今はまだここにいて
あたしの名前を呼ぶヒカリの声が、やわらかく反響しながら降ってくる。
声がとどいていないかもしれないと思ったのか、すこし間をあけてもう一度。あたしは読んでいた文庫本に栞紐をはさんで口の横に手のひらを立て、別荘の階上へ向けて声を張る。
「着がえおわった?」
「おわりました。来てくれますか」
名前を呼んだときもそうだったが、階下にとどかせるためだろう、いつもより間のびした声がかえってくる。きっとあたしの声も同じように彼女の耳へとどいている。そう思ったら無性におかしくなり、今いくわ、と答える声に笑いがまざった。
とじた本をダイニングテーブルに置いてから、リビングの階段へ向かう。声は階段の比較的ちかくからかけられたように聞こえたが、階をあがった先にヒカリのすがたはなかった。かわりに寝室の扉があけはなたれていて、彼女の足跡をあたしに教える。
寝室へはいるとそこにも人影はなく、ただウォークイン・クローゼットの扉だけがわずかにひらいて、すきまからなにやらくぐもった物音をさせていた。まるで、点々と残された彼女の気配をたどって別荘のなかを探索しているようだ。そんなことを思いながら、スプリングをきしませてベッドの足もとへ腰をおろし、クローゼットのほうへ声をかける。
「なにから見ようか?」
「バッグから。ふたつあるので、どちらかが合えばと思って、新しいのは買ってないんです」
それを探すので、ごそごそといわせているわけだ。納得したところでちょうどヒカリが目当てのものを手にしたのか、物音が止まる。
今日は、データ検証やらなにやらで付きあいのあるらしい研究機関のレセプションパーティーに招かれた彼女から、ドレスのコーディネートを決めるのにつきあってほしいとたのまれていた。数年前までそういった場によく着ていっていたドレスのサイズが合わなくなったので、これを機に新調することにしたのだという。
ヒカリが扉に指をかけて顔だけをのぞかせたかと思うと、その状態のまま「これなのですけど」とクローゼットのなかを振りかえり、おそらくはバッグを見せようとする。あたしは笑って手まねきをして、こちらへくるようにうながした。
「そうだ。見ないと合わせようがないですよね」
苦笑とともに扉の影から出てきた彼女がまとっていたのは、青みがかったあわいグレーのハイネックドレスだった。こまやかな花の刺繍におおわれたシースルーのトップス部分が、腰にまわったリボンを境にして、サテン生地のフレアスカートに切りかわっている。
ヒカリは腕にかかえたふたつのバッグをベッドのうえに置いて二歩うしろにさがり、体の両側のすそを指先でそれぞれつまんで、ちいさく持ちあげてみせた。
「……どうでしょう?」
「うん、きちんとした感じだけど、すごくかわいい」
「よかったあ」
「よかった?」
「ひと目見てかわいかったので、これにしたのですけど。あとから、もしかしてこういうときに着られるものではなかったのかなと思って」
「……そんなことないわ。丈もちょうどいいし、シースルーだけど肌も出すぎてないし。なにより、とっても似あってる」
悟らせないほどのわずかなあいだだけ言葉につまって、それから感じたままを言うと、ヒカリはほっとしたようにほほえんだ。実際、水彩絵具でひとはきしたようにほのかな色あいのドレスは、色白な彼女にこのうえないほどよく似あっている。
うなずきながら「ほんとうに似あってる」と念をおすと、彼女も「よかった」とくりかえして、照れくさそうに耳のふちをさわった。
「えっと、それで。このふたつ、どっちがいいと思いますか?」
ベッドに近づいてきた彼女から、そろえた指先でそこをしめしながら言われてようやく、ひとまずとばかりに置いておかれたバッグの存在を思いだす。片方はドレスの色とよく似た系統の、けれどもっとあわいシルバーグレーのクラッチバッグ、もうひとつはネイビーのハンドバッグだった。一瞥しただけで答えが決まり、「こっち」とシルバーグレーのほうを指さす。
ヒカリはあたしのさしたクラッチバッグを手にとりながら、「はやいですね」と言ってくすくす笑った。そうして実際に持っているところを見ても、ドレスの色とよくなじんでいる。内心、やはりこれで正解だ、と思った。
「色、ドレスと似たようなのでもいいんですね」
「同じような色だと、統一感が出るから。これもいいけど、あたしが選ぶならそっちかな」
「そうなんだ。ああ、それならもしかして、靴もこういう色のほうがいいんでしょうか」
「じゃあ次は靴ね」
「お願いします。これ、しまってきますね」
クラッチバッグをベッドのうえのハンドバッグと持ちかえて、ヒカリがくるりときびすをかえした。クローゼットにはいっていくうしろすがたの足もとで、ドレスのすそがふくらはぎのあたりまでをおおってはためくのを見おくりながら、彼女はいつのまにか、自分で好きだと思ったものを手にとれるようになっていたのだな、と考える。
数年前までのヒカリにはどうも、身につけるものを実用性だけではかり、そこに自分の好みや意向を差しはさまないふしがあった。用意されたもの、必要に応じてすすめられるままそろえたものを使いはしても、あえてこれが着たい、だとか好きだ、という意思をあらわしてなにかを買ったり身につけたりすることは、記憶するかぎりほとんどなかったように思う。
