はた迷惑な恋や愛

 軒先を出ようとしたところで、ちいさな雫が頬をかすめた。
 顔をあげる。店に入る前から翳りだしていた空は、もうはっきりとにび色の雲におおわれている。
 とはいえ、雨はまだ雨とも呼べない、降っているか降っていないか程度のものだ。前をいく背中のあるじも、天気を気にとめた様子はない。
 背を向けたまま、彼女が言う。
「きみがチャンピオンになってくれたらな」
 いささか唐突な切りだしだった。
 昼食をとるために入ったしょうぶどころで起こった偶然の対面ではあったが、なんにせよキッサキで船出を見おくられて以来の再会だ。食事をともにすることになり、それなりに会話も弾んでいたように思うが、そのあいだも店を出るまでも、そんな話は出ていない。だからこれは、ヒカリが文脈を読みとばしているのではないはずだった。
「考古学者一本で、やっていけるんだけど」
 つづいた声は冗談でも言うように明るかったが、どこか身の入っていない口調にも感じられて、とっさに言葉をかえしあぐねた。
 顔を見たい、と思う。旅のあいだは彼女の顔を見れば、たいていのことを読みとれた。彼女も、たとえ先を歩いていたとしても、なにかを言おうとするときはかならず振りかえってくれていたような気がする。だから思いかえせば、彼女の背中というものには意外なほどなじみがないのだ。こんなふうに、顔をそむけるようにして話されることにも。
 そんなこと、言わないでください。
 彼女の声音に合わせ、冗談めかして言おうとしたが、いざ口から出た言葉は思いのほか重くるしいひびきで空気をゆらした。そんな声に引きずられるようにして、告げるつもりのなかったことまでが音になり、喉から押しだされる。
「……ずっと、あなたのことを追いかけてきたんです」
 雨がすこしずつ粒をおおきくしていくが、まだひとの声をかき消すにはおよばない。それでも、都合よく考える。雨音にさえぎられて、聞こえなかったかもしれない。こんなにも重たい言葉だ、それこそ雨粒のように地面に落ちて、そのまま流れていったかもしれない。
 もちろんそれは自覚しているとおり、あくまでも都合のいい考えにすぎないので、彼女はきちんと言葉をかえしてくる。
「でも、追いつかれちゃったわ」
 こともなげに、それこそ降りだした雨のことでも語るようにさらりと言われて、察するところがあった。理由はわからない。けれど彼女はなんとなく背を向けているのではなく、あえてこちらを見ないのだ。
「それに、追いこされもした。もうきみの目標ではいられない」
「目標だったからじゃなくて——」
 食ってかかるようにそこまで言ってしまってから、まずい、という焦りが脳裏をよぎる。この先はほんとうに言うつもりのなかったことだ。とうぶん、ずっと、もしかすると一生。
 けれど一度声帯をふるわせてしまった空気が、そこにとどまっているはずもない。言ってはいけないという考えが中途半端に喉を絞め、結局、涙をこらえているようにほそく引きつった声がもれた。
「——好きだからです」
 彼女の長い髪と、そこからのぞく肩がかすかに身じろいだ。それはヒカリのほうをかえりみようとするしぐさに見えたが、きっとそうしてほしいという願望が見せた幻にすぎなかったのだろう。なおも振りむかない背中の向こうから、感情の起伏のうかがえない淡々とした言葉だけが投げられた。
「……そう。今日はひさしぶりに会えて楽しかったわ。それじゃあね」
 まぶたを伏せて顔をうつむける。灰色の闇の中で足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。ふたたびおもてを上げれば、そこにはだれもいなくなっていた。雨がしだいに勢いを増して、好きだと言ってしまったことも、彼女が今しがたまでそこにいたのもすべて夢だったかのように、現実感を洗いながしていく。
 空を見あげた。彼女は傘を持っていただろうか。それだけがすこし気にかかった。

 *

 いや、なんだってそんなことになるんだ?

