ひみつの名前
宇宙では音がしない。はなれていくだれかを呼ぶ声も、星が死ぬときの悲鳴さえも、映画のなかでえがかれるように、星々のあいだへひびくことはない。
むかし、そんな内容を子ども向けにかみくだいて解説する科学番組を観たのを思いだす。
もちろんわたしは今だって子どもだ。それでも当時は今に輪をかけて子どもだったので、ほかに考えをおよばせるべきところはいくらでもあるだろうに、どうやら宇宙ではどんなに相手を呼んでもとどかないらしいということばかりがむしょうに気にかかり、横に並んでいっしょに番組を観ていた母の袖を引いて訊ねたのだった。——宇宙で迷子になったら、どうやっておかあさんをさがせばいいの。
母はわたしの質問に笑って、宇宙はコトブキよりもとおくていくのはむずかしい、だからそこで迷子になる心配もしなくていいのだと、現実的なのだかそうでもないのだかよくわからないこたえをかえした。
いくらか歳をかさねた今ではよく知っている。宇宙へいくのはむずかしい。あのころのわたしにとって、思いつくかぎりもっともとおい場所だったコトブキを越え、さらにかなたまでひとりでいけるようになっても。おおくのひとがそうであるように、きっとわたしもまた、生きているあいだにたどりつけはしないだろう。だからそこを訪れたとき、ましてや母とはぐれたときにどうするかなんていう心配は必要のないままだ。彼女がむかし、笑いながらそう言ったとおりに。
そうだ、宇宙へはいけない。
それを知っていてもなお、テンガン山のいただきからつながったこのふしぎな世界を歩いて見まわしていると、かつて母とかわしたやりとりを思いかえし、つらねて想像せずにはいられなかった。宇宙のこと、ひいてはかれがつくりたいと言った世界のことや、それはたとえばこういうところなのだろうか、ということを。
いきもののにおいがしない。目の前にあるものをかすめたはずの手になにもふれない。ブーツの靴底で地面を蹴っても音ひとつたたない。暑くもさむくも、暗くもまぶしくもない。不快ではない、そういう意味ではこころよい場所とさえ言っていいのかもしれない。けれどひとりきりで押しだまったまま、前を——ここで方角や前後にどれほどの意味があるのかわからないから、ひとまずわたしからそのように見えるところを——めざしてひたすらすすみながら、自分の輪郭がどんどんにじんで境界をぼやけさせていく気がしていた。
こわくはない。意識と距離をおいたとおくのほうに、いくらかの心もとなさがあるだけだ。放っておけばそのうちに消えてなくなるとわかる程度のささやかな。
どうしてここにいるのか、なにをめざして歩いているのか、しだいにあいまいになっていく。
音も重力も光もない空間をただよっている。指先のほうからしだいに色がうしなわれていき、やがて暗い空間に意識もからだも完全にほどけて、なにもわからなくなる。そんなイメージがひとつだけやけにはっきりと浮かんで、ぼやけていく意識とは裏腹に、一歩すすむごとにかえって鮮明になる。
どうして、ここに。
いったい、なにを。
どうして。
なにを。
わたしは。
ふいに、どこかでなにかがふるえた。
まどろみからの、手首をつかんで引きあげられるように性急な覚醒にはっとする。頭にかかったもやをかきわけ、感覚の出どころをさがすうちに、『どこか』は自分の腰のあたりで、『なにか』もやはりそのあたりにあるものだとわかった。手をやると無機質な丸さが指先にふれた。
いちばん利き手にちかいボール。
飛びだしてくるような野生のポケモンがどこにもいないのは、ここへ足をふみいれてすぐにさとった。だからベルトからはずそうとさえ考えなかったそれを、反射的に腰からもぎとる。そのままほとんど無意識に、頭上すぐまでせまりくるほどひくいようにも途方もなくたかいようにも見える、距離感のつかめない上空へ向けて放った。
