現金なわたしたち
観ようとしてかなわなかった歴史探訪番組の再放送があると、こんどこそ絶対に観のがしたくないと、そう熱っぽく語ってかがやいた昨晩の瞳を、起きぬけに思いだしたのだ。
だからデジタル時計が無機質にしめす数字を確認して、あわてて起こそうとしたのに。何度声をかけてもゆさぶっても、夢にとらわれきった発音の「あとごふん」が数字をかえてくりかえされるばかりだから、ささやかな奮闘のかいもなく寝顔へ背を向けたのに。
もう知りませんから、となかばふてくされながら寝間着の着がえを思いたったとたん、肩甲骨の稜線をたどる気配を感じるのはいったいどういうわけなんだろうか。きっと気のせい、そう思いなおしてシャツのボタンをなかほどまではずしたあたりで、気配の焦点が明確にしぼられるのも。思わず中途半端な姿勢で静止した両腕をくぐりぬけ、一対のぬくもりが腰にまわるのも。
「あら、気にせずつづけて」
なおも信じがたいことに、からだをにじり寄せてきてささやく口調には、もうすっかり芯がとおっている。まるでいましがたまでむにゃむにゃと不明瞭なことばかりつぶやいていたのこそ、明け方の夢が尾を引いたまぼろしだったみたいに。
適切な状況ならまぶたをふせてそのひびきに聞きいっただろう、内容はともかく凛とした声をさほどの感動もなく、むしろうつろな気分で飲みくだす。そうするうちに再放送のことを思いだして名前を呼び、肩をゆりうごかしたときの、あわてていたしあせってもいたけれどまちがいなく角はなかった、そういうやわらかな気持ちが胸のすみへ追いやられていくのがわかった。
ただ呼びかけてくるように聞こえるだけの、やけにはっきりしているだけの寝言であってくれはしないだろうか。もしそうだったならまだ間にあう、と思う。直前までの心境に立ちもどり、あと一度ずつくらいは起きてくださいと、本放送を観のがしてあんなに落ちこんでいたでしょうとうながせる。そうして、やれるだけのことはしたと納得できるはずだから。
かすかな期待につきうごかされて上半身をひねった。自分の腰元にぴたりと頬をつけているシロナさんと視線がぶつかり、うすうす結果の知れていた分のわるいそれが、案の定はずれたのを知った。
横髪を顔のまわりであらぬ方向に飛びはねさせ、うしろ髪をところどころ波うってもつれさせながら、それでもそこなわれない恋人のおもざしがわたしを見あげている。鈍色のマーブル模様をえがく影(たぶん釈然としない感情やなにがしかがいりまじってそう見える)のなかから、一片のくもりもゆらぎもなく、ただまっすぐに。
適切な状況だったらあまく胸を締めつけられるはずのアングルに、やはりさして感慨をいだかないまま、まばたきもせずに彼女を見つめかえした。しめしあわせたのでもない沈黙が二秒つづき、三秒が経って四秒をかぞえる。なんとなく敗北感をおぼえながら目をふせ、押しだした声にため息をまぜた。
「……なんでこのタイミングで起きるのですか」
「いまどうしても、起きなくちゃいけない気がしたの」
妙によどみなくこたえたシロナさんが、位置どりに違和感でもおぼえたのかシーツについたひじをずらし、シャツのすそにかかったままのわたしの指先へ頬をすりよせる。
そんなしぐさも、腰まわりでだぶつくうすい布地ごしに吹きこまれる呼吸も、なんだかやけにこそばゆく肌のうえをざわつかせる。そんな意図はないのだろうから、そこでしゃべるのをやめてほしいとも、そもそもそこであまりもぞもぞしないでほしいとも言わない。言わないけれど、どうしても主張しておきたいことがないわけではない。
「起きなくちゃ、じゃないですー。さっきまで呼んでもなにしても、ぜんぜん起きてくれなかったのに」
「え、そうだったの?」
かるく唇をとがらせた非難に、彼女はやわらかくはねあげた語尾どおりの、いかにも意外だという表情を浮かべた。
口調とあわせた、心底思いあたるところのなさそうなようすに絶句してから、ふと自分のやけにつよい反応をいぶかしむ。たのまれたわけでもないことに、どうしてこんなに心をくだいているのだろう。こんな——端的にあらわすとすればふかい落胆を、どうやらシロナさんに対してではない部分におぼえている、その理由は。
「なんでまた、そんなに」
おなじ口調で、思考を読んでひろったような言葉がつづく。わたしだって知りたい、そう思ってさぐった胸のざらつく内側に、ぼんやりと落としどころを見つける。
すこやかに寝息をたてる恋人の名前を呼んだとき、期待に満ちみちた昨晩の表情を想起していた。呼吸による規則ただしい上下をのぞけば微動だにしない肩をゆりうごかしたとき、好奇心をいっぱいにたたえて画面へ見いる横顔を想像していた。彼女がどうしても起きないようだとさとってあきらめたとき、たぶんほかでもない自分が見たいと願っていたものを、いっしょくたにあきらめた。
それでいまさら、もっとねばりづよく肩をゆさぶっていたら、なんて歯がゆい思いを感じているのだ。どうしてあきらめてしまったのだろう、なんてくやしがっているのだ。くりかえすけれど、たのまれたわけでもないことについて。
ひとりよがりだ。非の打ちどころもなく。身勝手な落胆だ。うたがいようもなく。