 話を聞きおえたデンジの真っ先にいだいた感想が、それだった。
 目の前の相手の思考を読んで一挙手一投足を予想しなければならないバトルのさなか、いちいち考えや感情を表に出しているようではせいぜいが三下どまりである、というのがデンジの持論だ。事実、一定のレベルに達したトレーナーならばだれもがそれをわきまえている。
 なので当然かれも、たとえ平時であっても表情をゆらがせないよう習慣づけ、そのかいあってかポーカーフェイスにかけてはそれなりの自信を持っているつもりだった。しかし、今回ばかりは考えをはっきりと顔に出してしまった自覚がある。
 一方、テーブルをあいだにはさんで向かいあうヒカリ本人はといえば、すこしでも動揺らしきものを見せたのは話しはじめる前だけだ。今ではもうすっかりいつもどおりの表情に戻って、目の前の食事をちまちまと口にはこんでいる。デンジは自分の反応のほうがかえって大げさだったような思いに駆られたが、その考えをすぐに打ちけした。
 大げさであるはずがない。
 告白を——話を聞くかぎり、もともとそのつもりも予定もなかったとはいえ、だ——した相手から具体的な答えもないまま突きはなされた少女と、その相手と。各々について、チャンピオンとそれを破った挑戦者、という以上の実像をわずかでも知っている人間なら、だれもが同様のことを考えただろう。
 個人的な得意不得意を度外視して評するなら、チャンピオンは温厚で付きあいやすい人柄だ。だが同時にものぐさでマイペースな面もあり、お世辞にも他人に対して面倒見のいいほうとはいいがたい。すくなくとも世話焼きだとか呼ばれるたぐいの人間ではない、とデンジの目には映っていた。
 それがヒカリのことになるとどうだ。トゲピーのたまごを託した、一歩先がどうなっているかもわからない空間にともに踏みこんだ、バトルゾーンに発つ彼女を見おくりに港までわざわざ出むいた……他の人間に対する扱いとのちがいといったら、枚挙にいとまがない。
 そして、チャンピオンとはまた別の種類のマイペースさを持つこの少女のほうも、そんなチャンピオンをずいぶん慕っているように見えていた。まさか実際に恋愛という意味で彼女のことを好いていたとは思わなかったものの、それでもさんざん少女のことをかまいたてていたチャンピオンがヒカリのことを突きはなした、その事実の不可思議さよりは、よほど腑に落ちるものがある。
 それが、なんでそんなことになる。
 デンジはあらためて胸中で嘆息し、こんな話を聞くにいたったつい十五分前までの経緯を思いかえした。

 *

 今日はナギサシティの持ちまわりでひらかれる定例会議のため、ジムの半休を取ってあった。それも終わり、いきつけの店で空腹を満たしてからジムに戻るかと考えていたら、ちょうど同じ店に入っていこうとするヒカリに行きあったのだ。
 どうせなら一緒に、と同じテーブルにつき、早々に注文をすませてしまったあたりで、ささいな違和感に気がついた。
 ヒカリはふだん、おそらくそれを足がかりに食後のバトルをふっかけられるのが面倒なのだろう、しょうぶどころなどで顔を合わせても、デンジの相席の誘いにはほとんどのってこない。よしんばテーブルをともにすることになったとしてもかならずのんびりと、しかし決然としたものをただよわせる口調で、「バトルはしませんからね」とくぎを刺すのだ。ほかの人間をまじえてテーブルについていても、デンジだけを名ざして。
 あんまりしつこくするからですよ、とナタネあたりにからかわれたところで、ようやく見つけた骨のあるどころではないバトルの相手に挑むのを、そうですかと素直にあきらめられるわけもない。食いさがり、さらにすげなく断られて、何度涙をのんだかわからなかった。
 だが、今日にかぎってはそれがない。ある種几帳面なほど、毎回言われていた言葉が。
 十中八九深い意味はないのだろうとは思いつつ、万が一という期待も捨てきれないまま、「今日はなにも言わないんだな?」と訊ねてみると、少女は注文を終えてもまだながめていたメニュー表をテーブルのはしのスタンドにはさんで、なんの話だかわからない、とでも言いたげにきょとんとした顔でデンジを見た。
「バトルはしないって言うだろう、こういうときは絶対に」
「え。……ああ、そういえば」
「なんだ。ずいぶんぼんやりしてるじゃないか、張りあいのない。なにかあったのか」