ひらいた球体から一瞬こぼれかけた光は、ふだん目にするようにひろがりはせず、直線的に地面へ降った。からになったボールが落ちてきて手のひらにおさまるのと同時に、虚空をはしったひらめきが色を得て、見なれたすがたへと収束する。
あらわれた相棒は周囲に一瞥をくれてから、わたしのほうへそっと体をよせた。
まちがいなくここにいる。自分もわたしも。
ひと鳴きもしないのにそう言われた気がして、どこにも反響しない、ただ音になって空間に吸われていくだけの声で、ありがとうとみじかくこたえる。
足元へすりよせられる頭を抱きしめ、コートの生地越しにつたわるぬくもりと感触をたしかめながら、唐突に、自分がそもそもひとりきりではなかったのを思いだした。思いだしたという言いかたは奇妙だけれど、ごく適切だった。われながらおどろいたことに、今の今まですっかり忘れていたのだ。現在わかれて行動しているというだけで、ここへいっしょにふみこんでくれたひとも、みちゆきを助けて見まもってくれたポケモンたちもいたのを。
最後に一度、抱きしめる力をつよめてから腕をはなし、相棒のかたわらをぬけて歩きだした。
あいかわらず、だれかのどころか、自分の足音さえも聞こえない。足元そのものも、慣れしたしんだ地面のそれにくらべて安定感とでもいうべきものが希薄で、どうにもそこをふみしめている実感がもてない。決して周囲になにか変化があったわけではない、それでも背後につづく気配を感じる今は、文字どおり地に足をつけていると思えた。すくなくとも、先ほどまでのわたしよりはよほど。
それからどれくらい歩いただろうか。
かわりばえのしない景色が背後へながれてまたもどってくる、何度目かもわからないくりかえしの合間、なんとはなしに視線をさげて、思わずびくりとした。眼下の足がなにもない空中へ、明度のちがう紺色の水流がたえずまざりあい、うごめいているような様相の空間へふみだそうとしているのをとらえる。
もう何度か体験しているのに、いまだに慣れない。ここではときおり空間がねじまがり、歪曲するとしかあらわせない方法でつながった。
目線を前にもどし、止まりかけた足もむりやり前に出してしまうと、紺色の空間からにじみでるようにあらわれた地面に違和感もなく体重がのり、視界の上下がなめらかにうつりかわる。どういう理屈かわからないけれど、足が空を切って落ちていくことも、からだにかかる重力の向きがかわる感覚もない。だから歩くうえでべつだん支障といえる支障はないのだ。ただ今までつちかってきた常識にその現象を照らしあわせたとき、一瞬とはいえなにもないところを歩く、そんな光景をやや受けいれがたいという点以外には。
はじめて目のあたりにするはずの同行者へ注意をうながそうと振りかえり、口をひらきかけて、そのままかたまった。こんどはおどろいたためでも、また空間がねじまがって位相がかわったためでもなかった。吸った息を音にする準備は問題なくととのっているのに、そこにのせるべき文字をこつ然と見うしなっている。
この世界でひとりきりではない、その記憶だけにとどまらず、だれかを呼ぶための記号までもとりこぼしていたのだ、と気がついた。そういえばわたしは、どうして思考のなかでさえ呼ばなかったのだろう。山頂で影のなかにかききえたひとを、あるいはここへいっしょにきてくれたあのひとを。
なにかを言いかけてやめるしぐさか、もしくは頭をしたにして空中を歩いているように映るかもしれない奇妙な光景か、いずれにせよわたしを見て、相棒がきょとんとした表情で首をかしげた。さかさまになったその顔をじっと見つめて、忘れかけたものをすくいあげようとする。
燐光につつまれてすがたをかえた日。草むらに投げだされたかばんからこぼれた、みっつのボール。相手の技を間一髪でかわす背中。空間の色を映しこんでにぶくかがやく瞳の向こうに、いつかの、いくつもの断片がぼんやりと浮かんでは目まぐるしくいれかわるのを見た。嵐に吹きながされる暗灰色の雲のように、暗闇でとじたまぶたの裏を駆けていく光のように。
