不都合な夜

 背後でかすかな足音が聞こえたのは、なんともつごうのいいことに、そっとカーテンを引きあけたきっかり五秒後だった。だからわたしが無防備に息をのんだことは、自分以外のだれにもさとられずにすんだ。
 振りむけば窓辺から距離をおいた廊下あたりの位置に、青じろい光がぼうっと浮いている。一定の範囲内でゆらめく光のうえから、シロナさんの声が「コイルがね」と切りだした。
「あ、ポケモンのほうの。……電線にあつまっちゃったらしいわ。どうにかはなれたところに誘導して追いはらったりで、おそくても二時間くらいで復旧する見こみなんですって」
 端的な説明の声といっしょにちかづいてくる燐光は、掃きだし窓からのびる月光のなかへ分けいろうとする寸前、ふいに進行方向をかえた。つい先ほどまでわたしたちがすわっていた、ソファの正面へ。
 およそ十分まえ、このリビングで唐突にぶつん、というにぶい音がした。夕食のあとかたづけを終えて笑いかわしていたシロナさんとわたしは、たぶんおなじ考えをいだいて瞬時にだまった。ひどく不穏な音だったのだ。いい事態を報せるものであるはずがない。耳にした人間に、そんな確信をもたせるような。
 はたして予感よりもっと堅固な確信は的中し、室内の照明、ニュース番組を流していたテレビ、そろそろ足元がひえる時期になってきた、なんて言いあいながら温度調節のつまみを『弱』へまわしたホットカーペット——電力によって作動するものたちが、そろってはたらきを止めた。
 ブレーカーのもとへ向かった家主が、スイッチが平常どおりの状態だったのをたしかめてリビングへもどってきたのはだいたい二分後。どうもこの家だけにとどまらない、それなりの範囲の停電ではないか。ふたりでそう結論づけたのは、さらにその二分後。テレビを時計がわりにしているこのリビングで、時間を知るたったひとつのすべが断たれてしまったので、あくまでも体感でそのくらい、ということだけれど。
 念のためブレーカーを落としておくと言ってふたたび出ていったシロナさんは、目的がそれだけだったにしてはながい時間もどってこなかった。おそらくはついでに寝室へ立ちより、停電の情報を確認してきたんだろう。いま、夜光以外で唯一の光源となっているポケッチのあかりを見るに。
 二時間。ほんとうならシロナさんとの会話で過ぎていくはずだった、あの不吉な音をきっかけにうしなわれた十分の、十二回ぶん。
 おしえてもらったばかりの時間をそうして換算していると、さほどすすまず立ちどまった燐光がわずかにゆれて、そのあたりからばさりというかわいた音がした。シロナさんがソファに腰をおろしたわけではないようだ。とはいえまだ暗闇になれきっていないわたしの感覚では、やわらかい布の落ちるようなその音の正体をうまくつかめなかった。燐光の正体を、ポケッチであるとすぐ察せたようには。
「そういえばホットカーペットも消えちゃったんだと思って、かけるもの持ってきたの。さむくない? だいじょうぶ?」
 ソファの先からあっけなくあかされたこたえを聞きとどけたように、端末の青じろい光がふっと消えた。ろうそくの火が息を吹きつけられてゆらぐのにも似たその一瞬、シロナさんの言葉どおり、背もたれにかけられた二枚のブランケットが照らしだされる。
 二枚のうち、グレー地にチェック柄の一枚がパソコンに向かうシロナさんのひざをあたためているのを、何度か目にしたことがある。だけど、この家に色のちがうもう一枚があったとは知らなかった。ここで彼女と時間を過ごす際の場所といったら、あたたかいリビングか眠るときの寝室にかぎられる。ブランケットをかしてもらう必要にせまられたことはなかった。
 何度も来て何度も泊まってさえいるのに、まだまだ知らないことばかりだ。電力の復旧にそなえて電源を落としに向かったシロナさんにならい、かるい気持ちで抜いておこうとしたホットカーペットや電子レンジのコンセントだって、結局見つけるのにずいぶんかかってしまった。
「ありがとうございます。いまのところはだいじょうぶそうです。でも」
 言葉を切って二度瞳をまたたき、脳内で状況の整理をはじめる。最長二時間で終了する見こみの停電。はやめに眠ってしまえばくらくても関係ないうえ、ふたりそろったあすの休日を、朝から有意義に過ごせる。とはいえわたしたちは夕食をとったばかりでまだ入浴さえすませておらず、ベッドにはいってしまうわけにはいかない。だからどうにか時間をつぶして、電力の復旧を待つ必要がある。たとえばリビングのソファで、からだがひえないようにブランケットをひざにかけながら。
 ポケッチのラジオアプリを立ちあげておくのもいい。これだけ大規模な停電だ、きっとどこかしらの番組が、最新情報を逐一伝えてくれている。耳をかたむけながら待っていれば、二時間くらいあっという間に過ぎるだろう。コイルたちの習性によるものと原因までわかっているのだから、きっと二時間よりはやまりはしても、ながびくことはない。
 そうだと、わかっている。
 わかっているのに。
 でも、のつづきをのみこんで言う。
「……追いはらわれるコイルたちにはちょっとかわいそうだけど、すこしでもはやくもどるといいですね」
「うん。……そうね。うちみたいな個人宅ならともかく、どこもかしこもきっとたいへんだわ」
「あ、そうです。病院とか、ポケモンセンターとか」
「医療関係の施設だと、停電にそなえて自家発電の施設をおいてるみたいだけどね。それでもちょっと心配よね」