 デンジとしては最後の問いに、ごく一般的な世間話のつなぎ以上の意味を持たせたつもりもなかった。ヒカリの受けこたえが常よりもぼんやりしていたのはたしかだが、気のせいの範囲におさまると言ってしまえばそれまでだった。外見でわかるような異常があったわけでもない。
 ところがそう言われたヒカリがたっぷり十秒ほど固まってしまったので、心配だとか気にかける、とまで言ってしまうと恩きせがましく思える程度の軽い気持ちで口にした質問は、当初の意図とちがう意味を帯びることになってしまった。
「おい。ほんとうに、なにかあったか?」
「あ……そうですよね、わたし、てっきり別の話かと思ってしまって」
「別の話?」
「いえ。なんでもありません、だいじょうぶです。すみません」
「なんで謝る。それに別の話っていうのは、俺が知っていてもおかしくないとか、あるいは俺が関係あるような話だから、まちがえたんじゃないのか」
「そういうわけでは……」
 ヒカリの目にめずらしく逡巡の色がうかぶ。そもそもが失言だったと思っているようだった。
 もちろんデンジも、ろくにバトルにも取りあってもらえていないような現状で、まさかほんとうに自分のかかわる話がヒカリを動揺させていると考えたわけではない。ただ、この少女の泰然としたマイペースぶりを知っていればこそ、それを突きくずしてへたなことを口ばしらせるほどの『別の話』がいったいなんなのかは気にかかった。
「なにか知らないが、話すだけ話してみたらどうだ」
「でも」
「悩みごとなんかは他人に話すだけでもリフレッシュになるって、よく言うだろう」
「悩みごと。でも、悩んでいるのかどうか、それもよくわかりません」
「ならなおさら、話してみればいい。実のあるアドバイスができるかはわからないが、すくなくとも考えは整理できるかもしれない」
 ヒカリの唇が、話しだそうとするようにすこしだけひらき、また閉じる。
 やはり相当な内容ではあるらしいが、もうひとおしだ。デンジはかわいてきた喉を湿らせる程度にグラスの水を口にふくみ、にやりと片方の口角を持ちあげてみせた。
「べつに、話を聞いてやったんだからバトルに付きあえ、なんて言わないさ」
 それを聞いたヒカリが、噴きだすまでにはおよばないながら、表情をゆるめてちいさく笑みをこぼした。
「それ、ほんとうですか?」
「ああ。今日のところは、だけどな」
 少女はくすくすという笑いをしだいにうすれさせながら、自分のグラスを両手で体の前に引きよせた。ひとくちぶんも減っていない液面をしばらくじっと見つめてから、静かな声で言った。
「……好きって、言ってしまったんです。好きなひとに。言うつもり、なかったのに」
「な」
 なんだって、と訊きかえしかけたのを、口を手でおさえることでどうにか飲みこむ。
 なにが飛んでくるかと身がまえてはいたものの、まさか色恋沙汰は完全に考えの埒外だった。アドバイスができるかどうかわからない、程度の前おきではとうてい足りなかった気がする。すぐに思いうかぶかぎりの経験で、少女に語って聞かせて参考にしてもらえるようなものがすこしでもあっただろうか。いや、ない。
 ヒカリがちらりと視線をあげ、ひとつまばたきをする。
「な?」
「……なんでもない。そういう相手がいたとは知らなかった。俺も知っているやつか?」
「そう、ですね。でもやつなんて言ったら、デンジさん、叱られちゃうかも」
「叱られる? 俺がか?」
 デンジは、決して職務に対して忠実とまではいえないまでも、ジムリーダーとして一応それなりの社会的地位にある、いい年の大人である。子どものころならいざ知らず、今の自分を叱ってくるような相手に心あたりはなかった。
 単に目上というだけなら、思いつく顔はいくつもある。だがヒカリが好きになり、なおかつ自分を叱るような相手だという情報を加味すると、どうも人物像がしっくりこない。
 そこまで考えたところで、『叱られる』というフレーズから先ほど終わった会議でのひと幕を連想してしまい、デンジはげんなりとため息をついた。
 リーグ上層部のお偉がたときたら、自分たちがいくら小言を言おうともデンジにひびかないのを悟ったか、近ごろでは苦言を呈するのに手段を選ばないようになってきていた。