今はまだ、手のとどくところにある。そう確信してこんどこそ押しだしたひびきは、すぐそこにいる存在を呼ぶためとはとうてい思えないほど切実なのに、どこかとおくで他人の発した声のように聞こえた。
「——」
もう一度、ようやく記憶の底からひろいあげた文字のならびをたしかめるようにくりかえして手をのばすと、相棒は片足をからだのうしろへ引いてから、意を決したようにいきおいをつけて、一足飛びにわたしの足元へやってきた。一連のさまになぜか出あったばかりのころ、一定の距離をおきながら、おずおずとわたしのあとをついてきていたすがたを思いだす。さしだした手に飛びこんでくるだけの信頼が、今のわたしたちのあいだにはある。たしかにつながっている。そう思う。
それはさておき、ここではどうやら空間だけでなく、そこに立って思いかえす記憶も時系列さえも、いびつに組みかわってあいまいになるらしい。知ったうえで回想してみれば、分岐する道の、つづく先の見えないたもとであのひととふた手にわかれたのが、何年も前のできごとのように色あせて感じられたし、そうかと思えばあのひとにはじめて出あった日が、まるでつい先ほどのことのように色あざやかに思いおこされた。
この調子では、さほどとおくないうちになにもかもを忘れてしまう。
ひとりで歩きながら自我がぼやけかけていたときでさえ、そうは感じなかった。それなのに、彼女のことまで忘れてしまうかもしれないという想像は、頭のはしに浮かべただけで、わたしに胃の底がつめたくなるような恐怖をあたえた。
そうなる前に、あのひとに会いにいかなければならない。その思いだけが思考の暗闇のなかで、たよるべき手がかりのように光った。
あのひとはわたしの家族でも幼なじみでもない。きっと親しい友人とも呼べない。けれど旅の途中に行きあいすれちがっただけの相手ではなく、ましてやまったく見しらぬあかの他人でもない。
母や相棒、ふるさとのひとびとでは距離がちかすぎて、自分との境をうまく見きわめられない。世界そのものやそこに住まう顔も知らないひとびとではあまりにとおく、ひろすぎる。そのなかであのひとは——わたしが今まですごした世界をあとにして、はじめて出あい、知った他人といえるあのひとは、実際に道をしめす手がかりか、あるいはわたしをつなぎとめるくさびなのかもしれないと思った。
ここにきてからというもの、画面の数字が無秩序にもどったりすすんだりするので、ポケッチで時刻をたしかめるのはやめている。だから今までに経過した時間もこれからすぎていく時間も、はっきりと知るすべはない。それでもせめて、あのひとのことさえとりこぼしてしまうまでの、どれだけ残っているか知れない猶予にわずかでも追いすがりたくて、前に向きなおって足をはやめる。
主観としていくらもすすまないうちに、しいてくぎりをつけるなら景色の二巡目がはじまるかはじまらないかのうちに、ふたたび視界の向きがかわった。
「——、また。気をつけてね」
横目でうしろを見やり、声をかけながら自分も足元へ注意をはらう。
周囲の景色への焦点がぼやけてうつりゆく。まだらな闇からあたらしい道が生じる。まるでずっとひとつづきだったかのような自然さで。
完全に位相がかわったのをたしかめて前方へ視線をもどすと、すこし先のほうに、しばらく目にしなかったものがただよっているのが見えた。
影。
立っている、と直感的に確信した。光源とそれをさえぎるものによっておこるただの現象ではなく、なにかが、だれかがたしかにそこにいる。
おどろきはしたが立ちどまらず、かえって歩みをはやめた。空間が歪曲した先で、足元の地面が突如にじみだすようにあらわれるのとは対照的に、水面におこったかすかな波紋のようにぼんやりと波うつだけだった影は、距離が縮まるごとにとぎすまされて、たしかなかたちを得ていく。