堅実。あるいは欲がない——決してそれがわるいわけではないのだ。したがって、自分の好みにそったものを選んでほしいなどというのはあたしの押しつけでしかなく、彼女につげたこともない。けれど、だからといってなにを着ても似あうのにもったいないという考えは打ちけしようもなかったし、恋人という関係になってからはなおさら歯がゆく感じていた。
実のところ今日の相談も、こうして実際にドレスを目にしてヒカリの言葉を聞くまでは、どこか気のりせずにいた。
ドレスを新調することもその事情も、前もって聞いていた話だ。それを着た彼女を見るのがまったく楽しみでなかったとまではいわないし、そもそもコーディネートの相談をうけること自体が新鮮ではあった。ただ、都合がつかず買いものには同行しなかったので、きっと彼女が店ですすめられたとおりに買ったものを手もちのアイテムと合わせるだけの話なんだろう、と考えたら、楽しみにするのとはべつのところで、どうしても諦念じみた感情をおぼえずにはいられなかったのだ。
色もかたちも生地の種類も無難なものであったとしても、似あっていると感じたはずだし、口にもしただろう。けれど念をおすように言った二回目は、おそらくヒカリが自分で選んだという事実がなければ、出てこなかった。
今回気がついたこれが、彼女の成長に由来する変化かどうかはわからない。けれどあたしは、ただうれしいのだと思う。きっかけがなんであれ、ずっととなりにいたつもりでも——というより、ずっととなりにいるからこそかえって気がつけない変化を、こうして目の当たりにできたことが。
クローゼットから出てきたヒカリは、靴がはいっていると思しき白い箱を三つかさねてかかえていた。あたしがクラッチバッグをベッドの中央へよけてあけたスペースに箱をならべ、それぞれふたをあける。
「ぜんぶ、今回買ったの?」
「ひとつに決められなかったんです。……買いすぎですよね、やっぱり」
いい傾向だというあたしの考えを、本人はまったく知らない。なのでしかたがないとはいえ、箱のふたで顔のした半分をかくしながら、いかにもばつがわるそうにぼそぼそと言うのがおかしかった。
「買いすぎじゃなくて。ただ、そんなに買いものするのがめずらしいと思っただけ」
「うう」
「いいじゃない。ぜんぶ気にいったから、決められなかったんでしょう?」
「はい……」
話題を切りかえでもしないといつまでも恥じいったままでいそうだったので、ベッドから立ちあがってヒカリの髪をなでてから、ふたを取りあげていちばん手近な箱を引きよせる。靴をくるむ薄葉紙をはずして彼女の足もとに敷きながら、「このうえで履いてみて」とうながした。
ヒカリがおずおずと、それでもすなおにストラップのついたハイヒールを箱から取りだし、こちらに背を向けてかがんだところで、髪が重力にしたがい、肩の前にながれる。それではじめてあらわになったドレスの背中を見て、あたしは思わずみじかい声をあげた。
靴を履こうとする姿勢はそのままに振りかえった彼女の、きょとんとした表情のすぐうしろ、ファスナーのしまりきっていない襟もとから首すじと肌着がのぞいていた。かたちのしっかりしたドレスなので背中があいていても生地がたわむこともなく、そこをかくしていた髪がよけられるまで、そうとわからなかったのだ。
めだたないちいさな金具を指ではじいて、笑いまじりに言う。
「もう。ちゃんとうえまでとめなきゃ」
「ああ、これですか」
ヒカリは背をのばして首のうしろに手をやり、あたしにつられたように笑った。
「背中だから、うまくあげられなくて。でもきょうはまだ合わせるだけですし……」
「だめよ、合わせるからこそちゃんと着ないと。ほら、髪の毛おさえてて」
ファスナーに巻きこませないためにそう言って、首すじの髪をかきあげてやると、ヒカリはくすぐったそうに頭を振って身をよじった。
「ちょっと、じっとしててよ」
「でもくすぐったいです。だいじょうぶです、自分でやりますから」
「そんなこと言って、しめられなかったんでしょう?」
「自分でやりますってばあ」
主導権を取りあっていたのが、そんなやりとりをつなげるうちにいつしか、ただのふざけあいへとかわっていた。気づけばベッドに座りこんだヒカリが、首のうしろを守るように手をあて、眉をさげて笑いながらあたしを見あげている。手足や身長がのびただけではなく、出あったころの子どもらしい丸みをうしなって大人びた顔つきになっても、そうして屈託のない表情をしているとまるでむかしのままだ。
恋人の外見にかぎらない成長をよろこぶあたしと、恋人が大人になるまで待つつもりでいたことを待ちきれなくなりそうなのがこわくて、もうすこしだけそのままでいてくれないかと考えるあたしと。今のヒカリを見ていると、どちらの自分の声がおおきいのか、ときおりよくわからなくなる。
たがいの笑い声の切れ間に、慣れたうごきで顔を近づけると、ヒカリが心えたように目をとじてあたしの口づけを受けいれた。
ただ唇の表面にふれるだけのそれを、角度をかえて何度かくりかえしながら、あたしは思う。
この先をいつまで待っていられるかわからないけれど。どうかもうすこしだけ、このままでいてほしい。そんな、たわいもないことを。