 まったく、ジムの改造に電気を使いすぎるな、というだけの話を、わざわざチャンピオンに耳うちして代弁してもらう必要があるか? だいたいデンジに言わせれば、これは、という挑戦者がなかなかあらわれないのがいけないのだ。日々手ごたえのあるバトルの中に身を置けるのなら、デンジとてひまを持てあましてジムのギミックのグレードアップに精を出したりはしない。
 それでも実際チャンピオンを前にすると「はいわかりました」と答えるしかなくなるあたり、認めたくはないが、対デンジの人選としては満点といえるのだろう。デンジはシロナそのひとがというより、彼女が背後にしたがえるガブリアスにどうにも苦手意識があった。彼女自身がどんなににこやかな態度であっても、あれの視線を感じてしまうと、出てくる反論も出てこなくなる。思うにエキスパートタイプの相性も関係しているのかもしれない。
 どうしてそんなことを連想したのかといえば、今日のチャンピオンも終始おだやかな様子だったが、話の要旨を考えるなら、あのくだりも叱られたうちに入ると思ったのだ。
 頭をかいて口にする。
「シロナさんでもあるまいし」
「あたりです」
「……え?」
 思えばこのときからすでに、デンジのポーカーフェイスはくずれはじめていたのかもしれない。
「シロナさんです。……シロナさんに、好きだと言ってしまいました」
 昼どきのピークをすぎてほかの客のすがたのない店内に、ヒカリのひかえめな音量の声がやけにくっきりと落ちる。
 デンジが絶句しているあいだに、顔なじみのウェイトレスがふたりの注文したものをワゴンにのせてはこんできた。頭に手をやったままのデンジを見て、ふしぎそうに首をかしげた。

 *

 それからヒカリがぽつぽつと語ったのが、先日しょうぶどころでおこったことの顛末だったというわけだ。
 チャンピオンと出くわして昼食をともにした。帰りぎわ、顔の見えない不安に突きうごかされて、告げるつもりのなかった言葉をつい口にしてしまった。しかし答えのないどころか、かえりみられることもないまま去られた。
 内容を反芻すればするほど、デンジは頭をかかえたくなった。
 なんでそうなる。というかなにを考えてるんだあのひとは。
「もしかしてわたしのこと、シロナさんはそもそも、迷惑だったのでしょうか」
 そのうえ、冗談とも思えない真顔でそんなことをのたまうこの少女もこの少女だった。デンジはサラダの葉野菜を横着してフォークだけでまとめながら、「あのな」とつぶやく。
「きみからシロナさんがどう見えてるんだか知らないが。迷惑だと思ってる相手どころか、そもそも他人をさんざんかまうほど、心広くも面倒見よくもないぞ、あのひとは」
「さんざん、かまう?」
「そうだよ。自覚なかったのか? たとえばオーバがイッシュに旅に出ますって言っても、断言するが見おくりになんていかないどころか、そうなのがんばって、のひとことですませるだろうな」
「オーバさんは大人じゃないですか。見おくりなんて、いらないと思います」
「大人ってのが引っかかるなら、ジュンはどうだ。ジュンにシロナさんがとくべつなにかしてやってるの、見たことあるか」
「それは……ない、かもしれません。でも」
 ヒカリは言葉の途中でテーブルに視線を落とした。リゾットにスプーンを沈めたまま、もう一度「でも」とくりかえす。
「もし迷惑じゃなかったなら、どうしてなにも答えてくれなかったのでしょう? もともと言うつもりもなかったくらいなのですから、だめならだめだと言ってくれれば、それでよかったのに。どうして」
 デンジはサラダを噛んで飲みこみながら、はたと気がついた。少女が見た目には平然としていたせいで、話しているあいだにふだんのマイペースさを取りもどしたのだと考えた、自分の思いちがいに。
 デンジの知るかぎり、ヒカリはおぼえた疑問の答えを他人にゆだねるようなことはしない子どもだった。それなら、これは一見質問のていを取ってはいても、実際のところはおそらく、考えを口に出してどうにか整理しようとしているだけだ。デンジがそうできるかもしれないと言ったとおりに。
 表情や声音ではなく、なにかを問うてくるような物言いに、少女の感情のゆれが、より明確にいうなら混乱が、見てとれた。
 なあ、シロナさん。ほんとうにあんた、なにをやってるんだ。
 ここにいない人物を、そう問いつめたくなる。
 大人を惹きつけ振りまわしてやまない子どもが、大人に振りまわされている。自分がそんな、あきれてものも言えないくらいに不毛な構図の元凶になっていること、わかってるのか?