あと数歩程度までちかづいたとき、影がおおきくゆれて輪郭をみだした。それがおさまると、あのひとがこちらを見かえる体勢でそこに立っていた。
すらりとしたすがたを見とめながら、わたしがおぼえているのは安堵やよろこびを打ちけすほどの落胆だった。目の前にしても彼女をしめす文字のならびを思いだせないどころか、それはどうも相棒のときよりもふかいところに沈んでいて、相棒にそうしたように瞳の奥を見つめたところで、手がとどくとも思えない。
そんな胸中はともかく目が合い、彼女はからだごとこちらへ向きなおってから、とおくにあるものでも見るように琥珀色の瞳をほそめた。再会におどろくようすはない。とっさに「どうして」と口にしたけれど、まるでそれを言うことで、彼女を呼べない言いわけをしているみたいだと感じた。
「どうしてわたしがいるって、わかったのですか?」
「わかったというか。なにか聞こえた気がしてそっちを見たら、なにもないところから」
いったん言葉を切り、ひとつまばたきをする。
「……きみが、出てきたの。びっくりしちゃった」
きみ、と言うまでの一瞬の間に、あかるい口ぶりでもおおいきれない逡巡がのぞいた。それでどうやら彼女のなかでもわたしとおなじく、目の前の相手を呼ぶための言葉がとおざかっているらしいのを察する。
「とにかく、合流できたみたいでよかった。……そういえば、——って、その子のことよね?」
彼女が口にした言葉は、たしかにわたしのうしろにいる相棒をさすためのものだった。思わず口元へ、隠すように指をあててしまう。聞こえた気がしたと言った『なにか』は、どうやらわたしが相棒にかけた声だったらしい。
「えっと。あの。聞こえて」
「うん」
彼女はちいさく笑ってつづけた。
「ちょっとなつかしかった。あたしも、むかしはよく呼んでたなって」
トレーナーは、とくにジムでのバトルにいどむトレーナーは、基本的にひと前でパートナーに呼びかける際、個体につけた愛称ではなくパートナーの種族名をもちいる。テレビ中継のはいる場合があるジム戦で、放送コードへの配慮として敷かれているルールが、トレーナーのあいだで習慣としてひろく定着しているためだ。
そしてそれが発展し、愛称はパートナー間の結びつきのつよさをしめすものであり、不用意に他人に知らせず、おたがいだけが把握しているべきだという風潮へ転じている。
はじめは知らなかったそんな習慣も、旅をつづけるうちにすっかりわたしのなかに根づいていて、今ではポケモンセンターの個室に泊まりでもしないかぎり、相棒たちに愛称で呼びかけることはほとんどなくなっていた。
「ごめんなさい。なつかしいと思っただけなのだけど、だからって知られたくないわよね。それなら、聞かなかったことにするわ」
首を横に振る。彼女に知られたのを、もちろんすこしも不快には感じていなかった。ただ、呼ばないのがくせになっていたそれを、周囲にだれの気配もなかったとはいえ、わたしはどうして二度も口にしたのだろうと考えたのだ。
「いやなわけではないのです。ただ、そういえばふだん、外ではこの子のことを呼ばないのに、どうして呼んでしまったんだろうって」
彼女はからだの前でゆるく腕を組んで目線だけを横にながし、「心ぼそかった、のかしら」とつぶやいた。
「……そうかもしれません」
心ぼそい。
相棒をボールから出さないままひとりで歩いていたとき、とおくに感じていたあの感覚を言いあらわすのに、彼女の言葉はもっとも適切なように感じられた。事実、そう言われて思いいたるところもあった。しかしなんのてらいもなく堂々とみとめる話でもない気がして、つい声をひそめてしまう。
「ひとりで歩いているうちに。だれもいなくて、なにも聞こえなくて、自分がそこにいるのかどうかも、よくわからなくなってきてしまって」
「うん」
