしとしてきたあたしと、かつてあこがれて叶わなかったヒカリ。こんなにもちぐはぐな熱量ではじまるふたりの交換日記が、はたしてうまくいくのだろうか。
 そうしてまた後日顔を合わせた別れぎわ、前回ふたりでこれと決めた一冊のノートをそっと手わたされた。例のものです、と声をひそめて言うのがまるで映画の裏取引かなにかのようでおかしい。つい笑ってしまい、うっかりそのまま表紙をひらきかけたあたしの手を、ヒカリがだめだめ、とあわてて押しとどめた。
『だめですよー、ここでじゃなくて、おうちに帰ってから読んでくださいー。……結局読んでもらうのに変わりはないのですけど、その、なんというか。文章にへんなところがないか何度も読みかえしていたら、だんだん照れくさくなってきてしまって。ええと、へんなことを書いたつもりはないのです。でも……』
 ほんとうに……。
 ——ほんとう、だった。
 ちいさく整った、見なれない筆跡。ところどころに目を凝らさなければ見えないほどうっすらうかがえる、消しゴムをかけた跡。言われたとおり自宅に持ちかえってノートをひらいたあたしが見たのはそういうもので、ともすれば何度も読みかえしたという文面以上に色こく残る、熟考の形跡だった。
 そのときようやく、ナタネが交換日記をすすめてくれた意味がすとんと腑に落ちたように思う。話すことと書くこと、メッセージと手書きの文字——日記と名前についてはいるけれど、どうやら交換日記の本質は、日々を記録するところにはないらしかった。これはいわば手紙なのだ。ふたりそろってそれなりに多忙であり、毎日会うなど望むべくもないあたしたちが、だからこそすこしだけ未来の相手に宛てて書く、長いながい手紙。
 ヒカリにとっても同様だったかどうか、あたしが彼女を想い、彼女もまたあたしを想ってくれているとわかるようにはわからない。
 ひとつだけたしかなのは、熟慮と推敲をかさねられて回ってくる文面はもちろん、工業製品であるノートの紙面、インクのにじみ、黒鉛のかすれまでもがひどくいとおしいものに変わったことだ。
 いぶかしんでいたはずのノートを待ちのぞむようになったあたしと、あこがれを叶えたヒカリ。はじまってからようやく熱量の吊りあったあたしたちの交換日記はまた一行、また一ページと埋まり、一冊、また一冊とつづいた。

 *

「……聞いてるうちに、ぼんやり思いだしてきました。そういえばそんなこと訊かれたような、話したような……」
 記憶をたぐるようにななめうえを見あげた交換日記の発案者は、並行して口元へはこんだカップのふちが唇にふれる直前ではっと手を止めた。あたしに視線を向けると、うわずった声で「待ってください」と言う。
「じゃあ、あれからずっと? ヒカリちゃんと、ずっとつづけてるんですか?」
「そうね」
 カップがかちゃりと音をたててソーサーへ置かれる。ナタネは背もたれにたおれこむようにして天井を仰ぎ、かあ、と夕闇を飛ぶヤミカラスじみた声をあげた。
「ああもう、なんか……なんていうのかなあ。植えたのをわすれてた種がそだって花が咲くのを見てる気分、というか」
「花に例えてくれてどうも」
 答えながらつい笑ってしまう。あまりにもナタネらしい比喩だった。
 笑いが引いてからふと、あのとき、偶然相談したわけではなかったんだろうかと考えた。交換日記をすすめられた当時、ともするともっと以前から、あたしは友人のこういうやわらかな言葉選びをこのましく感じていたのかもしれない。
「あれ。そういえば」
 ナタネが姿勢をもどしてなにか言いかけたとき、またドアベルが鳴った。そろそろではないかと思ったとおり、店内へすがたを見せたのはヒカリだ。テーブルまでつかつかと歩いてきて、まずナタネにおつかれさまです、とにこやかな表情を向ける。
「おつかれー。しょうぶどころで会うの、ちょっとひさしぶりな感じがするね」
「しますね。うーん、ここのごはん、ほんとうなら毎日でも食べに来たいくらいなのですけど。最近は時間ができるとフロンティアにいりびたりで」
 そこであたしを見たヒカリは「おそくなってごめんなさい」とすこし眉じりをさげた。
「ううん。たくさん交換できた?」
「それが、待ってもらったわりにはあんまり。BPカウンターがものすごい大行列だったので、途中で切りあげてきちゃいました」