 だがあきれてみたところで、ヒカリに言えることがうかんでくるわけでもなかった。
 最初の疑問に立ちかえれば、チャンピオンがヒカリを突きはなすというところからして、前提が狂っているのだ。誤った公式になにを代入したところで、ただしい答えを導きだせるはずもない。
 そうなるとお手あげだった。
「……悪い。俺にはもう、ぜんぜん、わからん」
 デンジがうめくように本音を言うと、ヒカリは一瞬の間をおいて、困ったようにほほえんだ。
「ごめんなさい、変なことお話してしまって」
 でもデンジさんの言ったとおりでした。聞いてもらったら、すこしは整理できたような気がします。ありがとうございました。
 あまりにもへたであからさまな嘘がつらつらとつづく。自分で話すようにすすめておきながら、もうなにも言うことができないのがなさけなく、歯がゆい。
 それからしばらく、ふたりとも黙って食事に専念した。
 たとえ気まずい状況であっても、この店の味はやはり安定している。いつにない流しこむような勢いで皿の上をからにしていきながらそう思ったところで、デンジはふと顔をあげた。
「そういえば。きみ、よくこの店を知ってたな」
 ヒカリがスプーンを口にはこぶ途中で手を止めたので、とりあえず食べてしまうよう手ぶりでうながす。
 地元の住民であるデンジにとっては通いなれた店のひとつだが、大通りから何本も奥へ入った路地にある立地は、街の外からの客足を引きやすいとはいえない。現に今まで、ナギサでひらかれた会議のあとに足をはこんでも、ほかのジムリーダーやリーグ関係者と顔を合わせたことはなかった。
「オーバさんに連れてきてもらって、おいしかったから。ナギサにくると、お昼はいつもここなのです。でもよく知ってたって、どうしてですか?」
「ああ、それでか。いやこの店、ちょっと奥まったところにあるだろう。地元の人間ならともかく、外からきてここまで入ろうってやつはあまりいないからな」
「たしかに、デンジさん以外のひとと会ったこと、ないような。こんなにおいしいのに」
 最後のあたりで、カウンターにいる店主に向かって、ヒカリがにこりと笑いかける。距離があるので会話の細部までは聞こえなかったはずだが、表情と漏れきこえた単語からなんとなく文脈を察したのだろう、店主も相好をくずして、いつもありがとうございます、と会釈をかえした。なるほど、店主と顔見しりになる程度には通っているようだ。
「みなさんにも、教えてあげたほうがいいのでしょうか」
「やめてくれ。俺の憩いの場がなくなる」
 デンジが即答するとヒカリは笑ったが、実際デンジにとってはまぎれもなく本気の発言だった。
 行状が悪いせいと言われてしまえばそれまでだが、ただでさえ今日のように、会議の場で小言や苦情をもらって肩身のせまい思いをするのもめずらしくないのだ。このうえ食事のひとときまで関係者と顔を合わせるはめになったのではたまらない。
 とくに、仲がいいからってシロナさんには教えてくれるなよ。デンジはついそう軽口をたたきかけたのを、言葉にする直前でどうにか飲みこんだ。こればかりは、とくに今日はまずい。
 やはり調子が狂う。チャンピオンはいったいなにを思っていて、それにこれからどうするつもりなのか。あらためて考えてみても、どこかが穴ぬけになったままか、あるいはなにかを取りちがえているような感覚で、答えの糸口らしきものさえいっこうに見えてこない。
 おぼろげな焦燥のようなものにせきたてられながら、気づけばデンジは最後のひとくちを食べおえていた。
「……手、洗ってくる」
 とくに必要もなかったが、ひとまずこのままヒカリの前にいたのでは、またよけいなことを口ばしってしまいそうだ。すこし気分を切りかえよう、そう思った。

 *

 つめたい水で手を洗い、肺の中の空気をすべて押しだすようなため息をついてから店内に戻ってくると、テーブルにはだれもいなくなっていた。ヒカリもトイレに立ったのだろうか。
 気まぐれにバトルに付きあってくれたかと思えば有り金を巻きあげられてばかりいる相手だが、さすがに年長者として、はじめてのできごとにひどく混乱している少女に昼食を奢るくらいはやぶさかではない。
 レジカウンターに向かい、財布を取りだして厨房の中へ声をかけると、店主が濡れた手をタオルでぬぐいながら、けげんそうに顔を出した。
「お会計ならヒカリさんがすまされましたよ、デンジさんのぶんまで」
 やられた。
 こめかみのあたりがひくりと痙攣するのを感じつつ「ヒカリは」と訊ねると、もう出られました、と答えられた。