「そのときに、この子がボールから出たがってくれたのです。顔を見たら、すこしよくなりました。呼んだら、もっと」
「……ここにくるまで、あまり考えたことはなかったけど。きっと相手を呼ぶって、たいせつなことなのね。とくに、こんな場所では」
彼女の口にした、たいせつ、という単語を声にせずくりかえす。
このひとも、わたしとおなじようにひとりで歩くあいだに感じた心ぼそさを、なんらかの方法でふみこえて、現在ここに立っているのだろうか。どこか実感のこもった口ぶりや、心ぼそいという言葉を口にした際のなめらかさに、そんなことを思う。
今のわたしは彼女を呼べない。おそらく彼女も、わたしを呼べない。おたがい暗黙の了解のように、その点についてはふれないままだった。組んでいた腕をほどいた彼女が「そろそろいきましょうか」と言い、わたしはなにかこたえをかえすかわりにうなずいて歩きだした。
やはり足音はしない。うしろをついてきてくれる相棒はもとより、となりをいく彼女の気配も、視界のはしに横顔が映るのでかろうじてそこにいるとわかる程度の、ごくしずかなものだった。
そのためというのではないけれど、ひとりで歩いた道中、この世界をながめて考えたことが、静寂にひもづいて思いだされる。
「あのひとがつくりたいのは、こういうところなのでしょうか」
独白のようなそれは実際、ただ聞いてくれるひとがいるというだけのひとりごとにすぎなかった。
考えてもしかたがない。わたしたちにできるのも、なすべきなのも、かれを止めることだけだ。ほかの選択肢も、なやむ余地もない。
それはわかっている。
わかっているのに、おそらく終着点に向かって一歩ずつすすみながら、かれ自身のひえびえとした横顔よりもむしろ、かれが口にしたことや、その後すがたを消したことにうろたえるひとたちの顔が浮かんではなれない。
かれらのために苦しんだひとやポケモンを、かぞえきれないほど知っている。目にしてきた。だからわたしはどうしてもかれらのきもちに寄りそえないまま、もしかするとゆるせないとさえ感じて、あのいただきへのぼったのかもしれない。
けれどここでのみちゆきを経て、かれのつくりたいと言った世界をすこしだけ具体的に想像できるようになった今、どうしても考えてしまうのだ。
かれはあのひとたちを置いていく。だれを呼ぶことも呼ばれることもない、なんの音もしない宇宙のような世界へいこうとしている。
それは。
「さみしくは、ないのでしょうか」
視野のはしに、彼女がこちらを見るのが映る。
「こうかもしれない、ああかもしれないって推測していることなら、あるわ」
「あのひとについて、ですか?」
「ええ。ただ、あたしはかれじゃない。だからどんなに考えても結局は想像でしかないし、きっとそれを、きみにつたえるべきでもないんでしょうね」
「……そう、ですね。あのひとの思うことは、あのひとにしかわからない」
「ああ、でも。もうそろそろ、本人に訊けるんじゃないかしら」
唐突な言葉に、思わず足を止めてかたわらを見る。彼女はすでに立ちどまっていた。
「どうしてわかるんですか?」
つい、再会したときとほとんどおなじ質問をくりかえすと、彼女は「おんなの勘」と唇のはしを持ちあげた。
「……すごい」
彼女くらい大人になると、そんなことまで察知できるようになるのか。すなおに感嘆してこぼしたつぶやきに、目の前のひとはなぜか苦笑をかえしてくる。
「ごめんね、冗談のつもりだったの。ほら見て、あそこ」
そう言ってうえのほうをさす彼女の手を、目で追う。ぴんとのびたひとさし指の延長線上に、ぼんやりとなにかが見えた。みっつの、それぞれ色のことなる光だ。おのおのが意思をもっているとわかるうごきで、虚空をただよっている。
「ずっとばらばらだった三匹が、ひとつにあつまってきてるわ」