そう思うのに、告げようとする唇がどうしてもおもたい。
「……きのう言ってたでしょう、『ふしぎディスカバリー』のアルフの回、絶対観るんだって。もう」
「えっと。もしかしてそのために? あたしを起こそうと?」
はじまってずいぶん経ってますよ。
つづけようとした言葉を、結局声にしないまま喉の奥へしまいこんだ。話す途中に割ってはいったシロナさんの口ぶりが、どう頭をひねってみても解釈できなかったからだ。待ちわびていた番組の時間をすっかり忘れていてあせるひとのものとも、寝すごしたのを知って落胆するひとのものとも。
なにかがおかしい、そのなにかの忍びよる気配を察して、頬がにわかに熱をもつ。とっさに顔をそむけるのと同時に、シロナさんの顔の前へのばした手でひらきかけた彼女の唇を、もう片方の手で自分の顔をおさえた。
指のはらにやわらかくぶつかる「んむ」というこもった音を、「言わないでください」という声でむりやりぬりつぶしてから手をはなす。自由をとりもどした唇がすかさず「言えてないわ」と発した。
「言わないで、もういいですから言わないで」
「……録画」
「言わないでくださいってばあ」
「ちゃんと起きて観るつもりでいたのよ? でもやっぱり、休みだし朝はゆっくりしたいなあと思っちゃって」
滔々と経緯を説明してくれる声には、あせる理由なんてどこにもないので当然なのだけれど余裕があって、それがわたしの早とちりや空まわりをよけいに浮きたたせた。
最初から思いいたってもよかったし、むしろそうあるべきだったのだと、いまさら冷静な顔をして理解が追いついてくる。わたしが手をそえるまでもなく、このひとがあれだけたのしみにしていたことを——二本目の、あるいは三本目の背骨のように自身をささえる本業に関係することを、無為無策な寝坊なんかでとりにがすわけがないのに。
顔をかくして「ああ」やら「うう」やら単語のていをなさないうめき声をあげている、そんな相手が心ここにあらずの状態だとはすぐに知れただろう。彼女はわたしの腰元に顔を寄せたまま、どこかとおくからとどくムックルのさえずりのような音量で息をついた。笑ったと思しいその吐息のあと、おなじくらいのひそやかさで「ありがとう」と言った。
「……なにが」
「起こしてくれて」
「起きなかったでしょう」
わざわざ起こす必要だって。
やつあたりにもほどがある、あんまりな言いまわしだと思いなおして言葉をつづけないままシーツへ落とした、その指先をすくいとるように唇がふれる。すぐにはなれていく。
「そのときはね。でもきっかけにはなったんだと思うの、ちょうどいいときに起きられたし」
「ちょうどいいって、どう」
いうことですか、と言いきるまえにまたふれてはなれた唇が、やわく噛むようなものへふれかたをかえてもどってくる。そうされている場所に、感触に、声や表情にほとんどなんの感慨もいだかなかったときとも、シャツごしにかかった吐息がただくすぐったかったときともちがう、この朝はじめてうまれる感覚がうずいた。どれもこれも、いったいなんだろう。だまりこんで内心首をかしげつつ、そむけていた目線をようやくシロナさんに向ける。
そうして視界にはいった顔が笑いをふくんだ声音どおりの、けれどこの時間には適切でないたぐいのほほえみをのせているのを見た。そうした自分の胸がそこに根を張っていた感情をきれいに消しさり、かわりに燃えるようなしびれるような情動をうったえだすのをたしかめた。
ああなんだ、そういうこと。
腑に落ちるのと同時だった。適切な加減をもって適切な方向へうごいた腕に、倒すとあらわすにはいきおいのたりないやわらかさでシーツへ横たえられる。ちょうどいいときはちょうどいいときよ、とひくくささやく声が耳のふちへ降った。
顔をうえに向ける。いつのことを指しているのかはなんとなくわかる、でもわたしはただ着がえようとしていただけだしいったいそれのなにがどうちょうどいいのか、そう言いたかった吐息が、音になろうとするそばから唇に呑まれて消えていく。
「……ふ、ぁ」
「あとでいっしょに観ましょう、録画。ヒカリもたのしめると思うから」
こんな時間にするには適切じゃないようなキスの間隙に、着がえようとしてはずしたボタンののこりをちがう目的ではずしていきながら、シロナさんが言う。その『あとで』が昨晩聞いた『絶対に』とおなじだけの強固さと温度をもっているから、現金なひとだなあとわたしは思う。
まさか録画をえらぶだなんて。それも朝はゆっくりしたいなんていう理由で。あれだけ目をかがやかせて熱っぽく語るさまを見たあと、判断材料がそれしかないのに予想がつくわけもない。
だけどそれはおたがいさまなんだろう。ぜんぶ杞憂だったと、なんの問題もないと知ったとたん、さっきまでほとんどゆさぶられることなく受けとめられた声や顔や感触に、あらがいもせず溶かされていくわたしだって、やっぱり現金だ。
「ん……み、たい、です」
あなたがたのしみにしているものを。
でもそれよりもっと、たのしそうなあなたの顔を。
そう言わないし言えないでいるわたしの前で、最後のボタンをはずしたシロナさんが満足げに笑った。