 行き場をうしなった財布をポケットに戻してから、やっとの思いで「ごちそうさま」とだけ口にする。きびすをかえし、またのおこしをお待ちしておりますという店主の声を背中に受けながら、入り口までの短い距離を走って外へ出た。
 店の前の道では、ヒカリが腰のボールに手をかけ、今にもベルトからはずして投げようかというところだった。
「おい」
 その背中に向かって低い声を出すと、ヒカリがびくりとして動きを止め、こちらを見る。
「デンジさん。ごちそうさまでした」
「ごちそうさまは、こっちの、セリフだ! なにしてくれてんだ、きみは!」
 言葉をくぎるごとに距離をつめ、最終的に目の前まで近づく。ヒカリはボールにかけた手をおろさないままデンジのほうに向きなおると、「だって」と小首をかしげた。
「どうしようもない話、聞いてもらってしまいましたから。気をつかわせたでしょう」
 デンジは一瞬、自分のほうがよほど込みいった状況だろうに、こちらへの気づかいを見せる少女に心をうたれて、かえす言葉につまった。
 ところがヒカリがそのあいだにすかさずボールを取って投げようとしたので、感動のようなものはあっという間に吹きとんでしまう。デンジは振りかぶられかけた手首をあわててつかみ、顔を引きつらせた。
「まったく油断もすきもないな! いいか、それとこれとは話が別だ」
「お礼のつもりだったのですけど」
「ああ、ありがとう。だが子どもが妙な気をまわさなくていい。もうこの際だから奢られろとは言わないが、せめて自分のぶんは自分で払わせろ」
 手をはなしたらとたんに逃げだされそうな予感がしたので、ヒカリの手首を握ったまま、もう片方の手でポケットをまさぐる。
 しかしなんで短めのウォレットチェーンなんて使ってるんだ俺は。チェーンの長さが足りなくてうまく財布を開けられないじゃないか。自分自身に向けて悪態をつきながら、ヒカリの手を持った腕をおろすことで、どうにか指を財布のファスナーに届かせ——ようとしたところで、ヒカリが身をよじった。
「もうお財布、しまっちゃいました、わたし」
「そうか。ならもう一度、出すといい」
「はなしてくれないと、出せません」
「はなしたら逃げるだろうが!」
 体をひねったヒカリにつられてデンジも立ち位置を変えると、ヒカリの背後に路地の階段が見えた。先ほどデンジもくだってきた階段だ。反対側からやってきたヒカリと、店の前ではちあわせた。石づくりの階段の、十段も上ではないあたりに人影が見えたような気もしたが、それどころではない。
 出しません出せ、逃げませんいや逃げるの応酬をくりひろげているうちに、らちがあかないのでいっそヒカリのバッグのポケットにてきとうな数の紙幣をねじこんでやろうか、という考えが頭をよぎったそのときだった。
 おそらく階段の上に見えた気がした人影の正体であろう人物が、今やヒカリのうしろ数メートルのところに立っているのを見て、デンジは思わず動きを止めた。
 うそだろ。このタイミングでこの場所って、そんなことありえるのか。
「——なにをしてるの」
 そちらが死角になっているヒカリは、急にかたまったデンジをきょとんとした顔で見あげていたが、抑揚のない静かな声で、だれがそこにいるのかわかったようだった。振りむきはせず、はっとしたように息をつめた。
 ひとまずの問題はデンジのほうである。ふだんの、むしろつい半刻前に目にしたばかりのにこやかさをどこへやったか、その人物——シロナは、感情をほとんどそぎおとした目でデンジを見つめていた。
 ガブリアスがいないだけまだましというものかと思いかけたが、どうもそういうわけでもない。無表情のチャンピオンがはなつ威圧感は、あきらかに彼女の相棒よりも数段上だ。
 だがデンジは身がすくむのと同時に、なんだって自分がそんな目で見られなければならないのか、という理不尽さを感じた。
 百歩ゆずって、抵抗する年下の少女の手首を握ってなんやかんやしている、そこだけを切りとればろくでもない状況に見えるのは認める。しかし経緯を説明することもできるし、なによりまず、ほかでもないシロナがそれをとがめるのか、というかすかな憤りがあった。
 ヒカリがどれだけ混乱していたか知りもしないで、原因をつくった当人がヒカリを守るようにデンジへ敵意を向けてくるのは、どう考えてもいろいろと順序がおかしいだろう。
 そうだ、物理的に肌を刺してくるような威圧感の正体は、ごくシンプルな敵意だ。それだけはなんとなくわかる。状況に対してではなく、デンジがヒカリの手をとっている、その事実に向けられたもの。
 ふいに、どうしてなにも答えてくれなかったのでしょう、と言ったヒカリの声がデンジの脳裏をかすめた。
 どうして。
 いやまさか、そんな簡単なことだっていうのか? ほんとうに?