上空との距離感はあいかわらずつかみにくかったが、かれらはかれら同士の距離を不規則に縮めたりひろげたりしながら、すこしずつ彼女とわたしの立つところまで降りてきているようだった。
「そろそろ、中心がちかいんですね」
「たぶん、そうじゃないかと思う」
三匹のはなつ、もとの世界で目にすればまばゆいはずの光も、ここではあたりを照らしだすまでにおよばず、かぼそくたよりない。
わたしたちの世界とはあまりにもちがう場所なのだと、あらためて思う。そんなところで、かたくなに自分の意志をかかえてつらぬくあのひとに、わたしはいったいなにを言えるのだろう。自我を見うしないかけ、自分をつなぎとめるよすがだと思った彼女のことさえ呼べないまま。
「ねえ。さっき、相手を呼ぶのはたいせつだって言ったじゃない? あの、つづきみたいなものだけど」
わたしはもうだいぶひくいところまで降りてきている三匹へ向けていた視線をはなし、目を丸くして彼女を見た。まさに今考えていたことを読まれたようだった。
一方で彼女は依然まっすぐに、まだらな紺色のながれがうごめく上空を見つめている。三色のまざりあったふしぎな色あいの光が、その横顔の表面をときおりあわくなぞっていった。
「呼んだり、呼ばれたりするのは……今はできなくても、そうしたいと願うだけで、きみやあたしがここにいる証明になるのかもしれない」
わたしは今、彼女を呼べない。
呼びたいと願っている。
そこまでを自分のことにおきかえたけれど、その先の意味をとらえあぐねる。
「だからきみには、きみにだから、知っていてほしい」
彼女は数秒の間をおいてわたしの顔を見ると、それまでよりも抑揚をおさえた静かな声で、みじかくなにかをつぶやいた。
鼓膜をふるわせた音が、一瞬おくれて頭のなかで文字になる。え、ともあ、ともつかないひどく気のぬけた声が、自分の口からこぼれたものだと気がつくまでに、もう数瞬を要した。
「あたしの、いちばんの相棒」
彼女はおんなの勘、と言ったときとおなじ表情で笑った。
「ぜんぶ終わって、もとの世界にかえって。もしもきみが、あたしのところまできたら。だれのことなのか、わかると思う」
「あなたの、ところ」
「きみならこられる。だからきっと、会いにきてね。きみがくるのを、待ってるから」
——このひとはいったい、だれなんだろう。
疑問だった。はじめて会った日からずっと。
神話を研究している、ものずきなトレーナー。そんな自称と、今はあいまいだけれど名前と、顔と、それから出身地。
わたしが知っていることをすべてかきあつめても、このきれいな大人のかたちをつくるためのピースは、どうしてもひとつたりない。そう思っていた。
あたしのところまで。
その言葉をかみしめて、ようやく最後のピースを見つけた。
いくつもの顔が脳裏でまたたき、白い光になってとおりすぎていく。街と街をつなぐ道の途中で挑みかかってきたひと。ようやくたどりついたジムのなかで、関門として立ちふさがったひと。そのすべてをのりこえた最奥で、わたしを待ちうけていたひと。
このひとは本人が言うような、ただのものずきなトレーナーなんかじゃない。ずっとむかしに会ったような、今しがた見かけたばかりのような気がするたくさんのひとびと——そのなかのだれよりも、先にいるひとだ。
そうして、だれよりも先で、わたしを待っている。
「会いに、いきます。……約束します」
「うん。約束」
わたしを待つと言ったひとと約束をかわしながら、もとの世界へかえったそのときはなにかがかわっている、そんな確信にも似た予感が、胸のうちでおこっていた。
彼女はきっと知らない。この約束が、暗闇のなかでどれだけかがやいて、わたしにいく先をしめすのか。まようわたしの背中を押して、前にすすむ動機をあたえるのか。
こんどはわたしから「いきましょう」と声をかける。彼女がうなずきだけをかえすのを見て、相棒の頭をひとなでする。
会いにいく。あなたを呼びにいく。そのために、歩きだす。