 現実的な会話のうらを流れる意識で、どうしてか思いかえしてしまう。どうしても思ってしまう。ぶつん、という音でとぎれたきりの、なんの途中だったのかさえ浮かばないくらいささいな会話のこと。ふたりでそれぞれブランケットをひざにかけ、ラジオの停電情報を聞きながらうしなわれた十分の十二倍の時間をやりすごすのは、さむくはなくても、さみしいということ。
「そうだ、そとはどう。やっぱりまっくら?」
 ふいに訊かれ、わたしはついうなずいてみせた。すぐにこの暗闇のなか、しぐさでは彼女に伝わらないと気がついて言いなおす。
「はい、まっくらでしたよ。それで」
「うん?」
「星が……あの、あまりうまく言えないのですけど、すごいのです。はじめて見ました、こんなの」
 発熱機器のコンセントを手さぐりで抜いたついでにただ漠然と、室内へすこしでもあかりをとりこめないか、もしくは屋外の状況がわからないものかと考えてカーテンをあけた。そうして不意を打たれ、ひとり息をのんだ。闇色の絵の具を刷いて塗りつぶしたようにあかりの消えた街のうえ、窓ごしの夜空は地上との境目もわからないほど星ぼしのまたたきでみたされていた。まるで空というより、振りまかれた光のつぶがただよう、果てのない海のように。
 掃きだし窓へ向きなおり、もう一度視線をあげる。シンオウじゅうを旅したけれど、思えばそのあいだの寝とまりはほぼポケモンセンターだったし、陽が沈んだあとの夜間に町を出て街道や森を歩いたこともない。だからこんな光景があることもいままで知らずに、知れずにいた。じっと見つめるうち、しだいに上下の区別までも消えうせる。からだをはなれた意識だけでそこをおよぐような、ふしぎな気分におちいっていく。
 ふいにつめたい感覚をおぼえ、空想からたちかえった。指先が無意識にクレセントのつまみへかかっていたのを知り、この言葉につくせない光景にどうしようもなく惹かれる手を、理性でそっと引きはなす。これからの二時間を考えれば、まだかろうじてリビングに残るあたたかい空気をむげにそとへ追いやるのも、窓辺に立ったままでいるのも、きっとよくない。
「いまはだいじょうぶでも、窓のそばにずっといたらさすがにさむくなっちゃいますね。ほんとうはもうちょっと見ていたいくらい」
 だけど、という語尾が、背後から肩にまわった腕におどろいてからだの底へ引きかえしていった。
「わあ、ほんとだ。星が見えないなんてあまり思ったことなかったけど、ふだんとぜんぜんちがうわね」
 いつの間にか窓辺までやってきていたらしいシロナさんの感嘆の声が、耳元へ降ってきてくすぐったい。思わず吐息で笑って肩をちぢめると、そのまわりの温度も感触も、腕に抱きしめられているだけにしては柔和なことに気づいた。今日はじめて存在を知ったほう——白くてやわらかい、もこもこした生地のブランケットが、わたしたちをすっぽりくるんでいる。
「あったかい」
 わたしのつぶやきに、こんどはシロナさんが「でしょ」と笑った。つむじに頬を寄せられるとからだがもっと、こころまでもがあたたかくなって、いっそこのままでもいいのに、なんて考える。
「こういうのも持ってたなんて知りませんでした。いつもつかってるあれだけなのかと」
「ヒカリちゃんがうちにくるようになって、必要かなと思ってもう一枚買ったのに、なかなかつかってもらうようなタイミングがなかったの。まさかはじめての出番がここだなんて。……ね。これなら、しばらくここでこうしててもだいじょうぶだと思わない?」
 ねがってもない提案をささやかれた気がして、思わず瞳をまたたく。だけどすぐ脳裏によみがえった。電力がはやくもどるといい、そう言ったわたしに彼女があいまいな声音でかえした、そうね、というひとことが。
 たとえ振りかえって見あげたとしても、表情は闇にとけこんでおぼろげにしかうかがえないだろう。だけど、停電の瞬間におなじ不穏さを感じてだまりこんだように、いまもおなじことを考えて窓辺に立っているのだとしたら。
 さむくはなくて、さみしくもない。そう思う。
「それとも、お散歩でもしにいこうか」
 二時間、とつづけられて、いよいよ振りかえるまでもなくなった。口調でわかる。きっと凛とした表情をしている。真剣なふりでふざけた軽口をたたきあってじゃれるときの顔だ。わたしはのぼってきた笑いをちいさなせきばらいでやりすごし、とりすました声で「街灯も消えてます」と告げた。
「お散歩なんて、あぶないからだめですよ」
「たしかにそうね」
「ベッドでおとなしくしてましょうか?」
「あったかいところで二時間もじっとしてたら、電気がもどるまえに寝ちゃいそう。却下ね」
「それなら。こういうのはどうですか」
「あら。なにか名案があるの?」
「ここに椅子を持ってきて、しぶしぶ、星を見るのです」
 しぶしぶ、をわざとらしく強調しながら言うと、ブランケットをまとった腕が何度かちいさくふるえた。抱きしめた肩がおなじようにふるえるのを感じているはずのシロナさんも、ささやく言葉の一部分を強調した。
「じゃあ、しかたなく、そうしましょう」
 これですくなくともしばらくはこのまま、満天の星をながめていなければならなくなった。しぶしぶ、しかたなくそうしなければならないのだ。つくづく今夜はなにもかも、こうなることがあらかじめきまっていたみたいにつごうがわるい。真冬というにはまだはやすぎる時期も、この家にあることをはじめて知ったあたたかいブランケットも、二時間弱という復旧までの時間も。
 からだの軸をすこしだけうしろへかたむけて、ブランケットのはしをつかんだ手に手をかさねる。
「急にさむくなってきちゃいました」
 腕の輪をぎゅっとせばめたシロナさんが、「あたしも」と笑った。