 にわかにデンジまで混乱しかけてくるが、シロナの足音が耳に入り、我にかえった。
 駆けよるでも早足になるでもなく、ただゆっくりとふたりのそばまで近づいてきたシロナが、ヒカリの背後すぐのところで立ちどまり、片方の腰に手をあててデンジを見あげる。その視線はにらんでいるのともことなり、ただ静かに凪いでいた。
 いや。これはおそらく、俗にいう目が据わっている、というやつだろう。デンジは頭のどこかでそうあたりをつけた。
「聞こえなかった? なにをしてるの、デンジくん」
「……あー、その。たぶん、誤解があると思います」
「そう」
 あとにつづくところだった弁解を聞こうとするでもなく、話は終わりだと言いたげにばっさりと切りすてたシロナは、そのままデンジの顔の下へ視線をさげた。彼女の目の動きを追って、デンジは自分がいまだに少女の手首をつかんだままだったことに思いいたり、握った手のひらをおずおずとひらく。
 ヒカリは手首を解放されても、あまりの状況に手の置きどころを見うしなっているのか、腕を体の横へたらすことはしなかった。だがそれもつかのま、中途半端な位置にういたままだった少女の手首をこんどはチャンピオンがつかみ、そのすがたを隠すように体の前へ割って入ってくる。
 シロナは反射的に一歩体を引いたデンジに向かい、やはり据わったまなざしのまま口をひらいた。
「ちょっと話があるから。悪いけどヒカリちゃん、借りていくわね」
 デンジはなにも答えなかった。ヒカリがチャンピオンの背中をほうけたような顔で見つめたまま、早足で歩きだした彼女に連れられて遠ざかるのも、黙って見おくる。
 チャンピオンに会ったら問いただしてやりたいと思ったあれこれを、失念していたわけでも、彼女に気おされて飲みこんだわけでもなかった。
 ただ、どうやら考えていたのよりはるかに単純だったらしい答えに拍子ぬけしたのと、たとえデンジひとりが割を食ったとしても、結局はおさまるべきところへきちんとおさまる、そんな未来が見えて、もはやなにも言う気になれなかっただけのことだ。
 まったく、はた迷惑にもほどがある。話でもなんでもして、どうにかうまいかたちにまとまるといい。可及的すみやかに。
 デンジは頭をかき、せめてふたりが去ったのとは反対側のルートを使ってジムへ戻ろうと、階段のほうへ歩きだした。

 *

 少女の手首を引いて、通りからはなれたほそい路地をひたすら進んでいく。もともとナギサの地理にくわしいわけでもない。建物と建物のあいだをいくつかとおりぬけ、角をまがった時点で、すっかりどのあたりにいるのかわからなくなる。
 また目についた建物のすきまへ入りこみ、大人ふたりがすれちがうのがやっとの、道ともいえない道を中ほどまで歩いたところで、シロナは足を止めて振りむいた。シロナが急に立ちどまったせいで体勢をくずしかけるヒカリの肩を、手首からはなした手のひらでささえる。
「あの、シロナさん、なに……」
「言ったでしょう、話があるって」
 周囲は昼間だというのに建物の影になってうすぐらく、少女の表情もはっきりとはとらえられない。シロナを見あげているのがかろうじてわかる程度だ。
 先ほどまでは激情を感じなれていない頭にすぎた量の血がのぼって、はなはだ冷静さを欠いていた。シロナもそれについては自覚があった。
 なにせナギサでの会議と雑務の処理をおえたあとで空腹をおぼえ、オーバから教わった店を思いだして足をはこんでみれば、あの光景である。自分にこの少女の行動に口を出す権利などないのは重々承知しているつもりだったものの、気づけばヒカリをここまで連れだしてしまっていた。
 落ちつかなくては。ただでさえ最後に会った日の別れぎわ、他意はなかっただろう言葉を聞いてから、動揺がずっとつづいているのだ。
 シロナはひたいに手をあて、一度深く息をついた。
「きみはもうすこし自分のことを大事にして。言葉にも気をつけたほうがいいわ」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味。この前みたいに不用意に好きだとか言ったら、勘ちがいする相手だっているかもしれないって、まだわかってないみたいだから。デンジくんはまあ正直、そういうのじゃないでしょうけど……」
 できるかぎり良識のある大人らしい語彙を選んで、慎重に口にしていく。あくまでも一般論の範疇であり、実際にそう言われたシロナがどう感じてどうとらえたにせよ、それは今の言葉の中ににじみさえしなかったはずだ。
 ところが話す途中でヒカリが身をひるがえし、路地から出ていこうとする様子を見せたので、すくなからず面食らってしまう。逃げるという表現がはたして適切かどうかはわからないが、シロナからはそのようにしか見えなかった。
 とっさに肩をつかんだ手も振りはらわれそうになり、しかたなく腕をヒカリの進行方向の壁につくことで、どうにか動きをはばむ。肩をつかまれ物理的に逃げ道をふさがれては、さすがに逃げようという気も失せたのか、ヒカリは脱力したように背中を壁へあずけた。