「賞品の切りかえがちかいのかもね。カトレア、というかコクランくんがそんなこと言ってたような気がする。なにと交換するかなやんでたひとたちが駆けこんですごいことになるって。……飲みものくらいは飲んでいく?」
「いえ。時間が押してしまったし、ざんねんですけど、ご主人にあいさつだけして出ちゃいます」
 きびすを返してカウンターへ向かうヒカリを見おくると、相席相手がテーブルの向こうがわで「びーぴー、ってなんでしたっけ」と首をかしげた。ジムリーダーたちは拠点であるジムを離れにくいぶん、拘束時間のながいフロンティア周辺のシステムにはどうしてもなじみがうすいのだろう。案の定バトル・ポイントだと答えたあたしに、ナタネは「ああ」と納得顔でうなずく。
「フロンティア、しばらく行けてないからわすれてました。まえにもらったポイント、いいかげん交換しとこうかなあ」
「ヒカリといっしょね。あの子もむかし、ちょっと交換したっきりでほとんど貯めっぱなしにしてたから、いますこしずつ消化してるの」
「へえ……」
 あいまいな語尾に、言葉のつづきそうな雰囲気があった。すこし待ったが、ナタネが結局なにも言わずにカップを取りあげたので、背もたれのバッグをとって立ちあがる。
 カウンターのほうをうかがうと、ヒカリとご主人の会話がとぎれがちに聞こえてきた。ごめんなさい、またあらためて、気にしないで、ずっと常連さんで、いつでも……。
「じゃあね、そろそろ行くわ。日報だっけ日誌だっけ。どっちもがんばって」
「はい、おつかれさまで……って。どっちもじゃ、ふえてるじゃないですか。日報だけでかんべんしてくださいよー」
「あはは。そういえばごめん、ヒカリが来るまえ、なにか言いかけてたわよね」
「……いや」いまさら訊きかえされたことにとまどったように、ナタネの目が一瞬およぐ。「そろそろいっしょに住むって話、してなかったかなあって」
 ナタネをふくむ友人たち数名をまじえた場でそんなことを話したのは、答えにつまるほどむかしのことではなかった。うなずいて「今日はその物件探し」と付けくわえる。
「それで待ちあわせなんですか。じゃあBPを交換してるのも?」
「どっちもそう。フロンティアにはいまよりもかよいづらくなるだろうし、いい機会だから引きかえておこうって。でも、なんで急にその話?」
 ナタネはみじかい感覚で二度まばたきし、先ほど見たばかりのしぐさで「それ」と交換日記を指さした。
「いっしょに住むんなら、どうするんだろうと思って」
「つづけるわよ?」
「ほんとに?」
「ほんとに。だってもう、生活の一部みたいになっちゃってるんだもの。たぶんヒカリにとってもおなじだと思うわ」
 おなじ家で生活をはじめたあとの日記のあつかいについて、ヒカリとのあいだですりあわせたことはない。しかし、現状これを機に終わらせようという話が出ていないのは、あたしたちがふたりとも、その発想を持ちあわせていない証左ではないだろうか。
 未来の相手へ宛てる手紙だったものが、名前どおりの日記へ変わろうと、あるいはもどろうとしている。
 それはすこしくすぐったく、けれどひどく幸福なことに思える。
「だから、あのとき交換日記って言ってくれてありがとう。ナタネはわすれてたみたいだけど」
「はいはい、どういたしましてー」
 今日いちばん投げやりな言いかたにあたしが笑うと、ナタネはわざとらしくじとっとした目つきでカップに口をつけた。
 ご主人へのあいさつは済んだようだ。カウンターを離れるヒカリのほうへ顔を向けようとして、「やっぱり」とつぶやく声に視線を引かれた。ようやく飲めたコーヒーに満足げな息をついたナタネが、とおくを見るような表情でつづける。
「そこまでどっしりしてるんだから……花っていうか、木かもしれませんね」
 そうかもしれない。気づけば咲いている花でも、地道に根をおろす木でもあるかもしれない。
 最後のほうだけ聞こえたのだろう、テーブルまでもどってきたヒカリが「お花の話ですか?」とあたしたちの顔を見くらべた。
「ナタネがむかし植えた種の話」
 あたしがそう答えるのを聞いてナタネが苦笑する。
 友人でも恩人でもあるひとに目くばせしてから机上のノートを差しだすと、かつて友人だった恋人はもう何冊目になるか知れないノートをていねいな手つきで胸元へ抱えこみ、ふしぎそうに首をかしげた。