 あいかわらず表情の細部まではわからないが、体と同じく力のぬけたようなどこか気だるげな声が、どうして、とつぶやきを落とす。ひとつ言ってしまうと、黙っておかなければならないことまで口をついて出そうで、シロナは眉をひそめて、どうしてなんて訊きたいのはこちらだ、と口から出かけたのを飲みこんだ。
「……そんなことまで、言われなくちゃいけないんですか」
 ヒカリとは今までかぞえきれないほど会話をかわしてきたが、おぼえているかぎりで、こんなに投げやりな話しかたを耳にしたことはなかった。
 ふだんのシロナなら、なにか理由があるのだろうというところまで、考えをおよばせたかもしれない。だがヒカリの手を引いて歩いているあいだにすこし温度をさげた熱は、ただ温度をさげたというだけで引いてはおらず、まだたしかにそこにあるのだった。
 喉が、ほとんどうなるような低い声を発する。
「……そこまで変なことを言ってるつもりはないけど」
「変ではない、と思います。でもシロナさんには、言われたくありません」
「あたしには? それ、どういう……」
「そのままの意味です。わかりませんか」
 売り言葉に買い言葉だ。ヒカリの挑発も、先のシロナの発言をそのままかえしているだけにすぎない。それくらいのことは、熱をあげていく頭でも理解できる。
 しかし、そもそも崖の先端に立っているような状態だったシロナの理性に、その言葉が最後のひと押しをくわえたのもたしかだった。
「……わかってないのはそっちだわ」
 笑いだしたい気分だ、とひとごとのように考える。実際、出た声は笑いをふくんで奇妙に明るい。
 あたりの暗さに、ようやく目が慣れてきたらしい。急にトーンを変えたシロナの声を聞いて、ぎょっとしたようにこわばるヒカリの表情が、逃げるのをとどめおいたときとはくらべものにならないほど、はっきりと見てとれた。
 もう、どうにでもなればいい。
 シロナは少女の肩をゆるくつかんだままだった手をはなし、流れるように顎の先をとらえて上を向かせると、わずかにひらいた唇に自分のそれをかさねた。
 ヒカリの肩が一度大きくはねる。また逃げだされてはたまらないので、すきまを埋めるように体を寄せ、壁についたままだったもう片方の腕を彼女の腰にまわした。そのままやわらかい口内へ舌で入りこみ、中でちぢこまっている少女の舌にからめて吸いあげる。腕の中の体から抵抗を感じなくなったあたりで、唇と体をはなした。
 口のはしにこぼれた、自分のものか彼女のものかわからない唾液を舌でなめとり、少女に向けて口角の片側だけをあげてみせる。
「ねえ。これでわかった?」
「なな、な……」
 顔を真っ赤にして口もとを両手の指でおおったヒカリが、言葉の使いかたを忘れたようにどもりながら、壁づたいにずるずると座りこんだ。
「言ってなかったけど、あたしもきみのことが好きよ。ただし、こういう意味でね。こういうことをする相手に勘ちがいされるから、気をつけなさいって言ったの。よくわかったでしょう?」
 できるだけ愛想よくほほえみかけながらも、もうこれですべて終わりかと思うと、最後のあたりは自然、吐きすてるような言いかたになる。
 とはいえこれでヒカリも、すこしは自分の言動をかえりみるようになるだろう。たとえ彼女がシロナに二度と近づかなくなったとしても、それは忠告が功を奏したということなのだから——
「……おなじ、です」
 まだ顔を赤くしたままのヒカリがくぐもった声でこぼした言葉を、シロナははじめ、理解しかねた。それからすぐ、自分の浅ましさに心底うんざりとした。
 あの日。最後にヒカリと会った日。そもそも、あの日からだ。
 涙まじりの声で好きだと言われたのを、自分に都合よく受けとってはいけないと——ひととして、友人として好きだから追いかけてきたというヒカリのひたむきさを、自分がいだく感情と一緒にしてはならないと考えた。それでも、どういう意味なのか深くは訊かなかった。自分とちがうものを突きつけられるのを、意識して避けたのだ。
 そうしてこの後におよんで、捨てばちになってキスまでしておきながら、まだどこかで期待を捨てきれないでいる。これを浅ましいと言わずに、いったいなんと言うのだろう?
 しかしあの日とことなり、ヒカリは言葉をかさねてきた。そうして指ひとつ動かすことなく、シロナの逃げ道をふさいだ。
「わたしも……こ、こういう意味です。こういう意味でシロナさんのことが、好き」
 顔にむりやりはりつけたままだった笑みが、消しとぶのがわかった。
「……意味、わかって言ってるの」
 頭の奥でごうごうと血のめぐる音がするのに、口から出た声にも自分の指先にも、血のかよっているような温度は感じられなかった。
 ちいさく何度もうなずくヒカリに向かってもう一度距離をつめ、口もとをふさぐ手をとって立ちあがらせる。
 もう、どうにでもなれ。
 先ほど思ったのとはいくぶん意味がちがう、そんな声が、近づいた唇のあいだにかき消えた。